第3話


たくさんの規則的な足音が聞こえて、鶴は目が覚めた。鶴の体は横にされ、規則的に上下に揺れている。

鶴の目の前は真っ暗だった。視界がかすんでいるのかと思い、何度も瞬きをする。次第に暗闇に目が慣れると、鶴は首をできる限り回し、指を伸ばした。すぐ手の届く場所に、高さの木の塀のようなものが張り巡らされている。鶴は自分が、箱に閉じ込められていると気が付いた。

鶴はすぐに体に力を込めた。しかし体は少しも自分の思うようにならない。足首や手首に引き攣れを感じた。がんじがらめにされて、板に貼り付けられているということに鶴は気づいた。鶴は叫び声を上げようとしたが、猿轡をはめられていて声を上げることさえできない。うー、うーという声と、自分の心臓の音だけが大きく響いている。


暫くすると、足音が止まった。鶴の体は持ち上げられ、今までとは違う場所へ置かれたようだった。木と木が擦れる音がして、鶴の体はゆっくりと上下した。それに続くチャポンという音で、次は自分が船に乗せられていることに気がついた。


急に箱がガタンと揺れた。光が差し込み、鶴は目を瞬かせた。鶴が閉じ込められている箱の蓋がずれ、領主と兵士が鶴の顔を覗き込んでいた。


「鶴。ここまですればお前ももう逃げることは出来ないだろう。できればもう少し、花のある死に方をさせてあげたかったけれど。あの土砂で兵士は負傷したし、お前を探すのにもなかなか手間取ってね」


鶴は領主の顔を、恐怖に歪んだ目で見つめた。思い切り心の叫びを伝えるように。領主はそれを一瞥すると、憐れむような表情を作った。領主が目配せすると、兵士が鶴の目隠しと、猿轡を外した。

口が自由になった瞬間、鶴は言った。


「領主様にお聞きしたいことがあります」


鶴は上目遣いに領主をまっすぐに見つめた。


「母は死にましたか」


領主はしばらく沈黙した後、言った。


「ああ」


鶴は全身の毛が逆立つのを感じた。悲しみと怒りで手が震える。


「どうして」


鶴は叫んだ。涙が零れた。領主は無表情のまま、少し遠くを見つめている。彼の目線は鶴を通り越しているようだった。 しばらくして領主は呟いた。至って普通の声だった。


「鶴、お前は村人の心の支えだった」

「は?」


領主は目線をゆっくりと鶴に合わせた。領主は鶴の戸惑いを無視して話を続ける。


「人間はね、自分が一番不幸ではないと思えないと駄目なんだ。自分が一番不幸てないのなら、この世にもっと不幸な人間がいるのなら、自分は幸せなのだと思って生きている。

お前は村人とは違って働かなくていい。手に血豆を作ることもない。村人より美味しいものを毎日食べられる。きれいな服を着、一日中のんびりとしている」

「そんなこと、私は求めていませんでした」


鶴は屋敷での生活を思い出す。幽閉された、半径20メートルの生活。そこには寂しさと退屈さと、心が消えるような孤独があった。鶴はもし家に帰れるなら、それを全てを喜んで捨てた。


「お前の気持ちなんて関係がないんだよ、鶴。

人は、祭りの時にだけ、美しく着飾ったお前を見る。ただの村人の子供の一人が、高貴な存在のように、にっこりと満足気に笑う様を。村人はそんなお前に嫉妬し、憎悪を感じる。そして嫉妬と羨望の中で、それでもお前を愛す。なぜかわかるかい。

お前がじき死ぬからだよ。お前はどんなに大切にされているように見えても、限られた命だ。他の人間とお前の決定的に違うところはそこだ。お前の命をお前が決めることはでくない」


領主は淡々と続けた。口にはうっすらと笑みが浮かんでいた。


「だからね、鶴。お前の母親の命もそうなんだよ。あの女のしたことを知った時、私は嬉しかったんだ。なかなか都合のいい展開になった、とね。あの女を処刑することで、お前の不幸さが増すだろう。それは村人全体の幸福と安定を意味するんだよ。僕が一番望んでいるのはそれだよ。この安定した状態がずっとずっと続いていくこと。それがこの村の一番の幸せなんだよ。鶴にはそれ分かるでしょう」


鶴は青ざめていた。淡々と説明する領主の言葉に、鶴は怒りとともに混乱していた。

しかし、辛うじて言った。


「それは…それは嘘だ」

「嘘?嘘でもいいじゃないか。皆が幸せなら」

「ちがう、そうじゃない。誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんて幸せとは言えない」

「それなら鶴は、みんなが不幸な方がいいと思うのかい」


侮蔑の浮かんだ目に、厳しい声。鶴は青ざめながらも、息をひとつ吸い、虚空を見つめて言った。


「違う。でも、誰かが辛い思いをしているのを知っていながら、人は本当には幸せになれない」


領主は一瞬ぽかんとして、それから笑い出した。


「鶴。それは綺麗事でしかないと僕は思うよ。さ、おしゃべりはおしまいだ」


領主はそばにいる兵士に目配せした。兵士はまた、鶴に猿轡と目隠しをつけようとした。 鶴は必死に顔を背けたが無駄だった。領主は薄く笑いながら、こちらを見ている。

猿轡をはめられているとき、領主の声が降ってきた。


「お前は最初からこうなる運命だった。七年前からそれを知っていたはずだ。どうして今になって逃げられるなどと考えたのか。どうして今になって、そんな目をしてこちらを見るのだ」


兵士が鶴に目隠しをしたとたん、再び真っ暗になり、鶴は叫んだ。恐怖で呼吸が苦しくなる。やめろ、と思い切り叫んだはずなのに、聞こえるのは高い唸り声のような音だけだった。


「さようなら、鶴」


鶴は一生懸命頭を振った。目隠しは少しだけずれた。蓋が閉じられる瞬間、領主の顔がすこしだけ見えた。鶴は必死に口を動かし、首を振り回した。


「お前は間違ってる」


しかし鶴が言葉を言い終わる前に、 箱の蓋は閉められた。鶴は目を見開き、目に差し込む最後の光を絶望的な思いで見送った。


掛け声とともに、箱の頭のほうがぐいと上がった。同じように足の方も持ち上げられる。再度、鶴の体が平行になったと思った途端、箱は水の中に落とされた。

箱はゆっくりと空気を吐き出しながら、湖の底に沈んでいった。



水が四方八方の箱の隙間から滲み出て、ゆっくりと噴射するように箱を満たした。まず、背中が水に浸かった。すぐに水が鶴の体を囲み、侵食していく。髪が水に浸かり、顔に張り付いた。

鶴はもがいたが、もがけばもがくほど、箱は揺れ水が溢れた。鶴は恐怖に身悶え、 息が荒くした。しかし猿轡をはめられた状態では息も満足にすることができない。ついに箱の中は水でいっぱいになった。鶴は息を止めた。既に水を飲んでいて、咳き込みそうなのをぐっとこらえた。箱は湖底に向かい、どんどん沈んでいく。


その時だった。体を締め付けていた縄が少しだけ緩んだ気がした。数珠はそれを見逃さなかった。体をひねり、残った全ての力を使って暴れた。

まず目隠が外れた。次に、右足を縛っていた縄が外れた。 鶴は自由になった足で、棺の蓋を思い切り蹴った。蓋は開かない。鶴は再度手足に力を込めた。今度は右手の縄が取れた。右手と右足で、蓋に対し思い切り力を込めた。それでも開かない。もう息が続かない。


3度目に力を込めた時、ようやく蓋が外れた。鶴はその隙間から無我夢中で外に出た。いつのまにか両手足が自由になっている。鶴は必死に水面を目指した。


空気が足りなくて、喉が焼けるように熱い。思わず口を開けそうになるが、必死にこらえる。体に酸素が行かず、筋肉が悲鳴をあげている。だが、水を掻かないわけにはいかない。ひとかきひとかきに、鶴は最後の力を賭した。

鶴の顔はついに水面に出た。咳き込み、水を飲みながらも、足のつく所まで泳いだ。岸にたどり着いた時には、体は鉛のように重くなっていた。渾身の力を振り絞って、自分の体を自ら引き上げた。

満月が辺りを照らしていた。鶴は見つかりませんようにと祈りながら、這うようにして茂みへと進む。


鶴は寒さに歯を鳴らしながら、ふと不思議に思った。なぜあんなに簡単に縄が切れたのだろう。次は自分の服の中に入っていた、水を吸った黄色いものを取り上げた。それは縄の成れの果てのようだった。 縄は紙でできていた。

鶴は茂みの中へ倒れこんだ。


いつまでそうしていただろう。鶴は何かの気配を感じて顔を上げた。ガサガサという音が、こちらに近づいてきている。

鶴は茂みで目を凝らした。厚い雲が垂れこめた空からは、満月の光も届かない。

逃げられるだろうか。鶴の足は震えていた。体にも力が入らない。昨日飲んだ薬が影響しているのかもしれなかった。


その時、二人の人間が姿を現した。一人は縄でつながれている。

鶴は心の中で、あっと叫んだ。つながれて、猿轡をはめていたのは、鶴を攫った男だった。鶴は一瞬、心に明かりがともるのを感じた。生きていたのか。

もう一人は領主だった。



「鶴。ここにいるんだろう。出ておいで」

領主は朗々と言った。あたりを見回し、誰も出てこないのを確認する。

「では、この男は切り捨てる。よいか」

手に持った刃物が月の光がキラリと光った。


「…だめだ」


鶴は考える前に叫んで、茂みから立ち上がっていた。鶴の頭に母の顔がよぎった。目の前で誰かが傷つけられるのは、もうたくさんだった。


「そこにいたか」


領主は笑う。

鶴は凍りついたように立ち尽くしていた。「そこへ並べ」


鶴は、縄で繋がれている、泥にまみれた男の傍へ行った。男は気を失っているようで、猿轡をはめられていた。鶴は弱弱しく笑った。



「…よく生きていたな」

鶴がぼそりと呟く。それに答えたのは領主だった。

「矢が当たったと見せかけて、矢には錘しかついていなかったのだ。協力者がいたらしい。そして必死に壁にしがみついていたところを捉えた」

「たすけてやってくれ」

「まさか。一番無様な死に方をさせるために捉えたんだ。幸運だったよ。見せしめになる」


鶴の体は冷えて重い。もう抵抗する力は残っていなかった。鶴は目を伏せた。

その時、黒い塊が鶴の足元に落ちた。鶴はそれをぼんやりと見て、また目をあげた。


男には髭がなかった。偽物をつけてあったのだろう。そして男の顔を見て、鶴はその男が自分の思っていた人物ではないことにようやく気がついた。鶴は驚きで声を出せなくなった。


その顔は領主のものだった。



「なんで」

「ばれたか。それにしてもなかなか持ったな」


領主は、今まで鶴が見たことのない表情でニカッと笑った。その目にはなぜか見覚えがあった。その声にも。

鶴は領主の顔と、領主の服を着ている男の顔を交互に見た。二人の顔は双子のように瓜二つだった。暗闇の中では、その違いが分からないほどだ。


「お前は誰だ」

「別に誰ってことはない。血の繋がりはないが、こいつに顔が似てた。それだけだ」

「影武者か」


その時鶴は理解した。鶴が知っている領主は、二人いたということを。


「何時からだ」

「数年前までだ。本物の領主は、お前んとこに遊びに来るほど暇じゃないのさ。お手玉を教えてやったろ」


鶴は男が川辺で、器用に木の実を弄んでいる様を思い出した。領主が遊び方を教えてくれたお手玉が記憶に蘇る。

困惑しながらも、鶴はどこか腑に落ちていた。家族のいない自分を慰めてくれた人。外に出れない鶴に、たまに花を手折って離れの縁側に置いておいてくれた人。

それはここに縛られている男ではない、ということ。そして同時に理解した。領主が矢を射られた日、あの時傷がすぐ直っていたように見えたのは、男が身代わりとなっていたからか、と。

そのうえで、鶴にはどうしても聞いておきたいことがあった。しかし、次に鶴が口を開きかけた時、領主が眉間に皺を寄せ、呻いた。うっすらと目を開け二人の方を見る。


鶴は男と目を合わせ、その前に立った。地面に座っている領主を、立ち上がったつるが見下ろす。それは初めての光景だった。鶴は複雑な思いで彼を見た。

領主の目は、表情を崩さない。いつもと同じように冷たい目。と同時に、心にざわざわとした不安が広がっていく。

どうしてこの男はこんなに冷静なんだ?


そしてその理由はすぐわかった。

急に、草むらから犬が吠えた。そして兵士が現れた。影が忍び寄るのようにその数は増え、二人が気が付いた時には、周りをすっかり囲まれていた。




男は領主を拘束しようとしたが、一呼吸遅かった。兵士はすでに弓を構えている。そしてその弓は、鶴と男に向かってまっすぐに引き絞られている。


領主のそばに兵士が駆け寄り、拘束を外す。男の上着を脱ぎ、上質な羽織に着替える。

「ふう」


手を挙げ、動かない二人をちらりと見ながら、領主は言った。


「なぜ、って顔だね。簡単なことだ。私の髪に匂いの強い香をつけておいて、犬どもに覚えさせておいたんだよ。人間にはあまり嗅ぎ分けられない匂いだそうだ。お前が領主でないことは、犬が離れればわかる。お前が来ることは予想の範疇だったからね」


領主は鶴を見つめ、また薄く笑う。


「鶴お前は村の真ん中の広場で犬に食わせよう。男お前は村中を馬で引いてやろう。顔をずたずたにしてからね。良い見せしめになる」

「やめろ」


こらえきれずそう言うと、領主は不思議そうな顔をした。


「鶴。もしかしてお前、この男に恩義を感じているんじゃないだろうね」


領主は鶴の顔をしげしげと見ながら続けた。

「お前の母が処刑されたのは、私のせいだと思っているかもしれないね」

「当たり前だ」

鶴は歯噛みした。


「でもそれはちがう。そもそも、お前の母親に馬鹿な事させたのはこの男だ」

「え?」

「私はその日、屋敷にいなかった。そしてこいつが、敷地のカギを開けておき、お前の母親を敷地に入れたんだ。」

「それは違う。私はずっと母に会いたいと言っていた。だから」


私のために、と言おうとした時、領主は笑い声をあげた。


「お前は何も知らないのだな。なぜそいつがお前を逃がそうとしているか分からないだろう」

「それは」

「教えてやろう。こいつは自分の罪悪感のために、お前を逃がそうとしているんだよ」

「罪悪感?」


鶴は男の顔を見た。男は、領主を睨みつけていた。領主はぴたりと笑うのを止めて言った。


「お前の母親を処刑したのは、こいつだ。こいつが首を切った」


鶴は反射的に男を見た。

「本当か」


男も鶴を見ていた。そこに弁明はなかった。

鶴は地面に膝をついた。 周りの声が聞こえなくなる。兵士がつるの後ろに回り、 体が縛られるのを、鶴は黙って見ていた。

その時、爆発音が聞こえた。辺り一面が煙に覆われる。兵士たちは爆発音と煙に視界を遮られた。そのすきに、鶴は手を後ろに引っ張られた。


「こっちへ」


鶴はかろうじて我に返った。その声に聞き覚えがあった。自分の手を引いているのは、鶴を洞窟まで案内した少年だ。肘の裏にある傷跡が一瞬見えた。そして今、鶴はその声とその後ろ姿が誰のものであるかを知っていた。 川で流されそうになった時、鶴を庇って岩にぶつかり肘にできた大きな傷 。


「雛」


妹は一瞬だけ振り返り、鶴に笑顔を向けた。

「やっと思い出してくれた」



2人は走りながら湖を離れ、川の下流に向かった。大粒の雨がびしょ濡れの着物にあたり、バツバツと音を立てた。昨日から降ったりやんだりを繰り返していた雨が、だんだんと激しくなってきたのだ。 鶴と雛は、山の中を流れる小川が、ゴーゴーと音を立てながら、勢いよく流れているのを目の端で見ていた。小川の水も、すでに増水している。


数時間、鶴と雛は歩き通した。雛は歩きながら言った。


「どこに向かっているんだ」

「吊り橋。あと少しでたどり着く。その吊り橋を渡り、道沿いに進んでいけば、となりの村へ行くための道に出られる」


道が埋もれてなければだけど。雛はそういって顔にへばりつく前髪を避けた。


「吊り橋?向こうの村に続いているあの橋か?」

「そうだよ」

「あの橋は、ずっと前に閉鎖されたと聞いたが」

「それは嘘なんだ。領主の役人や商人たちは使ってる。でも、村人に逃げられたり、物資を補給されたりしないように、村人はこの場所に来ることも、この場所について話すことも、禁止されたんだよ。見つかると殺される。でも今日は儀式のために、すべての役人がここの警備を離れ、準備にあたった。今日が逃げられる最後のチャンスなんだ。本当は偽領主が、鶴を先にとなりの村へ運んでくれる予定だったんだけど。失敗したから、私がこうして鶴を案内しているというわけ」


鶴は泥に足をとられて転んだ。雛が大丈夫かと声をかける。とはいえ、雛もさっきから何度も転んでいて、二人とも体中泥だらけだった。 鶴は口に入った泥を吐き出し、大丈夫と言った。 雛は続ける。


「お前はあの男とどうやって知り合ったんだ」

「彼は向こうから私に手紙をよこした。お前の姉を助けたくないかって。最初は迷ったよ。でも私は一人だったから。失うものは最初から何もなかった」

「お前も騙されていたのか。母さんのこと」

「いや最初に聞かされたよ」

「お前はそれでもいいのか」

「いいのかって?」


雛は振り返らないで言う。


「母さんを殺した男だぞ」

「でも彼の意思じゃないだろ」


鶴は雛の手を引っ張った。雛は手を引かれてまた転びそうになり、 眉根に皺を寄せて鶴を振り返った。


「何してんの。早く行かないと」

「お前はそれでもいいのか。母を殺した男と共謀するなんて」


雛はすこしだけ眉をひそめた。そして思い切り鶴の手を振り払った。そして歩き出す。


「待て」

「またない。歩きながらだったら聞くけど」


鶴は仕方なく歩き出した。


「鶴。鶴は知らないかもしれないけどさ。村はひどい状態なんだよ」

「は?」

「領主様が矢で射られた時、領主様が村にわざわざやって来られてね。くじを持ってきたんだ。そして全員に引かせた」


雛は淡々とした口調で続けた。


「それには番号がふってあって、その中にも赤い印がついているのと、何もついてないのがあった。そして同じ番号のものを組にさせてから、赤い印がついているくじを持っているものは、武器を与えられた。そして領主はいったんだ。何もついていないくじを持っているものを殺せと。それが嫌ならば、矢を射ったものと、その仲間を差し出せって」


鶴は絶句した。


「最初は村人全員、何も言わなかった。だって村人全員が首謀者みたいなもんだもの。領主が死ぬことはみんなの悲願だった。」


雛は木の根をひょいと避けながら、かるがると進んでいく。


「でも、そこからが大変だった。殺すなんて、慣れてないからね。無残だったよ。躊躇していると、兵士が武器を持った方を殴る。

くじは村のもの全員が引いた。老人も、女も、子供もいた。兄弟でくじを引いたものも。だから、長くは持たなかった。最初の番号の10組のものが、殴られ続け気を失った時、白い札持っている赤ん坊の母親が、矢を射ったものを指差した。鶴はこの母親を憎む?矢を射ったものを憎む?」


鶴は何も言えなかった。呼吸が浅くなっていた。

でも同時に、自分の非を認めることはできなかった。だって、男が悪くないと言うなら、母を殺したのは私なのではないか?



闇の中、川の流れるごうごうという音だけが聞こえる。雨は降り続き、 川の水量が増していた。

そして、その吊り橋は見るからにぼろぼろだった。

手すりの弦はあちこちほつれ、歩道の部分には、新しい木の板と古い木の板が交互に並んでいる。補修に補修を重ねて使用してはいるが、老朽化していることはたしかだった。

雛は鶴と自分の体を縄で結んだ。 落ちそうになったら助けてね、と軽口を叩いているが、顔は緊張していた。


雛を先頭に、二人は吊り橋へ一歩踏み出した。その途端、雛は風にあおられてバランスを崩しそうになり、手すりにしがみついた。。雨で湿った足場は、みしみしと嫌な音を立てた。


「贅肉がついてないから、煽られやすいんだよな」


雛がそう軽妙に言った。鶴を心配させないためだということが、鶴にもわかった。二人は一歩一歩、慎重に、しかし早く橋を渡っていく。眼下に流れる川の水しぶきと、雨のせいで、体中に絶えず水が伝い、体温を奪う。鶴の手のひらは強く手すりを握りすぎてチクチクした。


吊り橋を1/3ほど渡った時、叫び声がした。


「まずいな」


雛がぼそりと言った。言い終わるのとほぼ同時に、兵士たちの足音が聞こえてきた。鶴たちがここを渡ることを予測していたようだ。

二人は歩を早めた。しかし、 吊り橋が終わりに近づいたとき、二人は立ち止まった。いや、むしろそれ以上進めなくなったというほうが正しい。橋を渡っている時は、暗くて気がつかなかったが、つり橋の終わりはひしゃげて埋もれていた。土砂崩れで道が埋まってしまったのだ。

鶴と雛は、呆然とその壁を見つめた。


「土砂を登れ」


しかし叫び声で、現実に引き戻された。振り向くと男が叫んでいた。 吊り橋のたもとで、鉈を構えていた。雛が声をあげた。


「おじさん」

「早く行け」


兵士がゆっくり吊り橋のそばを取り囲んだ。 誰もが雨の中、土のような顔色をしている。

「矢を使うのはよせ。橋に傷をつけないようにしろ」


領主が叫んだ。その声には怒りが滲んでいた。

男は吊り橋に足をかけ、数歩進んだ。 剣を構える。順番に叫び声を上げて、男に向かってくる兵士を順に切り伏せていく。


鶴と雛は、それに一瞬目をやり、斜面を登り始めた。 泥は柔らかく、一歩踏み出す事に、足が泥の中に沈んだ。鶴はちらりと橋の方を見た。


「大丈夫なのか」

「わからない。でも私たちができることは、ここを登ることぐらいだ」


雛はそう答えた。



雨の音と一緒に、金属がぶつかりあう音が響いていた。兵士たちは悲痛な叫び声とともに、一人ずつ吊り橋に向かい、男と対峙し、そして敗れた。

ある者は首を切られ、あるものは切りつけられた勢いで、橋から落ちていった。

兵士の数はだんだんと少なくなっていた。 男の強さに、兵士たちの士気はだんだんとそがれていった。

ついに、しばらくその様子を見ていた領主が、進み出た。


「どけ」


男はじっと向かってくる領主を見た。大きくふうっと息を吐く。


「お前が輿の中から出てくるなんて、珍しいな」

「お前たちが死ぬところどうしても見たくてな」


男は顔を着物の袖で拭った。敵を退けているにしても、だんだんと体力は底をつき始めている。体から滴り落ちる雨に、生暖かい血が少量ではなく混じっていることに、男は気づいていた。男は息を整えながら、周りの気配に、意識を集中させた。

領主はじっと、今まで自分の身代わりであった男を見た。


「お前は七つの時に、俺から刀の振り方を教わったな」

「お前から教わった事なんて初歩の初歩だ」

「そうかもしれない」


領主が間合いに入った途端、男は間髪入れずに鉈を振り下ろした。領主はそれをするりとかわす。男が大きく動いたことで、橋がぐあんと揺れた。男と領主は、中腰になって橋のつるを掴んだ。


「でもお前は、私の身代わりとして、剣を習ったんだよ」


領主の声は相変わらず冷静だった。男は体を起こし、片手で吊り橋の手すりをにぎり、もう片方の手に鉈を持って、ひたと領主を見つめている。領主は男をつまらなそうな目で見つめている。


男は咆哮を上げながら、何度も領主に向かって鉈を振り下ろした。男が刃物を振り下ろすたび、空を切る鈍い音がし、血と汗と雨の混じった水滴が飛び散る。しかし領主は、そこがまるで吊り橋の上ではないかのように悠々と鉈から身をかわした。


「つまらないな」


漁師はそう呟いた。と同時に男の振り下ろした鉈を剣で受け流し、その勢いのまま、心臓を脇からえぐるように剣を振り上げた。男は間一髪のところで領主の剣の切っ先から逃れたが、間合いを取った瞬間に、背中が冷水を浴びせられたようにぞくりとした。


「お前は剣の振り方が大きい。太刀筋が単純だ。私の身代わりにしては、少々お粗末ではないか」

「今はもう身代わりじゃねえよ」


男は鉈を振るい続ける。まるでそうするしか選択肢がないように。しかし領主が反撃し始めると、形勢はだんだんと逆転した。 領主はまるで細い木の枝を握っているかのように、かるがると刀を振る。しかし、その太刀筋は数独、雨も二人の間の空気も切り裂き、男を圧倒する。 領主の刀が、男の目の上を掠めた。刀を受ける鉈の動きが少しずつ鈍くなる。一瞬ずつ拍がずれる。男は自分がギリギリのところで洋酒の刀をかわしていることを自覚していた。さっきから領主の太刀筋をさばくのが精一杯だった。あとどのくらいもつか。男は頭の隅で鶴と雛が逃げる時間を計算していた。


しかしその瞬間はすぐにやってきた。男が次の動作に入ろうとした時、男の肩に鋭い痛みが走った。男はそれに怯まず、最初の勢いのまま、領主のの刀を薙ぎ払い、反撃を続ける。ここで集中力を切らしたら、そのままやられる、と思った。集中力が戻り、また形成が均衡し始めた男は思った。

漁師の前に一歩踏み出した時、視界が曇った。一瞬意識がやると、額が生ぬるい。額が真一文字に来られ、血が出ていたのだということに気がついた。しかしその一瞬が勝敗を決した。領主は男を蹴り倒し、馬乗りになった。そして肩の傷の上をもう一度刺す。

男は叫び声をあげた。 領主は今度は男の 手のひらに刀を突き立てた。男は苦痛に体を痙攣させ、言葉とも叫びともつかぬ声を上げた。それを猟師は面白くなさそうに見下ろしている。


「身代わり。お前は今、何者でもないそうだな。

それならば、誰からも必要とされないはずだ。心置きなく殺せるよ」


男は荒い息をしながら、口の端だけ上げて、笑って見せた。


「なぜ笑っている」

「じゃあ聞くが、お前は何者なんだ」


領主は少し間をおいてから言う。


「領主じゃないか」

「それは役割でしかないだろ」


領主は片眉を上げた。男は踏まれた傷口の痛みに喘ぎながら言う。


「お前は孤独だ。でもお前には支配することしかできない」

「…それが支配者だ」

「支配することでは繋がりは生まれない。誰からも必要とされてないのはお前だってそうだ。俺が何者でもないんだったら、お前だって何者でもない」


領主は虚ろな瞳で男を見ていた。まるで朽ちた枯れ木のように、体中から雨が滴るのに任せている。白い着物は枯葉や泥で汚れていた。


その時、領主の足に何かがぶつかった。 領主は男の向こう側に視線をやった

そこには鶴が仁王立ちになり、土砂の中から拾った石を投げていた。


「おまえ…」


男は領主が鶴に気を取られた、その一瞬を見逃さなかった。男は鉈を思いきり投げた。鉈は刀を弾き、そのまま刀も鉈も吊り橋からこぼれ落ち、川の中に消えていく。

男は体を起こし、領主の足にしがみついて夢中で持ち上げる。男は雄叫びをあげながら領主を吊り橋の外へ出そうとする。

領主は一旦はバランスを崩し持ち上げられたが、吊り橋の手すりをしっかり握りこみ、押さえつけられた足を男の顎に命中させた。男は目眩を感じながらも、意識を必死に保つ。その間も、手は決して領主の足を離さなかった。

周りは暗く、雨でよく見えない。しかし、何かただならぬ恐ろしさを感じて、男は全身が総毛立つのを感じた。

朦朧とする意識の中で、男は地響きのような音を聞いた気がした。


と同時に、男はその地響きの正体を直感的に知った。鉄砲水、という単語が頭の中に反芻した時、誰かが大声を上げた。男はその声に従った。その瞬間、恐ろしい勢いで、大量の濁流が川に流れ込んでくるのを見た。

それは水と言うにはあまりも凶暴で、木や泥や石、全てを飲み込み、橋に襲いかかってきた。


男の体はものすごい勢いで、ぐんと引っ張られた。




男はまぶたに光を感じて、薄目を開けた。顔の一部分が暖かい。太陽の光がキラキラと、木の隙間から降り注いでいる。


「おい」


何かがおかしい、と男は思った。死んだ割には、体は冷たいし、そこらじゅうが痛い。

鶴は寝ぼけている男の顔を叩いた。


「おい。お前はまだ死んじゃいない」

「あ?」


鶴に心を読まれたようで、男は顔をしかめた。顔の筋肉を動かすと、額がツンと引き攣れる。鶴は男の横に、膝を抱えて座っていた。泥だらけで疲れきってはいるが、大きな傷はなさそうだ。男は安堵し、起き上がりかけて、男は苦痛に呻き声を上げた。


「まだ起きない方がいいぞ」

「そういうことは早く言ってくれ」

「お前が勝手に起きたんだろう」


男はまた横になりながらつぶやいた。


「妹はどうした」

「今水を処理してる。汚泥ばかりだから、飲み水を作っているんだ」

男はまた、しばらく黙ってから言った。


「何で俺は生きているんだっけ」

「私たちがお前を引き上げた」

そう言って鶴は、橋のたもとに倒れている木を指差した。

「あそこに縄を引っ掛けて、お前を引き上げたんだ」

「よく持ち上がったな」

「お前に教わったやり方だ」


なるほどと男は思った。岩場で縄を使っていた時に、鶴に数種類の縄の結び方を教えていた。重さが1/4になる縄の使い方も、鶴はその時に学んだ。


「どうりで腹が痛いわけだ」


男は最後の最後で、領主を掴んでいた手を離し、鶴が叫んだ声にしたがって、縄を輪にしたものに体を突っ込んだのだった。

男は腹から長くため息を吐いた。

目線の先には、水を含んだ葉が擦れて揺れるさまと、ゆっくりと雲が過ぎ去っていく空があった。

台風が去った後の空は雲ひとつなく、水溜りに太陽が反射してきらめいている。世界はどこまでも明るく、澄み切っていた。


「お前はこれからどうするんだ」

「さあな。村に戻って領主の代わりでもするか」

「案外良いかもしれんな」


鶴はさらりと答える。男は鶴の顔をげんなりと見た。


「反対しろよ。殺されちまうよ」


鶴は男をちらりと見下ろす。そして、少し間をおいてから言った。


「私たちと一緒なら大丈夫じゃないか」


男は目を見開いた。


「お前たち村に戻るのか」

「ああ」

「快く受け入れてくれる奴らばっかりじゃないと思うが」

「そうだな。でも今、村はボロボロだ。私も何かしたい。どうしてもさせてもらえなかったら、その時に考えるさ」


男はまた空に目線を戻した。そして自分に言い聞かせるように言う。


「何もさせてもらえないってことはないだろう。お前はもう巫女じゃない」

「ああそうだな。お前も」

男の頬が緩んだのを鶴は見た。

その顔は 血と泥で汚れてはいたが、 鶴が7年前、屋敷に来た時に見た笑顔と同じだった。



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土と鶴 湊川晴日 @masamikira

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