第2話

「離せ」


鶴はそのまま担ぎあげられた。鶴は兵士の腕の中で、がむしゃらに体を動かした。しかし体はしっかりと捕まえられ、動かない。

兵士たちはゆっくりと山を下っていった。鶴は運ばれながら、目に涙がにじむのを感じた。やっと、やっと二人とも助かったと思ったのに。鶴は悔しさで呻いた。

暫く歩くと、視界の開けた場所に出た。そこには簡易的にだが、幕が張ってあった。鶴はいつの間にか、その中に通されていた。


「鶴」


背後から名を呼ぶ声に、鶴はびくりとした。

柔らかい、少し高い声。巫女として屋敷で生活するようになってから、鶴の名を呼ぶ人間は一人しかいなくなった。

鶴はゆっくりと振り向いた。そこには見たことのある顔が並んでいた。領主の側近の兵士たちだ。その中に、一際目立つ人物がいた。透き通るように白い肌と、滑らかに光る分厚い着物を纏っている。


「領主様…」


鶴そう言って絶句した。領主が祭事ごと以外で外に出てくるのを、鶴は初めて見た。

領主は鶴を一目見て、一瞬だけ顔をゆがめた。


「鶴。お前を心配していたよ」


領主が自分の姿にむける視線に、鶴は急に恥ずかしくなった。着物は破れてほつれ、真っ黒に汚れている。そこから飛び出る四肢は痣と擦り傷だらけだ。

自分では見れないが、顔や髪もさぞ見苦しい状態なのだろうと、領主の態度を見ていて思った。しかし領主はそれに言及せず、ただにっこりと笑った。


「大変だったね。疲れているところ、悪いんだが、もう儀式の地へ向かわなければならない。まず体を清めて、それから」

「領主様。村人はみな幸せに暮らしているのではないんですか」

「え?」

「私に、嘘をついていたのですか」


領主はきょとんとした顔を向けた。


「嘘じゃない。お前にそう言った人がいたのか?可哀そうに」

「私は…もう騙されたくないんです」

「もう騙されているじゃないか」


領主は眉をひそめながら可笑しそうに笑う。そして鶴の顔を覗き込んだ。


「村人の暮らしが辛いと言ったものがいたのか。なるほど。辛いのは確かにそうかもしれない。しかし、他の村ではそうではないのか?どこか別の場所に行けば、畑を耕すのが楽になるとでも?それを彼らは確かめてみたのか?」

「それは…」

「お前は遠出して、嘘ばかりを集めただけだよ、鶴」

「でも」


鶴の声はだんだんと小さくなった。鶴は絞り出すように言った。


「でも…私はいけにえになんてなりたくない」

「鶴」


領主はゆっくりとため息をついた。鶴の肩を両手でつかみ前後に揺らすようにして、諭すように言う。


「私はお前がかわいい。大切に思っている。でも、お前が死ななかったら皆がひどい目に会う。水害にあってたくさんの人が死ぬ。川を鎮めるのはお前の役目だ」


鶴は涙をためて、領主の目を見た。領主は目をそらさずに言った。


「私はお前を殺したくない。でも、それにお前が役割を放棄したと言ったら、村のものが黙っていないのではないか? 」


鶴はびくりと震えた。


「村のものは毎日毎日血豆がつぶれるまで鍬を振り、お前の半分以下の食料を食べて生きている。

お前は今までろくに外にも出ず、毎日たらふく食べ、良いものを着て祭りに参加するだけだった。それが許されているのはなぜかわかるか?」


領主がもう一度、鶴を強く揺さぶった。鶴は喉が詰まったように何も言えなくなる。


「それは鶴、今日お前が死ぬと思ってきたから、みんなは受け入れてきたんだよ。

お前がそれで生きるとなったら、皆はどう思うと思う?母親はどうなると思う?酷なことを言うようだけど、お前のために本当のことを言おう。鶴。お前を受け入れてくれる場所などもうどこにもないんだよ」


鶴は話を聞きながら、だんだんと体が重く動かなくなっていくのを感じていた。鶴は下を向きながらぽつりと言った。


「男は死んだんでしょうか」


領主は意外そうな顔で鶴を見た。


「確かめてはいないが、そうだろうね。それがどうかしたのか」


鶴は涙があふれそうになるのをぐっとこらえた。ここで泣いても何にもならないのはわかっていた。領主は鶴の様子を見、助け舟を出すように言った。


「お前は優しいのだね。ではあとで兵士に確認してもらおう。死んでいたら、 その場合はきちんと土に埋めてあげるから。さ、早く着替えて、輿に乗りなさい」


鶴は兵士たちに促されるまま、領主の言葉に従った。相変わらず風は強く、灰色の大きな雲が空を覆い、次々と流れていく。雨もぽつぽつと降り始めたようだった。

鶴は簡単に体を清め、着替えさせられた後、小さな輿へと詰め込まれた。洞窟に運ばれた時の豪華な輿とは違い、小さい輿に簡単な装飾を施しただけのものだった。

体のすぐ横で、小さな扉が閉じられ、中は暗くなった。外から閂が差し込まれる音がした。



一行は目的に向かい早足で進んだ。儀式は満月の日、つまり明日執り行われることになっている。それまでに巫女を、ここ一帯の川の水源となっている、湖のほとりまで届けなければいけない。山の麓から湖までは、通常二日かかる。一行は夜も休まず歩を進めた。


鶴は輿の中で揺られながら、 ぼんやりと壁にもたれかかっていた。

鶴は目線を落とし、美しい白い着物を見た。それは今や、とてもちぐはぐなもののように思えた。擦りむけて血がにじんだ膝や、力を入れすぎて浮いてしまった指の皮だけが、本当の自分の残滓だと感じた。


鶴はまた、自分の人生が終わるということを、どこが他人ごとのように感じていた。逃げようと考えると、母の顔が浮かんで、動けなくなることの繰り返し。

さらわれて逃げた二日間は、長い夢を見ていたように今は思えた。しかし鶴は今、この状況に違和感を感じていた。二日前だったら、けして感じていなかった違和感だ。 元いた場所に戻って来ただけなのに、今の鶴は全く落ち着けなかった。

頭の中で、男が稜線の向こう側に落ちていく光景が浮かんでは消える。

鶴は少しだけ不思議に思った。自分を殺そうとした男に、かわいそうという気持ちを持っている自分を。


輿の屋根を叩く雨の音が、だんだんと大きくなっていった。雷鳴が鳴り響き、泥の匂いが鼻をつく。

輿は何度もがくりと揺れた。輿を運んでいる兵士が、何度も足を滑らせてるようだ。そのたびに鶴は、洞窟を出て行った日のことを思い出した。それは遠い昔のことのように鶴には思えた。


激しい雨音と寒さの中で、うつらうつらとしていた時、鶴は何かの音を聞いた気がした。地鳴りのような音だった。次の瞬間、振動と共に何かが地面に叩きつけられるような、大きな音が響いた。鶴の体は放り上げられ、鶴は輿の柱に頭をしたたかぶつけた。何かにすごい勢いで押されたようだった。見ると輿の角が大きくひしゃげていた。激しい痛みの中、鶴は遠くで誰かが叫んでいるのを聞いた。


「土砂崩れだ」

「手の空いているものはこっちを手伝え」


鶴は外を見ようとしたが、小さな窓の外は真っ暗で 、何も見えない。今度は体中の力を込めて、扉を開けようとした。しかし、扉は外からしっかりと閂がかかり、びくともしない。

生暖かいものが首筋に触れ、鶴は背中に手をやった。ぬらりと手についたそれが、血だと鶴には分かった。

息が苦しい。鶴はひしゃげてさらに小さくなった輿の中で膝を抱え、鼻を抑える。独特の泥の匂いが輿にこもっていた。


「鶴」


鶴は驚いて顔を上げた。領主が自分を呼んだのかと思ったのだ。


「鶴」


しかし2度目に聞いたその声は、領主のものより、ずっと幼かった。


「…誰だ」


都度は戸惑いながら聞いた。


「よかった。生きていた。中から扉を開けることはできない?」

「それは無理だ」


鶴は戸惑いながらもそう答えた。答えながら、次は注意深く記憶を辿る。しかし鶴の記憶の中には、その声の主を見つけることができなかった。


「ちょっと扉から離れてね」


鶴が後ろへ少し身を引くや否や、鋭利な刃物が輿の天井から飛び出た。鶴は驚いて床へ縮こまった。しかしそれでも距離はあまり変わらない。輿はあまりにも小さい。

刃物は何度も輿の天井を突き破った。乱暴に開けられた穴から、水滴が入ってきた。


べりべりという音がして、輿の天井が開いた。輿の材料に使われていたいぐさがパラパラと鶴の顔に落ちてきくる。それと同時に、冷たく大粒の雨を孕んだ風が輿の中に入り、次々と腰の中に点を打つ。

鶴が再度顔を上げた時、雨の代わりに現れたのはびしょ濡れの少年の顔だった。はっきりとした眉に、涼やかな目。鋭角な顎の線。髪は垂れ、顔に張り付いているが、こんなにびしょ濡れでなければ、もう少し爽やかに見えるだろう。

鶴はその顔に見覚えがあった。鶴はすぐに、洞窟で見張りをしていた幼い少年のことを思い出した。


「行こう」


鶴は言われるままに立ち上がった。そして輿から顔を出して驚いだ。輿の右半分が泥と木で埋まっている。もう少し道の先へ行っていたら、と思って鶴はぞっとした。輿を担いでいたものは、うまく逃げられただろうか。

少年は懐から履物を出して鶴に渡した。履物は既に水を吸っていた。鶴は履物を履くと、天井から差し出された少年の手を取った。輿の外に出た途端、凄まじい雨と風で、鶴もすぐさまびしょ濡れになる。


「急いだ方がいい。いつ兵士が帰ってくるかわからない」


鶴は急かされるままに進んだ。しかし早足で進みながらも、不安が湧き上がってくるのを感じた。鶴は、ずぶ濡れになりながら自分の手を引く少年に聞いた。


「お前は誰だ」


少年は歩を緩めずに、ちらりとこちらを見た。


「幼馴染だよ。名前は菊太。鶴は、もう忘れちゃったかもしれないけど」


幼馴染。鶴は言われたことを反芻した。鶴が、屋敷に巫女として迎入れられたのは7歳の時だ。それより前のことは、あやふやな記憶でしかない。巫女として屋敷に入った当時のことでさえ、はっきりとは思い出せないのだ。屋敷に来た当初は、毎日家族を思って泣いていたというのに。

しかし、彼の顔に見覚えがある気がしたのは確かだった。いいようのない懐かしさと不安が、胸に広がる。


二人は泥に足を取られながらも、できるだけ急いで、草木を踏みしめながら選んで進んでいった。鶴は菊太を試すように言った。


「幼馴染なら、私の家族のことも知ってるだろう」


菊太は少しだけ間を置いてから答えた。


「もちろん。鶴のお母さんは美人で、優しくて、明るくて。声が大きくてよく笑う人だった。お父さんは大工さんだったよね。屋根を直してくれた。僕も壁を塗るのを手伝ったよ」

「父はどうしている」

「鶴が六歳の時、橋の工事で亡くなった。それも忘れてしまった?」


菊太は苦笑した後、そう淀みなく答えた。鶴の胸は熱くなった。この少年は鶴の家族のことを知っている。家族の話をするのは久しぶりだ。鶴は思わず聞いた。


「今、妹と母はどうしているか知っているか」


菊太は黙々と泥だらけの斜面を進んだ。鶴は答えが返ってこないことに不安を感じた。鶴はもう一度聞いた。


「なあ今二人は」

「しっ」


菊太は鶴を振り向き、人差し指を自分の唇に当てた。


「いろいろ聞きたいこともあるかもしれないけど今は黙ってて」

「でも」

「見つかったら元も子もないだろう」


鶴は言いたいことをぐっとこらえた。この雨の中、兵士たちが鶴たちを見つけるのは難しいはずだが、移動が困難なのは鶴たちも一緒だ。今はとにかく遠くへ逃げなければ、という菊太の考えも分かった。


一方菊太は慣れた様子で、真っ暗な森の中を進んでいった。その身のこなしは軽く、雨や泥はあまり障害にならない様子だった。

斜面を登り、そして下る。獣道をかき分けかき分けて数時間ほど歩き、菊太はまた急な斜面を下った。鶴は何度も転んだが、なんとか菊太について行った。

ようやく菊太が立ち止まった場所には、大きな岩がふたつ鎮座していた。岩は、山の斜面に隠れ、支えあうように重なっていた。その重なりの中には空洞があり、洞窟のようになっている。


次は少年に促されて先に洞窟の中を覗き込んだ。中に火が焚かれているのが見える。そしてそこに、小さな塊が丸まっているのが見えた。


「誰だ」

「僕のおばあちゃん。おばあちゃん、鶴だよ」


その塊はゆっくりと振り向き、目を細めてこちらに焦点を合わせる。老婆の薄くなった白髪が、松明の光で赤く染まっている。老婆は立ち上がり、ゆっくりと鶴に近づいてきた。そしてそのしわしわの手で、鶴の手を包んだ。


老婆はそれきり何も言わず、ずっと鶴の手を握っていた。鶴は何と言っていいのかわからず、されるがままになっていた。老婆の手の皮の感触が鶴を不安にさせた。

確かに菊太は、鶴を土砂から助けてくれた。でも、言われるがままに、ここに来たのは正しかったのだろうか。彼らは私に、一体何を求めて私を逃したのか。


「鶴」


鶴はビクリとして振り向いた。


「今日はここで休んで。明後日に出発しよう。満月の日を外れてしまえば、鶴が生贄になる必要性はなくなる」


菊太は水の入った碗をふたつ持っている。松明の光で水面が赤く揺れた。ふいに強烈な眠気が襲ってきた。鶴は疲れ切っていた。鶴はかろうじて言う。


「どうしてこんなによくしてくれるんだ。見つかったらお前もただでは済まないんだぞ」

「分かってるよ。はい、これを飲んで。少し苦いけど、傷に効く」


少年は碗のひとつを鶴に渡し、自分の分の水を飲み干した。鶴はその独特の匂いに一瞬躊躇したが、一口飲んだ後、すぐに一気に飲み干した。喉が渇いて仕方なかったのだ。

鶴は、空になった碗を見つめた。


「私に何を望んでいるんだ」


菊田は鶴を見ながら目を細め、口元を緩めた。


「何がおかしいんだ」

「いや、鶴とこんな風にしゃべってるのが、なんだか不思議で。何も望んでないよ。しいて言えば」


その瞬間、鶴の視界がぐにゃりと歪んだ。立っていられず、その場に座り込む。強烈な吐き気を感じ、冷や汗が全身から吹き出した。


「これは何だ」


鶴は全身の震えを両手で抱え込むように抑えた。しかし寒気は収まらず、視界がだんだん白く霞んでいく。鶴は自分を覗き込む少年の顔を見つめ返した。しかしその顔はぼやけて歪み、どんな表情をしているのかよくわからない。


「おまえは…」

「ごめんね。でもこうする以外に方法がないんだ」


呟くような声が、頭の中にこだまのように響く。鶴は朦朧とした意識の中で胃の中のものを吐いた。今まで見たことのないような、チカチカとした光が頭の中を回っている。

消え行く無意識の中で、彼が洞窟で、領主に反対する奴らがいると言ったことを思い出した。あれは自分たちのことだったのか。

鶴は自分の浅はかさを恥じた。どこかで見たことがある、という単純な理由で人を信じて、あげく毒を盛られて悶絶している。


鶴は自分をなじり、少年をなじった。しかしそれは言葉として発せられることはなかった。混濁した意識はますますその流れを早め、思考の濁流が意識の渦の中に飲み込まれていった。



静かだった。

天井の隅が見えた。くぐもった鳥の鳴き声が聞こえる。


鶴は自分が屋敷の部屋の中にいることに気が付いた。見慣れた白ぶちに赤の布団。七年間ほとんど外に出ることはなかった部屋。鶴は一瞬、自分が屋敷に戻ったのかと思った。しかし 何かが違った。まるで自分の体の中にもう一人の自分が入ったようだ。

その時ふいに声が聞こえた。


「鶴」


かすれた小さな声だった。それは格子のはめられた窓の外から聞こえた。

鶴は一瞬不思議に思った。ここは屋敷の中でも隔離された場所にある。普段訪ねてくるのは、鶴の身の回りの世話をする人間だけだ。その場合だって声をかけて襖を開けて入ってくる。

しかし鶴の体は迷うことなく窓に向かった。その足取りは急いて、鶴は危うく転びそうになった。

ありえない、と思うと同時に。その声は誰のものなのか、鶴はある種確信していた。


「母様」


窓は高い位置にあり、母の姿は見えなかったが、鶴は叫んだ。それを見ている意識の中の鶴も、思わずそう言ってた。

久しぶりに聞く母の声は少しかすれていて、涙声だった。そしてそれは鶴も同じだった。


「かあさま。かあさま」


鶴は窓に向い、何度も跳ねながら呼びかけた。

何年会っていないだろう。何年触れていないだろう。最後に会った日から、既に五年がたち、鶴はすでに十二になっていた。

鶴はつま先立ちになり、窓から半分だけ出ている母の白い手を握った。傷だらけで、指の皮膚は固い。水仕事をする母親の手に触れ、鶴の目にはますます涙が溢れた。

苦労したのかもしれない。悲しい思いをさせたかもしれない。でもその申し訳なさ以上に、会えたことが嬉しかった。


「どうしてずっと来てくれなかったの」


鶴は悲痛な声でそう言った。母も同じように悲し気な声で、ごめんねと繰り返した。


「ちょっと待ってて」


鶴は何とかして母を部屋に入れようとした。でも鶴の部屋は外側から鍵がかかっていた。


「扉が開かない。ごめんねお母さん」


鶴は泣きながらそう言うと、また母の手に縋った。しかし母は落ち着いた声で言った。


「いいの鶴。私がここに来たのはそのためじゃない。これを」


そう言って母は一度手を引っ込めた。再度差し出された手には、白い紙に包まれた何かが載っていた。母は格子の隙間からそれを鶴に手渡した。鶴は不思議に思って包みを開けた。その中に入っていたのは、赤黒い塊だった。


「これは…」


鶴は絶句した。それは干し肉の塊だった。鶴が5年前屋敷に入ってから一度も食べたことはないものだった。巫女であるには、清浄な身体が必要だったからだ。


「お母さん、私は肉は食べれないの」

「食べなさい」


母は有無を言わさぬ口調で言った。鶴はその意味をゆっくりと理解した。そして同時にぞっとした。


「そんなの無理だよ。これを食べたら私は」

「だからよ」

「でもそんなことしたら」


鶴はいいかけて黙った。そんなことをしたらお母さんと妹は、どうなるかわからない。

ただでさえ、働き頭の父親がおらず肩身の狭い思いをしているのだ。さらに、鶴は自分が村人にどう思われているか、薄々知っていた。毎日いい着物を着て、お腹一杯ご飯を食べて、楽をして暮らしていると思われていることを。そういう話を聞くと、鶴は歯噛みした。今の暮らしを捨てて家族の元に戻れるなら、喜んでそうしたかった。

でも、鶴が巫女をやめるようなことがあれば、家族はますます村人たちに意地悪をされるかもしれない。


鶴は震えていた。母がその向こうにいるはずの格子と、手に持った肉を交互に見た。鶴が何も言えなくなっていると、母の声がした。


「私はね。ずっと後悔していたんだ。お前をここに引き渡してしまったこと」

「じゃなんで…」

母は少し黙ってから言った。

「家に来た領主様に、巫女にならないなら、鶴と雛とを殺すと言われた」


鶴は背筋がひやりと寒くなった。しかし、領主がそんなことを言ったというのは、にわかには信じられなかった。


「最初からこうすればよかった。鶴。早くそれを食べて、ここから解放されなさい。家族のことは何も考えなくていいから」


鶴は混乱した。恐ろしさと嬉しさで、感情がめちゃくちゃだった。母が言ってくれたことが嬉しいような悲しいような、でも確かに、母が自分を気にかけてくれたのだということが鶴の心に小さな明かりをともした。

鶴は恐る恐る、手の中の赤いものを取り上げた。久しぶりに見るそれは生臭く、まるで人の食べるものには見えなかった。触れるだけで手に匂いがつくような気がして、鶴は戸惑った。


「さあ早く」


鶴はじっと手の中のものを見つめた。そして息を止め、一気に飲み込んだ。

口の中が獣臭さでいっぱいになる。頭では目をぎゅっと瞑った。数回だけ噛みしめ、唾液で流し込む。


「食べたよ」

「そう。よくやったね」


母の声には安堵が滲んでいた。それを聞いて、混乱していた鶴も、どこかほっとした。格子から出た手を、鶴はしっかりと握った。それは暖かく柔らかく、懐かしい手触りだった。


「何者だ」


その時だった。壁の向こうで、見張りの鋭い声がした。鶴の体は雷に打たれたようにびくりと震え、母の手が鶴のてからぱっと離れた。すぐに草の上を走る音と、鎧の擦れる重々しい音がした。


「待て」

「お母さん逃げて」


鶴は叫んだ。しかしその言葉が聞こえたかどうかさえ、鶴にはわからない。 二人が足音が遠のいていく。

鶴は足が床にへばりついたように、壁に向かって立ち尽くした。

母さんは掟を破った。見つかったのならただではすまないだろう。鶴は狂った犬のように部屋の中をうろうろと歩き回った。さっきと打って変わり、焦りと不安と悲しみが鶴の胸の中に渦巻いていた。


「だれか。私を外に出してくれ」


鶴は、そう部屋の中から叫んだ。しかし離れの周りは依然として静かなままだ。次は焦った。そんなこと普段はなかった。鶴が人を呼べば、お付きの者が必ず来てくれた。鶴は叫び続けたが、あたりからは鳥の声が聞こえるだけだった。

何時間ぐらい経っただろうか。声はすでに枯れ、鶴は膝を抱え座り込んでいた。扉がぎしりと音を立てて開き、外の光が鶴の足元に差し込んだ。

鶴は光に慣れていない目を瞬かせながら、顔を上げ、冷え切った足でよろよろと扉へ走り寄った。

そこにいたのは領主だった。お付きのものをつけず、一人で扉の入り口に立ち尽くしている。逆光で表情はよく見えない。

最近、領主は滅多に鶴のいる離れまで顔を出すことはなくなっていた。しかし、半年前までは度々顔を出しては、鶴に饅頭をくれたり、遊び道具を持ってくれていた。領主が話す村の様子を聞くのも、鶴の少ない楽しみの一つだった。村の話を聞くたびに、鶴は少しだけ慰められたものだ。


「領主さま。あの、ここに来た者はどうなりましたか」

「逃げたよ」


鶴は全身の力が抜けた気がした。


「そうですか」


しかし、鶴は領主の目線に気が付いてはっとした。部屋の隅に、肉を包んでいた紙が転がっていた。鶴は頭が真っ白になった。私は領主様を裏切ったのだ。鶴は血の気が引いていくのを感じた。


二人の間に沈黙があった。領主が何も言わず、無表情のままだということが、ますます鶴の気持ちを不安にさせた。急に鶴は、自分がとんでもないことをしてしまったということを自覚した。

領主は鶴の前に歩み寄り、膝をおった。領主が鶴に手を差し出すと、次はびくっと震えた。ぶたれると思ったのだ。


しかし領主は差し出した手を戻し、ゆっくりと言った。


「鶴。大丈夫」


領主はゆっくりと、言い聞かすように言った。


「お前は今までと何も変わらない」

「え?」

「私は何も知らない。何も聞いてない」


領主は鶴の瞳を見つめながら手を握った。きつくはないが、鶴の小さな手をしっかりと包み込む。そして悲しみと厳しさの入り混じった目で鶴を見つめた。


「鶴。これだけは正直に答えないといけない。そうでないと、私はお前に対して、とても厳しい決断をしなければならなくなる」


そして一呼吸置いて言った。


「ここに、誰が来た?」


鶴は最初黙っていた。言ったら母は罰を受けるということが分かっていたからだ。しかし領主の声には抗えない響きがあった。隠しても、いずればれてしまうということも。長い沈黙の後、鶴は言った。


「母です。でも許してください。わたしは何でもします」


領主は初めて、少しだけ驚いた表情をした。鶴はその場に土下座した。


「領主様。どうか。私は何でもしますから。母だけは助けてください。妹もいるんです」


鶴はまくしたてた。恐怖で喉がカラカラになっていた。声が震え、頬に大粒の涙が幾度もつたった。


「もう二度と家に帰りたいなんて言いません。元の生活に戻りたいとも言いません」


領主は悲しそうに鶴の目を見、息を吐いた。そして後ろを向き、誰かに声をかけた。鶴は気づかなかったが、領主の後ろに鶴の世話係の一人が、碗の持った盆を抱えて控えていた。領主はその碗を鶴に差し出した。


「これを飲みなさい」


鶴は反射的に身を震わせた。母の代わりに自分が死ななくてはいけないのではないか、と思ったからだ。しかしその考えを察したように領主は言った。


「鶴、お前は大切な巫女だ。殺すことはない。これはお前が今してしまったことを償うためのものだ。これを飲めば今したことはなかったことにできる」

「本当ですか。そしたら母も…」

漁師は頷いた。「ああ。お前の母のしたことは不問にする」


次は心からほっとして、それからその器に視線を戻した。嗅いだことのない臭いだった。煎じた草のような、樹木のようなにおいが、部屋中に充満していた。


「これを飲んだらどうなるのですか」

「忘れる」

「え」

「今日あったことを全て忘れるんだ」


すぐは絶句した。今日あったこと。それは今までの屋敷での生活が全て報われるような、出来事だった。今日初めて、鶴は母が自分を気遣ってくれていたことが分かったのだ。それをまた忘れてしまうことは、鶴にとって母をまた失うのと同じことだった。しかし、それを飲まないと母がひどい目にあうということも、鶴には分かっていた。

以前、鶴が溢れた汁物で火傷したことがあった。その時も、領主は鶴に傷を負わせたの者に処罰を与えていた。鶴と同じ場所に、火傷を負わせたのだ。次はそれを見て、今後自分が怪我をしようとも、人には言うまいと固く誓った。自分が誰かを辛い目に合わせるのは、もうまっぴらだと思った。

全てを忘れることになっても母に何か迷惑が及ぶよりはずっといい。そう鶴は結論付けた。


鶴は与えられたお椀の中の液体を、ゆっくりと口の中に流し込んだ。その瞬間強いめまいに襲われた。体の自由が利かなくなり、誰かが鶴の体を布団に寝かせた。鶴の意識はゆっくりと闇に落ちていった。

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