11
そして、その夜である。夕食も終えたころに、皇太后の侍従が氏忠の屋敷を訪ねてきた。
「皇太后陛下からのお手紙です」
それならば玄関で受け取るわけにもいかず、客間に招き入れて侍従を上座に据え、氏忠は畏まってその手紙を受け取った。
そして開いてみて、その手紙の中に入っていたものに、氏忠は思わず大きな声をあげてしまった。
「あっ! こっ、これは!」
そこにあったのは、氏忠が捜して捜して捜して、どうしても見つけられず、遷都によってもう限りと諦めていたあのパパヴェラの花だった。
他から摘んできたのではない。花弁が一枚だけないので、氏忠は引き出しの中の例の一枚だけの花弁を持ってきて合わせてみると、ピタッと合った。
もうすっかりこの国の文字も読めるようになっていた氏忠は、手紙を見た。
「きっと驚かれているでしょうけれど、もうかなり時がたったあの時の花ですよ。いつまでも私が持っていました。いつか見つけてくれるだろうと思って。でもなかなか見つけてくれないのでもどかしくて、お届けします」
確かにあの花を少女が持っていってからもう何十日もたっていると思う。それまで摘んだ花がみずみずしく枯れずにいるとは思えないのだが、でも目の前の花はあの時の花であって、それでいて全く枯れていない。
氏忠は、何を言ったらいいのかも分からなくなって、ただ茫然と立ったままその花を見つめていた。あの花をなぜ皇太后がと気付くまでにも、だいぶ時間がかかったのである。
花を顔に近づけてみる。するといい香りが漂ってきたが、それはその花の香りではなかった。あの少女が現れる時の香りだ。少女の香りということは、すなわち皇太后の香りでもある。
「それから、伝言がございます」
侍従を玄関まで送ろうとすると、大将軍である氏忠を上座に据え直してから侍従は言った。
「皇太后陛下は大将軍様にお話があるので、今より皇太后陛下のお部屋までいらしていただきたいとのことでございます。よく存じませんが何か『本当のこと』をお話ししなければならないと仰せでございました」
「本当のこと?」
なんだかよく分からないが、ボプに事情を話して氏忠は侍従について屋敷を出た。実際は氏忠が先に歩き、侍従がそれについてくるという形だった。
ところが、皇太后の部屋の前に着くと、皇太后は部屋の外に出ていた。
「月を見に、塔に登りましょう」
そう言って皇太后は氏忠をつれて廊を歩きだした。いつもおそば近くで親しく話してきた皇太后なのに、この日ばかりは氏忠はものすごく緊張していた。
やがて塔に登る
だいぶ登って、やっと外に出た。これまでの階段のところどころにある微かなろうそくの光だけの暗闇に慣れていた目には、パッと月の光に照らされてむしろまぶしいくらいであった。
皇太后はこの尖塔の物見の部分に立って月を眺めた。ここはロンガパーチェよりも間近に山に囲まれている。その山の上に折しも満月が昇ったところだった。
塔全体は円筒形で、物見台はぐるりと凹凸の胸壁で囲まれ、塔はまだ上があって三角の尖った屋根が乗っている。
その胸壁越しに皇太后は月を眺めていたが、その後ろに氏忠は控えていた。
「魔導大将軍、こちらに来なさい。私の隣に」
畏れ多いことだが皇太后がそう言うので、氏忠はその隣に同じ方を見て立った。他には誰もいない。
「月がきれいですね」
皇太后はそんな他愛のないことを言っている。
「あのう」
氏忠は隣にいる皇太后の横顔を見た。月光に照らされたその顔の、この世のものとも思えないほどの美しさに息をのんだ。
「あの、お花のことですが」
氏忠は胸ポケットから、皇太后より届けられた花を出した。
「その花からはどのような香りがしますか?」
不意に皇太后が聞く。花本来の香りではないと思われるが、そのいい香りは皇太后のから発せられる美しい香りと同化した。
「この香りは、ほかにありますか? どうして、その香りが花の香りでしょうか」
「え?」
氏忠は聞き返そうと思って、もう一度皇太后を見た。だがそのまま、彼の体は凍結した。
身動き一つ取れない。なぜなら、隣には皇太后がいたはずなのに、今の彼の隣にはあの少女が月の光の中で光を放っていた。
もう、何も言葉が出なかった。氏忠はただ口をポカンと開けて、目を見開いていた。そんな氏忠を見て、少女は限りなく透き通った笑顔を見せた。そして次の瞬間には、少女はサーっと元の皇太后の姿に戻った。
「ごめんなさいね。変身魔法です。あなたのもとに行ったのも転移魔法でした」
この皇太后も、自在に魔法が使えるのか……考えてみたら、氏忠に魔法の手ほどきをしてくれたあのフェリシア姫の母親なのだ。
「だますつもりはなかったのです。でも、こうでもしなければ、あなたのそばにはいかれない。あなたは、なぜ?と思っているでしょうね。今、すべてのことをお話ししましょう。すぐには信じられないかもしれません」
皇太后は、また月を見た。少女の姿をしていなくても、十分に皇太后は若くて美しく、胸がときめく。
「実は、あなたが倒したあのデルク・ヴォルテルスは、魔界の帝王、すなわち魔王アスラーの転生で、この国を、いいえ、この世界をもすべて滅ぼすために魔界より降臨していたのです」
「あの、えっと、お話がよく分からないのですが」
確かに、魔界とか転生とか言われても、どうもピンとこない。そんな世界があるのか……そうは思ったが、今自分が異世界という普通ではない世界にいるのだから、普通ではないついでにさらに魔界とかあってもおかしくはないという気もする。
「魔王アスラーはこの世界を滅ぼして自分の世界である魔界に取り込もうという野望を持って、この世界に降臨しようとしました。でも、アスラーの体は人の体の八千倍の一ヨージャナもある巨大なもので、そのままではこの世界の人間の肉体に宿ることはできません。そこで、自らの霊質の一部を分魂として肉体に入れ、この世界に生まれてきました。それがデルク・ヴォルテルスだったのです」
まだ、よく分からない。
「分からないでしょう。どんな御神霊の分魂でも一度肉身をまとってこの世界に生まれてきたならば、神界のこともすべて忘れてしまいます。私も覚醒するまではそうでしたし、あなたは今でもそうでしょう」
「え? 僕が?」
「そうですよ。あなたも私も、魂は神霊の分魂です。」
皇太后は、にっこりと笑った。
「分魂である私の本体の神霊は、天界第四層のトゥシタという世界にいます。アスラーも元は天界第二層トラヤストゥリムサという世界で、その最高神霊シャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ神と双璧としてそのトラヤストゥリムサを治めていたのです。でも、シャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ神と些細なことでいさかいとなって堕天し、魔王となったのです」
氏忠は、どう答えていいか分からずにいた。
「私の魂は天界第四層トゥシタの最高神メティヤ神の分魂、あなたの魂はその良き協力者で伴侶でもあるアジタ神の分魂なのです」
氏忠はもう、黙ってしまった。何が何だか分からない。
「分からなくて当然です。私はあなたがあのヴォルテルスを倒したあの瞬間に覚醒しました」
氏忠は思い出した。ヴォルテルスを倒した後に、その遺体から紫の影が立ちのぼり、巨大な魔王の姿となった。それをまた倒したのは、間違いなく今隣にいるこの皇太后だった。しかも、その一部始終は周りにいた人の目には何も見えていなかった。
「私が言葉でいろいろ説明するよりも、あなた自身がその目で、いえ第三の一つの目で確かめるといいでしょう。あなた自身がその記憶を呼び戻すのです。それを覚醒、あるいはサトりといいます。でも今は、あなた自身の力で覚醒し、記憶を呼び戻すのは難しい。だから私があなたの記憶を見せてあげます」
「記憶を見せる?」
「はい、あなたの全意識は宇宙に置いてきています。あなたの顕在意識は全意識の一割に過ぎません。あとの九割の意識は潜在意識として宇宙に置いてきた
皇太后は一度胸元で合掌し、そのままそれを自分の頭上まで持っていった。そしてゆっくりと両手を開きはじめた。皇太后の両方の
「この光の玉の中に、あなたの全意識と全記憶、すなわちアカシク・レコルズが入っています」
皇太后は両手首をばねにして、その光の玉を氏忠の胸元へと投げた。ものすごい勢いで光の玉は飛んで来て氏忠にぶつかり、氏忠は全身が光に包まれた。
氏忠は周りを見渡した。すべてが黄金の光で塗りつぶされた世界といってもよかった。
空は瑠璃色で、ものすごい広さを感じる。
遥か遠くの水晶のように青く光る山まで一面の花畑で、すべてが明るく輝いていた。
とても温かい。
美しいという言葉では表せられないような「美」の広がる中に立つ氏忠は、心の中までもが温かくなっていた。
自分は誰なんだろうと一瞬だけ氏忠は思った。とにかく自分自身がものすごく大きい。
だがすぐに、そんな疑問はなくなった。
「アジタ様」
自分を呼ぶ声がする。周りには白い衣の天人が大勢仕えている。
小さいけれども子供ではない。
氏忠は……いや、氏忠ではない。アジタと呼ばれた神霊はにこやかに周りの天人を見渡して微笑んだ。
「第二層トラヤストゥリムサよりシャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ様がおいでです」
心に直接響く声に、アジタはうなずいた。
目の前にたちまち柱も壁も屋根も光り輝く黄金神殿が現れた。巨大なアジタよりもはるかに巨大だ。
扉は横開きに自然と開かれ、すでに伴侶たるメティヤの姿もそこにあった。伴侶といってもどちらが男神でどちらが女神かは、傍のものには分からない。だが、決して同性ではあり得なかった。
やがて神殿の奥から、さらにまばゆい光が発せられた。その光圧にアジタもメティヤも立っていられず、ひれ伏す形になった。
ここ第四層トゥシタの神霊にとっては上層神界の神霊の姿は光にしか見えず、立ったままでいるとその光圧に耐えられない。
「第三次の世界より声が届いておる」
光の中から
「我が伴侶であったが堕天して魔王となったアスラーが、その分魂を第三次の肉体の世界に下ろした。第三次の世界を魔界へと取り込む魂胆だ。第三次の世界が危ない。第三次の世界がそのようなことになってしまえば、『全宇宙の総ての総ての創造主』の御経綸が水泡に化す」
そうなると、この神界自体も存在が危なくなるのだ。
「メティヤ!」
「は!」
「まず汝が行け。分魂を魔王アスラーが分魂を下ろした地に下ろせ。それからアジタ!」
「は!」
「汝が分魂は
「私はなぜ
アジタはそっと聞いた。
「
アジタとメティヤの二柱の神霊がさらに頭を下げると、シャックロー・デーヴァーナーン・インドラハ神は第二層神界へと戻っていった。
はっと我に返った氏忠は、月明かりの中でもう一度皇太后の姿を見た。
「今のは何ですか? 幻覚魔法ですか?」
皇太后は静かに首を横に振ってほほ笑んだ。
「今のが幻覚だと思いますか?」
たしかに幻覚だと、見終わった瞬間からその記憶は遠のきはじめる。だが、思い出すたびに今見た光景はますます強く心にこびりつく。
「確かに魔法といえば魔法ですが、幻覚どころか真実を見せる魔法です。今あなたが見たのは分魂としてのあなたにとってのご本体の御神霊、アジタ神の記憶です。あなたは分魂ですから、御本体様と記憶を共有しているのです」
そういえば今の話の中にあったツツノオ神は、ヴォルテルス将軍を倒した後のあの山の上で一度氏忠のもとに出現し、鎧や馬具を賜っている。今でもそれは氏忠の愛用品だ。
「私とあなたがこの世界に下ろされたのは、今のようないきさつがあったのです。だから私は本来メインデルトもヴォルテルスも恐れる必要はなかったのですけれど、先ほども言いましたように、いかなる神霊の分魂であってもこの世界に肉身を持って生まれ落ちたならば、神界の記憶も自分の使命もすべて忘れてしまいます。ですから
「どうしてこのような年も若い私が、魔王に立ち向かえるものだと思ったのですか?」
「使節団に混ざっているあなたの姿を見た時に、心の鐘が鳴り響いたのです。分からないまでも、神界での記憶が揺さぶられたのでしょうね」
言われてみれば氏忠にも思い当たるところがあった。なぜこの皇太后の姿を初めて見た時に懐かしさを感じたのか、自然と涙があふれそうにさえなったのか、なぜ皇太后は自分だけ使節団から切り離して客人としてそばに置いたのか、そしてなぜ皇太后が変身していたあの少女に自分はあれほど恋い焦がれたのか……すべて納得がいった。
「あなたに何も知らせずにそのままお国に帰してしまえば、それは私の罪のような気もしたので、今宵打ち明けるのです。あなたをこの国に引きとめることもできない愚かな女ですから、御本体様からもお叱りを受けるでしょう」
氏忠は、ゆっくりと体を塔の外の景色の方に変えて月を見た。だがその月の光も、すぐに涙にかすんできた。これほどまでに深い
「私は間もなく皇帝として即位します。でも、そんなに長い時間ではないでしょう。おそらく私の方が先に神界に帰ります。あなたが帰る世界とこの世界は、同じ第三次の世界ですが、全く同じ次元の世界ではなく異世界です。そのことは覚醒した後に私は知りました」
皇太后が知っていたとは驚きだ。やはりこの人の魂は普通の人間の魂ではないと、氏忠は実感した。
「あなたが分魂として下ろされた世界と、あなたが倒すべき使命を持っていた魔王アスラーは違う世界に降臨していましたので、あなたは使命を果たすべくこの世界に召喚されました。あなたを召喚したのは」
皇太后は、一旦言葉を切った。氏忠は息をのむ。
「もちろん覚醒前のことですからはっきりと意識してではありませんが、結果として私が召喚したことになります」
氏忠には、ある程度予想していた言葉だった。だからこそ、無意識ではあってもこの国に至った氏忠を使節団から引き離して客人として宮殿内に住まわせもしたのだ。
当初はそれが不思議だったが、今ならばすべて納得がいく。
「私は覚醒して、私たち分魂がこの世に下ろされた任務を知りました。そしてその任務はヴォルテルス将軍が倒された時点で果たされたのです。あなたもまた、あなたがこの世界に召喚された任務を果たしました。だからあなたが元いた世界に帰ると言いだすであろうことは十分に予想していました。でも私は、まだあなたとともにいたかった。だからあんな少女に
皇太后は頭を下げた。氏忠は慌てた。
「そんな、困ります。お顔をお上げください」
そして氏忠はまた月を見た。皇太后は涙声で話を続けた。
「私たちの御本体様方は今でも神界で共におられましょうが、分魂であり肉体を持つこのメイケ・ウーレンベックと県犬養氏忠は、あなたが元いた世界に戻ればこの世ではもう二度と会うこともないでしょう」
皇太后の顔は、もう涙でくしゃくしゃだった。
「私は皇帝になってこの国を治めます。でも、私にはもう両親はいません。夫も娘も亡くなりました。多くの友ももうこの世にいません。敵でさえもう死にました。唯一残っているのは今の皇帝である息子だけです。あなたも間もなくいなくなってしまう」
そして皇太后は
「あなたが帰国した後も、まさか私のことを忘れることなどないと思いますが」
氏忠がその箱を受け取って開けてみると、中には鏡が入っていた。
「私を思い出した時は、この鏡を見てください。この鏡に私が映ります。言葉を交わすことはできませんけれど。この鏡のことは、誰にも言わないでください」
泣きながらそれだけ言うと、皇太后は氏忠に背を向けて塔の中へ消えていった。
氏忠はその場に泣き崩れて、いつまでも涙を流していた。
それからというもの、氏忠はこれまでと違った感覚で生活していた。皇太后の正体を知ったというよりもむしろ、自分の正体を知ってしまったという衝撃の方が大きかった。
そして数日後、皇太后が皇帝として即位するための戴冠式が、新都の宮殿の礼拝堂で行われた。身分の高そうな神官に王冠をかぶせてもらった皇太后は、皇帝となった。この国初めての女帝の誕生である。
長いスカートの白いロングドレスの上に赤いマントをはおった姿で、ブロンズの髪は結いあげていた。その頭に、これまでのティアラに代わって王冠をかぶっている姿は何か違和感が否めなかった。
戴冠式に参列するのはほんの重臣だけで、その中に氏忠もいた。
その後で場所を大広間に移し、その玉座に座して即位式典が行われた。そのまま宮殿の表玄関を出て、宮殿前の広場にひしめき合う群衆の前に、皇帝となったかつての皇太后は姿を現した。近衛上将軍のヤン将軍が皇帝即位の宣言を発し、多くの官人や群衆たちは大歓声を上げた。
人びとが驚いたのは、新皇帝の称号がただの皇帝ではなかったことだ。聖神皇帝メイケ・ウーレンベック一世としてその称号が人びとに告げられた。
すでにここ数日の間に、皇帝は自分が神霊メティヤの化身であることを公にしていた。そして国内の総ての州に、皇帝がメティヤ神の化身であることを伝える文書『ヌーベスマーニャの福音書』を安置するヌーベスマーニャ教会の建設を皇帝は指示していた。
さらに、この即位式典で正式に新しい帝都の名をこれまでのローケルソーレからデウムキャピターリアと改めることも告げられ、さらに国名までもがこれまでのフルメントム帝国から聖神チクムスタンティウム帝国と改めることも発表された。
隣にはこれまで皇帝だった息子が皇太子として控えていたが、その名もニコラス・リーフェフットではなく皇太子ニコラス・ウーレンベックとなった。
これまでのリーフェフット朝に替わり、新しいウーレンベック朝の始まりだ。
兄のエルベルト・ウーレンベック将軍も、その息子であり女帝には甥になるエルチェ・ウーレンベックも晴れて
聖神皇帝は一同を見渡し、人々の歓声はいつまでも続いていた。
こうして何もかもが新しくなった中、いよいよ氏忠の帰国準備が始まった。使節団一行もすでに新都のデウムキャピターリアに来ているという。
聖神皇帝即位以来、氏忠はほとんど自分の屋敷にこもりきりになり、皇帝と個人的に会うことは全くなくなった。もはや朝議にも出ておらず、進講もない。
屋敷には見日毎日、氏忠に別れを告げるためにひっきりなしに人が訪ねてくる。ブリンクマン卿、ヴェステンドルブ卿、メルテンス卿と宰相も何人も来たし、今や皇帝の甥であるエルチェもまた顔を見せた。
その父のウーレンベック将軍をはじめヤン上将軍、クラーセン軍司令、そしてティンベルヘン将軍も顔を見せた。
この国に来たばかりの頃に執事として世話になったレンブラントも、久しぶりに来てくれた。
皆、誰も彼もが懐かしい。だが、氏忠にとっていちばん懐かしいのは皇帝である。そしてあの皇帝の変身姿の少女……パパヴェラの花を捜してあちこち駆けずり回ったことも懐かしい。
そして数日後に、宮殿の広間で使節団の送別の宴があった。それに先だって使節団が皇帝に帰国の挨拶をする謁見があった。
この席で、氏忠は正式に魔導大将軍の職を解かれた。それと同時に、それまで宰相や他の将軍と並んで座っていた椅子から、使節団の列の中に氏忠は移動した。
宴では完全に氏忠は使節団の一員として扱われ、ほかの使節団一行もこの国で氏忠が何事もなくずっと彼らと一緒にいたような感じで接してきた。
氏忠がこの宴で、皇帝と個人的な会話を交わすことは全くなかった。だが、宴の途中で一度だけ皇帝と目があった。氏忠を見て急に皇帝の目が潤んだのを、しっかりと氏忠は見た。
翌日は、いよいよ出発だった。皇帝の見送りはなかった。
三人のメイドと二人の衛兵は見送りに出てくれたが、ほかの官人たちに混ざってであり、言葉を交わすことさえできなかった。氏忠はもはや魔導大将軍ではなく、彼、彼女らの主人ではない。さらに、三人のメイドも泣きじゃくっていて、言葉を交わすどころではなかった。
この国に来た時に着ていた服に、本当に久しぶりに袖を通した。メイドたちによって、それはきれいに洗濯されていた。氏忠の荷物は、リュラーと剣、ツツノオ神から賜った鎧と馬具、そしてフェリシア姫の玉と皇帝から賜った鏡の入った箱、それだけだった。それらは皆荷物というよりは宝物だった。
帝都の外までは馬車で、そこからはまたドラゴンである。ついこの間まで自分が魔導大将軍として管理していたドラゴンだ。その背の上から、氏忠は初めて帝都デウムキャピターリアを空から見た。高い城壁に囲まれたこの巨大な年も見納めだ。
そしてまるで氏忠へのサービスであるかのように、ドラゴンは今では古都になってしまった思い出の詰まったロンガパーチェの上空をも飛んでくれた。
そして、もう何年ぶりに来るのかなと思うくらいに懐かしい港町のフーエイに着いた。
すぐに出港だそうだ。港には白い側壁に赤い柱の遣唐使船が停泊していた。フーエイの庁舎の人たちが保管していてくれたのだろう。
その船を見て、氏忠は頭がくらっとするのを覚えた。このまま意識を失ってしまうのではないかとさえ思ったくらいだ。
大使の阿倍関麻呂を先頭に四十人ほどの使節団は黙々と船に乗り込み、一行の中の水手たちが手際よく出港の準備をして帆を張った。フーエイの人たちが手を振る中、船はゆっくりと岸を離れた。
氏忠は甲板にいた。青い海を航行する船は、どんどん陸地から遠ざかっていく。
もはや氏忠は立っていることもできなかった。遠ざかるこの国を、陸地を、山をずっと見ていたいと思うのだが、もはや涙に曇って何も見えない。氏忠はとうとう甲板に泣き崩れ、大声をあげて泣いた。
同じように甲板に出ていた人たちが、怪訝そうな顔で氏忠を見ていた。
夜になった。甲板の下の広い船室でほかの四十人と雑魚寝をしながら、氏忠は目を閉じた。かつてはこの一行とともに出港しても、自分が元いた世界の日本に帰れるのかどうかという懸念が氏忠にはあった。だが、自分の正体も知り、すでにこの三次世界に下ろされた神霊の分魂としての任務を終えたことも知っている今は、もはや何も心配することはなかった。
そう思って氏忠は目を閉じた。
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