宮殿の中はさぞ荒らされていることだろうと誰もが思っていたが、意外なことにここを出ていく前とほとんど変わらず調度などもそのままに、また掃除さえも行き届いているようだった。

 メーレンベルフ伯はこの宮殿を敵の所有物ではなく、すでに自らのものとして手入れさせていたあかしだ。

 まずは亡き皇帝の親族や重臣たちは大広間に集まり、皇后と皇太子はそれぞれの本来の椅子に座り、親族や重臣たちも皆左右に分かれて椅子に座った。すべてが従来通りに戻った。一つだけ違うことといえばテイセン将軍の姿がもはやなく、皇后に近い所で他の将軍と並ぶその椅子が、かつて末席に畏まっていた氏忠に与えられたことだ。

 皇后は早速宮殿の中を従者たちに手分けして調べさせたが、他人が生活していた痕跡はあるもののおおむね以前と変わっていないとのことだった。皇后らがここを脱出する際に持ち出した財宝なども、元の位置に戻された。その間に、ティンベルヘン将軍も戻ってきた。皇后の前で、いつもの調子だ。

「あ、あの、ごめんなさい。メーレンベルフ伯なんですが……」

 この口調だと、取り逃がしでもしたのかと氏忠はひやひやしていたが、皇后も他の将軍もこの女性の人となりに慣れているようで、平然と次の言葉を待った。

「裏山の一つの離宮に逃げ込んでいましたから、私の軍勢で取り囲んでつかまえました。あの人、自分の体が大きいからかもしれませんけど鎧も着てなかったんですよぉ」

「それで、どうしました?」

 聞くまでもないと思っているような感じではあったけれど、皇后は穏やかに聞いた。

「はい。毒を飲ませて殺しちゃいました。一緒に逃げていた奥さんや子供も全部。あちらの軍勢は戦う前に降参してきましたから、みんな捕虜にして裏山に監禁してありまぁす」

 そんなことを鼠一匹退治したかのようにさらりと言って、しかもさわやかに笑うので氏忠は驚いた。

「そうですか。それはご苦労様でした」

 皇后までうれしそうだ。

「これで、この国は安泰になりました」

 そこに、宮殿内を巡視していた最後の宰相が戻ってきた。

「皇帝陛下の殯宮ですが、全く何の無礼なことにはなっておりませんでした」

「そうですか。それはよかった。まず皇帝陛下とフェリシア、そして前魔導大将軍のテイセン将軍の葬儀の準備を急いでください。そのあとで引き続き、皇太子の戴冠式となります」

 皇后は立ち上がり、宰相たちにそう命じた。

「お待ちください」

 その時、大きな声を挙げて立ち上がったのは氏忠だった。そのまま、皇后と皇太子の前に歩み出て畏まった。

「申し上げたいことがございます」

 立ち膝のままうつむいて、それでも大きな声で氏忠は、ずっと考えていたことを申し述べた。

「賜りました魔導大将軍の地位でございますが」

 皇后の眉が少し動いた。その場に居合わせた人々は、氏忠が歩いている間はざわついていたが、今また静まりかえった。

「この地位は敵に立ち向かう時に、一時的にお借りした地位と心得ております。そうでもなければ敵に対して威を示せないとそう名乗りましたが、すでに敵は一掃され、国は安泰を取り戻しております。そんな時に自分にはこの地位は重すぎます」

 氏忠は目を挙げた。

「どうかこの地位はお返ししたく存じます。自分はそれに堪え得るようなものではありません。年も若く、何の取り柄もないただの異国のものです。そんなものが大将軍など……」

「氏忠!」

 優しい口調ではあったがびしっと皇后はその名を呼び、氏忠の言葉を遮った。

「あなたは今、国は安泰を取り戻したと言いましたけれど、反逆者はまだまだくすぶっていますよ。それに、あなたの地位は亡き皇帝陛下のご遺訓に基づいて授けられたもの。いわば亡き皇帝陛下からの任命とお心得ください」

 この言葉は、重臣の中にも、皇后や皇太子の任命権を疑い、その地位は正式なものではないと考える人がいるかもしれないという懸念からの牽制でもあったようだ。

「どうかこれからも大将軍として、私どもの宮廷とこの国をお護りください」

 そこまで言われたら、氏忠は引き下がるしかなかった。


 こうして今後は地位のある大将軍として宮廷に仕えることになった氏忠はもはや客人ではなく、これまで宮殿の中に与えられていた部屋を出て、城内に屋敷を持つことになった。

 新しい屋敷に移る前にかつて住んでいた部屋を訪ねると、中は全く手もつけられておらずそのままだった。いちばん彼が気にしていたのはあの老人からもらったリュラーだった。持ち出す間もなく置いてきてしまったのだが、そのまま無事に部屋の中にあった。これでフェリシア姫からもらって戦場でも肌身離さず持っていた玉と剣、そしてこのリュラー、さらにはツツノオの神から賜った鎧と具足、これらが今の氏忠にとっては宝物となった。


 それから大葬の式典の準備中に、メーレンベルフ伯反逆の戦後処理が行われていった。主に担当していたのはティンベルヘン将軍で、メーレンベルフ伯から強制的に兵士として駆りだされていた農民や一般市民に関しては一切罪に問わないが、自らの意思でメーレンベルフ伯に与したものは捕らえて厳罰に処せよというのが皇后の命だった。それを受けてティンベルヘン将軍は、宮殿の裏山に監禁していた兵士たちは一斉に釈放して郷里に帰したが、亡き皇帝の弟でメーレンベルフ伯のもとに走ったクノフローク侯とファルハーレン伯はすぐに捕らえ、その家族ともども処刑した。

 ティンベルヘン将軍はかわいらしい顔をしながらいつもおどおどして弱々しい感じなのに、実はかなり冷酷非道な将軍であるらしい。最も敵に回したくない人だと氏忠は思っていた。


 そうして準備も整い、亡き皇帝陛下の大葬の儀式が、城内の大聖堂で執り行われた。ここは天井が高く、宮殿のほかの部分の四階くらいまである吹き抜けで、何本もの太い円柱で支えられている。金や白で彩色されたきらびやかな宮殿のほかの部屋と違い、ここだけは黒っぽい落ち着いた柱や壁だった。

 どうも宗教的儀式をする場所のようで、荘厳で神聖な雰囲気を初めて入った氏忠も感じた。

 魔導大将軍の氏忠はもはやこの国の要人なので、堂々とこの儀式に参列することができた。その儀式の後、亡き皇帝の遺体は専用の馬車に乗せられて、すでに準備されていた陵墓へと葬列をなして運ばれていった。

 そして同じ日のうちにフェリシア姫の葬儀も、同じ大聖堂で執り行われた。

 ほんの短い間だったが毎晩姫と二人きりで魔法や武芸の訓練に励んだ思い出を持つ氏忠は、その束の間の日々の間に一度だけ見せてくれた姫の笑顔を思い出していた。さらには前魔導大将軍のテイセン将軍の葬儀も行われた。思えば氏忠が初めてこの国のこの帝都に到着した時、皇帝との謁見の間まで案内してくれたのがこの将軍だった。

 それから二、三日おいて、さらにこの大聖堂で皇太子ニコラス皇子の戴冠式、すなわち即位の儀式が執り行われ、これにも氏忠は参列した。

 驚いたことに、新皇帝に冠をかぶせるのは身分の高そうな聖職者、氏忠の国でいうところの身分の高い僧侶、すなわち大僧正のような感じの神官であった。その聖職者の方が上座にいて、その前に新皇帝は畏まっているのである。

 そしてその頭に冠がかぶせられた直後に位置が逆転して、新皇帝の方が上座に移った。

氏忠よりも若い皇帝ニコラス・リーフェフット四世の誕生だ。

 これより皇后は皇太后と称されるが、新皇帝には当然まだ皇后はいないので、皆口頭では皇太后のことをお后様と呼び続けるようだ。


 城の敷地内に与えられた屋敷から、氏忠は毎朝宮殿に「出勤」する日々が始まった。

 氏忠の屋敷では身の回りの世話を、これまでに引き続きルシェ、リニ、セシルが担当した。もはや三人が交代でではなく、常に三人一緒に氏忠の屋敷に同居して身の回りの世話をしてくれている。ほかに、ボプとルイもまた衛兵としてともに生活することになったが、執事のレンブラントだけは宮殿の方から離れられないというので、一度あいさつに来ただけだった。

 ルシェたち三人もボプもルイも、氏忠にとってもはやただのメイドや衛兵ではない。戦場をともに戦った戦士でもあり、今は家族同様だった。

 宮殿に出勤すると、毎朝一番に皇帝の前に重臣が集まっての朝儀というものが行われる。

 朝儀の間という専用の部屋で幼い皇帝が玉座に座り、宰相や将軍が何か特別なことがあったら、それを皇帝に報告する儀式だ。最後に皇帝から短い言葉があって、それほど長い時間でなく朝儀は終わる。

 皇太后はこの席にはいなかったが、ある日氏忠は気づいてしまった。玉座の後ろはカーテンになっていて、どうもそこに人がいるような気配があるのは先代皇帝の時と同様だった。今の氏忠なら、そこにいるのが誰かはっきりと分かっていた。皇太后はすべての朝儀を、カーテンの後ろで聞いているのだ。まだ幼い皇帝なので、本当ならその母親である皇太后がこれまでの通りに皇帝の隣に座っていろいろ補佐したいところなのだろう。しかし息子がもはや皇太子ではなく皇帝になった以上それは許されないので、カーテンの後ろで新皇帝を補佐という形をとっているらしい。

 皇帝の日課はそれから毎日が学問だったが、その中の一端を氏忠が担った。氏忠は戦術論や道徳について皇帝に講義した。もちろん、氏忠にそんな知識がある訳もなく、本国にいた時に自分が修めた学問の中から記憶にあったものを皇帝に進講していたにすぎない。

 それは孫子の兵法や孔子、孟子の儒学であった。本来ならば氏忠は遣唐使として唐の国に至って、それら学問の本家で本物を学ぶはずだった。だが、氏忠は唐の国ではなく異世界に来てしまい、自分が学ぶはずだった唐の国の学問を異世界の帝国の皇帝に教授しているのだからおかしなものだ。

 そうして日々が過ぎていく。もうこの世界に来てからどれくらいたったのだろうかと、氏忠は思う。

 分からない。何しろ季節の移り変わりがない。もしかしたらもう一年くらいはたったかもしれないが、たってないかもしれない。まだ二、三カ月くらいかというような気もするし、あるいは一年どころか何年もたっているのではないかという気さえする。どうもこの国には暦という概念がないようで、日付や年代も今まで話題になったこともこの国の人たちが意識している様子もない。だから、今が何年の何月何日か、全く見当もつかない。

 一度だけリニに、今日は何月何日かと尋ねてみたことがあるけれど、リニは首をかしげていた。

「何ですか、それ?」

 それだけが返事だった。

 こうして月日が流れるともなく過ごしているうち、またもや故郷のことが思い出されはじめた。この感情は、普通に遣唐使として唐の国に着いていたとしても、生じる感情だとは思う。でも今は状況が違う。ここでは故郷に帰るすべがなく、もしかしたら帰れないかもしれないのだ。

 それでも、故郷に帰りたい!

 まさか母は、自分がこんな異世界の国に召喚されてしまったことなど知る由もないだろう。そんなことが頭の中を占めるようになった日々の中で、皇帝への進講の後に話し相手として皇太后が氏忠を召すこともあった。

 皇太后は話の中で、何か不自由はないかと気を使って訪ねてくれるが、まさか元いた世界の故国に帰りたいなどとは口が裂けても言えない。今や彼はこの帝国の重臣なのだ。

「ありがとうございます。何の不自由もなく快適に過ごさせていただいております」

 皇太后には、そう答えるしかない氏忠だった。

 その皇太后だが、今ではかなり近くで接することも多い。そのたびに何ともいえない香りが氏忠を包む。時には思わず胸が高鳴ってしまうことすらある。いくら皇帝はまだ幼いとはいえ皇太后はその母親なのに、もっとずっと若い女性と接しているようだ。もちろん、決して恋愛感情ではあり得ない。だが氏忠は、何か特殊な感情を皇太后に対して持ってしまっている自分を感じていた。

 そんな皇太后への感情と望郷の念が、頭の中で入り混じって時には渦を巻く。

 そしてまた、嵐の後に実際にこの国に着いたときに同行していた遣唐使の人々のことを思った。大使の関麻呂は病気療養のため教会とかいう建物に籠もっているということだったが、皇太后や皇帝に聞くのは遠慮があった。

 そんなある日、宮殿の廊下で宰相のブリンクマン卿とすれ違ったので、思わず呼びとめていた。

「実はお伺いしたいことがあるのですが」

 そう切り出してから、氏忠は日頃の疑問を尋ねてみた。

「私がこの国に来た時に同じ船に乗ってきた、私の国、日本の使節団の大使です。何か情報はありませんか?」

 ここが唐土ではない以上、彼らは遣唐使とはいえずただの使節団だ。それでも氏忠にとっては同胞であって、そのことを強調しておいた。自分と同じ国の人のことを知りたいと思うのは当然だろうと、相手に思わせたかったのだ。

「ああ、病気で教会に入っていたあの方ですな。実は例のメーレンベルフの反逆の時、反逆者側に通じているのではないかと嫌疑がかけられていたのですが、今はそれも晴れたと思います」

「そんなことがあったのですか」

 氏忠にとっては驚きだ。

「で、その教会とは」

「帝都の中ですが、この城からは少し遠いですぞ」

 だが、ブリンクマン卿も詳しい場所はよく知らないようで、だいたいの方角だけ伝えてくれた。早速にでも訪ねてみたかったが、何しろ今は氏忠も宮仕えの身、そう自由はきかない。

 やっと数日たってから、皇帝が風邪気味だということで進講が中止になったので、氏忠には暇が与えられた。それを利用して、いつものようにボプとルイをつれて馬を並べて出かけた。

 昔のように行動に制限があるわけではないが、あくまで今は大将軍である。供もつけずに単身でというわけにはいくまい。ボプとルイは今や大将軍の従者なのだ。

 その教会のことはボプもルイもよく知らないようで、いろいろ探しまわったけれどそれらしい建物は見当たらなかった。聞いていた方角からちょっと外れた所に教会はあったが、そこで聞いても日本の使節や大使など来てもいないとのことだった。

 もう、すっかり暗くなってしまった。

「今日はとりあえずあきらめて、城に戻ろう」

 氏忠がそう言い、三人はとぼとぼと、とっぷりと暗くなった道を城の方へと馬を進ませた。途中、ちょっとした小高い丘の麓を通り過ぎた。もうすでに月が昇り、季節のないこの国の帝都の中にも、風はさわやかに吹いている。そして花の香りを運んで来ていた。

 ふと、氏忠は馬を止めた。風が運んできたのは花の香りだけではなかった。笛の音が、微かに、でも確かに丘の上の方から聞こえてくる。旋律こそ違うけれど、氏忠の故国の笛の音とほとんど同じだった。

 いつかもこんなふうにリュラーのに引かれて氏忠は山に登り、そこであの老人と出会った。今度も何かありそうだと胸が騒いだ氏忠は二人の従者に馬を預けて、その笛の音を頼りに一人で丘に登ってみることにした。

 美しい音色だった。誰が吹いているのかはどうでもいい。今でこそ魔導大将軍なんていかめしい肩書をもらっているが、もともとは楽人がくじんだった氏忠だ。楽器の音には耳ざとい。前のように老人でもあるいは老婆であっても、または男でも、とにかくこんな美しい音色を奏でる人ならば興味があった。

 それほど高くない丘なので、すぐに石段を登りきってしまう。風が心地よく、木々をざわめかせる。石段の上には二階建ての小ぢんまりとした建物があったが、城の中にあってもおかしくないような高貴さが漂う建物だった。ただ、誰かの家というよりは、屋根のついた見晴らし台という感じで、二階の部分は柱と欄干があるだけで壁はないようだった。今日もまた月があって、様子がよく見える。笛の音はその建物の中から聞こえてきていた。

 その時、建物の入り口に、人影があるのを見た。若い女だ。だが、その女は立っているだけで別に笛を吹いておらず、笛はその背後の建物の中から聞こえてくる。氏忠は目を凝らしたが、いくら月があるとはいえその女の顔形までは夜の暗さにはっきりとは見えなかった。だが、その女が氏忠の姿を見て無言で深々と頭を下げたのはわかった。

「あのう、ここはどういう場所なのですか? あの笛はどなたが? そして、あなたは…?」

 女は何も答えず、その後ろにある扉を示した。そして女はその扉を開け、その中に入っていく。ついて来いというようなしぐさをするので、氏忠は意を決して中に入ることにした。入るとすぐに、上へと続く階段だった。暗くてよく見えないが、なんとかゆっくりと階段を上がると、二階の見晴らしのいいバルコニーのような所に出た。

 遠くから微かに聞こえていた笛の音が、今は間近にはっきりと聞こえる。その音が聞こえる方を、氏忠は見た。

 すると、欄干の際にもう一人の少女がいて、暗い夜の底の帝都の町並みの方を見て横笛を吹いている。

 少女は、氏忠が背後に立っても全く気にする様子もなく笛を吹き続けていた。氏忠をここまで連れてきてくれた女は、無言でまたゆっくりと階段を下りて行ってしまったようだ。今は笛を吹いている少女の他には、全く人の気配はなかった。氏忠は曲の切れ目を待って、声をかけてみることにした。

「笛のがあまりに素晴らしかったので、思わず入って来てしまいました。ご無礼をお許しください」

 笛の音が途切れ、少女はゆっくりと氏忠の方を振り返った。胸元と腕は露出しているが、足元までの長くて白いドレスを着ている少女は、それだけで庶民ではないことは分かった。ブロンズの髪は長く、腰あたりまである。少女とはいっても、十五、六歳くらいで、氏忠と同じ年ごろのようだ。ちょうどそこだけ月の光に照らされ、かすかながら顔が分かった。はっとするほど美しい顔だった。氏忠にとって見知らぬ顔ではあったが、衝撃とともに突然胸が激しく鼓動を打った。

 少女は何も言わない。ただ、じっと氏忠を見て、そしてにっこりと笑った。それなのに、目だけは涙目だった。

 初めて会う人なのにこの既視感デジャヴは何だ? と氏忠はいぶかった。ものすごく懐かしい、やっと会えたというような喜び、そして暖かさを感じ、安心感を覚える。

「あなたは、どなたなのですか?」

 少女は微笑むだけで、何も答えない。ただ、突然現れた氏忠に対しての警戒感も不審感も微塵も持っていないようだった。

 氏忠は、この懐かしさの正体をいろいろと考えた。この面影の中に遥か昔のように感じられるあの神奈備皇女とフェリシア姫と、そして自分の母親を思わせるそんな要素が混在しているようにも感じられた。

 もっともこの少女はフェリシア姫ほどではないが、自分の母親などよりははるかに若い。むしろ神皆備皇女と近い年齢に思われる。

 だが、今思いついた人びとがこの目の前の少女の面影の中に占める割合は一割ずつくらいで、あとの七割はもっと身近な氏忠にとって大きな存在の女性と面影が重なるような気がするのだが、どうしてもそれが誰だかわからない。でも、懐かしいのだ。

 もっとも氏忠は故国においてもこの世界に来てからも、ほかに接した若い女性などいなかった。あの三人のメイドはこのような感じではないから論外だ。ティンベルヘン将軍? いや、違う。誰なのだろう? と思うけれども、頭が回らない。

 しかしそのような論理的な思考よりも、むしろ今の彼の心は感覚的な感情の高ぶりが支配していた。

 氏忠の目にも、熱いものがこみ上げてきた。

 氏忠は少女に一歩近づいた。先ほどまで聞いていた笛の音、ちょうどいいくらいにさしこむ月の光、さわやかな風、そしてどこかからは分からないが、漂ってくる花のようないい香り、それらが充満する中で感情を抑え続ける方が困難だった。

 ほとんど何の勇気も必要とせずに、氏忠はその少女の手を取った。そして自分の方へ引く。そんなに強く引いたつもりはなかったし、またその必要もないようだった。まるで少女が自らの意志で氏忠の胸に飛び込んできたかのように、二つの体はぶつかった。氏忠はそっとその体を抱きしめた。

 初めて会ったばかりの女性にこんなことをするなんて、僕はどうかしてる……氏忠はそう思うが、もう彼の理性はどこかに飛んで行ってしまっていた。

 花のような美しい香りは、この少女の体から発せられていた。

 少女の髪が頬に当たる。氏忠は少女の腰に手を回す。ちょっとでも力を入れたら折れてしまいそうな細い、そして限りなく柔らかい腰がそこにあった。

 少女も、氏忠の背に手をまわしてきた。

 氏忠の鼓動は、もうはちきれんばかりだった。

 そのまま、時間が止まった。

 気がつくと、少女は静かに涙を流していた。その涙が伝わる頬が、雨に濡れる一輪の赤い花に見えた。だが、氏忠の目も次第に涙に曇ってきて、その様子がはっきりとは見えなくなっていた。

 二人は抱擁したまま、動かなくなった。唇を重ねるでもなく、また氏忠の手もそれ以上の動きをするでもなかった。

 だいぶそのままにしていた後に、ついに氏忠の手を本能が動かし始めた。

かなり大きな胸のふくらみにそっと手をかけ、腰にまわしたもう片方に手はゆっくりと少女の体を服の上から撫でながら下へと降りていった。

 そのまま氏忠は、静かに少女を床に横にした。その間、少女は全く抵抗する様子はなかった。いや、むしろ少女の方が氏忠の体を引き寄せたかのようにも思われた。

 少女の頬が紅潮しているのが、月明かりの中で見えた。

 だが、どうにもその先に進めない。そのままの姿勢でまたしばらく時間が経過した。

 そして、氏忠からともなく少女からともなく二人の顔は近づき、唇が重な……

「ンンッ」

 唇が重なる寸前で、この二階のバルコニーへ昇る階段の方から咳払いの音が聞こえた。

 氏忠をここまで案内してくれたあの女のようだ。今思えば、今抱きしめているこの少女の侍女であるらしい。

「あのう」

 氏忠はこの丘の上に来てから、初めて人の声を聞いた。

「間もなく夜も明けます。明るくなったらまずうございます」

 それは氏忠に言ったのか少女に言ったのかは分からなかったが、とにかく焦っている様子が感じられた。

 少女はハッと我に返ったようで、慌てて氏忠から離れ起き上がった。侍女がまた言う。

「早くお城にお帰りになってください」

 城にというのだから少女ではなく自分が言われていると悟った氏忠は、外に出る階段の方へと向かった。そして階段を下る直前に、一度振り向いた。

「お願いです。また、会ってください。また、来ますから」

 くれぐれも念を押すように、少女に言った。少女はまだ床に倒れたままで、何も答えなかった。

 氏忠は階段を下りる。見送るようについてきた侍女も、建物の入り口で止まった。

「あの方はどのようなお方なのですか?」

 氏忠の問いに侍女は何も答えず、手の指を伸ばしてそろえ丘の下を示した。早く行くようにというしぐさのようだ。

 氏忠は丘を下る途中も、足が地面に着いているかどうか疑わしかった。まだ、まるで夢の中にいるような気がする。

 思えばとうとうあの少女とは全く会話はなかった。氏忠が一方的に語りかけただけで、その声を聞くことは全くなかった。ただ、月の淡い光の中で見ただけの顔だったが、それでもその面影だけは氏忠の心から離れそうもなかった。

 丘から降りると、ボプとルイが待っていた。ずいぶん待たせてしまったことになるので申し訳なく思ったが、それでも氏忠はあきらめがつかなかった。なぜなら、あの少女はどこの誰かも聞かずに別れてきたのだ。

 侍女は何も教えてくれなかった。

 また会ってくださいとは言ったけれど、どうやって会ったらいいのか……後ろ髪を引かれるとはまさにこのことだと氏忠は思った。

 あたりを見渡しても、少女の従者が少女を待っているような様子はない。連れているのはあの侍女一人なのか……? どう見ても帝都の町中で暮らしているような市民の娘とも思えない。ある程度身分がある人のようだったから、どこかであの女性を乗せて帰る馬車が待っていてもいいようなものだが、そのようなものも見当たらない。まさかあの侍女一人を連れて歩いてきたとも思えないし、あのようなお方があの丘の上の小さな展望台のような建物に住んでいるはずもない。あそこには、あの二人以外は全く人の気配はなかったのだ。

 そこで氏忠は、ボプを呼んだ。

「申し訳ないが、あなたはもうしばらくここに残っていてくれませんか」

「もちろん。大将軍様の仰せとあらば」

「この丘の上から降りて来る人がいたら、そっとその後をつけてどこへ帰るか見届けてほしいのです」

「承知いたしました」

 氏忠はルイだけをつれて城内の屋敷に戻ることにした。なんとかまだすっかり明るくなる前には屋敷に着いて、寝ずに待っていたらしいルシェやリニに迎えられた。

「あら、氏忠様あ。朝帰りですかあ?」

「お疲れですね」

 そんなふうに言ってジトーっとした目で氏忠を見る二人に、氏忠は照れたように笑いを見せた。

「いや、そんなんじゃないから」

「ちょっとそれは失礼ですわよ」

 ルシェとリニの二人を、セシルがたしなめるように見た。前に宮殿の部屋に住んでいた時は、この三人は宮殿内でのほかの仕事もしながら、用がある時だけ氏忠の部屋に来ていた。今や同じ屋敷で共に生活しているので、昔と比べたら考えられないほど打ち解けている。やはり戦場をともに戦った体験は大きい。

 氏忠は今日も朝儀に出なければならないので、それまでの間仮眠をとることにした。だが、まだあの少女のぬくもりと感触、そして香りが残っている。布団に入っていても、ぱっと横を見ると、あの少女が隣で寝ているような錯覚に陥る。

 だから、仮眠といってもとても眠れた状況ではなかった。本当は故国に帰るすべを求めてあの遣唐使の一行に会うため、彼らを探しに出かけたはずなのに、とんでもない展開になって帰ってくることになった。

 そしてようやく少しうとうとし始めたころには、セシルが朝食を持って氏忠を起こしに来た。そんなセシルも眠そうだった。


 とりあえずいつもと同じように出仕して、皇帝への進講をも終えて、氏忠は昼過ぎには屋敷に戻ってきた。ふと気になったのは朝儀の時、いつもならカーテンの後ろに皇太后がいるはずなのに、今日はその気配がなかったことである。

 だが、例の少女のことばかり気になっているこの日の氏忠は、お体の調子がお悪いのかなくらいにしか思っていなかった。

 夕方になって、ボプが戻ってきた。

「どうでした?」

 早速という感じで、氏忠は聞いた。

「それがですね」

 ボプは何か言いにくそうにしていた。

「ずっと待っていましたけれど、いつまでたっても誰も降りてきませんでしたよ。昼前になったころに業を煮やして丘の上に登ってみましたけれど、物見台のような小さな家があるだけで、誰もいませんでした。中も無人でした」

 やっぱりそうかと、何となく予感していただけに氏忠は驚かなかった。

「決して目を離したすきになんてことはないですよ。ずっと見ていましたから。それにあの丘も調べましたけれど、ほかに下に降りる道はなくて、私が見ていた登り口以外から降りたなんてことはあり得ないでしょう」

「そこまでしてくれたのですか」

「はい。それで、あの丘の麓に一軒の小さな家があったので、訪ねてみました」

 ボプがその家のドアをノックすると、しばらくしてから真っ白な頭のかなり高齢の老婆がひょっと顔を出したという。

「あのう、ちょっとお聞きしたいんですが。この丘の上の家のことです」

 ボプが尋ねると、老婆は気さくにうなずいた。

「ああ、ドムス・ムナミンメンザのことだね。ありゃ、昔、お城の中にあった月を見るための展望台を二代前の皇帝陛下の御時にここに移したもんですだ」

「今、誰か住んでいるのですか? あるいは、時々あそこに誰か来るとか」

「いやあ、誰も住んじゃあいないよ。宿屋に泊まりそびれた旅人が時々あそこに入って一夜を明かすこともあるみたいけど、最近ではこの丘の上に登っていっている人なんて見たことねえ」……

「と、いうことですよ」

 ボプの報告に氏忠は身悶える想いだったが、ボプにはそれを悟られないようにした。

「ご苦労でした。ゆっくり休んでください」

 ボプには、それだけを言っておいた。それにしても不思議な話で、それだけに余計にあの少女への追慕の想いが燃え上がってしまう。

 もはや、どこの誰なのか分かる手立ては失われた。ましてや再会する目処めどなど完全に消えてしまったといってもいい。それでも、まだ忘れられずにいる氏忠だった。


 そんな時に氏忠に、皇帝ではなく皇太后にも学問の進講をするようにとの命が下った。

 あの謎の美少女と出会って悶々とした日々を送るようになって以来の、初めての皇太后への謁見だ。

「世の中を治めるための何かいい知恵があったらお話し下さい」

 もちろん、氏忠にそんな知恵はない。だから皇帝に対してと同様、故国で学んだことのある「群書治要」といういわば政治学の本で、唐の国の古い書物の内容を語ることにした。

 時には顔が近づくこともあった。氏忠はそのたびに、思わず胸が高鳴った。皇太后は氏忠よりもずっと年上で、さらにもう未亡人だとはいえ、まだ若さを保っている。だから顔が近づくとその香りと気品高く毅然とした様子に、氏忠はつい女を意識してしまうのであった。

 しかも不思議なことに、あの丘であんなことがあった直後だというのに、妙に皇太后が妖艶な存在として目に映る。宮殿を退出して自邸に戻っても、その皇太后の放つ女としての香気によって余計にあの夜のことが生々しく思い出されてしまう。おかしなもので、皇太后のせいで(お蔭で?)あの少女への思いがどんどん募っていくのである。

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