土と鶴

湊川晴日

第1話


落下。

暗い水の底へ。

真っ逆さまに、吸い込まれるように、真っ暗な渦の中に落ちていく。

恐怖で呼吸ができない。

自分の声にならない叫びが聞こえる。

このまま落ちたら、自分は粉々になって、もとあった形さえなくなってしまう。

そういう確信と、恐怖だけが体を支配している。


「巫女様」


帳越しに声をかけられてはっとして目覚めた。つめたい地面の感触に安堵する。

うたたねをしていたみたいだ。鶴は起き上がろうとしたが、両手をつないである縄のせいでバランスを崩した。鶴は顔をゆがめながら、もう一度体勢を治し、冷えた足をさすった。

洞窟に敷物を敷いたとはいえ、たいした防寒は見込めない。夏の夜でも、山は冷え込む。

鶴はなげやりに答えた。


「はい」

「お食事をお持ちしました」


食器を台に見立てた石の上に置くカタンという音が響いた。


「ちゃんと食べてくださいね」

「わかってる」


相手の心配そうな、少し高い声に、鶴は苦笑した。本当に心配しているんだろう、と感じさせる声だった。

彼は鶴が屋敷からこの洞窟に移動させられてから、見張りをしてくれている兵士の一人だ。鶴と同じくらいの年だからだろうか。鶴はなんとなく彼に親しみを感じていた。


でも、これからのことを考えて、たくさん食べられる人間がいたらお目にかかりたいものだ。

鶴はこれから、人柱として、川に捧げられるのだ。

外で何人かの人間の声がした。


「兵士が何人もいるんだな」鶴は、そんなにたくさんの人間が見張る必要もないのに、というニュアンスを込める。

「巫女様のためです。最近は物騒なので。巫女様を狙っているものもいるとか」

「まさか。どうしてだ」


少年は小さな声で言った。他のものに聞かれたらまずいと言うように。


「儀式に労力や費用がかかりすぎる、ということをよく思っていない人間がいるそうなんです」

「なるほど」


鶴はできるだけ軽い口調で言ったが、儀式という言葉を聞いて、胸に大きな石を載せられたような気分になった。

村の皆が、この儀式を重く見ていることは、7年間の巫女生活の中で、領主様が度々話してくれた。

鶴の生まれた時、村はまだ貧しかった。しかし今の領主に変わってからは生産性が増し、豊かになったと聞いている。そしてそれは、領主が川の治水に力を入れているからだと、つるのお付きの者が話してくれた。しかしここ数年、雨が多くなり、工事が滞るようになった。それに比例して死人や怪我人も増えた。


そこで、皆の安らかな生活のために、定期的に儀式が行われることになった。1年に一度家畜を捧げる儀式と15年に1度のより規模の大きい儀式だ。

今回はその15年に1度の大歳だった。今回の生贄に選ばれたのが鶴だった。


鶴は自分の役割を重々承知していた。でも、これからの自分の行く末を思うと、どうしても平常心ではいられない。

鶴は首をぶんぶんと左右に振った。いや、こんなふうじゃだめだ。

領主様は以前、わたしに勇気を持つように言った。領主様のやさしさに恥じない巫女でありたかった。

でもそれはむずかしい。

ここにいる兵士たちも、鶴が逃げ出すのを見張っているのかもしれない。そう思うと、自分の弱さを見透かされているようで落ち着かなくなった。


鶴が一人で考えに耽っていると、外で短い、くぐもった声がした気がした。

鶴は、寒いから誰か咳き込んだのだろうかと、頭の隅で考えた。


鶴は何度も拭って赤くはれた目じりを、もう一度拭って息をひとつ吐いた。

また皿に食べ物が残っていたら心配をかけるだろう。領主様の耳にも入るかもしれない。

それに、これは村人が一生懸命作った作物なのだから、気分が悪かろうと、きちんと食べなくては。

鶴はそう自分に言い聞かせ、帳を持ち上げた。


そこにはいつもの皿に、いつもの品目が載っているはずだった。

炊いたコメ、塩で漬けた山菜、果物や木の実。

しかし皿の半分が無くなっていた。

しかもその半分には、泥のようなものがべったりとついている。それと同時に、獣のような臭いが鼻をつく。

鶴は身をこわばらせた。さらに耳をすませると、荒い息遣いが聞こえた。


何かが、この中にいる。


鶴は帳をさっと下ろし、隙間からあたりを伺った。

鶴の周りのろうそくが照らす範囲は1メートル半ほど。

鶴はその向こうに目を凝らした。ろうそくの明かりが影を小刻みに揺らしている。

と、その影が大きく動いた。

鶴は息をのみ、機長からのけぞるようにして後ろに倒れた。 後ろに置いてあった衣類や身支度の道具が床に散らる。


鶴は倒れながらも、黒くうごめくものから目が離せない。恐ろしくて、声が出ない。

その塊はぐるりとねじれたかと思うと、ぎょろりと飛び出た、赤く光る目を見せた。

鶴はその場で動けなくなった。体中がこわばり、血の気が引く。

生臭い匂いが鼻をつく。

それは鶴と目が合うと、するすると起き上がった。


とんでもなく大きく、猫背の背中。目以外は伸び放題の毛でおおわれている。

人間が、熊のぬらりとした毛皮をまとっているのだ、と鶴が気が付いたころには、ゆっくりとした速度で、それは鶴の目の前に迫っていた。


ぎょろりとした、どこを見ているのかわからないその生き物は、声もなく鶴に手を伸ばした。

黒光りする、鍬のような大きく長細い指が、鶴の顔にぬらりと触れた。

同時に獣の血のにおいが鼻腔をつく。

鶴はおぞましさに息をすることも忘れた。肌が粟立つのを感じた。

男が頬に触れたのは、ほんの一瞬だったかもしれない。しかし鶴にはそれが、永遠の時間のように感じられた。


「何者だ!」


見張りの声に、鶴ははじかれたように入り口を見た。

見張りが二人、洞窟の中に入ってくる。さっき食事を届けてくれた少年と、もう一人もっと年長の男だ。

年長の男は、巫女にへばりついた黒い大きな塊を見て、ぎょっとした顔で叫んだ。


「巫女様を放せ!巫女様、こちらに!」


鶴ははっとして、急いで立ち上がろうとした。しかし恐怖で足がもつれ、立ち上がれない。

次の瞬間、目線がぐうんと上昇した。目の前にぎらついた鉈が目に入る。

鶴は男に抱えあげられ、首筋に鉈を貼り付けられていた。


「動くな。動いたら斬る」


ギスギスした、思ったより高い声だった。

自分を抱える男の腕の強さに、鶴は体がきしむのを感じた。

涙をこらえながら必死に息をすると、ひゅうと細い空気とともに、男の生ごみのような匂い吸い込んでしまった。鶴は悪臭にあわてて息を止める。


見張りは巫女を盾にされて、手が出せないようだった。男は壁に背をぴったりとつけ、入り口のほうに一歩一歩にじり寄った。そして洞窟の入り口で、周りに他の見張りがいないことを確認すると、一目散に走り出した。



何時間くらい経ったのだろうか。真っ暗な景色が、後ろから前にどんどん流れていく。

洞窟の中も薄暗かったけれど、いまは洞窟の小さなろうそくの明かりさえも恋しい。

鶴は男の背負子にしばりつけられ、そのまま背負われていた。一晩中上下に揺らされ、鶴は何度も舌を噛みそうになった。



鶴はもやのかかったような意識の中で、昔母親に聞いた、山に住む妖怪のことを思い出した。

闇の中に住み、子供をさらって、骨までしゃぶる。

少女はぞっとして、恐ろしい思考を頭から追い払った。

何を子供じみた発想を。第一こいつは人間だ。

しかし言葉が通じるかどうかもわからなかった。


そう考えていた時、木の枝が後頭部めがけて跳ね返り、鶴の頭をしたたか打った。

鶴は意識を取り戻し、歯を食いしばった。


次に鶴が意識を取り戻した時、男は茂みをかき分けながら道なき道を進んでいった。

あたりはきんとした寒さに満ち、ざああという音が聞こえている。

草の形がはっきりと見えた。もうすぐ夜明けかもしれない。


背の高い草むらの先に、川があった。

さっきからずっと聞こえていたざああ、という音はこの音だったのかと鶴は気が付いた。

川にはもやがかかり、しぶきが空気を湿らす。


鶴は急に背負子から降ろされた。紐をほどかれると、紐が体に食い込んだところに空気が触れて痛んだ。それ以外にも、足や腕に葉が当たり、枝が擦れて、体中擦り傷だらけでヒリヒリした。一晩ろくに眠れなかったため、体が重い。


鶴は緊張して、降ろされたところにつっ立っていた。

男は自分をこんなところまで運んで来て、一体どうするつもりだろう。鶴は同時に、少年兵の言っていたことを思い出した。

儀式の中止を求める人間がいる。

それはつまり、儀式ができないように、先に鶴のことを殺してしまえということなのだろうか。

鶴はぞっとして身を震わせ、自分の両腕を抱いた。


男は鶴を無視して、川から水を手に取り、飲んだ。鶴も少し離れたところで、川の水を飲む。喉がカラカラだった。


男は川からほど近い、草むらのそばで、手近な石を選んで座った。そして腰に括り付けた袋から何かを出した。手に乗っているのは、黒い平べったい塊。そして昨晩、鶴の首元に突きつけた鉈だった。

男は黒い塊を一切れ切り、口に運んだ。

背中を丸くし、両手で肉を掴み、くちゃくちゃといつまでも噛む。その姿はまるで犬のようだった。鶴は思わず目をそらした。

しかし男は、手に持っているものを、鶴に差し出して言った。


「食え」


鶴は慌ててそれを制した。


「私は肉は食べない。巫女だから」


 男はじっと鶴を見た。目だけしか見えないから、表情が見えない。男は手を戻し、袋から別の何かを出した。

それは洞窟の皿に乗っていた果実や木の実だった。男は何かを考えるように、それを器用に手の上で何度か放り、しばらく弄んだ。そしてそれを石の上に置いた。

鶴は恐る恐る、それに手を伸ばした。とにかくお腹がすいていたからだ。

縄でしびれた手のひらで食べ物を口に運んでいると、ふと、領主の屋敷にいた時のことを思い出した。儀式の直前の三日間は、身を清めるため、山の洞窟に移動させられた。でも食事は屋敷のものと変わらない。鶴はすこしだけ気持ちが落ち着いた。


鶴は男をちらりと眺めた。

洞窟から逃げられた今、私はもう用済みだ。この男は私を、このままここに置いて去るつもりなのかもしれない。

そんな楽観的な感情をうっすらと持ちそうになった時、木の実に伸ばした鶴の手を、急に男が強く握った。


驚いて男の顔を見ると、黒々とした目が再び鶴をとらえた。何を考えているのかわからない。あわてて手を引こうとする鶴の手のひらを、男が押さえ、指を広げた。男の爪の先は真っ黒で、 手のしわ一つ一つにも泥が挟まっている。

鶴はぞっとして目をそむけた。しかし抵抗しても、男はけして手を離さない。

男が手に持っているものを見た時、鶴はひっと声を上げた。


「動くな」

「やめろ」


鶴の声は恐怖に震えた。それは昨日の夜、洞窟で鶴の首元に当てられた鉈だった。

鶴は恐怖に目を見開き叫びながら、体を男と反対方向にを思い切り引っ張った。しかし、男に握られた手はしっかり固定され、びくともしない。

次の瞬間、男は鉈を高く掲げ、振り下ろした。


「やめろ!」


少女は叫びをあげ、目をぎゅっと瞑った。

がきん、と鈍い音がした。


そのとき、不意に腕が後ろに引っ張られるように感じた。はっと目を開けると、両腕を結んでいた縄が切れている。

鶴は全身の力が抜けたようになった。胸を自由になった手で押さえた。心臓が胸から飛び出しそうに跳ねている。


立ち上がり、鉈をしまおうとする男に向かって鶴は呟いた。


「…どうして」

「これから逃げるのに不便だろう」

「私はこれでお役御免と言うことか」


男は首を振った。

「俺が安全に逃げられるまではお前は人質だ」

「そんな」


男は鶴に視線を向けた。


「お前も死にたくないだろう」


鶴は視線を泳がせる。


「私は7年間、巫女として過ごした。皆のように畑仕事もせず、毎日三食食べた。役目は果たさないといけない」

「家族はいないのか」

「いるが、7年前から、誰も会いに来たことはない。もう何をしているのかもわからない」


そう言いながら、鶴は胸が締め付けられた。

父が事故で亡くなった年、妹が生まれた。3人は親戚の家に移り住んだが、親戚の家もけして裕福ではなかった。だから、妹が3歳になったとき鶴が巫女に任命されて、親戚たちはとても喜んでいた。


「だから死にたいのか?」


鶴は目を伏せ、ためらいながら答えた。


「そうじゃない。領主様のためだ。領主様は、お優しく立派な人だった」


それは嘘ではなかった。最初に屋敷に来た当初、鶴を支えてくれたのは領主だった。屋敷とはいえ、小さな離れに鶴は住んでいた。眠れぬ夜や、涙が止まらない日は、様子を見に来てくれた。そして鶴が寝るまで、鶴の見えるところにいてくれた。


男はせせら嗤った。


「人だった。今は違うのか」

「今はなかなか会えないが…でもお優しいことには変わりないし、それに強い人だ」


鶴は男を何とかして説得したかった。


「ほお。武芸に秀でているのか」

「祭事の時、一度おかしな村人に矢を射られたんだ。でも次の日には、元気なお顔を見せてくれた」

「そりゃ化け物だな」

男は顔をゆがめた、ように見えた。髭と髪で相変わらず表情は見えない。

「とにかく隣の村までは、お前を人質として連れて行く。逃げるなら殺す」



「これを渡るのか?」

「怖いのか」

「そんなこと」


ない、という言葉は気丈だが、実際鶴は恐れていた。

川幅が20メートル以上ある。

亜人男の体は、1メートルほどの縄でつながれていた。背負子に乗せられて背負われている以上、何を言っても無駄だということは既に分かっていたが、言わずにはいられなかった。


「どうしてここなんだ。もっと川幅が狭いところもあったろう」

「あそこは深くて流れが速い」


鶴は黙った。

鶴は川が苦手だった。昔川で流されそうになったことがあるのだ。その時は2歳下の妹が流されそうな鶴の手を引いてくれ、事なきを得た。しかし、二人が川岸にたどり着く前に、妹は流れてきた木に引っかかって、肘に深い傷を負ってしまった。

真っ赤な血が、透明な水の中に流れていく様を思い出して、鶴はゾッとした。


男は躊躇せず川に入っていく。鶴も同時に水の中に入る。足に水が触れ、刺すように冷たい。川の深さを確かめながら男はゆっくりと進んでいく。

鶴は辺りを見回した。川の外から見る風景と、川の中から見る風景は違っていた。中から見る方がよほど恐ろしい。ごうごうと言う水の音がすぐそばで聞こえる。

一方向から重いものをずっと押し付けられているような重量感。

いつのまにか、水は鶴の腰のあたりまで来ていた。恐怖と冷たさで息が切れる。


男がバランスを崩すたびに、背負子が揺れ、縛られた縄が肩と腹に食い込んで痛んだ。鶴はそれを忌々しく思った。

水面に光が反射し、鶴は眩しくて目を細めた。鳥のさえずりが聞こえた。

ふと、こんなふうに、川を間近で見たのはいつぶりだろうかと鶴は思った。


正直なところ心のどこかで、鶴は少しほっとしていた。男は鶴に、逃げたらに殺す、と言っていた。ということは、男が無事に逃げられたら、自分は殺されずに済むのだ。

もし解放されても、鶴が儀式に間に合わなかったとしたら、鶴は自由の身になれるかもしれない。

そうちらりと頭の片隅で思ったとき、急に母の顔が脳裏に浮かんだ。悲しそうな顔だ。

鶴は急に、罪悪感に襲われた。暗い部屋の中に閉じ込められたような感覚になった。息がしづらい。 鶴は水の中で手をぎゅっと握った。 それはだめだ。

鶴が結局巫女として死ねないようなことがあったら、母は村の者たちに何と言われるだろう。鶴は歯を食いしばった。

7年前に領主の屋敷に入ってから、一度も顔を見に来ない母。そんな母の言ったことを今も守ろうとしている自分は 滑稽かもしれない。 でも。


鶴は水の中で、自分の肩と腰を結んでいる縄をほどこうとした。とても固く結ばれていて、なかなか結び目がほどける気配がない。

しかしそれは急にするりと解けた。体が自由になり、不意に川の流れが速くなったように感じた。

鶴の体が水中でふわりと浮いた。次の瞬間つるの体は流れに強く押し出された。足場を確保しようとしても滑り、川下のほうへとすごい勢いで鶴は流れていく。

みぞおちまであると思っていた水位は、鶴が立っても足がつかないほど高かった。


鶴は沈み、水を飲み込んだ。咳き込んだ拍子に、また水を大量に吸い込んだ。



鶴は溺れまいと必死に顔を水からあげようとした。

でも暴れれば暴れるほど、水が身体に絡みつくように、体がどんどん沈んでいく。いくら暴れても足がつかない。


鶴の頭の中に、死という言葉が浮かんだ。


「助けて」


今日は水を飲みながら、そう口にしていた。鶴は無我夢中で水を掻いた。でも体はどんどん流されていく。

振り向くと20メートルほど先に大きな岩が鶴を待ち構えていた。鶴は辺りを見回した。手近に掴めるものはないか。その時、進行方向の5メートルほど先の左の川岸から、川面へと伸びている木が目に入った。

鶴は必死にそれを掴もうと泳いだ。体全体を使って、左に少しでも近づくようにもがいた。

あと少し。もう少し。 木はもうつるの目の前だ。

しかしあと数センチのところで、木の枝を掴もうとした手は空を掴んだ。


「誰か」


鶴は絶望し、祈るように言った。そして最後の力を振り絞って持ってもがいた。岩へ向かう軌道を少しでもそらせるように。

しかし流れは速く、鶴がいくらあがいても体は自然と岩の方に向かう。


もう駄目だと思った時、大きなつっかえ棒が体にぶつかった気がした。顔を上げると、びしょ濡れの男の顔があった。髪が水に濡れて顔中に張り付いている。

男は鶴の胴体に手を回し、大きく水を掻いた。すんでのところで大岩を回避し、 流れが変わったところで、男は傍にあった木の枝を掴んだ。


水から上がった二人は岸に倒れ込んだ。二人は疲れ果てていた。川の中で揉まれたせいで、そこら中を岩に打ち付け、打撲だらけだった。


鶴は何も言えず、ただ震えていた。衣類がべったりと肌に張り付き体温を奪っていた。

男は手早く衣類を脱ぎ捨て、 体についた水滴を拭った。

鶴もそれに習った。長い髪が首筋を冷やすので、手で髪を浮かせるようにして持ち上げた。


鳥の声がしていた。川の流れる音を聞きながら、しばらくして震えが収まるのを待った。時間とともに、太陽の光が少しづつ体を温めていった。でもそれとは対照的に、鶴の心は暗く閉じていった。

死にたくない。それはまごうことのない事実で、だからこそ鶴はずっとそれを否定したいと思っていた。でも今、もうそんなことは無理だと分かった。

鶴は冷え切った顔に、熱い涙が溢れていくのを感じた。自分が恥ずかしい。けれど、どうしようもできない。

鶴はちらりと男の方を見た。きっと、自分をバカにしているに違いないと思ったのだ。

口では偉そうなことを言っていたくせに、いざ溺れそうになったら助けてくれと言って泣く。

しかし男は何も言わず、近くの岩に濡れた衣類を広げて干しながら、日向で寝転がって川面を見つめていた。


「責めないのか」


鶴は沈黙に耐え切れずに入った。男はこちらを見ずに言った。


「何が」


次は言葉に詰まった。自分の口で自分のやったことを説明するのが恥ずかしかった。

でも誰かに自分を糾弾してもらわないと、自分がますます駄目になってしまう気がした。


「私は死ぬ準備はできていると言ったくせに、お前に助けを求めた」


男は何も言わなかった。川面から目を逸らさず、何も聞いていないような素振りだ。

鶴は男から回答求めている自分を恥じた。

誰かに糾弾されることで、そうして罰を受けることで 、自分の罪をなかったことにしようとした自分を 。


「私はもう巫女失格だ。このままもう一度川に落ちて死んでしまいたい」

「でもそんなことをする勇気もないんだろう」


男は相変わらず鶴を見ずに、そういった。その通りだった。


「それは当たり前だ」


そして暫くして言った。


「もう自分で死のうとだけはするな」


男はそう、呟くように言った。そして、それ以上何も言わなかった。


風がそよいで木の葉が擦れる音がした。

尻に当たる石はゴツゴツして、木々の隙間から溢れる光は暖かかった。

鶴は長いこと、川面に反射する光を眺めていた。

そしてゆっくりと、眠りに落ちていった。



母が私の手を引くままに進んでいく。もうすぐ日暮れだった。母はいつもより仕事を早く切り上げて帰ってきた。鶴はその日も、いつものように母と一緒に、家でできる仕事をするんだとばかり思っていた。

しかし母は部屋に入ることもなく、鶴を連れてすぐに家を出た。


「母様、どこに行くの?」


そう聞いても、母は何も答えず、黙々と歩いていく。

集落を過ぎ、 お墓を過ぎ、 たまに山菜を取りに行く山のふもとを通り過ぎた。道はどんどん狭く、荒れていく。


この頃の母は魂が抜けたようだ。原因はわかっている。半年前、父が死んだのだ。大工だった父は、現場の事故で亡くなった。あんな軽やかに足場を歩く男が、と誰もが驚いた。突然だった。


鶴は足が疲れてきて、ずっとひかれている片方の手が痛くなってきたとき、母が急に止まった。

そこは、村の生活用水を運ぶ川の下流だった。中途半端に橋がかかっている。季節は梅雨だったが、その日は晴れ、夕日がさしていた。木々からこぼれる日が水面にオレンジ色の輝きを投げかける。


その川の向こうへ渡れば、隣の村はすぐそこだった。父はここに橋を架ける工事に携わっていた。ここは以前から、限られた時期に船を使わなければ渡ることはできず、ここに橋が開通すればさぞ便利だろうと、村の会議で決まったのだ。父は率先して、その技術を橋の建設に注ぎ込んだ。


鶴が父のことを思い出していると、鳥の声がした。耳慣れない鳴き声に母を見上げると、彼女はぼんやりと川を見つめていた。

ほつれた髪が風にふわふわと揺れている。

川は増水しており、鶴はだんだんとその音や勢いが怖くなってきた。

鶴は母の足元にしがみつく。着物の分厚い布が鶴の頬に当たってこすれ、鶴の頬は赤くなった。


母は鶴を抱き上げた。鶴は自分をしっかと抱く母の手が大好きだったが、なぜかその時は不安を覚えた。鶴は目線が上がって見えたものの名を呼んだ。


「せみ」


母がふとこちらを見た。


「まだ蝉はいないでしょう」

「せみ」


母は鶴の目線の先に焦点を合わせた。

そこにいたのは青い宝石のような鳥だった。


「ああ、かわせみね」

「カワセミはセミじゃないの?」

「蝉は夏よ。あと一か月もすれば見れるかしら」

「じゃぁまた見にくる?」


母はゆっくりと鶴のほうを向いた。

焦点のあっていなかった目がだんだんと目の奥に映像を結んでいったのが、鶴にはわかった。

母は鶴を長い間見つめていた。

日がすっかり暮れたころ、母は鶴を川辺に下ろして言った。


「帰ろうか」


それから1か月後、鶴は領主に巫女として迎えられた。



風が吹いて、山の斜面に石が転がり落ちる。小石はどこまでも下に落ちていって、ついに見えなくなる。

鶴は山の斜面にへばりつくように、前かがみになって少しずつ歩いた。先ほどから何度も小石に足を取られている。気を抜くと自分も数十メートル下に落ちてしまいそうだった。

二人は切り立った山の稜線近くを歩いていた。さらにその日は風が強く、鶴には立っているのも難しいくらいだ。


男がこの山を越えると言った時、鶴は我が耳を疑った。その山は険しいことで有名で、傾斜がきつく、標高も高い。夏でも春のような気候の山だ。

鶴の屋敷からも、この山はよく見えた。そして、ここが呪いの山と言われていることも知っていた。その山を越えようとすると、山の神の怒りに触れ、死に至ることもあるという。

何人かが山に登ったが、それ以来姿を現さなかったのを見、村人は誰もその山に近づかなくなった。


稜線に近づくにつれてどんどん木は減っていった。それにつれて、風もどんどん強くなった。

鶴は自分の髪をまとめて紐で縛った。しかし、縛った髪の房も、ものすごい強風に煽られ、鞭のようにしなり顔に当たった。鶴はこんな風を経験したことはなかった。


男は最初、鶴を背負って山を登っていたが、山の中腹で、鶴は自分の足で歩くと主張した。


「また逃げるつもりか」


男は鶴を睨んだ。


「逃げない」鶴は言った。こんな場所で逃げても、死ぬか、また男に捕まるだけだ。

「では命綱をつける」

「それも駄目だ」

「まだ死にたいのか」

鶴は苦笑した。

「そうじゃない。私は私が落ちそうになった時、お前が共倒れしないようにと思って言ってるんだ」

「逆だろう。お前が落ちても俺は持ちこたえられるが、俺が落ちたらお前も道連れだ」

「なるほどそれは考えなかった」


男は不思議そうな目で鶴を見て、それからぼうぼうのひげがぐいっと持ち上がった。笑ったのかもしれないと、鶴は思った。

男はその後は何も言わず、鶴の胴体と自分の胴体を縄でつないだ。


ついに二人は、稜線までたどり着いた。しかしまばらに生えていた木も殆どなくなり、風は一層強く感じられた。山の反対側は、何かにえぐられたような急斜面だった。二人は稜線沿いを進み、安全に降りられる場所を探した。

男は体をぐんと引っ張られ多様で後ろにのけぞった。鶴の体が風で浮き、バランスを崩し地面に叩きつけられたのだ。


「おい倒れるんじゃない」

「好きで倒れているものか。お前より軽いから体が浮くんだ。なあ、どうしてもここを越えないといけないのか」

「そうだ」

「向こう側へ行くには、他の場所もあるだろう」

「それでは回り道になる。ここが一番近い」


二人は叫ぶようにして言葉を返した。風の音が大きすぎて、大声を張り上げないと声が届かないのだ。

空一面を覆っている雲が、物凄い速さで頭上を通り過ぎる。風はだんだんとその勢いを増していた。この後きっと嵐になると、鶴は思った。これ以上進むことは無謀に思えた。


「では日を改めるわけにはいかないのか」

「これ以上もたもたしてるわけにはいかない」

「とはいえ全く進んでないじゃないか、さっきから」


そう鶴が声を張り上げた時、 前方から何か転がってくるものがあった。

それは、ぼろ布の塊のようだった。ぼろ布は風に煽られて、こちらの方に向かって落ちてきた。鶴はよけようとしたが、斜面にへばりついているため動けず、ぼろ布は鶴の肩に引っかかった。 鶴は呻いた。ぼろ布を引き離そうとして布に手をかけると、風が布をめくりあげた。そこにはあらわになった人間の頭蓋骨があった。


「ひ」


すぐは恐怖に体をのけぞらした。その反動で斜面を少し転がり落ちてしまう。男はまた引っ張られ、バランスを崩して転んだ。男は苛立ちを露わにした顔で、鶴を再度振り向いた。


「なんだよ」

「人が…やはりここは呪いの山なんだ」

「呪い?それは村から逃げてきた人間だ」


鶴は混乱した。いつもたくさんの作物がみのり、祭りの日には華やかな催しが行われる、鶴の村。前は貧しかったが、今の領主様に変わってからは、効率的にたくさんの食べ物が摂れるようになったのだ。

自分たちの村の何が不満なのか、鶴にはよくわからなかった。


男は、鶴の横に転がったままのぼろ布を指差した。 そこには、持ち主の血痕とおぼしきものが見て取れた。


「この男は殺されたのか」


男は頷いた。


「お前は知らないかもしれないが、お前の村から逃げ出したい人間は沢山いる。そしてこいつは村を勝手に逃げ出したから、領主の手の者に殺されたんだ」


鶴は絶句した。


「まさか。領主様がそんなことするわけがない」


鶴は領主の柔和な顔を思い出した。屋敷に来たばかりの頃、他のものにに秘密でお手玉を持ってきてくれたことを思い出す。その後、鶴は領主様が来てくれる度に、お手玉がどんなに上手くなったのかを披露したものだ。


「本当だよ。お前はとって、領主がどういう存在だったかは知らないが、やつは村人たちを人間とは思っちゃいない。作物がたくさん取れても、逆に少なくても、そのほとんどが税の取り立てで持っていかれる」

「適当なことを」

「では聞くが、お前は体に肉がついた村人を見たことがあるか?丸々とした子供は?」


鶴は答えに詰まった。それは儀式の時、集まってくる村人に対して、鶴がずっと疑問に思っていたことだからだ。


「あいつは人間じゃない。人間があれほど、同じ人間をひどく扱えるなんて思えない」

「嘘だ」


鶴は男の言葉に腹が立った。自分が意味を見出していたもの、そのために頑張るんだと思っていた支えが、本当は 脆弱で意味のないものだと突きつけられた気がした。


鶴は抗議の言葉を発しようとしたが、それは無理だった。ますます強い風が、小石を吹き飛ばし、二人の衣類を鞭のようにはためかせ、口を塞いだからだ。

もうこれ以上進むことは無理に思えた。


「もうこれ以上進むのは無理だ」鶴は起き上がらずに言った。鶴は、自分が起き上がった瞬間に風に煽られ、再度地面に叩きつけられるだろうことが分かっていたからだ。


「無理じゃない。もう少し行けば傾斜と高度が緩くなる場所がある。そこで描線の反対側に行く」


鶴が、げんなりとした時だった。一際強い風が吹き、男の体は凧のように浮かび上がり、男は地面に叩きつけられた。

「ほらやっぱり…」

しかし男は鶴の言葉を聞かず、ただ目を見開いていた。つるを通り越して何かを見つめている。

鶴がその視線を追って振り向くと、二人が登ってきた斜面の15メートルほど下方に、何者かの赤い着物が風にはためいているのが見えた。


「やっぱり昨日のうちに渡っておくべきだった」


領主の直属の兵士だった。風に苦戦しつつも、しっかりとした足取りでこちらに登ってくる。あの調子だと、すぐにでもこちらにたどり着いてしまうだろう。

男はすぐに体の向きを変えた。また稜線の方に向かい、這いつくばって進み始める。


「やめろ、自殺行為だぞ」


鶴がそう叫ぶのを無視し、男は一心不乱に稜線に向かって進み続けた。時々風に煽られながらも、這いつくばり、必死に地面にへばりつき、一歩一歩確実に進んで行く。体に縄がつながれている鶴も、引きずられるようにそれに従う。

何度か矢が放たれたが、どれも男には当たらず、明後日の方向へ飛んで行った。

立っているのも難しいこの風の中で、武器を操り敵を仕留めるのは至難の技だろう。条件が悪いのは、兵士たちにとっても同じだった。


ついに二人は稜線に辿りいた。

反対側を見下ろした鶴は息を飲んだ。鶴たちが上ってきた斜面よりずっと急な斜面が、下まで続いている。はるか下の方に、木が広がっているのが見えた。


男はしばらく反対側の斜面を眺め、それから覚悟を決めたように斜面を降り始めた。慎重に足場を確かめる。


「無茶だ」

「つべこべ言うな。ほかに道があるか」


鶴は再度、後ろを振り向いた。男の言う通りだった。今捕まったら、鶴が生贄となり殺されることは確実だった。

二人を繋ぐ縄が風にたなびき、ブンブンと触れている。男はそれを鬱陶しそうに肩に回した。


その時、男の足場が崩れた。 鶴もそれに引きずられるようにして、すごい勢いでずり落ちていく。鶴が声にならない声をあげた。

男が鉈をすばやく取り出し、地面に突き立てる。わずかに速度が落ちる。しかし二人はそのまま落下し続けた。

ゆっくりと落下が止まった。男と鶴は、斜面に僅かに出っ張った岩の上に立っていた。いや引っかかっていた、と言うほうが正しいかもしれない。


二人は息を整えた。互いに何も言わなかった。

強風が二人を煽る。この状態では二人がまた落ちるのは時間の問題、という感じだった。

男はしばらく自分の足元を見ていた。やがて、おもむろに縄を解き始めた。


「何をしている」


男は解いた縄を鶴に手渡しながら言った。


「なんのつもりだ」

「俺はもう動けない。お前が運よくここにしがみついてることができたら、きっと領主の手の者がお前を助けてくれるだろう。その後のことは自分で考えろ」

「まだ何かできることはあるだろう」

「ない。手近に俺の体重を支えられそうな足場がないからな。領主たちに見つかってもそのまま殺されるだけだ」


鶴は左右上下を見回した。確かに成人男性を支えられるような足場はどこにもなかった。

鶴は髪を風にはためかせながら、唇をかんだ。風と太陽の光にさらされ、すっかりひび割れている。


その時数メートル先に 生えている 木が目に入った。

鶴は一瞬のうちに考えを決めた。男から受け取った縄が体に巻き付けてあることを確かめ、体の向きを変える。


「おい何を」


風が止んだ次の瞬間、鶴は、斜面に突き出た岩の一つに足を伸ばした。少し体重を乗せて、崩れないか確認する。

次に右手を伸ばし、小さく突き出た岩を思いっきり握りしめ、体をさらに遠くへ伸ばした。


「やめろ、死ぬぞ」

「ここにいたってどうせ死ぬ」


鶴は突き出した足に全神経を集中し、岩に体重を乗せた。そしてまた男が何か言う前に、もう片方の足を完全に離した。

その時、左足で踏んでいた岩がぐらりと揺れた。鶴はバランスを崩し、必死に右足で踏ん張る。足元の小石がカラカラと音を立てて下に落ちていく。

チラリと下を見ると 、延々と斜面を転がった小石が、大岩にぶつかって粉々になったのが見えた。

鶴はぎゅっと目をつぶって呼吸を整えた。


「おい戻ってこい」


風の中、鶴は男の声を遠くに聞いた気がした。幸運なことに、風は反対側ほど強くないことに、鶴は気が付いていた。

鶴は目をつぶって深呼吸をし、自分の体に意識を集中した。今はとにかく、斜面を横に進んでいくことだけを考えろ。そう自分に言い聞かせ、鶴は次に握れる岩を探した。


気の遠くなるような作業だった。二つ足場を進んでは、ひとつ戻った。ちゃんと進んでいるかどうかさえ、鶴にはよくわからなかった。

だが、足場を五つほど進んだ時、急に大きな風に煽られた。鶴は必死に岩肌にしがみついたが、体が浮き上がるのを阻止できなかった。

体が重力に逆らえず、奈落の底に沈み込むように落ちていく。


急に目の前が真っ白になった。腹を何かに思い切り締められ、岩場にたたきつけられる。

気が付くと鶴は、縄ひとつで宙にに浮いていた。なんとか首を上に向け、辺りを見回すと、最初にいた場所から数メートル下に鶴はぶら下がっていることに気が付いた。

鶴はその時ようやく、男が縄の反対側をまだ持っていたことを知った。


男は縄を持ち上げ、ゆっくりと鶴を引き上げた。その途中で、鶴は再度足場を探した。


「反対側からもう一度登る」

「もうやめろ」


そう言いながら、男が縄を引っ張った。鶴は自分の腰の縄と、男の顔を交互に見た  男はしっかりと縄の端を握って、鶴が動くのを許さないようだった。

鶴は少し考え、腰の縄を解こうとした。男は慌てて縄を緩める。


「おい外すな」

「じゃ黙って見ていろ」


そのまま死んだら元も子もないだろう、という男の声を、鶴は無視した。

鶴はまた足場を探しながら、苦痛に顔をゆがめた。岩に打ち付けられた四肢は、皮がずる剥け、そこらじゅう痛んだ。手足は震え、柔らかだった指先の皮は浮いていた。

しかし鶴は進むのを止めなかった。慣れてきたせいか、最初よりは登りやすいとさえ感じた。鶴は左に、右にと迂回しながらも、確実に斜面を進んでいた。


急に今までとは違う、強い風を感じた。上を向くと、鶴の目が断崖の終わりを捉えた。鶴ははやる気持ちを抑え、注意深く最後の段を上る手足に力を込めた。

目の前が開け、同時に風が勢いよく鶴の紙をたなびかせる。鶴は目を細めて周囲を確認する。兵士はいないようだった。

鶴は体を折るようにし、うつ伏せで稜線へと這いあがった。

体中から力が抜けていった。その途端、寒さと恐ろしさで体中が震えた。


鶴は、自分の考えが正しかったことに安堵した。反対側の斜面を登っている時、稜線は先の方が下がっていた。ということは、そちらの方に向かえば、平行に移動して行っても、いずれ稜線にはたどり着く、ということだ。


鶴は少し休んでから、二人が落ちた場所を探した。その場所は鶴が登ってきた場所から20 メートルほど離れていた。声をかけて確認すると、男はまだそこにいた。

次に鶴は大きな岩を探した。そこに縄を結びつけようと思ったのだ。目的のものはなかなか見つからなかったが、大きな岩と岩が重なっているの見つけた。

鶴はまず、小さな石に縄を結びつけた。そして次に大きな岩と岩の隙間にそれを引っ掛け、男のいる場所まで縄を引いていった。

縄は強風であおられ、男は縄を掴むのに苦戦しているようだった。だがなんとか縄をつかみ、斜面を登ってきた。

鶴は、男が登ってきているのを確かめて立ち上がった。縄がきちんと固定されているか確認するためだ。

男が頂上に登りきった時、風はまだ強かったが少しずつ弱まっていた。


「なんで俺を助けた」

「死にそうな人間がいたら助けるだろう」

「お前を殺そうとしている人間でもか」

「それはそうだが。お前は私が溺れた時助けてくれた」

「お前を利用するためだ」


鶴はふうとため息をついた。


「なんだ。感謝の一つも言ってみろ。私のおかげで助かったんだぞ」


男は一瞬ぽかんとし、その後、口の端を上げた。鶴は眉間に皺を寄せた。鶴には男がそどういう表情をしているのかよくわからなかった。顔中が髪と髭でおおわれているからだ。

でも、もしかすると笑ったのかもしれないと鶴は思った。鶴も自然に笑っていた。


その時、何かが鶴の視線を横切った。次の瞬間、男は揺さぶられたかのように、地面に倒れ込んでいた。

それが放たれた矢のせいだと気が付いたのと、男が今登ってきた斜面へ落ちていったのは、ほぼ同時だった。

鶴は叫んで手を伸ばしたが、すべては手遅れだった。潜んでいた兵士が岩陰から現れ、鶴の腕をつかんで立たせても、鶴は呆然と 男が落ちた方向だけを見ていた。




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