未来世紀以外全部真実
蜜柑桜
その記憶、消しますか?
その不思議なお店は、隠されていないのに「隠れ家」と呼ばれていた。
可愛らしい雑貨店や、行列の絶えない人気カフェ、気鋭のアーティストのギャラリーなどが並ぶ、都会の小洒落た街。
その路地裏、袋小路の奥の奥、それも一本道なのにうねうねとした石畳を一つ、二つ、三つと曲がらなければならないところに建つ、蔦の張り巡らされた煉瓦造りの小さな洋館。その街が今のように栄えるずっと前、住宅街だった頃の家が残ってしまったもののようにも思われる。
表からは蔦の端っこしか見えない館。
訪れる人は多くない。しかし、けして絶えない。
ある人は表通りのバーで聞く。バーで聞いた者が店に訪れ、驚き帰って雑貨店で話す。雑貨店で聞いた客が面白半分、石畳を行き、カフェのアルバイトに囁く。
——あの店に行けば、嫌な気持ちを忘れられるらしい。
表面上は華やかで幸せいっぱいに溢れるこの街だけれど、
道ゆく笑顔は仮面だったりする。
聞いた者は、教えられた石畳を行く。
そして戸を叩き、招く声に中へ入るのだ。
出てきた人達の顔からは、素顔に影を指す笑いの仮面は外れ、
曇りない笑顔が陽の光を浴びているという。
ある人は、上司から浴びせられた心無い一言を忘れ、
ある人は、DVで受けた傷の痛みを忘れ、
ある人は、今もう遠い過去のトラウマを忘れる。
嫌な気持ちを忘れた人々は、自分を立ち止まらせていた枷から自由になり、顔を正面に挙げて、石畳を帰る。
噂は人から人へ、言葉を変え、表現を変え、伝わった。
今日も一人、石畳を踏む靴がある。
***
カラン……。
玄関の木の扉をそっと押し開けた少女——まだ十四、十五くらいか——は、薄暗い部屋の中を見回した。
一応、呼び鈴を鳴らして中へ招かれたはずなのだが、その答えの主がいない。
「あのぉ……」
恐る恐る、呼びかけてみると、ニャァ、と猫が答えた。その方へ耳を澄ませば暖炉で薪が爆ぜる音がし、猫が黒い尻尾を優雅に振って、トン、と椅子から飛び降りた。
その椅子に、誰か座っているようである。長いスカートが見える。
「あぁ、いらっしゃい。こちらへおいで」
老婆のようである。柔らかな声音に、少女は少し安心した。黒猫が爪先立ちでこちらへ駆けてきくると、少女を見上げてからすぐにフイととって返す。その後ろ姿に誘われるように、少女は靴を脱いで絨毯へ上がり、こっちだよ、と声に呼ばれるままに奥の間へ行く。
「……こんにちは……」
思った通り、ゆったり揺れる肘掛け椅子に座っていたのは、顔にいくつもの皺を刻んだ老婆であった。暖炉からくるりと少女の方へ顔を回す。
「おやまぁ、小さなお客さんがいらしたね」
黒猫の明るい月色の瞳のように、老婆の落ち窪んだ目の奥がきらりと光る。
「して、こんなに小さなお客さんは、どんな忘れたい気持ちをお持ちかな?」
問われた少女は、俯いた。制服のスカートのひだをぎゅっと掴み、離し、また掴んで、繰り返すうち、ようやくぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「……涙が止まんないんです」
「ほう? どうして」
「……大好きな人に、会えなくなったから」
「ふむ」
床から膝に飛び上がった黒猫の毛を撫でながら、老婆は首を傾げた。老婆の指の下から耳をぴんと出し、猫がじぃ、と少女を見つめる。俯いたままの少女は、途切れ途切れに話し続けた。
「……ふとすると、泣いちゃうんです。ぽっと頭の中に出てきて、ボロボロって。そしたら、何も手につかなくって、勉強も、部活も、友達と話してても、泣いちゃうんです」
老婆が頷く気配が、聞いているよ、と少女に伝える。喉にきつさを感じながら、少女は言葉を吐き出した。
「でも、ダメだって。みんな……ダメだよ泣いてばっかりじゃって……そしたら、ここに来たら、嫌な気持ちを忘れるって聞いたから」
老婆はふぅむ、と呟くと、猫を床に離してやった。
「お嬢ちゃんは、忘れたいのかな」
「……え?」
「その人のことを考えて悲しくなる気持ちを忘れたいのかね」
少女の喉が詰まった。
「私ができるのはねぇ、嫌だと思う記憶を消すことだけだよ。他はなーんにもできやしない」
ギシリ、と老婆の座る木の椅子が軋んだ。少女は何か言おうとして、でもやっぱり、口を閉じる。糸のような老婆の目が、さらに細くなった。
「記憶で苦しんでいる人の、その記憶を消すのは簡単さ。昔受けた暴力の
「……忘れたく……はないです……でも、止まってちゃ、おじいちゃん悲しむからいけないって。おじいちゃんは優しい人だったんだからって……」
「そうかい」
「それは、悲しいね」
すぅと椅子から立ち上がり、唇を震わす少女の肩に、老婆は優しく手をおいた。
「おじいさんは優しい人だったんじゃなくて、優しい人なのにねぇ」
潤んだ目がぱちくりと、老婆を見つめた。
「記憶を消すのと、思いを消すのは違うよ。悲しいと思うなら、その気持ちを抱えていてあげればいい。無理に過去にする必要がどこにあるんだい」
猫がにゃぁ、と鳴く。薪が、パキン、といった。
「泣けばいいと思うよ。悲しい辛い、嬉しいじゃないか。それだけ、お嬢ちゃんの中でその人がまだちゃぁんといるんだから。お嬢ちゃんは抜け出せないんじゃなくて、その人がちゃんとお嬢ちゃんの中で現実の
顔をあげた少女に、老婆はふふ、と微笑んだ。
「未来以外は全部真実。ちゃんと持っておいで。また泣きたくなったら、ああ、まだ
まぁでも、と老婆は言い、よっこいしょ、と立ち上がった。そして本棚から一つ、帳面を取り出すと、床に座った少女の前に屈み、それを手に握らせた。
「魔法のお薬をあげようね。これに書いてごらん。起こったこと、思ったこと、ぜーんぶ。お嬢ちゃんの未来これからはまだまだ白紙。まだまだずーっと、これから忘れたいことなんて、たくさん出てくるよ。起こったこと、思ったこと、書いてみて、読んでみて」
悪戯っぽく、老婆の瞳が、少女のように輝いた。
「お嬢ちゃんが百歳のお婆ちゃんになって、世紀が変わったら、忘れたいこともできるかもね。それで本当に忘れたいなって思うことがもしもできたら、私に教えておくれ」
黒猫が制服の白い靴下の周りを沿うように一回りし、少女を見上げてぱたりと尻尾で床を叩く。
***
その店は、「隠れ家」と呼ばれていた。
詳しいことはわからないけれど、その店に行けば、嫌な気持ちを忘れられるらしい。
今日も一人、隠れ家から出て、石畳を踏む靴がある。
その顔は来た時よりも、ぐしょぐしょに濡れているけれど、
不思議と泣くことそれ自体に持っていた、
嫌な気持ちはなくなって。
胸に美しい帳面を当てて、表通りに出てきた泣きっ面は、
しっかり上を向いていた。
未来世紀以外全部真実 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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