その涙さえ命の色
螢音 芳
とある道化師の悲哀
ある冬の日の朝、恩師がこの世から旅立った。
その知らせを受けた翌日。
私は楽屋で黙々とメイク専門のスタッフによって自分の顔が整えられていく様子を鏡越しに見つめていた。
思い起こされるのは恩師と出会った日のこと。
両親からの暴力に逃げるように家出をして、ストリートチルドレンとなった私は毎日生きていくことに精一杯だった。
繁華街でゴミ箱を漁っていると路上では、一人の大道芸人が芸をしていた。
確かで繊細な技術、にも関わらず大事なところで危険なく外して笑いをとる、そしてはらはらさせながらも大技を確実に決めて客の心を掴んでいた。
だが、私が惹かれたのは芸の腕ではない。
白塗りに目元と口元を強調するようなメイク、赤い鼻、そして目元には涙のような雫の印。
身なりが汚く、酷い臭気にいろんな人が私を避けていく中、その人だけは視線を合わせて捉えて、そして。
優しく微笑んでくれた。
存在しないもののように扱われてきた人生の中で、その人だけが私を生きている、と認めてくれたのだった。
その日から恩師の元に通い詰め、見様見真似で真似をして、ようやく自信がついた頃に弟子入りの話を切り出した。
存在していなかった自分が、貴方の芸と在り方を見て貴方のようになりたいと思ったのだ、と。
だから弟子にしてほしいと熱意を持って訴えた。
しかし、恩師は私の話を聞いて首を振った。
『私の歩んでいる道はむしろ自分の存在を消すものだ。
辛い時も悲しい時も感情を押し隠し、馬鹿にされても貶されても人の笑顔を求め続けなくてはいけない。
それは君の欲しかったものから遠ざかる在り方だ』
だから、辞めたほうがいい、と言われた。
何も言えない私に恩師は背を向ける。
しかし、私は必死にその背中へ手を伸ばした。
『もう自分の存在は貴方が認めてくれている、それで十分だから。
だからでこそ、貴方のように誰かを肯定できるようで在りたいのだ』
回想なのできちんとした言葉で話したようになっているが、この時の私は恩師ほど理知的に話せたはずもなく、激しく泣きながらまとまらない言葉で叫んでいた。
気がつけば恩師が根負けして困った表情でわかったわかったと宥めてくれた。
それから十年もの歳月が経った。
私は恩師の元を離れ、世界を股に掛ける一座の一員となり、舞台に立つ栄誉を得るまで上り詰めた。
一人立ちした後も、弟子入りを希望した時のことを恩師と話す度に、ここで断ったら死ぬとまで君に言われたから逃げれなかったんだ、とからかわれ続けた。
それに対して、覚えてないのだからしょうがないだろう、と憮然とした表情で返すまでがお約束の流れだった。
ああ、いけない。
目頭が熱くなるのを堪える。
今涙を流せばメイクが崩れてしまう。
「あの……」
ふと、メイクをしていたスタッフが私に声をかける。
「何か?」
「本当は、今日のに舞台出たくなかったはずですよね。様々な人が葬儀に参加する中で、貴方は出ないと表明し、その上で講演も行うべきだと主張し、マスコミや知人から冷たい人物だと責められることになった。なのに、なぜ貴方は表情を変えることなくここに居ることができるのですか?」
問いかけるスタッフの言葉は心配すると同時に純粋な疑問であった。
多くの人がきっと疑問に感じ、そして私のことを冷血な人間と評しているのだろう。
しかし、その評価を聞いて私は安堵していた。
表面上は自分の顔を整えることができている、ということだから。
恩師の言葉を思い出しながら私は口を開く。
「辛い感情があっても、自分を押し隠して舞台に立たなければいけない。
それが私たちの存在する意味なのだから」
けれど。
「どうしても辛い時には自分の顔に彩られた涙を思い出しなさい。
それは、自分の心の内を表現できない私たちに許された“叫び”だ。
その印を見て、観客は決して我々が無感情で舞台に立っている訳じゃないと、理解してくれるから」
口にし終えたところで、私はふふっと微笑む。語ったところでこれは恩師の言葉だ。
「要するに、私の代わりにこの涙が泣いてくれているの。
だから、私は誰かのために自分を消して微笑むことができる」
そうですよね、先生?
自分の言葉で問いかけると、恩師が側で微笑みかけてくれているような気がした。
メイクを終え、舞台袖に立つ。
間も無く開演時間。
崩れない程度に頬に描かれた雫の印に触れる。
唯一許された心の叫び、自分の存在の証であり、
自分と恩師を繋ぐ、大切な涙の色だ。
舞台の幕が開く。
ステージへと駆け出す前、多くの観客を一人一人目に映しながら、全ての存在を肯定するように、私は笑顔を浮かべた。
その涙さえ命の色 螢音 芳 @kene-kao
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