10

 彼女が最後に見せた微笑みは、雨の中に消えた。

 初めて会った時の月明かりの中に浮かぶ姿、そして闇夜でもほんのりと輝いて見えた顔、そのすべてが思い出となりつつある。

 ここも異世界だが、もしかしたらさらに異世界の天上界から来た女神の化身か、あるいは逆に自分をたぶらかそうとして現れた魔界の妖怪あやかしかと、氏忠の思考はもうあっちへ行ったりこっちへいったりで爆発しそうだった。

 元いた世界に帰るという希望と帰れるのかという不安に合わせて、帰ってしまったらもう少女とは永遠に会えないという思いが氏忠の全身を引き裂いていた。

 帰国の裁可が下りたとはいえ、まだ彼は魔導大将軍である。いずれは正式に辞職した上での帰国となろうが、今はまだ職責を果たさなければならない。しかし彼は、どうしても部屋から出たくなかった。誰にも会いたくないのである。

 ただ、共に生活をして氏忠に仕え、今ではなんだか家族みたいな感じになっている三人のメイドと二人の衛兵には顔を合わせないわけにはいかない。

 以前は食事を運ぶだけだったメイドも、今は食事の間ずっと部屋にいて話し相手になってくれる。来るのも一人ではなく三人のうち二人、時には三人そろってくることもある。

「この二人だけに持ってこさせると、何をしでかすか分かりません」

 セシルも来た時は必ずそのようなことを言っていたが、本心ではないことは見え見えなので微笑ましかった。

 本当は氏忠がこの屋敷に移り住んだ時に、食事は食堂でみんなと一緒にと彼は提案したのだが、さすがにそれは畏れ多いと却下されてこういう形になった。

 今はふさぎこんで本当は誰とも話したくないのだが、やはり家族同然の彼女らは別で、食事のときでも氏忠は彼女たちとボプたち衛兵には努めて平静を装い、普段の顔を見せていた。

 いつになったら帰国できるのか……帰国の裁可を得た使節団も今は準備中らしく、なかなか連絡はない。そのまま何日も過ぎていき、時間がたつにつれて氏忠の心も少しずつ落ち着いてきた。

 こちらから使節団の所にあいさつに行こうとも思うが、彼らの居場所が分からない。

 聞けば、彼らはこの国の一般住民との接触は禁じられているらしく、彼らが住む場所も厳重な警備で誰も近寄れないとのことだ。それ以前に、彼らがどこに住んでいるのかは、城の重臣たちでさえ知らないようだった。


 そうこうして日々を過ごすうちに、氏忠はどうも宮殿の中の様子がいつもと違うということを感じ始めていた。

 なんかみんなそわそわしている。皇帝に近い地位の宰相など重臣たちの方が、その度合いは顕著だった。

 そしてついに、そのすべての理由が明白になる日が来た。

 いつものように朝議に出た氏忠が見たのは、いつもはカーテンの後ろにいた皇太后が今日は外に出て、皇帝の隣の椅子に座していることだった。

「本日はこのあとすぐに、重大発表があります」

 なんといつものように幼い皇帝に耳打ちして皇帝の口から言わせるのではなく、皇太后が直接言い渡した。人びとはざわついた。

「宮殿内の総ての官人を大広間に集めてください」

 ざわめきの大部分は、いったい何の重大発表があるのかといぶかる声だったが、一部の宰相たちはすでにその内容を知っているようだった。

「皆さん、お静かに」

 そういって人々を静めるヴェステンドルブ卿は、どうも重大発表の内容を知っている口らしかった。

 氏忠は、もちろん知らない。しかしそれは氏忠の一身上のこと、あるいは使節団の帰国のことなどではないようだ。もしそのようなことならば宰相や将軍を集めれば済む話で、宮殿内の全官人を大広間に集める必要はない。つまり、今回の案件はそんなことよりもよほど重大なことらしい。

 宮殿内の全官人となると膨大な数なので、参集するのにかなりの時間がかかった。

 重臣たちは玉座の左右に並べられた椅子が与えられ、氏忠の席もそこにあった。他のものは皆、立って詰め込まれているという感じだ。何しろざっと見渡した限り三千人はいるだろうと思われる。大広間とはいってもそんなに極端に広いわけではないので、そこに三千人が入るのはかなりきつかった。

 やがて皇帝と皇太后が出御する。人びとは一斉に立て膝で畏まるのだが、そうなると余計に一人当たりの占める空間が広くなるので窮屈さはかなり増していた。前から順にかがんでいくため、最後尾の人たちが畏まるまでかなりの時間がかかった。

 ここでも皇太后は、玉座の後ろのカーテンの中ではなかった。

 人びとが静まったところで、近衛上将軍であるヤン将軍が玉座の脇に人びとの方を向いて立った。

「皇太后陛下のお言葉である」

 広場内は、物音ひとつしなくなった。そこにヤン将軍の言葉が響く。三千人に聞こえるように声を張り上げなければならないので、皇太后本人から人々に言葉を伝えるのは無理だろう。そこでヤン将軍が伝えることになったのだろうが、ヤン将軍もたいへんそうだった。

「このたび、皇太后陛下は皇位をご継承あそばし、今の皇帝陛下は皇太子となられる」

 人びとのざわめきは最高潮に達した。しばらくいくらヤン将軍が声を張り上げても、全く聞こえないくらいになった。皇太后が皇帝になるなど彼らの常識の範囲外だったので、いったいヤン将軍は何を言っているのかと彼らは理解できなかったようだ。

 また静まるまで時間がかかったがようやく人々を静め、ヤン将軍の声が再び響いた。

「さらに皇太后陛下のご威光として、かつての都であったローケルソーレをデウムキャピターリアと改称し新たな帝都となす。その遷都の後、戴冠式は行われるであろう」

 すべてが氏忠にとっても初耳のことだった。今自分はこの国の大きな歴史の変わり目に立ち合っていると自覚するまで、少し時間がかかった。

 皇太后が即位して皇帝となるということは、すなわち女帝である。氏忠の故国では女帝の時代が何回かあったが、この国ではそのような前例はないとたしか皇太后は言っていたはずだ。すると、この国の人々にとって女帝の出現は前代未聞の大事件ということになろう。全くの想定外のことに、人々がこれだけ大騒ぎするのも分かるような気がする。

 とにかく皇太后の即位は遷都の後ということなので、明日あさっての話ではない。たぶんかなりの時間を要するはずだ。

 これで、人々は散会だった。

 だが、それからが大変だ。自らの執務室に戻った氏忠は、遅れて戻ってきたヤン将軍に早速新都のことを聞いた。

「新しい帝都は、ここからどれくらい離れているのですか?」

「歩けば十日くらいかかるけれど、馬を飛ばせば二日で着く。もっともドラゴンなら日が高くなってから出発しても昼前には着くがな。そういうわけで、魔導大将軍殿。貴殿がドラゴンの手配を一気に引き受けることになりますから、これからは多忙を極めますぞ」

 その言葉は、脅しではなかった。

 宮殿内の財宝やら調度やら、ほとんどがドラゴンによって空輸ということになるので、その手配にてんてこ舞いだった。だが、受け入れる側が新都に到着してからでないと送りだせないので、時間的余裕はあった。

 その翌日からは、人びとは行列をなして新都へと旅立っていった。大荷物を車に詰め込み、人が引くか、馬に引かせるかいろいろだった。ただ、全く新しく都を造営するというわけではなく、すでに存在する都市への遷都なので、要は移動だけだ。

「ローケルソーレが帝都だったころを知る人は、もうこの国にはほとんどいないだろうなあ」

 執務室でも最長老の事務官の老人が、白い髭をなでながら執務の途中で氏忠に言った。

「そんな昔なんですか?」

「ああ。だが、帝都がこのロンガパーチェに遷ってからも今に至るまで、ローケルソーレは古都として繁栄を続けてきたし、昔の宮殿は今も離宮として使われているから、そのままで帝都として機能する」

 まあ、それはそれでありがたい話なのだが、とにかく忙しい。

 氏忠は物思いにふけったり、悩んだり、落ち込んだり、人に会いたくないなんて言ったりしていられる場合ではなくなった。こうして忙しさにまぎれていると、いろいろな悩みごとも一時的にではあるが吹き飛んでしまう。ただ、あの大広間での発表以来、氏忠はまだ一度も皇太后と顔を合わせていなかった。あちらもあちらでそれどころではないのだろう。

 やっと皇太后が氏忠をつかまえてくれたのは、あの発表から数日後の朝議の後だった。

 これまでは朝議が終わると、皇太后は忙しそうに奥へ入ってしまっていた。

皇太后の執務室へはよほど用があるときか、あるいは向こうからのお召しがない限りは行かれない。もっとも氏忠自身が多忙を極めていて、そんな余裕はなかった。

 この日も朝議が終わってほかの重臣が退出しても、氏忠はその場に残って宰相の一人と空輸の段取りについて打ち合わせしていた。

 その宰相も退出し、氏忠が一人残る形になって、彼も部屋を出ようとしたときである。

何ともいえない花の香りが漂ってきて、氏忠は思わずどきっとしてあたりを見回した。そこには皇太后が立っていた。

「どうしてそんなに驚いているのです?」

 この香りにまさかあの少女がと思ったなどと氏忠は口に出して言えず、ただ畏まっていた。

「久しくお話もできませんでしたので気にかけていましたら、ちょうどあなたが一人でおられたので」

 皇太后のこの香りは今に始まったことではないが、今まで、つまりあの少女との再会までは気にもかけていなかった。氏忠の故国では服への香りは香木を火で焚いてつけるが、この国では香りのする水をつけるようだ。香木もいろいろな種類があるように香水にも種類があるけれど、皇太后とあの少女はたまたま同じ香水を使っているのかもしれない。

「本当に急なことで、ご苦労をかけます」

 皇太后にそう言われると、かえって恐縮してしまう。

「でも、私も冒険がしたくなりました。あなたのお蔭です」

「え? 僕の、いえ私のお蔭?」

「あなたがいなくなることになって、本当に私は落ち込んでいましたのよ。あなたなしで、皇帝陛下を補佐して私がやっていけるかどうか。なにしろニコラスはまだ幼い。皇帝としてはまだまだ危なっかしいし、補佐するにしても女の身ではどこまで補佐できるか。あなたを失うことは大きいわ」

「申し訳ありません」

「いいえ。いいのですよ。申し訳ないのはこちらの方です。私たちがあなたに頼ってばかりいるので、あなたはどれだけ悩んでこられたか。早くお国に帰りたいのに、そのお心を抑えてこれまでよく仕えてくださいました。申し訳なくも思いますし、心よりお礼申し上げます」

 なんと皇太后は、また目に涙を浮かべて氏忠に頭を下げた。氏忠は慌てた。

「そんな、頭をお上げください。もったいなくも畏れおおございます」

「お礼といえば、先ほども申しましたように、あなたのお蔭で決心がつきました。女の身で皇帝陛下を補佐するのならば、いっそのこと私が女の身で皇帝になってしまったらどうかと」

「はあ」

「この国では、これまで女性が皇帝になったことはございません。そのことを申して反対してくる宰相もたくさんおりました。なぜ、危険を冒してまでそんな一歩を踏み出すのかと。たぶん、人々のそしりや罵声を浴びることでしょう。でも、あえて試してみたいのです。どこまでできるかと。あなたのお国では女性の帝王が過去お三かたもいらっしゃったと聞いたのも、決心するきっかけでありました」

 涙に溢れさせながらも、その目にはしっかりとした決意があることを氏忠は見てとった。

「こんなお心のうちまでお話くださいましたのに、まるでお見捨て申し上げるような形でこの国を去ることが本当に申し訳なく思います」

「いいえ。あなたはお国でご両親がお待ちなのでしょう? どうか早く帰ってご両親を安心させて、そして大切にしてあげてください。幼くして父を亡くし、ほどなく母をも失った私には、大切にできるご両親がいるあなたがうらやましい」

「本当にお心遣い、かたじけなくも有り難うございます」

 氏忠も目を真っ赤にさせながら、深々と頭を下げた。


 その晩、氏忠はベッドの中で考えた。

 皇太后の心も痛いほど分かる。それに対して申し訳なく思う気持ちと、あの少女を恋い慕う気持ちが心の中で葛藤する。それでも自分は帰りたいのか……自分の本心がどこにあるのか、依然として氏忠自身にも分からないままだった。

 それにしても、今日も激務だった。肉体的疲労も限界に来ている。氏忠は少し体調が悪いことを感じながらも眠りに陥った。

 翌朝、氏忠はなかなか起きられなかった。この日はルシェとリニが二人で朝食を持ってきてくれたが、いつもならその時点で彼は起きていて、宮殿へ出仕する準備も終わっている。だが、ルシェに起こされるまで、彼は起きなかった。実は目は覚めていたのだが、全身が熱く、まただるくて起き上がれなかった。布団をかぶっているというのに寒気がする。

「氏忠様、どうなさいました?」

 ルシェが心配して、氏忠の額に手を当てた。

「ひどい熱」

 リニが、氏忠の額に噴き出る汗を拭いた。しばらくしてようやく、氏忠は体を起こした。全身で汗をかいている。

「休んでらしてください。もっと汗をかいてしまえば、熱も下がります。もっと暖かくして」

 ルシェがもう一度、氏忠を横にさせようとした。氏忠は布団から出ようとする。

「いけません。今日は休んで」

「いや、今がいちばん忙しい時なんだ。こんな日に休んでいる訳にはいかない」

 氏忠はとぎれとぎれに言うとそれでも布団から出ようとするので、ルシェとリニは二人がかりで氏忠を押さえた。

「宮殿には連絡しておきますから」

 ようやくという感じで、氏忠はまた布団に入った。たしかにこの状態で宮殿に行くのは、かなり無理があった。

 ルシェからの要請でボプが宮殿まで走り、氏忠の欠勤を告げた。そのまま氏忠は、また少し眠った。ルシェとリニはずっと同じ部屋にいてくれた。だいぶ寝てから、氏忠はルシェに優しく起こされた。

「お客様です。宮殿の方からわざわざお見舞いに来て下さいました」

 氏忠がベッドの上で体を起こすと、客人は部屋に入ってきた。初めて見る顔だ。高貴そうな官服を着ている。年は氏忠よりもちょっと年長と思われる青年だ。

「皇太后様の代理としてまいりました。エルチェ・ウーレンベックと申します」

「ウーレンベック?」

 皇太后の兄の将軍と同じ姓だ。氏忠はピンと来た。

「もしかしたらあのウーレンベック将軍の?」

「はい。息子です。お后様からは甥になります」

「そうですか」

 氏忠は急に親しみを感じだ。そこで苦しい息ながらも微笑みを見せた。

「お后様も大変心配しておられます。父も」

「いや、ただの風邪です。大したことはありません。ま、どうぞ」

 氏忠はエルチェにベッドの近くの椅子を示した。ルシェとリニは遠慮して退出していった。

「今回は本当に突然のことで、いろいろと大変でしょう」

 そう言ってから、氏忠は咳こんだ。

「おつらそうですね」

「大丈夫です。それよりも、エルチェ様も何かと大変なのでは? 遷都も行われますし」

「様はいりませんよ」

 エルチェは笑った。

「遷都よりも叔母のお后様が皇帝になられるということの方が衝撃です。そうなると、リーフェフット家ではなく我がウーレンベック家から皇帝が出ることになる」

「でも、今の皇帝陛下が皇太子様にということは、いずれまた皇帝になられるんですよね。そうなると、またリーフェフットのお血筋に皇帝は戻ることになるのでは?」

「そうならいいんですけれど、叔母は……あの、ここだけの話ですよ」

 エルチェはかなり声を落とした。

「どうも今の皇帝陛下ではなく、ウーレンベック家に皇統を伝えたいんじゃないかと。もちろん今はまだ何も言いませんけれど、なんかそんなことになりそうな気がして。そうなると、恐ろしいことに……」

「エルチェさんとしてはどうなんですか?」

「まさか! とんでもない話です。私はそのような器ではない」

「辞退できますか?」

「できるできないの問題じゃなくって、辞退しますよ。ま、今の皇帝陛下が一度皇太子になられても、また再び皇位につかれたら叔母が万が一の時も皇帝の母として遇してもらえる。でも、私が皇統を継いだら、叔母は皇帝の叔母でしかなく、扱いもそれなりになりますよと言うつもりです」

 エルチェはさわやかに笑った。自分より年上の人だけれど、なかなか好青年だと氏忠は思った。だが、エルチェの方が逆に、そして先に氏忠の容姿を褒めてきた。

「いや、あなたは素晴らしくお優しいお顔をされている。もし女性だったらかなりの美人になったのでは?」

「それは、男に生まれてもったいないことをしましたね」

 氏忠も少し笑った。

「このお優しい方があの獣のような猛々しいヴォルテルスをたった一人で倒したなんて、なんだか実感がわきませんよ」

 しばらく二人は談笑し、かなり意気投合していた。

「いや、長居をしたらかえってお体に障る」

 そう言ってエルチェは立ち上がり、ベッドの上に上半身を起こしたままの氏忠と固く握手を交わした。氏忠の故国にはないこの国でのあいさつだ。そうしてエルチェは帰って行った。

 入れ代わりにルシェが入って来て、氏忠をうつぶせに寝かせた。

「治癒魔法をかけさせて頂きますね」

 氏忠の腰から背中にかけて何箇所か服の上から手のひらを充てて熱を探り、そして手を少し離して魔法の光を放射した。背中なので直接見ることはできないけれども、実際は触っていないのにまるでルシェの手が背中にずっと当たっているかのような感触があり、そしてそこがすごく熱く感じられた。

「こうして、周りよりも熱が高い所を探して、そこに魔法をかけるのです。そもそも風邪というのは体内に滞留して硬化した毒素を熱が溶かして、汗や洟、痰、便などにして体外に排出する作用ですけれど、魔法の力でその排泄力を促進させて、早く毒素を体外に出させるのです。そうしたら熱は下がります」

「ええっ?」

 氏忠にとって、初めて聞く理屈だった。故国では熱が出たらまず冷やし、薬を飲み、それから祈祷をする。全く違う考え方だ。いや、考え方というよりも、事実そうなのだろう。

 一通り治癒魔法が終わると、ルシェは氏忠を普通に寝かせた。

「では、しばらく休んでください。体の表の方はご自分でされるといいですよ」

 たしかに、魔導大将軍として自分の体の病気くらい自分の魔法で治せなくてどうすると氏忠は思った。

 初めてあの亡きフェリシア姫から治癒魔法を教わった時も、悪い所に魔法の光を当てるというより体を貫く想念だと言われた。氏忠は仰向けに寝たまま、まず手のひらを胸のあちこちに当ててほかより熱が高いところを探し、そこに手をかざした。なるべく手は離すのだが、できるだけ手や腕の力は抜くのがコツだから、体の上に手を掲げていても不思議と疲れなかった。

 かざされている所が熱くなったのはルシェに魔法をかけてもらった時と同じだが、今度は手をかざしている方の自分の掌も熱くなり、しびれるような感覚もあった。

 そして、ふと思った。

 今でこそ魔導大将軍として魔法を使いこなしているけれど、魔法なんかない元いた世界に帰れば一切の魔法は使えなくなるのだろうかと。それはそれで少しさびしい気もしなくはなかった。

 そうしてその日の夕方までには氏忠は大量の下痢をし、すっかり元気を取り戻していた。


 また、遷都の準備に追われる忙しい毎日が始まった。この分では遷都が完了するまで、一、二カ月はかかりそうだ。

 使節団がその前に帰国すると言いだしたらどうしようかと思う。この大仕事を途中で投げうって使節団に加わるのはさすがに気が引ける。だからといって、使節団を見送れば、二度と故国には帰れないかもしれない。

 しかし、忙殺される毎日は、そんなことで悩んでいる暇を氏忠に与えなかった。

 この日も夕方近くになって、ようやく宮殿を退出することができた。

薄暗くなった道をとぼとぼと屋敷の方へ歩いて行くと、森の中を抜けるあたりでふと足元に赤っぽい色の花を見つけた。

 宮殿の前庭は一面の花畑で、季節が移り変わらないこの世界では常に何らかの花がそこには咲き乱れていた。だが、こんな森の中で草の陰にたった一輪だけぽつんと咲いていた赤い花に氏忠は心をひかれ、思わずその花を摘んで手に持って歩いていた。

 森を出た。あとは野の道を少し歩くと自分の屋敷だ。屋敷といっても広大な庭と多くの建物が連なっているというようなものではなく、この城の庭の中にあるので庭は城と共有しており、そこにこぢんまりとした平屋の建物が一棟あるだけだ。

 薄暗くなった空からはポツン、ポツンと雨が落ちてきた。本格的に降りだす前に早く帰ろうと、氏忠は急いだ。

 その時、あの花の香りがはっきりと氏忠を包んだ。紛れもなくあの少女だ。

 氏忠は立ち止まってあたりを見回したが、どこにも人影はなかった。でも、はっきりと少女の気配は感じる。まるですぐ隣にいるようだ。

「この女、また現れたのかって思ってらっしゃるの」

 声が聞こえた。だが、少女の姿はない。

「でも、あなたがいなくなってしまう日が近づくにつれて、居ても立ってもいられないのです」

 今日は姿さえ見せない。会いたくて、会いたくて、会いたくて恋い焦がれた少女なのに、どうしてもその本心が分からない。もしかしたらからかわれているのかとさえ氏忠は思った。

「あなたが冷たいから私は消えるというわけではないのですよ。あなたとは特別な、不思議な縁があるのだけれど、それを知った時のあなたの心が怖い。だから、私の正体もあなたに告げることはできずにいるのです」

 この少女が言っていることは、どうもよく分からない。不思議な人だ。もしかしたらその謎の部分に自分はこれまでかれていたのかもしれない。

 すると突然、先ほど摘んだ花を持つ手がぬくもりのある手に包まれたのを感じた。目をあげると、あの少女の長いブロンズの髪と笑顔がそこにあった。

 氏忠の胸はまた高鳴りはじめた。

 花を持つ手は、少女の両手に包まれている。そのまま少女は氏忠の手を、胸の高さまで持ち上げた。

「これ、パパヴェラの花ですね。この国でもめったに見ることのない珍しい花です」

 そんな珍しい花がなんでこんな道端に咲いていたのだろうかと氏忠は思ったが、黙っていた。

「この花をください。そしてこの花を捜してください。あなたがこの花を見つけたら、あなたは私の正体が分かるでしょう。その時は、それであなたに疎まれても私は構いません」

 少女は氏忠の手から花を抜き取った。そしてその花とともに、ふっと消えてしまった。

 氏忠は、ただ茫然としていた。彼の手にはまだ彼女に握られていた感触とぬくもりが残っている。

 やはり、神界の天女か魔界の妖怪あやかしか……いや違う、と彼は思った。今のは魔法だ。今だけでなく、これまであの少女は魔法で出現していた。あの少女は生身の人間だ。ただ転移魔法で現れていると思う。目的は?……分からない。だが、分からないでは魔導大将軍としての矜持が汚される。ここはどうしてもあの花を見つけて、あの少女の正体を知る必要があると思う。でも、どうやって?

 今彼は超多忙を極めているし、しかも新都へ移る日も刻一刻と迫っている。さらには、遷都がなったら使節団の帰国の日もはっきりするだろう。

 手がかりも時間もないけれども、なんとか花を捜そうと氏忠は思った。


 そうは言っても、やはりまるで雲をつかむ話だった。

 まずは自分の屋敷の隅々まで捜したけれども、花はなかった。屋敷の周りにもない。宮殿の中も激務の合間に行かれる場所は探したけれども、どこにもない。ましてや、宮殿内のおおやけに用もない場所を一人でふらふら歩きまわるわけにもいかない。

 フェリシア姫が生前住んでいて今は無人となっているモンスネゴティー離宮も捜したけれども、なかった。

 その時、もしかしてと氏忠はひらめいた場所があった。そこは城の外になるが、ある夜馬で単独で外出した。あの少女と初めて会ったあの丘の上だ。

 ここに来るのも久しぶりだ。あの晩と同じ今日は晴れていて月があるので、草をかき分け石段を登った。登りきるところで氏忠は驚きとともに足を止めた。

なんと、最初にここに来た時と同じような、物見のバルコニーのあるあの二階建ての建物が……今日はある!

 まさか、もしかして……氏忠は建物に走り寄って、二階に続く階段の入り口に走り込んだ。そのまま一気に二階のバルコニーに出た。

 だが、そこには誰もいなかった。

 月の光が差し込んで、床がきれいに掃き清められているのが見えただけだった。一階の方も見たけれど、誰もいない。氏忠はもう一度、二階のバルコニーに上がった。

 すると床の中央に、何かが月の光を受けて赤く光っている。寄ってみると、ごく小さなものが落ちていた。拾ってみた。花弁はなびらだ。しかも、まぎれもなくあの時氏忠が摘んだあの花、今必死で捜しているあの花の花弁だ。

 風で吹き飛びもせず、また花から離れてもしおれもせずに生き生きとここにあった。なんとも不思議な感じがして、氏忠はそっとその花びらを拾った。

 だが、そのほかにはここには特に手がかりはなさそうだった。


 その花びらは、氏忠の屋敷の彼の部屋の机の引き出しに入れていたが、やはりいつまでも萎れることもなかった。でも、花弁一枚見つけただけでは、少女が言っていた花を見つけたことにはならない。

 そうしているうちに、遷都事業はどんどん進んでいった。都が遷ってしまえば、もうこの今の帝都のロンガパーチェに来ることは永遠にないだろう。そうなるともう花を捜すこともできない。氏忠にとっては、時間切れタイムリミットが迫っていることになる。

 陸路での移動は大方完了した。いよいよ財宝や調度、物資の空輸が始まる。そのすべての指揮をするのが氏忠の役目だ。もう花などを捜している場合ではない。そして氏忠の屋敷の家財も、ドラゴンで運ばれる。

 三人のメイドと二人の衛兵は氏忠とともに行く。そして何よりもメインは、いちばん最後になるが皇太后と皇帝およびその親族と重臣たちの移動である。皇太后と皇帝の馬車を中心に何台もの馬車が連ねられる。

 皇帝と皇太后の馬車はもちろんだが、重臣たちの家族も屋根付きの馬車で、従者たちは屋根もない荷物を乗せるような馬車に詰め込まれている。

 馬があるものは馬上だ。

 皇帝と皇太后の馬車は、魔導大将軍の氏忠やウーレンベック将軍、ヤン近衛上将軍、クラーセン軍司令の四騎の馬に守られ、また多くの騎兵の警護がついていた。すなわち徒歩で着き従うものはいないため馬車も馬もある程度速度を出し、徒歩で十日かかる日程を三日に縮めて、いよいよ帝都ロンガパーチェを後にした。

 目指す古都ローケルソーレは、氏忠の故国でいえば藤原の都から安芸の国くらいまでの距離だ。海沿いのロンガパーチェよりもかなり内陸に入ったところだった。

 この世界に来てから氏忠が帝都ロンガパーチェを出るのは、これで二度目だ。前の時はメーレンベルフの反乱の時、帝都を脱出する今の皇太后と皇帝のお供をしてである。今度は二度目といっても、もう二度とここには戻らない。

 結局はあの花は見つからなかったし、もうこれで完全にあの少女と会うこともないだろう。

 原野をひたすら進み、翌々日の夕方には古都ローケルソーレの高い城壁が見えてきた。今度は空からではないからどれくらいの規模の都市なのかは分からないが、見る限りロンガパーチェに引けは取らないようだ。

 城壁の中で暮らす平民は、今回ロンガパーチェから移ってきた人も若干はいるようだが、ほとんどの人はここが帝都だったころからずっと住んでいる人々のようだ。ロンガパーチェの庶民たちも新都には移らず、そのままロンガパーチェで生活を続けることを選んだ人がほとんどだという。ロンガパーチェのインテルミナーティ城は、今後は離宮として使用されるらしい。

 ローケルソーレの城壁の門を入って城へと皇帝の行列は進む。かなり広い町だ。建物はロンガパーチェよりはやはり少し古い感じがする。

 皇太后と皇帝の馬車の行列は、市民たちから大歓声で迎えられた。かつてここが帝都だった時のことを知るものはかなり高齢のはずだが、人々の記憶にはしっかり残っているようで、再びここが帝都になることに大喜びしているようだ。

 ここがロンガパーチェと違うのは、中心の城の位置だ。ロンガパーチェではインテルミナーティ城は帝都の中央の丘の上にそびえていたが、新たに皇帝の居城となるエクスプレサス城は町の北西部に位置する。そして驚いたことに、都市のほぼ中央を東西に大河が横たわっている。この大河によって都市は北部と南部に分断される。そして何本もの巨大な石の橋が大河にはかかっていた。

 エクスプレサス城もやはり少し古い感じがするが、規模も荘厳さもインテルミナーティ城と変わらなかった。

 そんなエクスプレサス城に入ると、人々にとってはそれぞれの重臣の屋敷の割り振り、執務室の整備、財宝や調度の搬入などまた忙殺の日々だ。

 氏忠の屋敷も与えられ、おそらくごく短期間しか住まないであろうその屋敷の方は三人のメイドと二人の衛兵で整備をしてくれている。

 そうして遷都が落ち着いたら、いよいよ皇太后の皇帝への戴冠式の準備が始まる。

 氏忠に帰国の裁可が下ってからもうどれくらいたったか分からないが、おそらくは三カ月くらいはたっているような気がする。

 すると、この国に来てからはどれくらいか、一年かあるいは二年くらいたっているのかもしれない。十六歳の少年だった氏忠も、もうはや十八歳の青年になっているはずだ。だが自分では、自分がそれだけ成長したのかどうかは分からない。

 皇太后の戴冠式まではまだ数日あるようだ。それが終わったらいよいよ帰国準備となるのかと思うと、氏忠はやはり今頃になって後ろ髪を引かれる想いになってきた。


 新都で、やっと通常の朝議も行われるようになった。

 多忙を極めて疲れているのは氏忠ばかりではない。朝議が終わると皆一目散に退散してしまう。皇太后と皇帝も同じように疲れ果てているようで、今は進講は全く行われていなかった。

 お蔭で氏忠は朝議が終わるとすぐに新しい屋敷に戻ってメイドたちがしてくれている身辺整理を手伝ったりしたものだが、この日は久しぶりに皇太后に呼ばれた。皇太后も帝も、宮殿に隣接する庭園の池のそばのドーム状の屋根のある柱だけの小さな休息所で涼んでいた。池の中央には噴水が、勢いよく水をはね上げている。そんな所に呼ばれたのだ。

「せっかく引っ越しをして落ち着いたのに、すぐにあなたは慌ただしくお国へ帰ってしまうのですね」

 畏まる氏忠に、優しく皇太后は声をかけた。いつもの花の香りだ。

 庭園内にはおつきの侍従が控えているだけで、ほかに人はいなかった。小鳥のさえずりも聞こえる。

「魔導大将軍よ」

 幼い皇帝も、氏忠に声をかける。さすがに今日は自分の意志で、自分の口で語っている。

「お別れするのはつらいけれど、お国のお父上、お母上にも早く会いたいしょう。でも、あなたの帰国を許した私たちの気持ちも分かってください」

 幼い、幼いと思っていたが、もう皇帝も子供から青年の入り口にまでは成長しているようだった。今は皇帝でも、間もなくまた皇太子になる。でも、皇太子になるということは将来再び皇帝になるはずだ。あの、皇太后の甥のエルチェが言っていたことが気にはなるが、しかしいずれであってももうその時は氏忠はもうこの国にはいない。

「お言葉、心に刻んでおきます」

「できれば、また会いたいものですね」

 遠くを見るような眼で、皇帝は言っていた。

 もう、皇太后が即位して皇帝となる戴冠式の準備も、すっかり整っているようだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る