その数日後、皇帝の体調がすぐれないということで朝儀も進講もない日があったので、氏忠はボプだけを伴って例の丘を再び訪ねてみた。

 道は間違いなく覚えていて、果たしてあの夜に登った丘が見えてきた。だがあの日は暗くなってから訪れたため、明るい昼間に見るとまるで初めて見る景色のようだった。

 それでも、丘を登る石段の感覚は、間違いなくあの夜に来た場所である。そして登りきった所に物見台の家が……

「え?」

 あの晩の物見台の家が……ない! 

 丘の上はただ草が刈られたわずかな平らな土地があるだけで、なんら建物はなかった。

 道を間違えたのかと、氏忠は辺りを捜したが、丘の上にはどこにも何の建物もない。しかし、この丘であることは間違いない。

 氏忠は石段を駆け下りて、下で待っていたボプに声をかけた。

「あなたが会った白髪のお婆さんの家は?」

「こちらですが」

 馬を引いて、ボプが歩いて行く方に氏忠はついて行ったが、しばらく行った丘の下でボプの足は止まった。

「ない……」

 ボプの目の先には、ただ草が生い茂る丘の斜面があるだけだった。

 慌てて、ボプは氏忠の方を振り向いた。

「本当です。本当にここに家があって、お婆さんが住んでいたんです」

 氏忠は手で落ち着くように合図した。

「丘の上にも、何もなかったよ。僕もあなたも、あの夜には何を見たんだろうね」

 苦笑とともに氏忠は言った。

「帰ろう」

 もう、何があってもおかしくない不思議な世界には慣れていた。だが、慣れるのと受け入れてあきらめる、つまり忘れるのとでは別問題である。氏忠はどうしてもあの少女が忘れられなく、もう一度会えなかったら死んでしまうのではないかとさえ思われてきた。

 思い余った数日後、夜中にみんなが寝静まった頃、今度は誰も供をもつけずに、氏忠は一人で出かけた。

 今夜は月もない。暗黒の中、明かり魔法で照らしながら丘を登ったが、やはり今日も丘の上には何もなかった。

 氏忠はしばらく地面に座っていた。微かな風に炎が揺れるだけで、人の気配は全くなかった。誰も来そうもない。そこで彼は、地面に頬をつけてみた。もしそこがあの物見台の家のバルコニーなら、その床に顔を押しつけて彼女の残り香を感じたいところだ。だが、氏忠の頬に当たったのは冷たい地面だけだった。

 仕方なく、まだ暗いうちにと、闇夜でも見える馬の目を頼りに氏忠はとぼとぼと帰途につくのだった。


 大将軍の仕事は朝儀と進講ばかりではない。重要な御前会議も重臣の一人として参加しなければならない。皇帝はただカーテンの後ろにいる皇太后からの伝言通りに発言しているだけだ。

 そんな様子を見て氏忠は、故国でもそうだったなと思い出したりもした。けれども屋敷に帰った後では、かつてのあれほど思っていた帰国のことよりも、あの少女のことばかり考えていた。気持ちが収まるかとフェリシア姫が遺していった玉を取り出しては眺めてみても、何の解決にもならなかった。

 フェリシア姫は玉を遺してくれたし、故国の神奈備姫は布切れに書かれた歌をくれて、どちらも今手元にある。だが、あの少女は何一つ形あるものを氏忠にくれなかった。思い出の場所さえ消えていた。

 どうして自分とかかわった女性は、みんな自分から離れていってしまうのかと、氏忠は頭をかきむしる思いだった。こんな気持ちは、誰にも言えない。あの日一緒にいたボプやルイにさえ、あの丘の上で何があったかは話していない。メイドたちにも言えないし、まさか皇太后に言えるわけもない。だから、一人で悶々とするしかなかった。

 もしかしたらあれは夢だったのか……。それならそれでもいい。だったら、もう一度夢の中に出てきてくれと思う。でも、もうあの少女は夢の中にさえ出てきてはくれない。

 宮殿から帰り、まずは窮屈な官人服を脱ぎ捨ててベッドに飛び込む、その瞬間にもう、どこに住んでいてどんな身分で何という名前なのかも全く知らないあの少女のことで頭はいっぱいになる。

「よっぽどお疲れなんですね」

 その様子を見ていたルシェは、ただ心配そうにそう言うだけだった。


 どうにも眠れない夜が続いた。そんなことで体にいいはずがない。氏忠は起きるのが辛くてこのまま寝ていたいとも思うのだが、宮殿の方から今日は皇帝も早々に出御なので早めに来るようにという鬼のような伝令が屋敷に来て、仕方なく氏忠は起きだした。

 頭が朦朧もうろうとしている。

 氏忠のそんな状況をよそに、皇帝の御前で重臣たちが今後のこの国にあり方を議論していた。

「メインデルトの反乱が片付いてからもうだいぶたちましたけれど、まだ完全に国が収まったわけではありません。どこで反逆分子がくすぶっているかもしれないということを考えたら、油断はできなのです」

 それは、表面的には皇帝の言葉として皇帝の口から発せられているが、すべてカーテンの後ろから耳打ち通りだ。そのことはもはや公然の秘密だった。

 カーテンの後ろからの耳打ちで、幼い皇帝はいろいろな問題を提議する。だが、人事採用の問題、農民たちの安定した生活の問題など、それらすべてが氏忠の頭の上を飛んでいった。

 そして、一度は忘れていたある思いが、氏忠の中で再燃し始めたのもこの時だった。

 やはり、日本に帰りたい……いや、帰ろう……帰る。

 この時、氏忠はそうはっきり決めた。決めたら、目の前のもやがスーッと晴れた気がした。

 今のつらい思いから抜け出るには、すべての環境を一変させるに越したことはない。たとえこの国に滞在し続けたとしても、もはや例の少女とは二度と会えない確立の方が高いと思う。

 だが、心は完全には晴れない。どうやって帰国?……その方法が見いだせない以上、どんなに固い決意であろうとも実現に向かっては歩きださない。そのことが、これまで以上の葛藤となって氏忠を襲ってきた。

 彼のそんな思考とは関係なく、この国の政治のことを皇帝が重臣に諮る議事はどんどん進んでいった。

 議事も終わり、それが長引いたので今日の進講はできるのかどうか疑問に思っていたところ、氏忠は侍従によって別室に呼ばれた。皇太后のお召しだという。

 召されたのは、皇太后の執務室だった。部屋の奥にこちら向きに皇太后の机があり、そこで皇太后は書類に目を通していた。

 大きな扉を開けて氏忠が入ると、皇太后は書類から目を挙げた。氏忠はその机のそばまで来て、畏まった。

「どうぞ、お立ちなさい」

 優しい声で、皇后は声をかけてきた。氏忠は立ち上がった。

「今日、何か浮かない顔をしていましたね。元気もないようですし。どこか具合が悪いのですか?」

「いえ、体だけは元気にしております」

「体だけはということは、心は病んでいるのですか?」

 今、この時が絶好の機会かとも氏忠は思った。帰国を願い出るのは今か……?

 だが、氏忠の口は動かなかった。その方法が見つからないということもあろう。だが、それ以上に今目の前の皇太后を驚かせて、気をもませるのも気の毒だ。「あら、そう? じゃあ、気をつけてお帰りなさい」なんてさらりと言ってくれることなど十割の確率であり得ない。

「いえ、大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「何か思い悩むことでもあるのですか? あるいは、まだこの国の生活に慣れずに、お困りのこととか」

「いえいえ、外国のしかも卑しい身分の自分が見捨てられもせず、お后様や皇帝陛下に親しくお近くでお仕えすることを許されているなど、この上ない光栄なことです」

 その言葉は決して嘘ではないが、今いちばん言いたいことではない。言わなければならないことには口が重くなってしまって口は開かず、そうではないことの方が口をついて出てくる。

 皇太后は立ち上がり、机の向こうから机を回って氏忠のすぐそばまで歩いてきた。そして、氏忠の手を取った。氏忠は思ってもいなかった突然のことに、全身が硬くなった。まさか、おそれ多くも皇太后が自分の手を握ってくるなんて……。

「遠い海を渡り、険しい山を越えてこうして来て下さったあなたなのです。今、あなたはこの国にとってなくてはならない存在なのです」

 手まで握られた上にこのようなことを言われては、ますます帰国ことなど切り出せない。

 氏忠は手を握られついでに、こんな時しか機会がないので皇太后の顔をじっと見つめた。また、胸の鼓動が激しくなった。

 どうしても離れられない運命のこの方とともにいれば、あの少女とは二度と会えないというつらい思いも忘れることができるだろうかと、そんな気にさえなってしまう。

 心の中でいろいろと思いめぐらせているだけに、氏忠はそれ以上は皇太后の顔を直視できなくなった。

「あなたにとっては遠い異国の政治のことなど、退屈だったでしょう」

 皇太后は静かに手を離した。

「いえ、そのようなことは……」

「私は身分は低いのですが、財産家の家に生まれました。でも、十二歳で父と死に分かれ、十三歳で先の皇帝陛下のきさきとして後宮に入りました。そしていろいろとあったのですが、先の皇帝陛下は私を皇后としてくださいました。父親の後ろ盾のない私ですけれど、兄のエルベルト・ウーレンベック将軍が常にともにいてくれたのです。でも、外戚が出しゃばるとろくなことがないと、兄は軍事に専念して政治にはあまり口を出しませんでした」

 皇太后は、ゆっくりと歩きまわりながら、感慨深げに自分の境遇について氏忠に話した。氏忠は黙って聞いているしかなかったが、なぜこの方は自らのことをこんなにも自分に話してくれるのだろうかと訝しくもあったし、またそれが感激でもあった。

「このような後見もなく愚かな私は、重要なことは人材の登用だと心得て、身分にかかわりなく才能と人格を重視してきました。お蔭で、今に至るまで誹謗ひぼうの箱には何ら民からの訴えの書状は入っておりません」

 誹謗の箱というものがあることは、氏忠も知っている。今の皇帝が即位してから城門の脇に設けられた箱だ。政治に意見のある人はどんな庶民でも、自由に意見書を投函していいということになっている。

 その箱になんら意見書が入ったことがないということを話しながら、なぜか皇太后の目はまたもや涙目になっていた。

「おそらくはみんないろいろと意見や不満があるのでしょうが、私のことを恐れているのでしょうか。私が愚かなので、心を開いて意見を具申してくれる民もいないようです。やはり、女が政治的に強くなると世が乱れるなどという人もいますので、私は表には出ずにいたのですけれどね」

 それで皇太后はいつもカーテンの後ろにいたのかと、氏忠は納得したような気がした。そして、思い切って目を挙げた。

「お言葉ですが、それは違います」

「違う、とは?」

「女性が政治的に上位にあっても、必ずしも世は乱れません。私の故国ではもう百年も前に、初めて女性が皇位に就きました。それ以来、三人の女帝がいます。三人目は今の帝の、我が国では天皇といいますけれど、その伯母君で、今でも上皇として天皇を補佐しています」

「ほう」

 実に驚いたという顔で、皇太后は目を皿のようにした。

「女性が皇帝? 信じられません。この国ではいまだかつて、女性が皇帝になったことなど一度もありません」

 皇太后は立ったまま、しばらく床を見つめて何か考えていた。そして目を挙げた。

「いい話を聞かせてくれました。でも、我が国ではやはり、今の状況でいいでしょう。たくさんの人材に恵まれていますから。特に、あなたです」

 皇太后は涙をぬぐってにっこりほほ笑んだ。氏忠にとっては、それがいちばん困る言葉だった。ますます帰国の意を告げることができなくなってしまう。それでもやはり、彼の決意は変わらなかった。


 そしてそんなある日、氏忠にとっては驚天動地のことが起こった。

 なんと、これまでその所在が全く謎で、いくら探しても、そして誰に聞いても知らないと言われたあの日本からの使節の大使阿倍関麻呂をはじめ、その使節団が皇帝に謁見を申し出ているということが、ある日の朝儀で外交関係を司る宰相から報告された。

 それを聞いた氏忠は、もう少しで声を挙げて椅子から立ち上がりそうになった。なんとかそれを抑えて座り続けていたが、氏忠の胸は激しく波打っていた。呼吸さえ困難である。しかも、それが今日の午後だというのだ。

 当然のこと、その日の進講はもう意識半分だった。

 それがやっと終わってから氏忠は思い切って、いつも同じ部屋で執務しているウーレンベック将軍の机の前に立った。

「あ、あのう、お願いが」

 皇太后の兄とはいえ、今は大将軍である氏忠の方が身分は上だ。ウーレンベック将軍もすくっと立ち上がった。

「何でしょうか」

 自分の父親といってもいいくらいの年齢の将軍が、若い氏忠に対しても今は腰が低くなっている。

「今日の午後、日本の使節団が陛下に謁見という話を耳にしましたけれど、自分も同席してかまわないでしょうか」

 ウーレンベック将軍は、声を挙げて笑った。

「何をおっしゃいます。あなたは今や大将軍。宰相方と並んでこの国の重臣のお一人です。出席なさるのが当然でしょう」

「わかりました」

 話はそれだけで済んだ。

 午後になって、氏忠は謁見の間に臨んだ。

 中央には皇帝の玉座、そしてその背後にはいつもの通りカーテンがあって、その奥に皇太后がいる。

 玉座の左右に重臣たちの椅子が並び、その中の一つが氏忠の席だった。

 やがて皇帝の正面の大扉が開いて、阿倍関麻呂を先頭に、使節団の一行が整列したままおずおずと入ってきた。

 氏忠は息をのんだ。

 その顔触れを見るのは本当に久しぶりだ。得体のしれない、存在感の薄い人たちだと思ってはいたが、やはり久方ぶりに見る同胞の顔と服装は懐かしい。

 考えてみれば不思議なものだ。

 初めてこの世界に、そしてこの国のこの宮殿に来た時は、氏忠はあの関麻呂の後ろに整列している人員の一人だったのだ。それが今やこの国の重臣の一人として、皇帝と同じ側に座している。

 それにしてもこの人たち、今の今までどこで何をしていたのかと、氏忠は不思議でならなかった。そしてなぜ、今頃謁見を賜ろうとしたのか、それも分からない。

 彼らは無表情にただ黙々と歩いており、誰も氏忠を意識する者もいない。大使の関麻呂でさえ、氏忠の方を見ようともしない。

 やがて彼らは、皇帝から一定距離の所まで来ると立ち止まり、身をかがめて立て膝で畏まった。

 まずは関麻呂が、延々と挨拶の言葉を述べる。今の皇帝が即位してからもうだいぶたつと思うが、彼らは代替わりしてから最初の謁見なので、まずは今の皇帝の即位についての祝辞を述べた。

 続いて、この国で何一つ不自由なく過ごさせてもらったことへの礼を延々と述べた。

 長い……と、氏忠はさすがにいらいらしてきた。

「つきましては」

 関麻呂の語調が変わった。恐らくはここからが本題なのだろう。

 心なしか、氏忠はわずかに椅子から身を乗り出していた。

「そろそろ私ども、帰国のお許しを賜りたく、本日お目通りを願った所存なのです」

 氏忠は、自分がどうやって大声を出すのを抑えることができたのか、分からないくらいだった。

 この人たちが帰ってしまう……この人たちが帰ってしまう……この人たちが帰ってしまう……心の中で何度もその事実を反芻した。

 そして、頭の中が真っ白になった。

 そのうちにまたカーテンの奥から伝令が出てきて皇帝に耳打ちし、皇帝は口を開いた。

「長い間慣れぬ異国の地での生活、ご苦労様でした。できればもっと長く逗留して頂きたいのですが、ご都合もありましょうからいたしかたないことです」

 これで皇帝の裁可が下ったことになり、使節団一行の帰国は決定となった。

 使節団は帰国してしまう。そして、自分は取り残される…彼の精神は平静ではあり得るはずがなかった。そのことは氏忠にとって、自分自身が帰国するすべが完全に失われてしまうことを意味するのだ。

 それからしばらく皇帝と大使でやり取りが行われていたが、話が終わり、深々と頭を下げた一同は立ち上がって退出する様子を見せた。

 大使は最後まで氏忠をちらりとも見なかった。

 とうとう氏忠は、がばっと立ち上がった。そして大使のそばに駆けて行った。

「大使! お待ちください!」

 もう退出する態勢を取っていた大使にとっては背後から声をかけられたことになり、ゆっくりと振り向いた。そして氏忠の大将軍としての官服を見るや氏忠の方に向きを変えて、立て膝で畏まった。

「日本に帰るのでしょう? 私も連れて帰ってください」

 驚いたような眼を、大使は挙げた。

 皇帝をはじめ、皇帝の左右の重臣たちも一斉にざわつき始めた。 大使の方がむしろ落ち着いていて、じっと氏忠を見た。

「大将軍様とお見受けいたしますが、どういうことで……」

「あなたと同じ船で日本から一緒にここまで来たのではないですか」

 日本からというのは事実ではない。この船の、この連中と同じ船に乗っていたのは、この国に着く日だけだった。日本を就航した時のいわゆる本物の遣唐使とは違う。でも、今の氏忠にとっては、そんなことはどうでもよかった。

「県犬養氏忠です。ここに着いた日に大使は私の名前を呼んで、その時の先代皇帝陛下にご紹介くださったじゃないですか」

「はて?」

「お待ちなさい!」

 甲高い声が響いた。なんと皇太后がとうとう自分を抑えきれなかったようで、カーテンの後ろから姿を現した。そしてまっすぐに氏忠の方に近づいてくる。

「どういうことなのですか? 氏忠」

 氏忠は、皇太后の方に向かって畏まった。

「今までずっと、ずっとお願い申し上げたいと思っていたことなのですが、申しあぐねておりました。でも、この方たちが帰国すると聞いて、感情にまぎれて飛び出してしまいました。お許しください」

「それはいいのですが、あなたが帰国するといはどういうことです? ずっと帰国を望んでいたなんて、思ってもいませんでしたのに」

 またもや皇太后の両目は、涙でうるんできた。

「ご無礼をお許しください」

 氏忠はただ頭を下げた。皇太后は大使に顎で合図して、とりあえず退出させた。

「この方たちが帰国するのはまだ今日、明日というわけではありません。とにかくあなたは自席に戻り、そしてあとで私の所に来なさい」

 それだけ言うと、皇太后は慌ててカーテンの後ろに戻っていった。


 その後、もう夕刻近くになっていたが、氏忠は皇太后の執務室で皇太后の前に畏まり、頭を下げていた。隣には幼い皇帝もいる。

「だいたいのお気持ちは分かりました」

 今この部屋に来てからさんざん思いの丈を述べた氏忠の言葉の後に、皇太后は言った。もしかしたらかなりお怒りなのではないのかと心配していたが、それはなかったので氏忠はほんの少し安心していた。怒るよりも、皇太后はただ驚いていた。

「あなたがいなくなったらとどうやってこの国政を運営していったらいいのかと思うと、悩んでしまいます。あなたのお話や進講によって、私も皇帝もどんなに助けられたことか」

「はい。過分なお話でございます」

「それだけではありません。かつて賊徒が反逆を起こし、私も皇帝も帝都から追われ、この国が二分されるか、あるいは滅亡の危機に陥った時も、あなたがあのヴォルテルス将軍を倒してくれたことによってこの国は救われたのです。ヴォルテルスは実はメインデルトの臣下の将軍という形は取っていましたけれど、自分が皇帝の座を狙っていたのです。ですから、メインデルトが帝都を占領した後、独断で私たちを追ってきて、我われを亡きものにしようとしていたのです。もしあそこで我われが負けていたら、ヴォルテルスは帝都に取って返して自分の主君であるメインデルトを討ち、皇帝の座を奪ったことでしょう。メインデルトもかわいそうな人です。メインデルトはただヴォルテルスに利用されていただけなのですね。今考えると、なんと恐ろしい。そのすべてを覆してこの国を救ってくれたのはあなたなのです」

「自分はあの時、皇帝陛下と皇太后陛下をお守りするのに必死でした。こんなよその国の者を拾ってくれて、ありがたいお言葉までかけてくれたので、いくさなどという慣れないことに手を染めたまでなのですが」

「それでも、あなたはこの国の恩人なのです。大将軍などという地位では足りない。本当なら、この国の半分をあなたに差し上げてもまだ足りないくらいです。もしあなたのご恩に報いることをしなければ、人々は私を罵倒し、軽蔑するでしょう」

「でも、今申し上げました通り、私はそのような地位や国がほしくて命を賭けたわけではありません」

「それも存じております。でも、これまでもわが国には外国から来てわが王朝に仕えてくれた人はたくさんいましたけれど、一度官職を授けられた後に自国に帰国した人は一人もいないのです」

「それも重々伺い知っております。でも…」

 何か言いかけた氏忠を、皇太后は手で制した。

「ですから、本当ならばあなたがどんなんに帰国を願い出ても、私は言葉を尽くし、想いを尽くし、それを思いとどまらせるべきなのです。それが、あなたの希望を打ち砕くことになりましょうとも」

 氏忠は頭を垂れた。そして黙った。やはり帰国は無理なのか、あきらめるしかないのかと氏忠はうなだれた。氏忠が次の言葉を探しているうちに、皇太后は立って氏忠のそばまで来た。

「でも、あなたのことは先代皇帝陛下も親しくお思いになっておられました。私は愚かな女ですがそんな私でも、あなたがどうしても帰国したいと願っているのに、その願いを退けて帰国を禁止すれば恩ある人に対して仇で報いることになることくらいは分かります。恩に報いたい、でもあなたと別れたくない、そんな板挟みの心境です。このまま、時が止まってしまえばいい」

 またもや、皇太后は涙を流す。かなり涙もろい人だ。

「あの戦乱の時、帝都を逃げ落ちた私と皇帝陛下は、見知らぬ原野に見捨てられたも同然でした。昔から仕えてきた人々も自らの命を惜しみ、敵を恐れ、敵に立ち向かおうという人はなかったのに、知らない国のまだ年若きあなたが我が軍の先鋒として人々の心を勇気づけてくれた日のことは忘れません」

 皇太后は畏まっている氏忠と同じ高さまで、身をかがめた。その目からはもう、何本もの涙の筋が頬を濡らしていた。それは氏忠とて同じだった。涙でかすむ目で、氏忠は皇太后を見た。

「ご無理を申しあげているのは重々承知です。でも、もしご理解いただいて帰国をお許しいただけましたならば、私のことを首を長くして待っている故国の両親とまた会うことができます。この国のことも気にかかります。でも、それと同じくらいやはり両親のことが気がかりなのです」

「人間として、もっともな思いです。だからこそ、あなたを引きとめることはできない」

「え? では……?」

 氏忠は驚いて顔をあげた。皇太后は少し間を置いてから、意を決したように言った。

「あの使節団とともに、お帰りなさい」

「あ」

 氏忠は一度は耳を疑い、我に返り、そして泣きながらも全身を震わせた。

「あ、ありがとう……ございます……」

 氏忠は、深々と頭を下げた。


 帰国は許された。あとは使節団が氏忠を受け入れるかどうかだが、それは皇太后が一言命じてくれたら決まるだろう。

 だが、使節団や外国からの賓客が帰国するのとはわけが違って、氏忠の場合はもはやこの帝国の重臣の一人である。ことは簡単には済まなかった。

 まずは、御前会議が開かれた。

 最初に口火を切ったのは、メルテンス卿だった。

「先の皇帝陛下の崩御の後、一時国は乱れましたけれど、今の皇帝陛下がお立ちになりましてからは今までになかったほどの安定がもたらされており、民も満足していることはこれまでの歴史を紐解いても他に類を見ません。これは一途に皇帝陛下とその御母君の皇太后陛下のご聖徳によるものですが、魔導大将軍殿のお蔭に帰するところも大きいかと拝します。元は外国人で年もお若いのに今や重臣となられていることは、それなりのご功績と人徳がおありになったからにほかなりません。古来我が帝国では、高位に就いたものが帰国した先例はございません。よって、先例に従えば、申し訳ありませんが魔導大将軍殿のご帰国はかなわぬことかと」

 次に武官を代表してか、軍司令クラーセン将軍が手をあげた。

「私は魔導大将軍殿の戦場での軍功は、この目でしかと拝見しております。それのみならず、今や皇太后陛下の片腕として、政治の場でも発言力は大きい。やはりいていただかないと困るのです」

「私も、皇太后陛下の身内として言わせてもらいます」

 ウーレンベック将軍が言葉を継いだ。

「もし魔導大将軍殿がおられなくなったら、すべての政治的重圧が我が妹である皇太后陛下と、お若い皇帝陛下の御身に一気にのしかかることになる。今、魔導大将軍を帰国させれば、我が国にとって大きな損失でしょう」

「おお、そうだ」

 ヴェステンドルブ卿が手を打った。

「いっそのこと魔導大将軍殿に、宰相も兼任して頂いては? 今はこの方がどこの国の方か、お歳はおいくつかなどということにかまっている場合ではありません。宰相になるということになれば、帰国も思いとどまっていただけるのでは?」

 氏忠は、自分のことについていろいろ言われている中にあって、自分からは何も言えずに身を小さくしていた。言いたいことはすべて、すでに皇太后に告げてある。

「ちょっとお待ちなさい!」

 その皇太后が鋭い口調で言い放って、カーテンの後ろから出てきた。

 本来、あり得ないことだ。

 たとえ我が子であろうとも皇帝は皇帝であるが、もはやその皇帝の立場を立てることなど考えていられないという感じだった。

「皆さんがおっしゃることはすべてごもっともです。かつて国が覆るような反逆が起き、おびただしい軍勢もたった一人の賊将を防ぎきれず、水のように流れ入る反乱軍に私と皇帝陛下は帝都を落ち延びました。そして深い山中に分け入って、そこで敵と対峙することになったのでした。そんな時に、賊を追い払い、反乱を鎮められたのもたった一人の魔導大将軍の力にほかなりません。その軍功に対しては、どんな褒賞でも十分ということはあり得ません。ですから、確かに皆さんのおっしゃる通りなのです。でも」

 皇太后は皇帝の前に、皇帝に背を向け重臣たちの前に立った。今までの皇太后ならばそんな振る舞いをするはずもなかった。いくら皇帝の母であろうとも、本当ならこれは皇帝に対してかなり無礼なことだ。だが、その時その場にそれを咎める者、いや咎め得る者も一人もいなかった。皇帝までもが平然として、玉座から自分の母親の後ろ姿を見ている。

「でも、魔導大将軍の帰国は、私が勧めたことではありません。皆さん、考えてみてください。魔導大将軍はこの帝国の恩人です。その恩人が帰国したという願いをお持ちなのです。そのお気持ちに背いて無理に引き留めましたならば、恩を仇で返すことになりましょう。私も魔導大将軍が帰国すると聞いて悲しみに打ちひしがれましたけれど、これ以上この方を引きとめる方法も、また道理もございません。どなたか、もっといい意見がございますか?」

 誰も言葉を発するものはいなかった。

 氏忠は心の中で何度も皇太后に礼を言いながら、その場に泣き崩れた。


 氏忠の帰国の裁可が下りたことは、瞬く間に宮殿中に広がった。

 屋敷に帰っても、もうその話は伝わっていたようで、自室でくつろごうとした氏忠のもとにルシェたち三人のメイドとボプたち二人の衛兵も詰め寄った。

「どうして、私たちを置いてお国に帰ってしまわれるのですか?」

 ルシェはじめ、皆口ぐちに同じようなことを言って氏忠に迫った。

「みんな、ちょっと落ち着いて」

 ルシェもリニも氏忠に抱きつかんばかりの勢いだったけれど、セシルの咳払いでなんとか自分を抑え込んでいるような状況だった。

「皆がそうやって僕を引きとめてくれるのはうれしいし、お城の偉い人たちも皆同じ心で引きとめてくれた。でも、このお城にはそういう人たちばかりじゃないんだ」

「やはり、そうなのですね。氏忠様も魔法の力で人びとの声を聞いていたのですね」

 さすがはエルフだけあって、ルシェの言葉は図星だった。

「私たちにも聞こえてきました。いろんなささやきが」

「おいおい、どういうことなんだよ」

 魔法のことになると話に入れないボプとルイだが、ルイの方が先に口をとがらせて聞いてきた。だが、ルシェたちに代わって氏忠がルイを見た。

「重臣の方々はさすがにそのようなことはないけれど、もっと下の方の家臣たちにはやはり僕が煙たくて、亡きものにしようと思っている人たちもだいぶいる。ただ、あの反乱の時の僕の魔法の力に恐れをなして実行できないでいるだけなんだ。武力ではかなわないと見て、毒殺しようなんていう人もいる」

「はい。ですから、私たちも外から来る食材は徹底して毒見をしております。ヒューマンの方への毒は、私たちエルフには効きませんから」

「それで氏忠様は、この国がお嫌になってしまったのですか?」

 リニが泣きそうだ。

「そうじゃあない。でも、やはり僕は国に残してきた両親に会いたい。いくらこの国が住みよいいい国だとしても、故国を忘れることはできない」

 一時、部屋の中の空気が湿っぽくなりそうになった。ほんの短い時が流れた。

「わっかりました!」

 その重い空気を破ったのは、ルシェの明るい声だった。

「氏忠様がお帰りになる前の間の時を、思い切り楽しんで思い出を作りましょう」

 これには誰もが賛成のようだった。


 夜、外は雨が降っていた。今夜も氏忠は眠れない。

 うとうとしては夢を見ていたような気もするが、ベッドの上で横になっているという感覚はそのままあった。こんな夢なのか何なのか分からないような状況は、永遠に覚めることのない夢のようにも思えた。

 少なくとも御前会議においても、氏忠の帰国は認められた。だが、あの存在感のない使節団の一行に混ざってこの国を離れたとしても、本当に帰れるのだろうかという不安はある。もし彼らが日本を離れた最初からともにこの国に来た仲間ならば、何も不安はない。でも、実際はそうではない。彼らはこちら側の世界の人たちという感覚がどうしてもある。そんな彼らとともに船出したからとて、元いた世界の日本に帰れるのかどうか……。この別の世界の日本、氏忠にとっては全く見知らぬ国である日本に着いてしまうかもしれない。

 今、そんなことを思い悩んでいても仕方がないことは分かる。前に進むしかないと思う。でも、もし自分の故国である日本にたどり着けないのなら、むしろこの国にいた方がいい……。

「え?」

 氏忠は、跳ね起きた。窓の外からはひっきりなしに雨の音がするが、それに混じって微かに笛のが聞こえたからだ。

「まさか……」

 笛の音は、だんだんとはっきりしてくる。間違いなく、あの時、あの丘の下で聞いた笛だ。氏忠の胸は一気に破裂しそうなほど早鐘を打ちはじめた。そして慌てて窓の外を見た。

たとえ月があったとしても雲に隠されて何も見えない雨の闇夜なのに、庭の一角の木の下の雨に濡れない所がぼんやりと明るく、そこにあのブロンズの長い髪の少女がたたずみ、笛を吹いているのが幽かに見えた。氏忠は庭に出て、その木の下まで雨に濡れながらも一気に駆けた。

 氏忠に気付いた少女は笛をやめ、こちらを見た。もう何日も、何十日も恋い焦がれ、思い続けていた少女が今、目の前にいる。まぎれもなくあの少女だ。氏忠も、雨に濡れない木の枝の下に入った。少女は氏忠を見てにっこりと笑うのかと思いきや、今日は涙目でじっと氏忠を見つめていた。

 しばらく二人は、見つめ合っていた。

「どうして、ここに…」

 氏忠がまず気になっていたことを聞いた。少女はどうやって城内に入ったのか……そしてどうやってこの屋敷の庭に入ったのか……その前に、どうしてここが自分の屋敷だと分かったのか……氏忠にとっては不思議なことだらけで、それが再会のうれしさと半分ずつになっていた。

 だが、それには少女は答えてくれなかった。

「お会いしたかったのです」

 少女の答えはそれだけだった。それが、氏忠が初めて聞く少女の声だった。

「僕もだよ」

「ならばどうして!」

 少女は責めるような涙目で、氏忠を見た。

「本当に私に会いたかったのなら、もう永遠の別れになるような状況を急ぐはずはないでしょう?」

 氏忠が帰国を決意したことを言っているのか。それにしても、この少女はなぜそれを知っている? ……氏忠は、ただ唖然としていた。

 そんな氏忠の胸の中に、今度ははっきりと少女の方から飛び込んできた。

 また、夢なのか……だが、この少女から発せられる花の香りは、間違いなくあの時のものだ。夢なら香りまで付随してくるはずはない。そしてこの体の柔らかい感触、ぬくもり、頬に当たる長い髪……夢ではない。だが、夢ではなくても夢としか思えなかった。

 どんなにこの時を待ち焦がれたか、思い描いてきたことか、そしてあきらめていたことか。そんな長い長い時間の隔たりも、今は全く感じない。何十日ぶりかに会ったなどという気は全くしない。

 氏忠は、きつく少女を抱きしめた。

「今こうしていても、君は突然消えてしまいそうだ」

「何を言いますの。あなたはこれからあなたの元いた世界に帰ろうとしている。本当に私の前から永遠に消えようとしているではありませんか」

 涙につまりながら、少女は言った。だが、氏忠の心のほんの片隅に、小さな違和感はあった。

 こういった会話は、まるで互いをよく知っている恋人同士でなされるものではないのか……。自分たちはまだ出会って二度目、会話を交わすのは初めてである。この少女の名前も、どこに住んでいるのかも、どんな身分なのかも氏忠はまだ何も知らない。少女が氏忠のことをどれくらい知っているのかも分からない。ただ、少なくとも氏忠が間もなく帰国するつもりでいることだけは知っている。

――え? 

 氏忠ははっと気がついた。少女は氏忠が「帰国する」ではなくて「元いた世界に帰る」という表現をした。

「あの……君は……? 君はいったいどういう人で、どんな成り行きでこういうことに……?」

 確かに今までは、ひたすらに彼女を思い続けてきた氏忠だった。彼女がどこの誰でもよかった。とにかく恋しかった。けれども、今実際にこうして抱擁する中で、なぜか疑問の方が大きくなっていった。

「私ははかない女です。私がどこに住んでいるのか……聞かない方がいいかもしれません。あなたが恐ろしさを感じて、私を嫌ってしまうのが怖い。それならばいっそ、私は本当に消えてしまおうかしら」

「いや、それは困る」

 氏忠は、またきつく少女を抱きしめた。少女はさらにむせび泣きを続けた。

 分からない。

 はっきりいって、この少女が考えていることが分からない。そんな謎だらけの少女に想いを馳せている自分の心も、氏忠には分からなかった。

「やはりこれは夢なのか……夢かどうかも分からないこのいら立たしさを、どうやって晴らせばいいんだ?」

 氏忠は、つい恨みごとのような口調にさえなってしまう。

「君は、君はいったい誰なんだ? これからのことなんて分からないけれど、せめて今、君の名前を知りたい。今までどれだけ毎日毎日、君のことばかり考えてきたことか君は知らないだろう」

 氏忠は、もうこんなどうなるかも分からないまま別れていくことになるのなら、きれいさっぱりもう会うのはやめようと言おうかと思ったが、どうしてもそうは口が動かなかった。代わりに、氏忠の目からも一筋の涙が流れた。もう、何をどうしたらいいのかも分からない。分からないくめである。

「こんなに君のことを思い続けてきたというのに、永遠の別れを急いでいるなんて言われるのは心外だ。でも、こんな頼りない関係で帰国を思いとどめることはできないよ」

 氏忠は少し腕を伸ばし、少女の顔が見えるくらいに上半身を離した。その顔はもう、涙でぐしゃぐしゃになっていた。

 そのまま二人は泣きながら、しばらく黙って見つめ合っていた。

 そして、少女の方が先に口を開いた。

「でもやはりあなたはそうして別れて行くのなら、やはり私の名前を教えることはできない」

 少女はそう言い放つと、静かに氏忠の腕をすり抜けた。

「僕がこの国を去るまでの間だけでも……」

 氏忠のその言葉には答えず、最後の微笑みだけを見せて少女は氏忠に背を向け、雨の夜の闇の中へ消えていった。

 雨の音と香りに包まれ、たちまち闇の中に閉ざされた氏忠は、ただ茫然と立ちすくんでいた。

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