12

 目が覚めると、体中が痛かった。

 あちこちに打ち身がある。腕からは血すら出ている。船室内を見渡すともう荷物があちこちに散乱して、手のつけられないくらいに散らかっている。

「え?」

 氏忠は慌てて、自分の荷物を確かめたが、彼の荷物の箱だけはきちんとそばに、寝る前に置いたとおりに積まれていた。懐の中のフェリシア姫の玉と皇帝陛下からの鏡の入った箱もそのままだった。

 多くの人々が船室内に転がっているが、寝ているというよりも負傷して倒れているという感じだ。

弁佐べんのすけ殿」

「ん?」

 一瞬、誰のことかと思った。何だか遠い昔に、そのような通称で呼ばれていたこともあったような気もする。

「弁佐殿。大丈夫ですか? 昨夜はひどい嵐でしたけれど、みんな気を失っているようです」

 見ると、なんか見覚えのあるような四十歳くらいの男が、氏忠の顔をのぞきこんでいる。

「大丈夫そうでよかったです」

 その時、甲板の上から人の叫び声が聞こえてきた。

「陸地だぞ。陸地が見えた」

唐土もろこしに着いたのか?」

「まさか、こんな早く着くわけがない。しかも海が青い」

「昨日の嵐で吹き戻されたのか。ほかの三船は?」

「見当たらない!」

 そんな叫びながらの会話が船室にも聞こえてくる。

「立てますか? 行ってみましょう」

 先ほどの男が、氏忠をなんとか起こしてくれた。立てたし歩けるようなので、氏忠も外に出てみた。

 甲板には何人かの人が出て、赤い欄干から身を乗り出して外を見ている。その人たちの姿を見て、氏忠はほんの少し頭がくらっとした。あの聖神チクムスタンティウム帝国のフーエイの港をともに出港した使節団ではない。みんな、大宰府を出て大津浦を出港した時のまぎれもない遣唐使の人々だ。

 船がいるのも、もはや大海原の真ん中ではなかった。すぐ近くに松に覆われた岬が見えて、船はその陰の入り江に向かっている。正確には流されている。見るともう帆は張っておらず、帆柱も折れている。自力での航行は無理のようだ。

 とにかくそのまま船は入り江の砂浜に打ち上げられた。入り江には漁村があって、村人たちが驚いて船を見に集まってきた。

 船の上から、村人に話しかける人がいた。村人たちの服装は、日本と変わらない。

「ここはどこですか?」

「ここかあ? 肥前の国たい」

 日本語での返事が帰ってきた。

「なんと。唐土には行かれずに嵐に吹き戻されて、日本に帰ってしまった」

船の上の人々は落胆ともとれる声で、口々にそう言ってはため息をついている。

「日本に帰った?」

 氏忠は、その言葉に、船べりから身を乗り出して入り江や、山や、漁村や、村民たちの姿をずっと見渡していた。そしてそのまま、甲板に力なく座り込んだ。

「帰ってきた。帰ってきた。帰って来られた」

 氏忠は十八歳の青年ではなく、十六歳の半分少年の姿で、泣いた。


 そのまま陸路でまずは海岸沿いに進み、大宰府までは途中で一回だけ野宿して、二日ほどで着いた。すでにほかの三船の乗組員も、大宰府に戻っていた。

 第一船は執節使の粟田真人の乗る船で、さすが以前にも入唐経験のある粟田真人だけあって、雲行きが怪しくなって向かい風になった時点で舵を切って船を反転させ、そのまま追い風に吹かれて戻ってきたという。

 第二船、第三船は嵐に呑み込まれたが、氏忠の第四船と同様に嵐に吹き返されて肥前の国のあちこちに漂流し、陸路で先に大宰府に戻ってきていた。

 氏忠の第四船帰還の知らせを聞いて、駆けつけてきたのは氏忠の母だった。

 ものすごい勢いで駆けてきたと思うと、氏忠を泣きながらしっかりと抱きしめた。

「は、母上、人が見ています」

 氏忠は抵抗したが、母は離さなかった。

「嵐に遭ったって心配していましたよ。まあ、でもよく帰ってきてくれた」

 聞けば出港に際して大宰府まで見送りに来てくれた母だったが、そのまま大宰府に屋敷を構えて氏忠の帰りを待つつもりだったらしい。

 今は大宰府政庁に泊めてもらっていたが、そろそろ屋敷の造営に取り掛かろうとしていた矢先で、氏忠の父はなんと昨日都に戻ったというのだ。

「二年か三年は帰ってこないだろうとその間待つつもりでいたのに、たった七日で帰ってくるなんて」

 母は涙にくれながらも苦笑していた。だが氏忠にとっては、二、三年ぶりに会う母にほかならなかった。

 その場に、あの船上で知り合った貴人もいた。

「こちらがお母上ですか。あのいつまでも船に向かって袖を振っておられた」

「あら、ご覧になっていたのですか? 恥ずかしい」

 少し照れてから、母は氏忠に聞いた。

「こちらは?」

 そう言われてもまだ互いに自己紹介もしていなかったので、氏忠は貴人の名前も知らない。

「このたびの遣唐使で少録を仰せつかっておりました山上憶良やまのうえのおくらと申します。お見受けしたところ、皇家おうけの方では?」

明日香皇女あすかのひめみこでございます」

 憶良は慌てて両ひざを地面に着いて、手を合わせて頭を下げる唐式の拱手礼をした。

「まあまあ、お立ちください」

 言われて憶良は立ちあがった。

「あの袖をお振りになっていたお姿をふまえて、私は歌を詠みました。歌はご子息がお持ちだと思いますが、歌の中で私はあなた様をあの松浦佐用姫になぞらえてしまいました。でも、皇家おうけ皇女ひめみこ様であらせられた以上、松浦宮まつらのみや様とお呼び申し上げなければなりませね」

 そう言って憶良は笑った。出発の時に母が袖を振っていたことなど、そんな昔のことをこの憶良という人はよく覚えていたなと一瞬だけ思ってしまった氏忠だったが、憶良にとってはつい七日前のことなのだとすぐに気付いた。だが、やはり妙な感覚だった。


 その翌日に粟田真人はじめ遣唐使の総勢二百人ほどは、無傷だった第一船にぎゅうぎゅうに詰め込まれ、玄界灘から瀬戸内を通って難波まで航行した。

 難波では一行で筒男命つつのおのみことを祭る住吉大社に参拝の後、徒歩で山を越えて藤原の都に入った。そのころには、もう微かに秋の気配も感じていた。

 都に入った一行は、唐土に至って帰国したわけではないので特に帰還を祝う宴は催されず、執節使粟田真人、大使高橋笠間、副使坂合部大分の三人が帝に謁見を賜っただけだった。それとは別に、帝のおそばに親しくお仕えしていた氏忠は、特別に帝に召された。粟田真人ら三人が公式の場所である大極殿での謁見だったのに対し、氏忠は帝の私的生活の場である内裏で帝の御前に座っていた。大極殿は唐風建築で土足立礼であり帝は椅子の玉座に座しておられるが、内裏は靴を脱いで上がる和風建築で茣蓙ござの上の御座おましにお座りの帝の御前の板敷に氏忠は座っていた。

唐土もろこしには行かれなくて、残念でしたね」

 若い青年の帝は、氏忠にそうお言葉をかけた。

「いえ、行ってまいりました。唐土ではありませんでしたが」

 帝は怪訝なお顔をされた。ここであからさまに自分の体験を帝にお話し申し上げるつもりはなかったけれど、氏忠は少し遊び心で帝に謎かけを申し上げたような感覚だった。

「そこは一人の女性が皇帝となっております。もちろん、国の名前は唐ではありません、都も長安ではございません」

「なぜそなたがそれを知っているのだ?」

「え?」

 氏忠の方が驚く番だった。

「今回の遣唐使の者たちは知らないであろうが、執節使の粟田真人や大使の高橋笠間などにはそのことは知らせておいた。新羅を経てその情報は入っておる。十三年前に亡くなった唐の高宗帝の皇后であった方が十年ほど前にかの国では初めての女帝として皇位に即いておられる。国の名前も確かに今では唐ではなく周といい、都も長安ではなくかつての洛陽、今では神都というはずだ。このことはこの国ではごく一部の人しか知らないはずなのだが、そなた、誰から聞いた?」

 氏忠は、軽くめまいがした。いったいどういうことなのかと思い、ただ口ごもっていた。

「だ、誰からということではなく、私はこの目で……」

 そこまで言いかけたがしばらく黙った。そして目を伏せた。ただ、状況は似ているが年代的に合わない。現実の唐の国で先の皇帝が亡くなったのが十三年前、今の女帝が即位したのが十年前だという。氏忠が行っていた国では女帝即位の数日後に、氏忠は帰国して来た。唐の国で現実の女帝が即位した時、氏忠は日本でまだ六歳の子供だった。

 なんだか訳が分からなくなってきた。

「気分がすぐれませぬので、今日はこれで退出させていただきとう存じます」

 帝はただただ不思議そうな顔をしておられた。


 それからしばらく、氏忠は自分の屋敷で休養を取っていた。自分の屋敷といっても、ここでは父の屋敷だ。

 遣唐使の間は一時解任されていた式部省と衛士府の役人にも再任用され、本当ならば主に衛士府の方に出勤しなければならないが、しばらくは帝の直々の御計らいで休暇がもらえた。

「いつまで休んでいられるのかね」

 やはり中納言を辞して隠居し、いつも屋敷にいる父からも気を使われた。

「そう長くは休めないでしょう。こう見えても魔ど…」

 つい、魔導大将軍と言いかけてしまった氏忠は、慌てて言葉を引っ込めた。

「あ、いえ、あの、弁官で衛士佐としては、仕事も山積みでしょう」

 そうは言いながらも、やはり魔導大将軍という高官中の高官を経験した氏忠にとっては、右小弁や衛士佐などどうにも下っ端の役人に思えて仕方なかった。

 だが、彼はもはや魔導大将軍ではないばかりか、この国にはそのような官職すらない。

 ただ、この屋敷に閉じこもって過ごす毎日は、あの異世界での出来事を反芻するのに十分だったが、やはりあの世界は今となっては限りなく遠い世界だ。

 魔導大将軍といえば、あの世界にいた時にふと不安だったことを試してみた。この世界でも魔法が使えるのかどうか……。

 試してみたが、やはり使えない。この世界には魔法は存在しない。ただ、治癒魔法だけは、手から発せられる青く輝く光の束は全く見えないけれども何かが出ている感触はあり、それを体のつらい部分にかざせば温かく感じて体も楽になった。それだけは目に見えないだけで、効果は今でもあるようだ。

 本当ならばあのような特殊経験をしたものは、あれは夢だったのではないかと思うのが普通であろう。だが今の氏忠にとっては、今のこの日本に戻ってからの生活の方がむしろ夢のように感じられて仕方がなかった。

 今ここにフェリシア姫の剣とリュラーとそして玉がある。そして女帝=聖神皇帝の鏡がある。鏡はそれを見れば女帝の姿を見ることができるということだったが、氏忠はまだそれを試してはいない。

 フェリシア姫の玉は色もない透明の玉で、光に透かして見たりしたけれど何も見えない。 そこにフェリシア姫の姿が浮かぶなどということはなかった。

 玉を眺めながら、ふと氏忠はこの玉を自分に渡してくれた時のフェリシア姫の言葉、すなわちそれは彼女の息を引き取る前の最後の言葉となってしまったのだが、今になってそれをはっきりと思い出した。

「あなたの国で……この玉を私だと思って……、ハッセの聖堂で祈りを捧げて……。そうしたらきっと……もう一度……、私はあなたと……」

 それだけ言って、彼女は逝ってしまったのだ。

 そして今さらながら「ハッセの聖堂で祈りを捧げる」とはどういうことだろうと気になった。その時は耳に覚えのない地名だけに、あの異世界の帝国のどこかにそのような場所があるのだろうと聞き流していた。

 その後のフェリシア姫の死、皇帝の崩御、メーレンベルフ伯の反逆と戦闘と立て続けにいろんなことが起きすぎて、氏忠はハッセの聖堂のことは忘れていた。ただ、玉を守ることばかり必死だった。それが今になって思い出すとは皮肉なものだ。今さらハッセの聖堂など探しようもない……と思った氏忠は、思わずあっと声をあげそうにさえなった。

「あなたの国で……この玉を私だと思って……、ハッセの聖堂で」

 姫は確かにこの順で言っていた。つまり「あなたの国のハッセの聖堂」という意味にも取れる。

 ハッセの聖堂……? 氏忠はその晩、母に早速聞いてみた。

「ハッセという場所をご存じですか? そこに聖堂があるはずですけれど」

「ああ、あそこね」

 母は笑いながら即答だった。

「あなたが生まれた頃、いえ、もうちょっと後だったかしら、その時の帝の御病ご回復を祈願して、唐土もろこしのナントカという坊さんが建てた三重塔がある山が初瀬っていったわね」

「そこはどうやって行けばいいのですか? 遠いのですか?」

「いや、東の方へ歩いても一時いっときばかりで着くけれど」

 父が口をはさんだ。日が高くなった巳の刻に出ても、昼には着くという距離だ。

「でも、そんな所に行ってどうする? 山の中に小さな塔が一基立っているそれだけの寺だぞ」

「いえ、いいんです」

 氏忠は帝から休みを頂戴している間にとうきうきして、翌日には早速玉を首から下げたまま東への道を歩んだ。途中、三輪山を左手に見て、だんだんと道は山に入っていく。これが初瀬山だという。

 かなり急な傾斜を登った中腹に、果たして本当に小さな三重塔があった。本堂もなく、僧も誰もいないような本当にこれだけの小さな寺だ。夏の名残の蝉の声が、まだあたりには響いていた。

 氏忠は三重塔の一層の扉の前、すのこの上に袋から出した玉を置き、自分は木の階段の下に座って玉の供養という感じで、フェリシア姫の冥福を祈った。

 だいぶ長く祈っていたが、風が吹いてきただけで特に何も起こらなかった。ただ、これでフェリシア姫も成仏してくれるだろうかと、氏忠自身の心が少し和んだ気になった。

 そして、玉をまた袋に入れて首にかけ、父の屋敷に戻った。

 戻ってみると、なぜか母が上機嫌で氏忠を迎えた。

「いいお話があるのよ」

 やたら母はにこにこしている。

「あなたに縁談があるの。私の親類の娘さんで、そのお父君の宮様がどうしてもあなたにって」

 皇女である母の親類だったら、皇家おうけということになる。そう名門でもない県犬養家で父に続いて二代に渡って皇家からの降嫁など畏れ多い話ではあるが、今ひとつ氏忠は気が進まなかった。

「ごめんなさいね。ほとんどもう決まった話なので、あとはお相手に会ってみて。帝のお許しもいただいているわ」

「わかりました」

 もういつのまに、そこまで話は進んでいる。気は乗らないけれど断る理由もないし、ここはひとつ母の顔を立ててという感じで氏忠は相手の女性に会うことにした。

 そして当日、相手の顔を見た途端に氏忠は声をあげそうになってしまった。

「フェリシア姫!」

 本物のフェリシア姫と違って、その顔つきは黒い髪に黒い瞳のまぎれもない日本人である。だが、高貴な雰囲気といい容姿といい、フェリシア姫そのものだった。

「お初にお目にかかります。華陽かやと申します」

 華陽女王かやのおおきみは、そう言ってにっこりと笑った。年の頃は氏忠よりも少し若いくらいだから、まだほとんど子供だったフェリシア姫よりはずっと年上だ。だがその笑顔を向けられると、氏忠の胸の鼓動は抑えきれないくらいに激しく高鳴った。

「あの、箏はなさいますか」

 氏忠は、開口一番にそんなことを聞いた。

「はい」

 華陽女王はそばに控えていた侍女に、箏を持って来させた。氏忠も立ち上がって、リュラーを持って戻ってきた。

「あら。珍しい楽器ですね。唐土もろこしのものですか?」

「ええ、まあ」

氏忠は、そういうことにしておいた。

 まずは華陽女王が箏を爪弾きはじめる。それにうまく和して、日本の筝曲を氏忠はリュラーで奏でた。

 その途中で氏忠は、庭の空の彼方から白い別のリュラーが飛んで来て、華陽女王が弾く箏の中にスーッと入るのを見たような気がした。そして自分の懐の玉も急に光りだして、懐から飛び出ると華陽女王の中にすっと入った。華陽女王はそのようなことに気づきもせず、ひたすら箏を奏で続けている。

 もちろん幻覚だろうと氏忠は思っていた。演奏が終わってからすぐに懐を調べたけれど、玉はそのまま自分の懐にあった。飛んできたリュラーはあのフェリシア姫の臨終のときに空に舞い上がって消えたフェリシア姫のリュラーかと思ったけれど、華陽女王自身もそばで聞いていた氏忠の母も誰もそのようなものが飛んできたのは見ていないようだ。

 その氏忠の母は、ひたすら涙を流していた。

「まあ、今日初めて会って、初めて楽器を和したにしてはなんと息がぴったり。もうずっと前からお二人で練習してきたみたい」

 そう言いながらも、母は感動しまくっている。

 そうして話は進み、年内には氏忠は華陽女王を娶った。


 ちょうどそのころである。

 宮中で見覚えのある人と再会した。本当は見覚えあるどころではなく、ほんの一年前に恋い焦がれた相手……神奈備皇女であった。

 一年前といってもそれはこの国での時間の流れではの話で、氏忠の異世界での時間経過の感覚ではもう三年も四年も前にちょっといろいろあった人という遠い存在になっていた。

 それが、宮中の内裏の廊下で行き合う形となった。

 氏忠が脇によけて、神奈備皇女をお通しする形をとった。相手は皇女であるが、それだけではない。今は帝のである。

 通りがてらに、神奈備皇女は立ち止まって氏忠を見て、にっこり微笑んだ。

「お久しぶりでございますこと。唐土もろこしには行かれずお戻りになったと噂で聞いたような気がするのですけれど、気のせいでしょうか」

 氏忠にとっては初恋の相手でもあり、失恋の相手でもある。

「これはご無礼を致しました」

 だがそれ以上に、幼馴染みでもある。それでもさすがに昔のように「君は~」とか言って対等な口をきくことはできない。

「さらにはご結婚もなさったとのこと。私のことはお忘れのようですね。住吉すみのえの岸には忘れ草でも生えているようで」

「いえいえ、もうあなたもやんごとなき御方で、私などとても畏れ多くて」

 神奈備皇女は、一つため息をついた。

「皇女から一人は妃を迎えねばならない定めですから、私など形だけのものです。帝の御心は車持夫人くらもちのぶにんの上から離れません。私が入内した時点で夫人ぶにんはご懐妊されていましたけれど、このたび男皇子おのこみこをお産み遊ばしましたし。私になど目もくれませぬ」

 はき捨てるようにそれだけ言うと、神奈備皇女は行ってしまった。


 年が明けて、氏忠は正五位上しょうごいのじょうに叙せられ、官職も右中弁で衛士率えじのかみ、式部大輔となった。これからは、弁率べんのかみと呼ばれる。

 さらに、昨年嵐で渡航に失敗した遣唐使をあらためて派遣する話も持ち上がった。その成員は昨年とほぼ同じということだったが、昨年大使であった高橋笠間は辞退した。よって執節使の粟田真人が大使をも兼ねることになった。もちろん出発は夏になってからだ。

 だが、氏忠も今回は固く辞退した。もう二度とごめんだと、いろんな意味で思った。今はここでの暮らしが充実している。妻もいる。そしてやっとあの異世界から帰って来たばかりなのに、二度と日本を離れたくないと思っていた。それに彼は知っている。異世界でではあるが魔王は倒された。もはや彼が今さら唐に行く必要はない。

 氏忠の辞退は認められた。

 そんな彼がずっと気にしていたこと、それは例の聖神皇帝からもらった鏡の入った箱だ。戻ってからまず先にフェリシア姫の玉の供養を先にし、そしてすぐに華陽女王との結婚、そして年末年始の諸行事とあたふたと時を過ごして、箱を開けるいとまもなかった。

 実際は、時間ならいくらでもなんとかなった。だが箱には、誰もいない神聖な場所で開けるようにという但し書きがあった。自分の屋敷でも宮中でも、誰もいない場所などという状況にはならない。さらに、そこが神聖な場所となると、もはや難題だった。

 そんな時、華陽女王が懐妊した。氏忠の屋敷では父も母も大喜びだった。やはり、遣唐使を固辞して正解だった。


 そしてついに、その時はやってきた。

 妻の華陽女王の安産祈願のためにと父が言いだして、都の条里内にある紀寺きのてらという結構大きな寺院に籠もって祈祷を受けることになった。

 祈祷は何日か続いたが、氏忠はあることに気付いた。

 いつも最後になると僧たちはさっさと庫裡の方へ行ってしまい、本堂には氏忠の家族のみが残される。これはいい機会だと思った氏忠は、ある日そっと例の鏡の箱を持参した。

 祈祷が終わるといつも通り僧たちはいなくなった。両親や妻もすぐその後に退出しようとしたが、氏忠はもう少し残ると言った。

「思うところがあって、しばらくは仏前に参りたいのです」

「そうか。最後の灯火の始末だけはきちんとして来いよ」

 父がそれだけ言って三人は退出して行き、氏忠だけが残された。

 誰もいない聖なる場所……条件は満たされた。

 氏忠は、震える手でそっと箱を開けた。この箱をもらって開けてみた時と同様、中には掌に入るほどの鏡が入っていた。氏忠は、鏡を取り出した。そして目の前に掲げてみる。

 最初は普通の鏡として、氏忠の姿を映していた。

 だが、すぐに鏡の中の様子が変わり、巨大な宮殿が映し出された。しかしそれは、あの氏忠の行っていた異世界の帝都の宮殿ではなかった。

 この藤原の宮の大極殿と同じ建築様式だ。それでいて藤原の宮の大極殿よりも何倍も巨大で、絢爛豪華だった。その入り口へと鏡の中の映像は進んでいった。たしかに額縁も見えるが、不思議と「大極殿」ではなく「大」の字に点がついた「太極殿」となっていた。

 その前の階段には多くの群臣が左右に分かれて並んでいるが、その服装もあの異世界の国よりも日本に近かった。

 やがて、太極殿の入り口から女帝がお出ましになった。

 氏忠は息をのんだ。

 間違いなく、あの聖神皇帝、すなわち氏忠と親しく接してくれた皇太后だった。

 これが今の皇帝の姿か……氏忠はそう思うが、何しろ服装が違う。氏忠の知っている白いドレスではなく、まさしく唐土もろこしのそれといえる黄色い皇帝服だ。王冠も彼が知っている王冠ではなく、むしろ日本の帝の冠に近かった。

 それでも鏡にその顔が間近に映し出された時、氏忠は胸がつぶれるような思いがした。

 紛れもなくあのお方である。あのお方ではあるが、別人だった。

 顔つきは確かにそうなのだが、あの月の光の中で輝いていた美しい、氏忠の知っている若々しい女帝ではない。髪は真っ白で、顔はかつては美人であった面影は残してはいるが、しわだらけの老婆であった。もう八十歳は近いと思われる。

 老婆ではあっても、皇帝としての貫録は十分にあった。

 これが現実世界のあの国の、すなわち唐土もろこしの大周国の女帝か……たしかに帝のお話では、唐土の今の女帝が即位したのは今から十年ほど前だったということだった。それにしても年を取り過ぎている。

 氏忠は懐かしさよりも衝撃の方が大きかった。鏡の中の皇帝は群衆に向かって両手を広げて何かをしゃべっているが、この鏡から音声は聞こえない。

 氏忠は箱を閉じた。大きくため息をついた。そしてその場に座り込んだ。

 自分が接してきたあの美しい女帝は、もうどこにもいない。

 それが彼には悲しかった。だから、声をあげて泣いた。

 たとえ次の遣唐使に加わって入唐したとしても、よく似た老婆がいるだけだ。彼があの国で間違いなく現実として生活してきた。だが、その見たこと、体験したことは、形こそ違うけれどこの現実世界ではすでに十年以上も前に起こっていた。

 あの世界は、たしかに時間というものが存在しなかった。時間が存在しないだけに、過去にさかのぼっての体験もできるようで、実際に氏忠はそれをしたのだろうか。この世界の過去へ戻ったというのとは全く違う形で……そして、実際は十年以上にもわたる間の出来事を、わすか二、三年と思われる時間感覚の中で体験したのだ。

 あの世界はこの世界の、時間を超越した並行世界パラレルワールドだったのだ。その現実離れした事実が、今の彼にとってまぎれもなく「現実」だった。

 それを受け入れるかどうかは、すでに分魂としての任務を果たした自分の、今後のこの世での生活にかかってくる。

 彼はそう思って、涙を流しながらも立ち上がった。

 堂内の灯火を消し、数々のめまぐるしい思い出とともに氏忠は本堂を出た。もうすっかり薄暗くなっていて、宵闇が境内を包んでいた。


おわり

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遣唐使、唐の国ではなく異世界に至る。~「松浦宮物語」異聞~ John B. Rabitan @Rabitan

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