氏忠の明かり魔法で照らされた夜道を軍勢は進み、夜半には麓に着いた。この道を敵は朝になったら登るであろう。

 氏忠は後ろを振り返って手で合図をし、兵たちを道の両側の木々の間の茂みの中に隠れさせた。そしてとにかく朝になるまで、交代で仮眠をとるように指示した。

 氏忠やボプとルイ、ルシェ、リニ、セシルも交代で見張りに立ち、そうでないものは木の幹に寄りかかって仮眠をとることにした。

 氏忠も最初はずっと暗闇の方に目を凝らしていたが、そのうち大きな木の根元でうつらうつらしていた。しかし、だからといって熟睡できるものでもなく、うとうとしたかと思うと時々は目を覚まし、なんだか寝ているのだか寝ていないのだかわからないような状況でまどろんでいた。

 そのうち、空がかすかに白んできた。

「氏忠様っ!」

 山の登り道の方に様子を見に行っていたルシェが、慌てて氏忠のいる木の下へ茂みをかき分けてやってきた。さすがに今日はいつもの微笑みではなく、真剣な表情をしている。

「敵が来ました」

 氏忠は慌てて立ち上がった。ルシェについて少し歩き、見晴らしのいい所に出た。

 昨日は暗くてよく分からなかったが、この山のある側面の麓から大海原が広がっている。その渚に沿って、おびただしい数の人の群れがこっちに向かっているのがまだ未明ともいえる暁光の中に見えた。

「来たな」

 たしかに、今皇后が連れてきている軍勢の十倍か二十倍はある。

 氏忠はすぐに、一人の歩兵を山の上に走らせた。皇后や主力軍の四人の将軍に敵襲を知らせるためだ。

 ただ、あの距離だと敵の軍勢がここに到達するにはまだ時間がかかりそうだった。

 その時、ルシェは氏忠の近くでかがんでいた。見ると、素足からわずかだが血が出ている。先ほど茂みをかき分けて歩いてきた時に草で切ったらしい。

「あ、そこに座って」

 氏忠は手を伸ばして治癒魔法をかけようとした。

「大丈夫ですよ。自分でできますから」

 初めてルシェはにっこりと笑った。自分の傷口に自分の手をかざすと、青い光がたちまち放射されてルシェの足の傷はすぐに消えた。

「君も魔法ができるのかい?」

 また、ルシェはニコッと笑った。

「あのう、私たちエルフですよ。ヒューマンの方よりも魔法は得意です。むしろヒューマンなのに魔法が使える氏忠様の方がすごいです」

 この世界の人だからといって、誰でも魔法が使えるわけではないようだ。

 そうしているうちにも、あたりが次第に明るくなるにつれ敵の軍勢はどんどん近付いてきている。見ると、先鋒を固めているのはリザードマンの部隊のようだ。蜥蜴とかげの姿のリザードマンは体格がよく、それでもかなり進むのは速かった。騎兵が馬を走らせているのと同じくらいだ。鎧を身につけ手には武器を持っている。姿は蜥蜴と同じだがあくまで亜人種であって、爬虫類の動物ではない。

 やがてその先頭が山の麓にさしかかった。氏忠は自分が引きつれてきた軍勢に、敵が近づいたらとにかく森の中の茂みに身をひそめ、決して隠れていることを悟られないようにとすでに指示している。そして敵がいよいよ自分たちの至近距離を間もなく通過するであろうことを、全軍に合図した。

 平地だと横に広がって進軍できるが、山道は細い。いくら馬車が通れるくらいの幅はあるとはいっても、平地とは違う。どうしても行軍の列は縦に長くならざるを得ず、三万の軍勢が氏忠たちのそばを通過し終わるまでかなりの長時間を要した。

 そしてその列の中ごろに、多くの騎馬に囲まれて馬に乗ったデルク・ヴォルテルス将軍があたりを無言で威圧しながら進んでいくのが見えて、潜んでいる兵たちは誰が息をのんだ。中にはその姿を見ただけで震えている者もいる。

 氏忠は一度宮殿の中のあのお茶会で姿を見てはいるが、今戦場でこうしてあらためて見るととにかくものすごく大きな、圧力半端ないモンスターか巨人かというくらいの感覚があった。物理的に巨大な体であるだけでなく、その巨体からはさらに二倍にも三倍にも大きく見えるようなどす黒い霊衣オーラが立ちのぼっているのを氏忠は感じた。

 ようやく最後の敵が登っていったころには、あたりはもうすっかり明るくなっていた。だが、まだ日は昇っていない。

 先頭の方ではもう少しで頂上というところで四将軍が指揮する軍勢が横長に陣を敷き、彼らを迎え撃つべく構えていた。敵の軍勢はそれと対峙する形となり、そのまま止まってしまうとヴォルテルス将軍が登ってくるのを妨げる形になることに自ら気付いたのだろう、森の中を横に広がり始めた。ただ、彼らはまだ山の上に向かって攻撃はしないはずだ。相手から先に攻撃を仕掛けられた場合は話は別だが、そうでなければヴォルテルス将軍の命令がない限り勝手に戦端を開くわけにはいかない。

 一方、山の下の氏忠は兵の一人を物見に走らせていた。そして兵は、山の上で両軍がにらみ合って停止した旨を、氏忠に知らせに来た。氏忠はそれを待っていた。

「よし、今だ!」

 氏忠は森の中の木々や茂みに着火魔法で火をつけた。たちまちもうもうと煙が上がり、海の方から吹いてきて山を駆け上っていく風にあおられ、上の方の敵軍を煙は包み込んだ。

そして一斉にときの声を挙げた。

「「「「わーっっっっっ!!!」」」」

 それが合図だった。山の上の四将軍の軍勢もかねてからの打ち合わせ通り、それに呼応するかのように一斉に同じような大声を挙げた。二つの歓声に山の上と下とで挟まれた敵軍は、挟み撃ちになったことを知って動揺し、崩れ始めた。

 そこで山の上から下から出兵たちは一気に敵軍に迫り、一斉に矢を仕掛けた。彼らの物理的な矢の攻撃に加え、氏忠はルシェとともに攻撃魔法で魔法陣から次々に矢を放ってそれを雨のように敵の軍勢の上に降らせた。

 前方にしか敵はいないと思っていたエティルンド軍は、全意識を前方に集中していただろう。そんな時に不意に背後から煙に包まれ、その何も見えなくなった中から大声が聞こえて一斉に攻撃を受けたら、実際は数の上では自分たちの二十分の一か三十分の一だとしても、彼らの感覚では自分たちの三万を遥かに上回るおびただしい敵に包囲されたと錯覚するものだ。それが氏忠の目論見だった。

 敵軍は総崩れで、一気に逃げて山を降り始めた。

 氏忠たちがつけた火も今はかなりの勢いで燃え上がり、煙と炎はじわじわと下から山の上の方へと広がってくる。敵軍の兵たちは恐怖で逃げだしているのだが、まるでその煙でいぶし出されているようにも見えた。

 当然、山の下の森の中に潜んでいた氏忠率いる軍と接近戦となった。森の中という不自由な立地での戦闘だが、氏忠の身の回りのものたちはよく戦った。氏忠は攻撃魔法で魔法陣から矢を射かけるし、ボプとルイは走り降りてくる敵を剣で次々になぎ倒していた。エルフであるルシェたち三人にとっては、逆に森の中での戦闘は得意なものだ。三人とも念じて右手のこぶしを挙げるとその周りに青くまばゆく光る光の玉が生じ、それを敵に向かって投げつける形で戦っていた。

 圧倒的に味方が有利だ。敵はこちらを倒して勝とうと思って戦っているのではなく、自分たちが逃げるために戦っている。だから、氏忠たちを倒そうという気はあまりない。

「逃げるな! 逃げるやつは叩き斬るぞ!」

 山全体を振動させかねないような大音声おんじょうが、空に響き渡った。ヴォルテルス将軍の声だ。ひたすらこの場から逃げることしか考えていない自分の配下の軍勢に、脅しをかけている。だが、効果はないようだ。軍勢は自分たちが登ってきた山道を一目散に駆け下りていく。

実はこれも氏忠の策略で、山に登る道はわざと彼らが逃亡するための逃げ道として氏忠は空けておいたのだ。もし逃げ道を作らずに完全に包囲してしまったら、彼らは生き延びるために死に物狂いで抵抗してくるに違いない。だから、抵抗の力を少しでも弱めようとしたのである。

 こうして敵を逃がすだけ逃がして、氏忠の軍は山の上へと攻め登っていった。

かなりの数の兵が逃亡しても、もとは三万もいたのだから、まだかなりの数の兵がヴォルテルス将軍の周りにはいた。

 ヴォルテルス将軍はそのまま馬を進めて、山の上で布陣している四将軍の陣と、互いの顔が見えるほどまで接近している。 そのすぐ後ろまで、氏忠たちは攻め登っていた。

 この時になって。ようやく日が昇った。 ここで一気に決着をつけようと、氏忠は魔法陣を出現させた。 これまでは小さな矢を数多く射ていたけれど、今度は魔法を一点に集中させ、巨大な槍をヴォルテルス将軍の背中に向けて発射した。唸りを挙げて太く黄金に輝く槍は飛んで行く。

 ところが、あと少しでヴォルテルス将軍の背中に命中というところでヴォルテルス将軍はじろっとした目で振り向き、手をかざして自らの周りに結界を張る。槍はたちまち霧散した。

「ヴォルテルス将軍。こんなところでお会いするとは意外ですな」

 四将軍の中から、魔導大将軍であるクーン・テイセン将軍が馬に乗ったまま一歩前に出た。ヴォルテルス将軍は何も答えない。ただ詠唱を唱えながら両手を自分の前に組み、天を仰いだ。それは召喚魔法であることは、氏忠にはすぐに分かった。

 果たして雷鳴が轟き、一陣の光る雲がヴォルテルス将軍の頭上に現れたかと思うと、そこに召喚獣がけたたましく咆哮をあげた。巨大な真っ白い虎だった。それが空中に浮いている。ヴォルテルス将軍が白い虎を意味するヴィッテ・テイヘルという異名で呼ばれていたというのは将軍本人を形容してというだけではなく、この召喚獣ゆえのことだったのかもしれない。

 だが対するテイセン将軍の方もすでに詠唱を始めており、召喚術を施し始めていた。

 たちまち空がかき曇るかのように巨大な雲が雷鳴とともに現れ、その中から出てきたのは、ヴォルテルス将軍の召喚獣の虎にも劣らない巨大なドラゴンだった。

 確かに氏忠たちが乗ってきたあのドラゴンに比べれば数倍の大きさだ。白虎は素早く空中を駆け、ドラゴンの正面で一声激しく吠えた。まるでそれに呼応するかのようにドラゴンも大きく吠えて、巨大すぎるその羽をゆっくりと動かした。そのたび暴風が起こって山の森の木々をなびかせた。

 そのままドラゴンは上昇し、白虎も同じ高さまで上がって両者はにらみ合っていた。ドラゴンは氏忠の故国の竜とはかなり形状が違うがこれをとりあえず竜だと定義するなら、まさに文字通り竜虎相つ戦いがこれから始まろうとしていた。

 まずドラゴンが、勢いよく口から炎を噴きだした。

 虎はまるで目に見えない山々の峰が宙に高くそびえていて、その峰から峰へと飛び回っているかのように大空に飛び上がってはドラゴンの炎をかわし、そのまま急降下して爪による一撃をドラゴンにくらわした。

 だが、ドラゴンはよけた。

 ただよけただけでなく、その両足で虎を思いきり蹴った。虎は一瞬ひるんだが、すぐに身を引いて体勢を立て直した。

 そして一声吠え、ドラゴンもまた叫び声をあげた。

 その両雄の声は山のみならず、大地をもすべて揺るがすほどであった。

ドラゴンは大きく羽ばたいた。ものすごい風が起こる。だが、虎はびくともしない。

 ドラゴンは急上昇、虎もそれを追うように飛び上がる。

 しばらくは互いに上になったり下になったりで飛び回り、旋回し、時に激しくぶつかって噛みついたり爪でひっかいたりでまた離れ、どちらも目にもとまらぬ速さで追いつ追われつ、攻防が逆転したかと思うとまた逆転したりの空中戦が展開されていた。

 そのうち虎はドラゴンを空の上で組み敷いて、その首あたりを激しく噛んだ。

 鮮血が飛び散る。

 だが、先ほどと同じようにドラゴンは両足で虎を蹴り、引き離した。そして口を開き、虎めがけて火炎を激しく放射した。

 これは、虎ももろに食らった。

「やったか」

 壮絶な空中戦を見上げていた氏忠も、思わずつぶやいた。テイセン将軍も手ごたえを感じたのだろう。満足げな顔でそれを見上げている。だが、ヴォルテルス将軍は、うすら笑いを浮かべた。

「なにッ!?」

 次の瞬間、テイセン将軍も、そして氏忠も顔色が変わった。

 虎は火を浴びても人造の繊維ではない。ほんの少し振動を与えたくらいでさらに虎は勢いづき、爪を立てた右の前足でドラゴンの首を何度も激しく叩き、その首からはまた血が噴き出た。

 ドラゴンは激しく羽をばたつかせたが、その羽の力もだんだん弱っていっていた。

 ついに虎は、またドラゴンの首に激しくかみついた。血が噴き出て、白い虎が赤く染まった。

 もはや致命傷だったらしい。

 悲しそうな声で長くドラゴンは叫び声をあげた後、ぱっと火花を散らすように消滅した。

 テイセン将軍は唖然とし、真っ青な顔つきになっている。

まだヴォルテルス将軍の方が少し坂の下の位置にいたが、馬に乗ったまま巨大な剣を抜いたヴォルテルス将軍は一気に斜面となっている森の中を馬で駆け登り、同じく馬上のテイセン将軍に向かって剣を振りおろした。

 周りを固めていた騎兵も、突然の襲撃になすすべもなく、ヴォルテルス将軍の剣は三回も振り下ろされ、テイセン将軍は鎧ごと切り刻まれて、血まみれになって馬から落ちた。

ドラゴンを倒した虎は、役目を終えたのかスーッと消えた。

 一部始終をヴォルテルス将軍の背後で包囲しながらも見ていた氏忠は、焦っている場合ではなかった。攻撃魔法の魔法陣から、次々とヴォルテルス将軍めがけて矢を放った。矢はいくつか命中したが、ヴォルテルス将軍の鎧に弾かれ、何の効果もなかった。

「くそっ!」

 氏忠も、もうかなりれてきた。

 ボプもルイもルシェたち三人も、氏忠の周りに集まって来て、それぞれの武器を構えてひと固まりになった。

「小僧! いい度胸だな!」

 ヴォルテルス将軍は向きを氏忠の方に換えてにらみつけ、大きな剣を振りかざしながら馬を進めてくる。その左右には、まだ逃げずにいた騎兵が七、八騎ばかり従うように囲んでいた。

 彼らもまた、馬上剣を抜いた。ボプもルイも剣を構える。ルシェたち三人はいつでも投げられるように、右手の先に魔法の玉をすでに生成させていた。

 氏忠も剣を抜いた。

「ほう、弓でかなわぬとなったら剣か。だがなあ、そいつはこっちの思うつぼだぜ」

ヴォルテルス将軍はまた大音声をあげて笑う。その笑いが歯がゆくもあり、癪に障る。

 氏忠は気勢を揚げて馬上のヴォルテルス将軍に斬りかかった。

 だが、馬に乗っている上にかなりの大男だから、少しくらい飛び跳ねても届かない。たちまち氏忠の剣はヴォルテルス将軍に弾かれ、氏忠は地に転倒した。そこへヴォルテルス将軍の右手から短剣がってくる。魔法による攻撃だから、短剣は次から次へと氏忠の体にりかかり、氏忠は転倒したまま地を転がりまわってそれをかわすしかなかった。

「氏忠様!」

 セシルが防御魔法で氏忠をかばうように魔法陣を出現させ、ヴォルテルス将軍を凝視したまま氏忠に駆け寄ってきた。

「ここは私たちが魔法で足止めしますから、どうぞお逃げください」

「そんな僕だけ逃げるなんて」

 でも、たしかにここで剣を振りかざしたところで、ヴォルテルス将軍に勝てるとは思えない。だからといって自分が逃げたら、残されたボプやルイ、セシルたちはどうなるのか……

 そのとき、セシルの「魔法」という言葉に、氏忠ははっとした。習っただけでまだ一度も実戦に使ったことはないが、自分も召喚魔法を試すべきかと思った。

 だが、氏忠にそんなことを考えさせる余裕を与えず、ヴォルテルス将軍は氏忠の方へ馬を走らせる。そして氏忠にふっと息を吹きかけると、氏忠の体はその息で吹き飛ばされて宙を弾かれ、木に背中を叩きつけられるように激突した。

 その時である。氏忠は自分の鎧の下の胸が熱くなるのを感じた。

 ふと見ると、鎧の上からでも分かるくらいにそこは青く光っている。強烈な光だ。そこには、戦場でも常に身につけているあのフェリシア姫からもらった玉がしまってあるところだ。その玉が光っている。

 その間もヴォルテルス将軍はゆっくりと剣を振り上げながら、氏忠の方へ近づいてくる。このままだと、テイセン将軍と同じように切り刻まれる。

 氏忠は胸の中の玉が光っているのは亡きフェリシア姫からのメッセージに違いない……召喚魔法でやるしかない……そう思って駆け寄ってきたセシルたちに言った。

「防御魔法で時間を稼いでくれ。詠唱を唱える間だけでも」

 そうして氏忠は三人のメイドたちの魔法陣に一時的に守られて、剣を背中の鞘に治めて両手を組み、詠唱を唱え始めた。そして両手を前に突き出した。彼はとにかく必死で、もう細かいことは考えていなかった。

vその召喚術によってたちまちそこに現れたのは、召喚獣ではなく召喚魔人だった。召喚獣を呼び出してもまたあの虎が現れて敗れ、自分もテイセン将軍と同じ運命をたどるのではないかと危惧したので、氏忠は強い魔人を召喚することに意識を集中したのだ。

 現れた魔人は、巨人ともいえる体格である上に馬上の人であるヴォルテルス将軍に負けないくらい、巨大な体躯であった。ヴォルテルス将軍は驚きもしない。

「何を小癪な」

 鼻で笑った後、たちまちヴォルテルス将軍の体はどんどん巨大化した。実際にはそう見えただけかもしれないが、氏忠の目にはその全身から紫色の妖気が立ち上るのが見えた。その形相もまた人間のものではなく、双眸そうぼうは赤く爛々らんらんと光り、まさしく魔界より出現した魔王であった。

 すると氏忠が召喚した魔人もまたぐっと巨大化し、こちらはまばゆいばかりの黄金の光を放った。そしてその姿は四人に分身して増えた。四人とも鎧姿のみならず顔つきまで全く鏡に映したかのようだ。つまり、同じ魔人が四人いる。しかも、大きな剣を抜いて構えるその動きも、四人が全く同じなのだ。

 氏忠はその魔人を見てすぐに気付いた。彼らの鎧はほぼこの国の将軍の鎧と同じだが、若干形が違うもので、それは氏忠の国のものだった。黒い頭髪は左右の耳の所でみずらっており、手にする剣も氏忠の故国のものだった。

 そして一斉に同じ動きでヴォルテルス将軍に斬りかかった。一人を相手なら、あるいはたとえ四人相手でも四人が普通にそれぞれの動きで斬りかかってきたのなら、おそらくヴォルテルス将軍はそのすべての剣をなぎ払って、また剣の持ち主の体をも引き裂いていただろう。

 だが、鏡のごとき四人の動きにはうまく対処できずに苦戦していた。

 他の七、八騎の騎兵にはルシェたち三人が青い光の玉を次々に投げつけて、距離が遠いのでなかなか命中しないにしても十分牽制にはなっていた。

 氏忠はさらに念じた。

 今度はヴォルテルス将軍の背後に、またもや全く同じ体格、同じ人相の魔人が五人現れて、前の四人を相手に苦戦してそちらに気を取られているヴォルテルス将軍の背後から五人そろって一気に剣を振りおろした。

 さすがに一撃ならぬ五撃にヴォルテルス将軍の鎧も砕け、のけぞった隙に前の四人がまた一斉に斬りかかった。

 ヴォルテルス将軍の体はこなごなに切り刻まれ、真っ赤な噴水が勢いよく噴き出して、乗っていた馬が音を立てて倒れた。

「やった!」

 ボプが声をあげた。氏忠はまだ何が起こったのかよく分からず、ただ茫然としていた。そして全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。

 ヴォルテルス将軍をたおした……無我夢中で突き進んできた氏忠は、その事実を実感するまで少し時間を要した。

 だが、戦いはまだ終わらなかった。

「なにっ?」

 次の瞬間、氏忠の顔は引きつり、顔色が変わった。

 倒れているヴォルテルス将軍の遺体から紫の影が立ち上った。そしてそれはどんどん巨大化し、山全体を覆うほどの巨人の姿になった。鬼の形相で、目はやはり赤く爛々と輝いている。紫の影はまさしく魔王へと変化へんげしつつあった。全身から光が激しく発せられ、それは天まで届くほどだった。決してまばゆい光ではなく、この世のすべてを呑み込むくらいの勢いで、形容しがたいほどの邪気に満ちた暗い光だ。そしてたちまち山は闇に包まれた。

ところが驚いたことに、人びとは敵将ヴォルテルス将軍が倒れたことをまだ喜び合っている。氏忠以外の周りの人には、この状況が全く見えていないのだ。

「まずい!」

 氏忠は思わずそう叫んだ。そしてすぐに立ち上がって、また先ほどの魔人を召喚しようとした。

 だがその時である。修道院の建物の三階の窓からものすごい黄金の光が発せられて、それが束となって紫の影の魔王の巨体の総てを包み込んだ。たちまちにしてその姿は霧散し、世界はまた元の光を取り戻した。

「お后様!」

 氏忠は思わずつぶやいた。だがそのすべては氏忠の目にのみ見えていたことだった。

 皆に見えている世界では、周りの騎兵のうちまだルシェたちの魔法光に当たっていなかったものも一目散に馬を走らせて山を下りようとしていたが、すぐに彼らは躊躇した。先ほど氏忠が山の木々や草に点けた火がすでに山火事となり、もうすぐ下にまで迫っていたからだ。

 氏忠はすぐに我に返り、逃げようとしている敵の騎兵などよりもまずその山火事をなんとかしなければならないと思った。このまま火の手が山の上まで広がると、皇后と皇太子のいる修道院まで延焼しかねない。

「ここは私たちが」

 ルシェたち三人が空に向かって伸ばした六本の腕、その腕がたちまち雲を呼び、大粒の雨が突然滝のように山全体に降り注いだ。山火事の火はすぐに消えた。騎兵たちはそれでびしょ濡れになりながら山を下っていったけれど、それは放っておいた。


 テイセン将軍は討ちとられたが、ウーレンベック将軍、クラーセン将軍、ヤン将軍が、そのひきつれていた軍勢とともに、氏忠のいる所にまで降りてきた。

「いやあ、すばらしい!」

「お見事!」

 将軍は口々に絶賛し、軍勢たちは氏忠に向かって一斉に喝采を浴びせかけた。もはやそこに氏忠を異国の、それも年端もいかない小僧だと蔑む者もなかった。なにしろ彼は大手柄を立てたのだ、しかも絶対に誰も倒せないといわれていたヴォルテルス将軍を倒した。

「兵の消耗は?」

 氏忠はウーレンベック将軍に聞いた。

「二十人ほどやられた」

 あらためて驚く。味方の犠牲者は二十人ばかりだが、それでも兵力千の軍勢で敵の三万の軍勢を敗走させるなどしてほぼ全滅させたのである。

 しかも、誰からも恐れられ、敵軍のかなめともいえるデルク・ヴォルテルス将軍をも討ち取った。

 人びとの歓声にほんの少し氏忠が酔いしれている間に、ウーレンベック将軍が全軍に指示をしていた。

「武器、食料等、敵が残していったものは好きにせよ。ただしそのため、互いに争うことのないように」

 兵たちは歓喜の大声を一斉にあげて、ついさっきまで三万の兵が布陣していた所へと一目散に森の中を駆け下りた。

 敵の兵たちは武器も鎧も皆脱ぎ捨てて逃亡している。それを拾うためであった。あとで持ち帰り、自らが着用、使用するもよし、売り払って金に換えるもよし、拾ったものの自由なのだ。

 そして彼らにとってもっと重要なものが見つかった。

「あったぞ!」

 誰かが叫ぶ。彼らの軍の輸送班が置いて行った荷物の中に、三万人分のとりあえずのパンが詰まった箱がいくつもあった。もちろん全部残していったわけではないだろうが、それでもかなりの数だった。

「いただき!」

 何しろ三万人分だから、それで千人が空腹を満たすには十分すぎた。

 箱の一つは修道院へと運ばれるべく、将軍たちのもとへ届けられた。また、鎧と武器も個人が持ち運ぶには限界があるので、余ったものは将軍たちのいる広場に山積みにされた。

氏忠は、その兵たちの力に呆気にとられていた。すると、その背後からリニがちょんちょんと氏忠の肩を人差し指でつついた。

「氏忠様、あれ」

 リニは山の下の方を指差す。

 次の瞬間、言われて山の下を見た氏忠ばかりでなく、誰もが叫び声をあげた。

「「「「あ!」」」」

 火が消えて、煙がなくなって視界がきくようになっている。さらにこの山火事によって山肌の森の木々も燃えてしまったから遮るものもなく、氏忠たちのいる所から山の下の遥か向こうまで見渡せるようになっていた。その景色の中を新たな軍勢が、ちょうど先ほどヴォルテルス将軍の軍がやってきた方角からこっちに向かってくる。

 ヴォルテルス将軍の軍のような三万などという数ではなさそうだが、それでも大軍だ。その大軍が間違いなくこっちに向かってきている。

 すでに帝都に入ったメーレンベルフ伯メインデルトは、さらに新たな軍勢をこちらにさし向けたのだろうか。

 もはや、これまでかと氏忠は覚悟を決めた。兵も疲れている。同じ作戦をもう一度使っても、今度は勝てるような気がしないし、逃げたとしても逃げられそうもない。

「一度は死を覚悟をした身だ。華々しく戦って死のう」

 氏忠はそう呟いて一度山の上まで戻り、総指揮官のウーレンベック将軍に伺いを立てた。

「今、山の下に迫っております軍勢を迎え撃つ先鋒を、自分にお任せください」

 昨日までなら異国の若者の氏忠がそんなことを言っても、総指揮官が簡単に許可するはずもなかった。だが、今は違う。誰もが氏忠の、目を見張る巨大すぎるほど巨大な軍功を目の当たりにしている。その氏忠が自ら願い出たのだ。

「ぜひ。頼みます」

「ただ……」

 ウーレンベック将軍が二つ返事で許可したその隣で、軍司令のクラーセン将軍が言葉を添えた。

「あの軍勢の正体がいまだ分からない以上、闇雲に攻撃を仕掛けることのないように」

「心得ました」

 果たして、昨日の夜はしぶしぶという感じで氏忠に従っていた軍勢も、今は先を争って氏忠の配下に願い出るものが多かった。

 もはや半分ではなく、修道院を警護するためのごく少数の騎兵のみ残して、約千の兵力の軍勢をほとんど引き連れ、氏忠は新たに貸し与えられた馬に乗って山を下りた。

 もちろん常に氏忠の身の周りにいたボプ、ルイ、ルシェ、リニ、セシルも一緒だ。

 山肌はまだところどころで山火事の跡がくすぶり、わずかな煙をあげていたりする。草木が燃えた臭いがまだ充満する中を、軍勢は一気に山を下りた。

 彼らが平野に出ると、軍勢はもうだいぶ近付いてきていた。だが、まだ相手の顔が識別できるほどのそばには来てはいない。兵力は、相手の方が約三倍はありそうだ。騎兵も多い。ただ、先鋒はリザードマンの部隊ではなさそうだ。ヒューマンかエルフかは遠目では分からないが、リザードマンならすぐに分かる。

 氏忠は、慎重に自らの兵を止めた。そして横長に布陣させた。まずは、見極めなければならない。そして、まずは自分たちが皇帝の軍である証拠の旗を何本も高らかに上げさせた。山の上から出陣に当たって、クラーセン将軍が持たせてくれたのである。この旗を見てもさらに攻撃してくるようであれば、目の前の軍勢は敵ということになる。

 だが、相手の軍勢の戦闘は、たちまちその動きを止めた。そして最後尾が到着するまでそのまま待機していた。布陣するなどというような動きはない。

 そのうち、軍勢の列の後ろの方から、騎兵が一騎駆け出てきた。赤い旗を揚げている。

「あれは伝令です」

 氏忠の隣にいたボプが教えてくれた。

 すぐに伝令は氏忠の軍勢の前に来たが、どうも誰が大将か分からないでいるようだ。無理もない。粗末な、普通の騎兵と変わらないような鎧をつけている黒い髪の少年が大将だなどとは、誰も思わないだろう。ただ、唯一の目印といえば、氏忠だけが馬に乗っていることだ。騎兵団は山上で将軍たちとともに修道院の警護に当たっているので、氏忠が率いてきたのは歩兵のみである。

 馬に乗ったまま、氏忠は一歩前に出た。伝令も自分が伝達すべき人はこの人かと推測したように氏忠の前に出た。氏忠は言った。

「自分がこの軍勢を統率しています」

 伝令はそれを聞いて馬から降り、氏忠の前に立て膝で畏まった。

「私どもはフルーメナム州政府兵衛へいえい将軍で、フーショー県長官エルケ・ティンベルヘン将軍の手の者でございます」

 氏忠は平然と聞いていたが、隣にいたボプやルイは驚きの表情を隠せなかった。

「誰だ?」

 氏忠は馬上からボプに、小声で聞いた。

「帝国きっての大将軍ですよ。お后様もその到着を心待ちにされているはずです。お味方です」

 つまり、目の前の軍勢は友軍なのだ。氏忠は馬から降りた。

「どうぞ、お立ちください。自分はそのように丁重な礼を受ける身分ではありません」

 伝令はゆっくり立ち上がった。

「山の方からものすごい炎と煙が立ち上るのを見ましたが、お后様は?」

「あの山の上ですが、ご無事です」

 その氏忠の言葉には、別の声が答えた。

「ああ、それは何よりです」

 女性の声だ。いつの間にか伝令の後ろに、鎧に身を固め、その上にマントを羽織った将軍のいでたちの人が軍勢の中から出てきて、馬から降りて歩いてきていた。

 その人が声の主で、果たしてその鎧とは不釣り合いに若い女性であった。足だけは短い草摺くさずりから素足が伸びている。

「あ、あの、私がフルーナメムの兵衛へいえい将軍エルケ・ティンベルヘンです」

 なんかおどおどと言ってから、そのティンベルヘン将軍は照れたような笑いを見せた。

 まさか女性だとは思っていなかった氏忠にとって思わず胸が高鳴ってしまいそうな笑顔だが、この笑顔と帝国きっての大将軍という肩書がどうしても結びつかない。大将軍の身の回りの世話をするメイドさんなのじゃないかとも思うけれど、まさかそんな失礼なことを口に出して言えるわけもない。だた、その鎧の格から確かに大将軍に間違いなさそうだ。手甲や肘当が裸の腕に直接ついているのと、草摺から素足が伸びていること以外は。

「ご、ごめんなさい。実は皇帝陛下の突然の訃報に接して慌てて帝都を目指したのですけれど、私の赴任先のフルーナム州のフーショー県はとても遠い辺境でして、時間がかかってしまいました。そうしたら途中でエティルンド王のメーレンベルフ伯が反逆を起こしたとかで、慌てて引き返して軍勢を整えて再出発しましたけれど、途中で何度もヴォルテルス将軍の軍に行く手を阻まれましてこんな時間になってしまいました。帝都はすでにメーレンベルフ伯に占領されているし、お后様や皇太子様は帝都を脱出されて山に籠もって、ヴォルテルス将軍と今日にでも決戦になりそうという物見の報告に慌てて来たのですが」

 時々噛みつつもおどおどしながら、それでいてこんな長い言葉をこの女性は一気にしゃべったので、氏忠は呆気にとられた。

「それで、いくさの方は?」

「もう、決着はつきました。敵は敗走しました」

「ヴォルテルス将軍は?」

「はい。自分が討ちとりました」

「え?」

 ティンベルヘン将軍は、目を見ひらいていた。しばらく、言葉が出ないようだった。

「え、えっと……」

 驚くのも仕方がないだろう。自分よりもはるかに若い少年が、あの向かうところ敵なしの巨人ともいえるヴォルテルス将軍を討ちとったというのだ。

 ティンベルヘン将軍が言葉を選べずにいるようなので、氏忠はわざと微笑んで見せた。ようやくティンベルヘン将軍はまた話し始めた。

「それでここに来るまでの間にヴォルテルス将軍の軍勢の兵士かなって感じのものすごい数の人たちが逃げて走ってくるのと行き合いましたけれど、戦うつもりはないようなので逃がしました。馬に乗ったそこそこ地位のありそうな武将は、生け捕りにして縛ったまま今ここに連れてきてますけど」

「みんな、武器も鎧も捨てて逃げて行きましたよ」

「で、お后様は?」

「この山の上の修道院とかいう建物においでです」

「ニコラス皇子様も?」

「ご一緒です」

「ああ、ご無事で何より」

「とにかく、まいりましょうか」

 氏忠が馬に乗っている間に、ティンベルヘン将軍は自分の馬に乗って戻ってきた。そして自分の軍勢に指示した。

「全軍! 出発!」

 その凛々しくも大きな声を発する顔は引き締まって、その時だけは確かに大将軍の顔だった。だが、氏忠と馬を並べた途端、また元のおどおどした女の子に戻ってしまう。

二騎は駒を並べて、山の上に続く焼け跡の中の坂道を上っていった。まださっきで会ったばかりの二人なのに、後ろから見るとなんだか仲睦まじくも見える。

 それを見て、後ろにつき従うリニが少し頬を膨らませていた。その姿を見てルシェは笑っていた。


 山の上で依然として陣を張っていた三人の将軍は、坂道を氏忠とティンベルヘン将軍が馬を並べ、親しそうに話しながら登ってくるのを見て、目をむいて驚いた。

 そして三人とも慌てて馬から降りて、走ってティンベルヘン将軍のそばまで来た。ティンベルヘン将軍も馬から降りるので、氏忠もそのようにした。

「これはこれはティンベルヘン将軍、お待ちしておりましたよ」

 ウーレンベック将軍が最初に声をかけ、ティンベルヘン将軍はニコッと笑った。

「ご、ごめんなさい。援軍のつもりがすっかり遅くなって、着いた時にはもう決着はついていくさは終わっていたなんて」

 まずはウーレンベック将軍と、続いてクラーセン将軍、ヤン将軍と鎧を着たままティンベルヘン将軍は軽く抱擁した。

「お后様もニコラス皇子様も、あなたはきっと来て下さると心待ちにしております」

クラーセン将軍がそう言っている間に、ティンベルヘン将軍は小首をかしげた。

「テイセン将軍は、お后様とともに?」

「それが……」

 ウーレンベック将軍は顔を曇らせて、彼らが陣を張っている修道院前の広場の片隅に運んで横たえたままになっていたテイセン将軍の遺体までティンベルヘン将軍を案内した。

「なんと、おいたわしい」

 ティンベルヘン将軍はその前に立って膝をつき、前に涙を浮かべて短く祈りを捧げていた。立ち上がったティンベルヘン将軍は、三将軍を振り返った。そして氏忠を示した。

「そういえば、この方がヴォルテルス将軍を討ちとったとか」

「ええ、こちらへ」

 クラーセン将軍に案内されて、少し山の傾斜を下った森の中に、巨大なヴォルテルス将軍の遺体がまだ転がったままだった。

 なんと、鎧までもが斬り刻まれて、ほとんどばらばらにされた状態で、血まみれでヴォルテルス将軍は転がっている。

 これがあの天をも恐れさせた白い虎の異名を持ち、その名を聞いただけでも誰もが震えあがったデルク・ヴォルテルス将軍なのか……。今はただの、動かない鎧を着た肉の塊でしかない。

「ど、どうすればあの、あのヴォルテルス将軍を、ここまで切り刻むことができたのですかあ?」

 ティンベルヘン将軍は驚きながらも、ヴォルテルス将軍の遺体にも立ったまま軽く手を合わせた。


 そうして三将軍は凱旋という形で、ティンベルヘン将軍と氏忠を伴って修道院に戻り、皇后と皇太子の前に畏まった。

 まずはウーレンベック将軍が、ヴォルテルス将軍率いるエティルンド軍三万が敗走し、ヴォルテルス将軍を討ちとったこと、そしてその軍功はすべて氏忠にあることを報告した。

「おお、おお、まさか、まさか、あなたがあのヴォルテルス将軍を倒すなんて……そして三万もの軍をすべて討ちとり、そして敗走させるなんて……あなたはいったい何者なのですか?」

 冗談めかして言いながら皇后は椅子から立って、氏忠の所まで歩いてきた。

「お立ちなさい」

 そして立った氏忠の手をしっかり握った。本当にうれしそうに、皇后は何度もうなずいていた。

「でもお后様、ヴォルテルス将軍が倒れた後、紫の…」

 氏忠がそこまで言いかけた時、皇后は首を小さく左右に振って言葉を制した。ほかの者には見えていなかったようである以上、言ってはいけないのか……。ということは、皇后には見えていた? いや、あの時修道院の三階からあの黄金の光を発して魔王を退散させたのはほかならぬこの皇后であると、氏忠はあの時はっきり確信したはずだった。

 だが、このことはこれ以上話題にはできないようだった。皇后は一度椅子に戻った。

 今度はティンベルヘン将軍が皇后の前に出て、遅参の詫びかたがたあいさつした。

「おお、お待ちしていましたよ。いいのです。戦は終わっていたとしても、あなたがここにいるだけでどれだけ強みになりますことか。あなたは亡き皇帝陛下も重く用いられていた方ですから」

「恐れ入ります」

「本当によく来てくれました」

 皇后は、涙をぬぐっているようだった。一見、大丈夫なのかなあこの人と思われるような、危なっかしい、将軍らしからぬ女の子を皇后はかなり高く評価している。

 その後、皇后は戦闘の様子をもっと詳しくウーレンベック将軍に聞いていた。ところどころは当事者である氏忠に、皇后からの直接の質問もあった。

 テイセン将軍の戦死の報告には深くうなだれて、涙を流していた。

 報告がひと通り済むと、皇后は立って、その場にいた将軍たちや宰相など重臣たち全員に向かって毅然として言った。

「ヴィッテ・テイヘルのデルク・ヴォルテルス将軍はすでに討ちとられ、三万の軍も山が崩れるかのように、明け方から日の出までの間のわずかな時間に討ちとられたと聞きました。今や、このままここに座していていいのでしょうか? あるいはさらに帝都から遠くへ逃げる必要もあるでしょうか? 今こそ、帝都に戻りましょう!」

「いや、お后様!」

 宰相ブリンクマン卿が手を挙げた。

「お言葉を返すようですが、帝都は今でも反逆者メーレンベルフ伯メインデルトに占領されたままです。反乱軍もますます数を増やして防御を固めているとか。それに対し我らが兵は昨日は一日駆け続け、夜もわずかな仮眠を取っただけで今朝の大戦闘です。もう、疲労しきっています。それなのに今また帝都に向かって行軍を強いるのは、あまりにも不憫というもの」

 皇后は少し考えていた。別の宰相ヴェステンドルブ卿も続いて手を挙げた。

「なにしろメインデルトの軍は強い。やつらの反逆以来帝都から派遣された討伐軍はことごとく惨敗し、多くの兵が命からがら逃げかえってきたではありませんか。今やその反乱軍が、帝都に入っているのですぞ。それに我われにはもう、魔導大将軍のテイセン将軍がいない」

「たしかに」

 皇后の声は凛と鳴り響いた。それまでざわついていた人々も、静まりかえった。

「反乱軍は非常に強く、我われの軍は苦戦を強いられました。ついには帝都を追われ、ここまで落ちてきました。でも、反乱軍が強かったのはメインデルトが強いからですか?」

「いいえ」

 人びとは口々に叫んだ。

「ヴォルテルス将軍がいたからです!」

「そうです。ヴォルテルス将軍が強かったからです!」

 皇后はうなずいた。

「そうですよね。でも、そのヴォルテルス将軍はもういません!」

「「「「おお!」」」」

 人びとは安堵の声をあげた。

「我われはテイセン将軍を失いましたけれど、敵のヴォルテルス将軍もそれを取り巻いていた八人の騎兵ももういません。ヴォルテルス将軍はたしかに強かった。でも、その自分の力を過信していたところに落とし穴があった。自分が強いだけに、兵の力など当てにしていなかったのです。自分がいれば兵などいらないとまで思っていたかどうかは知りませんが、メインデルトが力ずくで集めた三万もの兵はただの寄せ集めだったのです」

 そう言われてみれば確かにそうだ。

「ヴォルテルス将軍の名を出して寄せ集めたのは金をもうけ過ぎて暇な商人、酒びたりの少年なども多くいました。でもいちばん多いのは無理矢理徴兵された農民たちです。彼らはろくな訓練も受けずにいきなり武器を渡されたのです。戦のやり方など知っているはずもなく、また主君への忠誠心も全くありません」

 ただ、この修道院の周りにいる味方の千の兵力も似たり寄ったりなのだが、と氏忠は思っていると、皇后はまるでそれを見透かしているようだった。

「しかし、その寄せ集めた兵力を、ヴォルテルス将軍はただの奴隷の群れか、家畜の群れくらいにしか思っていませんでした。我われのように、一人ひとりの兵を人として大切にはしていなかった。そのヴォルテルス将軍も亡き今、反乱軍にヴォルテルス将軍に匹敵するような将軍は他にいますか?」

 誰も何も言わず、静まりかえったままだ。皇后は、少し間をおいてからさらに言った。

「私は傍系貴族の出で、もったいなくも皇帝陛下にお目をかけていただき、皇后にとりたてていただきました。それでも雌鶏めんどりが時の声を挙げるようなことはしたくないと、これまでは身を慎んでまいりました。でも、今日だけは言わせてもらいます。今が潮時です。ヴォルテルス将軍を失ったメインデルトは、もはや手足を失ったのも同然です。この時を逃せば二度と帝都には戻れなくなります」

 最初に帝都に戻ることに反対した宰相ブリンクマン卿が、ばつが悪そうにうつむいて言った。

「私めが反対しましたのは、本当は帝都に戻ってもどうすれば奪還できるか策が思いつかなかったからです。兵が疲れている云々は口実でした。全くもってお言葉の通りだと思います。ただ」

 ブリンクマン卿は目を挙げた。

「兵が疲れている、これだけは本当でございます。帝都に戻るにいたしましても今すぐではなく、せめて休息の時を兵に与えて、明日の朝帝都に向け出発ということでいかがでしょうか?」

「そうですね。それでこそ兵の一人ひとりを人として大切にするということですね」

 ブリンクマン卿の案はすぐに皇后に採用されたが、氏忠もほっとした。はっきりいって今すぐまた帝都に向けて出発ということになったら、氏忠にとってもそれはきつかった。彼もまた、休息を欲していたのである。

 氏忠は三人の将軍やティンベルヘン将軍とともに、まずは食事をとった。昨日からまともなものは口にしていない。そしてそれは敵兵から回収した食料ではなく、修道院から出されたまともな料理だった。氏忠はもはや客人でも一騎兵でもなく、英雄として遇されていた。

 明るいうちはとにかく体を休め、夜は氏忠には修道院内の一室が与えられたので、ぐっすりと眠った。

 だが、眠りに落ちる時の降下感ではなく、なぜか体全体が上昇しているようだ。

 気がつくと、明るく温かい花園の中にいるような幸福感を彼は味わっていた。まるで異世界へと転移したのではないかと思う。だが、彼はすでに異世界にいる。その異世界からさらに別の異世界へと召喚されたのかと不思議に思っていると、目の前にまばゆいばかりに全身が黄金色に輝く人が立っていた。氏忠は安心感と懐かしさとうれしさがわき上がって、たちまち涙まで流していた。その人は氏忠の故国の将軍クラスの鎧をつけ、黒い髪はみずらに結っている。まさしく昨日の朝、氏忠の召喚に応じて出現し、九人に分身したあの魔人だった。今日は分身しておらずに一人であり、厳しいながらも慈愛に満ちた顔をしていた。

 そして、まるで天にも届くかと思われるような声が氏忠の心の中で響いた。

「ここは波を隔てた遥か遠い世界なれど、我はなんじと同じ国の者でツツノオの神と申す。常に汝から離れず護っておる。さのみにあらず、汝とは天界にても、ともにありしものぞ」

 すると、氏忠の目の前に立派な鎧と馬の具足など、そして巨大な剣が現れた。そして魔人は消えた。いや、魔人ではなく神だ。それも、自分の故国の神だ。

 氏忠は満たされたような幸福感に涙ぐんでいると目が覚めた。もう明るくなり始めていた。夢か……そう思うものの、それにしてはあまりにも現実味を帯びていた。

 その時氏忠は、自分のそばに鎧があるのに気付いた。皇后から貸し与えられた騎兵の鎧は脱いでそばに置いてあったが、その隣に寝る前はなかったはずの鎧と馬の具足一式が新たに置かれている。間違いなく、夢の中の魔人から賜った鎧だ。それが現実のものとして自分の身のそばにあったのだ。日本式の挂甲けいこうの鎧で、この国の鎧とあまり大差はないけれど、騎兵どころか将軍クラスの人が着用するものだった。そして剣も普通の剣ではなく、力強い霊気が漂ってきているのが分かった。紛れもない魔導剣だ。

 夢ではなかった……本当に神が現れて、これらの武具アイテムを賜ったのだ……そう思うと氏忠はその鎧と剣を抱きしめて、ひとり涙にくれていた。


 やがて夜もすっかり明けたころ、部屋のドアをノックする音がした。

「どうぞ!」

 ドアを開けて顔をのぞかせたのは、皇后の侍従の一人だった。

「お后様がお呼びです」

 そう言われて、氏忠は泣きはらした目をこすり、案内されるままに皇后の前に来た。皇太子も皇后とともにいる。そして、そこには皇后の兄のエルベルト・ウーレンベック将軍、そしてエルケ・ティンベルヘン将軍も呼ばれていた。

 氏忠が畏まると、皇后はすぐに氏忠に立つように促した。

「朝早くから申し訳ない。実は亡き皇帝陛下のご遺訓の一部を、こちらのお二方の将軍にご覧いただいていました」

 皇后は穏やかな表情で、ウーレンベック将軍が手に持つ書状を氏忠に渡すように指示した。氏忠はうやうやしく両手でそれを受け取り、押し戴いてから開いた。開いたが、氏忠は困惑した。彼はまだこの国の文字が読めないのである。

 ウーレンベック将軍はそれを察した。

「たとえ元の身分が低くても、あるいは年少であっても、軍功を立てた者に官職を与えるのを惜しんではならない――そう書かれております」

 氏忠はそれを聞いて、その遺訓をウーレンベック将軍に返した。

「氏忠」

 皇后は氏忠を呼んだ。氏忠が皇后を見ると、皇后はゆっくりと話し始めた。

「今回のあなたの軍功は山よりも高く、亡き皇帝陛下のご遺訓によれば官職を与えるのに何ら支障はありません。つきましては、今回不幸にも戦死されましたクーン・テイセン将軍が就いておられた魔導大将軍の地位を、早急に補充しなければなりません。でも、昔から亡き皇帝陛下に仕えていた者たちを見渡しましても、適任者としてこれといった人物が浮かんでこないのです。そこで」

 皇后は一度言葉を止めた。

 氏忠は、まさかと思って息をのんだ。

「あなたを魔導大将軍に任命します」

 その、まさかだった。氏忠は、しばらく体が固まった。目は見開いていて皇后の姿を見てはいるが、何も見えていないかのようであった。実際には次の瞬間だが、氏忠にとってはかなりの長い時間が経過したように感じた後で、ウーレンベック将軍とティンベルヘン将軍の拍手で我に返った。

「「おめでとうございます」」

「え? ちょっと、ちょっと待ってください」

 氏忠はしどろもどろだった。

「たしかに以前に官職を頂けるというお話はありましたけど、いくらなんでもいきなり魔導大将軍だなんて、そんな大役をこの僕が」

「いいのですよ」

 皇后は微笑んでいる。

「今回の戦での軍功から考えましたら、それでもまだ足りないくらいです。あなたはこの国の恩人です」

「ここはお受けなさいませ」

 ウーレンベック将軍もそう言ってくれる。そこで氏忠は、例の夢の中の魔人から授かった鎧を思い出した。だからこそその鎧は将軍クラスの鎧だったのか……つまり、自分はここで大将軍の役を受ける定めだったのか……そう思った氏忠は、もはやその話をありがたく頂戴するしかなさそうだった。

 続いて朝食となり、その席で皇后から氏忠の魔導大将軍就任が発表された。

もはや誰も顔を曇らせる者も、反対する者もいなかった。盛大な拍手喝采のもと、氏忠は立ち上がって緊張した面立ちで頭を下げた。

 食事が終わるとすぐに、帝都に向けての行軍が始まる。反逆者はまだ鎮圧されたわけではないので、身が引き締まる。軍勢は皇后が元から連れてきた千人にティンベルヘン将軍の手勢三千を合わせ、合計四千の兵力となった。

 氏忠はもはや皇后と同じ馬車ではなく、四将軍の一人の魔導大将軍として、他の三将軍およびティンベルヘン将軍と並んで馬上だった。

 例の夢の魔人から賜った将軍の鎧を着け、背には剣を装備し、そして手には誰よりも巨大な弓を持っていた。氏忠がその鎧を着したことについて、不思議と誰も気に留める者はいなかった。

 この行軍は追っ手から逃れる必要がないので、歩兵が普通に歩くのと同じ速さで騎兵や馬車も進んでいた。

 だから、ゆっくりとした速さであり、時々村のそばを通過するときは村人総出で出迎えて歓迎してくれた。中でも氏忠の軍功の噂は瞬く間に拡散しているようで、誰もが氏忠を歓声で迎えた。

 さらには、帝都から例の山に向かう途中に逃亡した兵も次々に戻っては将軍たちの前に出て復帰を願い、またああでもないこうでもないと言い訳するのが氏忠にはおかしかった。

「行軍の途中で持病が悪化しまして」

「親が病の床に伏せっているとの知らせを受けましてやむを得ず」

 いろいろと見え透いた口実を並べているが、とにかく今はまた軍に戻りたいというのだから拒否する理由はなかった。ウーレンベック将軍はそのすべてを許していた。

 だから、軍勢は四千から瞬く間に膨れ上がっていった。


 こうして、途中の村の教会や修道院を皇后や皇太子の宿として二泊ほどして、三日目の朝方にはいよいよ帝都の高い城壁が見える所までやってきた。

 当然のことながら、帝都を占領しているメーレンベルフ伯の手勢によって城門は固く閉ざされ、守り固められているだろう。よく見ると、その城壁の外にもかなりの数の兵力が出てきて布陣している。

 皇后・皇太子軍が近づき、互いの顔が微かに分かる所まで来ると、ウーレンベック将軍は全軍を止めた。

 いよいよ帝都奪還のための決戦が行われようとしている。皇后の軍は、帝都を横に広がって布陣した。両者そのままにらみ合っていたが、氏忠はウーレンベック将軍の前に馬を進めた。

「ここは、自分に任せてください」

「いいでしょう」

 氏忠の力を目の当たりに見ているウーレンベック将軍は、二つ返事で許可した。

 氏忠はたった一騎、敵の布陣する方に向かって馬を走らせた。そしてまだ相手の矢は届かない距離で両手を広げ、腕を伸ばして詠唱を唱え始めた。たちまち多くの黄金に光る魔法陣が出現した。その魔法陣が回転を始めるとそこから次々に矢が発せられ、敵兵めがけて雨のように降り注いだ。彼らの鎧は魔法の矢を防ぐすべもなく、分厚い胸板をも貫いて矢は刺さり、多くの軍勢の兵士がまるで風になぎ倒されるように倒れていった。

 そして、また両手を広げ、召喚魔法に入った。

 前に出現したのと同じ魔人が今回も出現した。夢に出てきた時はツツノオの神と名乗っていたので、魔人というよりも魔神というべきかもしれない。その魔神が帝都の城壁の門のそばまで行くとたちまちまた九体に分身して、そのまま城壁を軽々と飛び越えて帝都の中にと入っていった。

 城門の内側でもかなりの数の軍勢が門を守っていたが、突然現れた魔神たちの前ではなすすべもない。彼らは九体の魔神に次々になぎ払われて、その場に倒れて絶命するものと鎧も武器も捨てて一目散にインテルミナーティ城の方へと逃げ帰るものなど、氏忠は門の外にいながらにして門の中での魔神たちの活躍はまるで自分の目で見ているようにすべて見ていた。

 魔神たちは内側から門を開けると、さっと姿を消した。

 氏忠は例のツツノオの神から賜った魔導剣を抜いた。まぶしいほどの光をその剣は発した。氏忠はその剣を、開いた門に向かって振りおろした。すると剣先から光の束が伸びて、門の中へと放たれて行った。

 氏忠は、ほかの将軍たちのもとに戻った。

「城門が開きました。一気に帝都に突入しましょう」

 ウーレンベック将軍もうなずき、全軍に指示を出して、軍勢は一気に帝都に突入した。

「これは、いったい」

 城壁の中でまた一戦と覚悟していた将軍たちは、その光景に驚いた。敵はもう誰もいない。城門からインテルミナーティ城まで続く石畳の道の上にはあっちこっちに敵の兵の屍が倒れているが、彼らは全身を剣で斬り刻まれ、鎧までもが切断され、血まみれになって倒れている。そんな敵兵のかばねよりもはるかに多く道の上に散乱していたのは、逃亡した兵が脱ぎ捨てて行った鎧や、捨てていった剣、弓、槍などの武器であった。それらがまるで秋の落ち葉のように石畳を覆い、歩くのが困難なほどだった。

 そんな所へ皇后・皇太子の軍はなだれ込んだ。ただ、皇后、皇太子自身の乗る馬車は近衛上将軍のヤン将軍と多くの騎兵団が警護し、城壁の外で待機していた。

 軍勢が目指すはインテルミナーティ城だが、城に着くまでの間、彼らは何の抵抗も受けなかった。呆気なく軍の先鋒はインテルミナーティ城の柵の門に達したが、柵の中は静まりかえっていた。敵兵の姿も全く見えない。

 肩透かしを食らったような将軍たちだったがそれでも油断せず、まずは先鋒の騎兵団と将軍たちのみが城内に入った。

 庭には敵はいないといっても、丘の上にそびえる宮殿の中は分からない。

 メーレンベルフ伯は宮殿に入り、すでに皇帝のみが座ることが許されている玉座に座ったとの情報も得ている。

 もし、宮殿の中に敵兵が充満していて、あの尖塔の上からでも一気に矢を射かけられたりしたら、今度はこちらがたまったものではない。だから、うかつに近づけない。

「自分が見てまいります」

 氏忠は馬に乗ったまま、宮殿の玄関に至る坂を駆け登った。そしてまたそこで、あの魔神を召喚した。魔神は氏忠が何も言わなくても、すでに氏忠の意は汲んでいる。今度は普通の人間と等身大でおびただしい数に分身し、宮殿の中に入っていった。魔神たちの目がすなわち氏忠の目であった。魔神たちが戻ってくる前に、氏忠には宮殿の内部の様子が手に取るように分かった。宮殿の中は空であった。

 氏忠は戻って、将軍たちにその旨を報告した。

「おそらくは宮殿の裏山の中へ逃げたな」

 クラーセン将軍が声を挙げる。

「ここは、わたくしに手柄を立てさせてください」

 いつものおどおどした頼りない感じでティンベルヘン将軍が申し出ると、ウーレンベック将軍はそれを許可した。

「わが軍は我に続け!」

 さっきのおどおどした女の子はどこに行ったのかと思うほどの豹変で、ティンベルヘン将軍は堂々と自分の一万の兵を指揮して宮殿の裏の方へと駆けて行った。

 まるでかよわい女性のように見える普段と、戦闘時の勇ましい堂々とした女将軍とのギャップの激しさには、氏忠は舌をまいていた。

 とにかく、宮殿は奪還したのも同然だ。

 ウーレンベック将軍は皇后と皇太子を警護して城壁の外に待機しているヤン将軍に伝令を発し、皇后と皇太子に宮殿にお戻りいただくよう手配した。いつまでも二人を城壁の外に待たせるわけにもいかない。

 その二人の馬車が帝都の中に入ると、人びとの歓声はまた一段と高まった。

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