第5話 国境へと続く抜け穴


 野生動物の雄叫びが聞こえて、少し和んでいた空気が一瞬にして凍りついた。しかも、かなり近い。もしかして、気づかれたのだろうか。


「近いね」


 桜井は短く言った。

 言い終えると同時にまた近くで野生動物の雄叫びが聞こえる。カチャ、と乾いた音が聞こえ桜井に振り向いた。

 桜井は拳銃を担ぎ、行くぞとだけ言い廊下へと向かっていった。こちらは怪我しているのに、と文句を小声で言い桜井の後を追った。

 てっきり玄関か入ってきた勝手口へ向かうのかと思ったが桜井は二階へと上っていく。一体何をするのだろう?

 二階は倉庫のように物が敷き詰められていて、歩くのがやっとだった。

 時折腕を襲う痛みを堪えながら桜井の後を追う。担いでいる銃は弾がないと言っていたが、銃の中に入っていたのだろうか、それを使って野生動物を追い払うのだろう。


「あの、何を」

「屋根に登れる?」


 何をするか聞こうとしたが、桜井は予想とは違う答えを言った。屋根に上ってどうするのだろう?


「怪我しているので無理です」

「んじゃ、そこで死ぬんだね」


 開いた口が塞がらないと言うのはこの事だろう。何でそんな答えになるのか、理解できなかった。


「何でそんなことを言うんですか」

「だって、屋根に登らなきゃ君、あの野生動物に襲われて死ぬよ?」

「だから、」

「下、見て」


 怒りが喉元まで来ているのを抑えながら、窓から下を覗く。あの雄叫びをあげていたであろう野生動物が、私たちのいる家の前をうろついていた。

 気づかれた! と焦ったが野生動物たちはうろつくだけで家の中に入ってこようともしない。


「ね? 君、死にたくないなら屋根伝いで国境まで行くよ」

「……分かりました」


 正直、桜井はテレビの印象からただおちゃらけた馬鹿でクズな人だと思っていた。だけど、私が野生動物に襲われてから桜井の印象が変わった。

 まるで、この状況を既に体験しているようだ。逃げ方も、怪我の止血の仕方も。この人は一体、何者なんだろう−−。

 桜井が先に窓からベランダに降りる。ベランダ、とは言え申し訳程度に柵が備え付けられているだけだ。人が立てるスペースなどない。下は野生動物たちが相変わらずうろついている。私たちには気づいていないみたいだ。

 桜井がベランダに降りた途端、その柵はミシミシ、と悲鳴をあげ始めた。それを厭わずいとも簡単にベランダから雨どいを支えに屋根へと上っていった。

 これを、私にやれと……?

 思わず左腕に力が入り、激痛が走る。そっと触ると、更に鋭い痛みが走った。こんな状態で屋根に登れるはずがない。これは自信を持って言える。だけど、このままだと死んでしまう。また、選択を迫られてきた。


「そっか、君怪我してるんだっけ」


 窓のサッシに手をかけると、桜井が真上からひょっこりと顔を覗かせた。


「……言いましたよ、私は」

「ふうん、聞こえなかったな」


 怪我してるので無理と言ったら、確かに桜井はそこで死ぬんだねと言った。間違いないが、怒りと痛みが交互に襲ってきて何も言えなかった。


「んじゃ、今から屋根に穴開けるから」


 聞き間違いだろうか。桜井は人の家の屋根に穴を開けると?

 信じられない、何故そんな発想にたどり着くのか。仮にもここは人の家だ。勝手に上がり込んでいる私たちにそんな事許されないだろう。

 私が絶句していると、桜井はちょっと待ってとだけ言って引っ込んでしまった。咄嗟に止めようと身を乗り出すがそれに答えたかのように、野生動物の雄叫びが真下から聞こえ慌てて身を隠した。

 私に気づいたみたいだ、何かに飢えたような目線がぶつかった。唸るような声が未だに聞こえる。威嚇しているように聞こえるそれは、確実に私を恐怖へと再び落としていった。


−− ドコン、ドコン、ドコン!


 何かをぶつけるような音と、家の微かな振動から屋根の上にいる桜井が屋根に穴を開けようとする音だとすぐに気づいた。

 彼は本当にやっている。止めなければ。

 立ち上がり、窓から桜井を止めようと身を乗り出す。と、同時に一際大きな音がし、何かが落ちていく音が耳に届いた。

 慌ててその音の元に行くと、ホコリやら何やら実態が分からない煙が立っており。その煙の向こうに見慣れたフォルムの人間が立っていた。


「ねえ、俺が野生動物だったらどうするの?」


 彼の第一声はそれだった。

 とても冷徹な声。刺すような言葉に、私は息を飲んだ。

 煙が消えていき、その姿が露わになるまでその場で立ち竦んでいた。

 そうだ、音の主が桜井じゃない場合だってあり得る。野生動物が我武者羅に建物に対して攻撃だってする可能性もある。


「怪我人をほっとくほど俺は人間捨てた訳じゃないけどね」


 あなたは人間離れした体型でいとも簡単に屋根に上っていましたけど、と悪態をつきたくなった。



 桜井が開けた屋根の穴からは光が差し込んで、まるで神が逃げ道を与えたかのようにも見えた。

 その下で桜井は椅子や机を重ねて、その穴に登る踏み台を作っていた。

 あの桜井が作るものだから、とあまり期待せずに見ていたが、バラバラのサイズの机や椅子がパズルのピースのように頑丈そうな踏み台へと変貌していく。ただ重ねるだけではなく、どこに何を重ねれば安定するのか理解っているように確実に積み上げていった。

 驚いた、と同時に桜井は本当にお笑い芸人なのかと疑ってしまう。

 こんなの、激戦をくぐり抜けた軍の人くらいしか思いつかない。


「安定はしているとは思うけど、足元には気をつけて」

「は、はい……」


 天井近くまで積み上げられた踏み台を、一足一足確実に踏んでいく。次どこに足を置けばいいのか、迷わず登れる。一見乱雑に置かれているようにも見えるが、私一人くらい乗っても不安定に揺れたりはしない。本当に、計算されているように見えた。


「あの、」

「屋根で待ってて」


 天井の穴近くになり、桜井の様子を伺うと物の間を縫うように去っていく後ろ姿が見えた。

 どこ行くの、と聞く間もなく去っていく桜井を呆然と見ていたが、ギシッとベランダの軋む音が聞こえて彼はベランダを経由して屋根に登るようだと気づく。私も慌てて最後の踏み台へと足を伸ばした。

 右腕だけで体を支えていたからか、少しバランスを崩しながらもなんとか屋根に登ることができた。

 屋根から望む景色は私の家のベランダから見える景色と変わらなかった。ただ、家からは遠くに見えた国境の壁がすぐそこに見える。


 −− 国境まで、後少し。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れる国の少女 うらら @urarapp

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ