君を、思い、続ける。
成井露丸
君を、思い、続ける。
僕の夏休みに澄んだ空は無かった。
見上げた空は鈍色で、君を思う僕の思いは行き場を失った。
ありふれた諦念で終わりを告げた一学期は、空白の時間を連れてきて、灼熱の季節は、やがて僕を身動きの取れない牢獄へと閉じ込めた。それでも僕は祈るように願い続けるのだ。
一ヶ月前。終業式の日。川沿いに立つ木々から蝉の音がする下校途中、橋の上で追いついた君に、僕は振り返った。川の上で肌を打った風は生温かくて、君の髪が揺れる。
柔らかな唇が開いて、やがて、後戻りできない言葉が躍り出した。
「
「良かったじゃん」
「あ〜ぁ、僕も彼女とか欲しいよ」
「陸ならすぐに出来るって。部活の後輩でも陸のことカッコイイって言ってた子いるし」
「マジかよ?」
照れ隠しのような皺を目尻に作った美也。抑えきれない笑顔が、膨れた思いに内側から押し出されて、その頬から蒸発するように漏れ出していた。
僕は心のなかで泣きながら、「夏だなぁ」って思う。その涙は、単純に悲し涙だと言い切れないけれど、嬉し涙とは絶対に違う。
だけど「僕も捨てたもんじゃないね」とばかりにヒューッと口笛を吹いてみせた。軽口みたいに。でも、そんな格好ばかりの口笛が夏空にメロディを奏でることはない。それは浅ましい十代の「格好つけ」に過ぎなくて、唇から漏れ出した空虚な音の揺らぎは川の上の空気を微かに揺らして消えた。
焦燥感は奥底から振動するシンバルのように重くて、金切り声みたいな重低音を痛々しくも震わせていた。
「でも、陸のおかげだよ〜。ほんとありがとね。いろいろ相談に乗ってくれて」
「ハハハ。気にすんなよ。美也と僕の仲じゃん。お互い様って感じで〜」
「お〜、陸、まじ良いやつ! ありがと! 絶対、お返しするからねッ」
そう言って結城美也は右手を握って掲げた。
僕はその柔らかそうに丸く固まった彼女の肌に、握り拳をコツンとぶつける。
「おう、じゃあ代わりに可愛い後輩を紹介してくれるとか? あと、夏休みの間中、パピコアイスを会う度に奢りな?」
「なにそれ〜?」
可笑しそうに左手を口許につける美也は、中学生の頃と変わらぬ笑顔を浮かべる。
中学三年生の文化祭で一緒に合唱コンクールを引っ張った頃のままの、元気で、明るくて、可愛くて、屈託のない笑顔。
――「美也と僕の仲」
知った風に言ってみたところで、その仲を表すぴったりな言葉が、僕には分からない。なんという名前の仲なのか。気の置けない友人だとか、男女を超えた友情だとか、そういう言葉で表現するのだろうか? 幼馴染だと言うには出会うのが遅すぎて、腐れ縁だと言うほどには惰性の付き合いでもない。
出会ったのは中学に入ってから。一年生の時に初めて同じクラスになった。仲良くなったきっかけはペアになった日直。僕、
所属する部活も違うし、家の方向も別々だったけれど、僕たちは不思議と馬があった。幼馴染でも腐れ縁でもない。そんな彼女との関係性は僕にとって心地よいもので、少しだけ甘酸っぱいもの。
街の真ん中、賀茂大橋の手摺に肘をつけた僕と君の下を、大きな川が滔々と流れていく。盛夏の太陽を乱反射させながら。
「じゃあね」
「ああ、またな」
帰る方向の違う僕らは、橋のたもとで手を振って別れた。僕は川沿いを南へ向かい、彼女は北へ向かう。中学生の時もこの橋は二人が別れる場所だった。
一学期の終業式、結城美也は和泉先輩に告白した。和泉先輩は美也が所属する吹奏楽部の先輩で、楽器はたしかトランペット。
僕には吹奏楽のことなんて分からない。美也がやっている楽器がフルートだっていうことは知っているし、中学の時から彼女の出演する吹奏楽部の演奏をいつも文化祭やコンクールで聴いていた。でも、それくらい。細かなことは全然わからない。僕自身はほぼ帰宅部だったし、楽器の心得も、吹奏楽の知識もまったく持っていなかった。
だから、僕にとって、吹奏楽の演奏会はフルートを吹く美也のことを遠くから眺める時間だったのだ。
美也が一生懸命にフルートを吹く姿を見るのが好きだった。
一生懸命な美也のことはつい応援したくなる。僕にとって、彼女がいる吹奏楽部の演奏は、まるで青春映画のワンシーン。それは、僕の記憶の映像に時折挿入されるスチル写真。思い出の一つ一つのシーンには彼女がいた。美也の姿があった。
フルートに関して言えば、美也は決して楽器の才能に恵まれた演者ではない。天才からは程遠く、凡才よりかは少しまし。だから人一倍努力していた。
中学の時には定期演奏会で演奏するメンバーには選ばれていたけれど、高校一年生の時には、補欠だった。中学の時は長閑だった吹奏楽部の部活動も、高校になるとなんだか熾烈で、美也も随分と悩んでいたし、技術の巧拙に随分とこだわるようになっていった。
全然上手くならない、誰々は指揮を見ない、誰々は才能があって羨ましい。
そんな恨み節を愚痴みたいに話すようになった美也の言葉に、折に触れて、僕は耳を傾けた。そういうことを言う美也は、あまり美也らしくないと思いもしたけれど。でも一方で、彼女がそういうことを遠慮せずに僕に話してくれるっていう事実自体は、むしろ好ましくも思っていたのだ。
それだけ美也が、僕に心を許してくれているってことだと思ったから。
人の思いに名前をつけるのは難しい。それを言葉にするなんて、もっと難しい。
それでも、単純に僕の思いを言葉にするならば――僕はやっぱり、結城美也のことが好きだったんだと思う。いや違う。今でも、好きなのだ。結城美也のことが好きなのだ。ずっと好きなのだ。それは、親友として。女性として。あらゆる意味において。きっと、僕は彼女のことが好きなのだ。
川岸沿いに去りゆく彼女の背中を見つめながら、僕は一学期最後の灼熱の下で、そんなことを確認していた。そんな自分の思いに気づき始めたのは、いつの頃だったろうか? はっきりしたきっかけは無かった。それはじわじわと広がる思いで、白いテーブルクロスにこぼれた水が、ゆっくりと広がっていくような過程だった。
初めてそれを言葉にしようと思ったのは、多分、中学三年生の文化祭の最終日。「今日こそ告白するんだ」って心を決めた僕は、美也に「二人で打ち上げをしよう」だなんて声をかけた。「いいよ」って君が細めた瞳に、僕の胸は跳ねた。
僕ら二人は中学三年生のときに同じクラスで、クラス合唱のパートリーダーを引き受けていた。混声二部合唱で、僕が男声パートのパートリーダー、美也が女性パートのパートリーダー。やる気のないクラスメイトをまとめたり、神経質なピアノ演奏者に気を配ったり、それなりに二人で頭を悩ませたのを覚えている。だから、やりきった後は達成感もあったし、開放感もあった。賀茂大橋のたもとの喫茶店で、二人だけの小さな打ち上げ。
「お疲れ様。ま〜、成功だよね?」
「ま〜、成功でいいんじゃない?」
背中に背負ったフルートのケースを下ろして、ケーキセットを注文する君に、僕は曖昧に笑い返す。実際のところ、合唱コンクールの出来栄えは微妙で、僕らのクラスは入賞を果たさなかった。でも、それはそれで仕方ないし、構わない。文化祭は参加することに意義があるタイプのお祭りなのだ。
「吹奏楽部の方もお疲れ様」
「ん? あ、ありがと。また、聴きに来てくれてたんだよね?」
暖かなアップルティーを口にして、美也が言う。
「まぁね〜。美也が出るんだし、聴きに行くよ」
「そっかぁ。ありがと。……どうだった?」
中学吹奏楽部は文化祭の演奏会で引退だ。少し寂しそうな瞳。
「まぁ、僕には、吹奏楽なんてわかんないんだけどね。それでも、良かったよ」
「ハハハ。わかんないのに良いんだ。――でも、うん……ありがと」
アップルティーのカップをソーサーの上に下ろした美也はため息を一つつく。少しだけ物思いに耽るように。
「――どうしたの?」
「ううん。これで、中学での吹奏楽部も終わりなんだな〜って思って」
「そうだね。引退なんだよね。でも、美也は高校でも続けるんでしょ? フルート」
当然のように言う僕に、彼女は視線をアップルティーに落として、一つ首を振る。
「ちょっと考えているんだ。高校の吹奏楽部は、かなり本気だって聞くし、今みたいに楽しいからってだけじゃ続けられない気がするの」
「――そっか」
そんなこと、考えてもいなかった。僕はただ、授業が終わってフルートのケースを肩に下げて楽しそうに部活に向かっていく彼女のことを、そして、ステージの上でフルートを吹く彼女のことを見ていただけだったから。
「でも、僕は、フルートを吹いている美也のこと――好きだよ。もし、大きな問題がないんだったら、高校でも続けなよ。フルート。僕は応援してるし」
「アハッ。ありがと。やっぱ、陸は優しいなぁ〜」
そう言って少女は照れたように笑った。
思い切って言った「好きだよ」っていう僕の一言は、結局のところ「愛の告白」にはならなかった。そうは取ってはもらえなかったわけだ。
そもそも僕自身、「愛の告白」としてその一言をちゃんと言えただなんて思っていない。中学三年生の僕にはそれが精一杯だったし、そんな言葉であっても、よくやった方だと思うのだ。当時の僕には、まだ、女性としての好きと、友人としての好きの区別は難しかった。
水と空を分ける川面に比べて、性愛と友愛の境界線は曖昧なのだ。
そして二人の関係は仲の良い友達のまま、僕たちの高校生活が始まった。
「金管に和泉先輩って先輩がいてね――」
高校一年生になり、美也はやっぱり吹奏楽部に入った。僕があの日、彼女の背中を押したことと、彼女の入部が、どれだけ関係しているのかは分からないのだけれど。
「やっぱり、高校の吹奏楽部はレベル高いよ。私もレギュラーになれるか分からない。確定なのは、和泉先輩でしょ? それから――」
中学の時の吹奏楽部とは雰囲気が随分と違うようで、彼女の瞳は少しずつ変わっていった。厳しい顧問の先生による指導。全国大会を目指した練習。
「駄目だった。オーディション。――でも、和泉先輩に『どんどん上手くなっているよ』って言ってもらっちゃった」
高校一年生のコンクールに出るメンバーを決めるオーディションで落選した美也は、少し涙ぐんでいた。そうやって彼女に影響を与えられる先輩の存在に幾許かの嫉妬を覚えたりもしたけれど、それは仕方ない。僕は吹奏楽部のメンバーでも何でもないのだから。
放課後に校舎の窓から顔を出して裏庭を眺めていると、パート練習をしている美也の姿が見えた。
冬の寒さの中でも、コートを着込んで、フルートを吹く彼女。同じパートの生徒同士で合わせて練習。時々、演奏を止めては、譜面を指差して指摘し合う。その目は真剣で、彼女が一生懸命、僕の知らない何かに向かっているのが分かった。
彼女が僕から離れていきそうなのを不安に感じる一方で、僕の好きな女の子が少しずつ自立した女性になっていくように感じ、それはそれでとても素敵なことに思えたのだ。
校舎の下で、椅子を寄せてフルートを吹く少女三人に、男子生徒が一人近づいてくる。三人は演奏をやめて、小さく頭を下げた。美也以外の二人は何やら黄色い声を上げている。それを手で制しながら、その男子生徒は三人へと声を掛ける。
先輩としてパート練習の様子を見に来たという感じだ。僕はその男子生徒が例の和泉先輩だということに気づく。近くまで来た和泉先輩は三人と話しながら、譜面を覗き込む。彼と美也との距離は、不自然なくらいに近く見えた。
『オーディションに通ったよ! 嬉しい!』
高校二年生の初夏。君からのメッセージが僕のスマートフォンを鳴らした。
『おめでとう!』
僕は猫のスタンプを返す。
吹奏楽部の活動が忙しくて、友人関係も部活中心に切り替わった君と僕が、二人で会ったり、一緒に遊んだり、学校で話したりする機会は減った。それでも、僕らの関係性は変わっていなかった。良い意味でも、悪い意味でも。僕らは仲の良い友達。幼馴染というほど長い付き合いでもなくて、腐れ縁というほど惰性でもない。
彼女にとって、僕はどういう存在なのだろうか? その問いに対して僕が持ちうる答えは、中学三年生の時から何一つ変わっていないみたいだ。
『和泉先輩にも『期待しているよ』って言われちゃった!』
文末に照れた表情の絵文字。その表情が気になって、僕はタップする親指を止める。
『和泉先輩も今年で引退だから、絶対全国に行きたいって! 私も頑張るからね!』
『そっか〜。がんばれ〜』
なんて空虚な言葉だろう。「そっか〜。がんばれ〜」だなんて。僕は、スマートフォンをベッドのシーツに落として、部屋のシーリングライトを見上げた。
人の思いに名前をつけるのは難しい。それを言葉にするなんて、もっと難しい。
僕は結城美也のことが好きだ。でも、それが性愛なのか友愛なのかはよく分からない。
そして二年生の一学期の終わりが迫る頃、「相談があるから」と、僕は美也に呼び出された。
場所はあの喫茶店。僕が二年前に告白できなかった賀茂大橋のたもとにある喫茶店だ。
「私、和泉先輩に告白しようと思うの。……どうかな?」
柔らかなボブカットの髪。明るい大きな瞳。それは、二年前から変わらない君だった。
でも、二年の歳月は君のことを、たしかに少し大人にしてもいた。女性としての憧憬がその瞳の奥に光っていたし、二年前より少しだけ背丈は伸びて、胸も少しだけ大きくなっていた。
盛夏の灼熱が染み出させた汗が、君の額から首筋に浮かんでいた。
「和泉先輩……か」
「うん。金管パートでね、いつもアドバイスくれたり、お世話になったりしているんだけどね。コンクールに向けて、一生懸命な先輩のこと……見てたら、知らない間に好きになっちゃってて」
「ふ〜ん。でも、僕、その、和泉先輩のこととかよく知らないよ? 僕に相談しても仕方ないんじゃない?」
「え〜、でも、陸、男子だしさ。私……男子から見て、自分がどうなのかとか分からないし……。男子で、私が相談できるのって、陸くらいで、和泉先輩が――」
和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩、和泉先輩――。いつからだろう? 美也の言葉の中にその名前ばかり出るようになったのは? 僕の名前は君の言葉の中で、どこに行ってしまったのだろう? だからといって、冷たいアイスコーヒーのグラスで氷を転がす美也に、僕が返せる気の利いた言葉なんて特には無かった。結局、僕らは、恋人でも、幼馴染でも、腐れ縁でもないのだから。
「美也なら、大丈夫だよ。勇気を出せば良いよ。美也に告白されて嫌な男子なんて居ないよ」
――僕を筆頭にね。
「そう? そうかなぁ……。でも、和泉先輩、人気あるしなぁ。大丈夫かなぁ」
「大丈夫だよ。それに、もし、駄目でも、その時は、僕が代わりに引き受けてあげるから!」
思い切って冗談っぽく言う僕に、美也は目を丸くする。そしてすぐに、くしゃりと目を閉じて笑った。
「も〜、冗談ばっかり〜! 何言ってるの〜。陸と和泉先輩は違うんだからね〜」
「そりゃそうだけどさ」
おどけて肩を窄めてみせる。
「――そんなに、和泉先輩は格好いいの? 好きなの」
「――うん。好きなの」
アイスコーヒーに刺さった赤いストローを唇に挟んだまま、美也は首を竦めてみせた。その照れた表情は、僕の知っている中でも、最も可愛らしい彼女の表情だった。
その時の美也の笑顔を写真に撮ったならば、きっとそれは僕の青春のポートフォリオに収められるスチル写真になっただろう。僕の好きな景色や人物を収めた僕だけのポートフォリオ。ただし、その表情が、僕に向けられたものだったならば、だけど。
だから胸を焦燥感が埋め尽くす。
そして、一学期の終業式の日。君の恋は実ったのだ。
賀茂大橋のたもとで君と別れて、川沿いを南へと歩く。抜けるような空は鈍色で、これから始まる夏休みが空白であることを、僕は確信していた。
コンクールに向かう君を、僕は今までと同じように応援できるのだろうか?
吹奏楽部の夏合宿。和泉先輩と一緒に過ごす君を、僕はこれまでと同じように応援できるのだろうか?
君を思うからこそ、君のことを見つめ続けるのが苦しい。
そんな弱さを、夏の太陽が焦がしていた。
でも、和泉先輩と付き合いだした美也を見て、僕にも気づいたことがある。
僕はやっぱり結城美也が好きなんだって。
その思いは、ただの友人っていう枠を越えて、人間として――そして女性として好きなんだって。いつか、大人になったら、結婚して、一緒の家庭を築きたいと思えるほどに。
君と和泉先輩との関係がいつまで続くのかは分からない。
でも、いつか君が和泉先輩と別れた時に、僕は君に好きだと告げよう。
君がもし、和泉先輩に裏切られるようなことがあれば、僕が一番に君を慰めよう。
曇りのない、純粋な思いで、君を待ち、君を好きで居続けよう。
高校生活はまだ長い。人生はもっと長いのだ。――そんなことを考えていた。
鈍色の夏はその温度を上げる。美也の出場する吹奏楽部コンクールの本番の日が、少しずつ近づいてきていた。
コンクールを翌日に控えた昼過ぎの時間。クーラーの効いた部屋で机に向かっていると、突然、手元のスマートフォンが激しく震えた。着信画面を見ると美也だった。何か嫌な予感を覚えながらも、画面をタップして耳元に運ぶ。
「もしもし? どうしたの?」
『――陸、陸、陸ゥッ! 和泉先輩がッ、和泉先輩がァッ!』
電話越しの美也は錯乱した声だった。真夏の冷えた自室で耳に飛び込んで来たのは彼女の悲痛な叫び。スマートフォン越しの美也は泣いていた。
可能な限りその言葉に耳を傾けて、電話越しに彼女を落ち着かせると、僕は着替えて、家を飛び出した。
自分の好きな少女の危機に駆け出すヒーローにでもなったつもりか。
自嘲的な囁きが頭の中で響く。そしてまた、ありえる未来の可能性が、僕の脳内に語りかける。和泉先輩を失った彼女を慰めて、そして、彼女を手に入れる自分の未来。
でもそれは、他人の不幸を願うこと。それはもう、「純粋な思い」なんかじゃない。
駆け込んだ病室で、ベッド脇に座る君を見つけた。そこには、美也だけじゃなくて、和泉先輩の母親らしき人、そして、数名の吹奏楽部員の先輩達も駆けつけていた。
「陸ゥ――」
僕を見つけた美也はくしゃくしゃの顔で涙を流す。先輩の母親らしき人が僕の方を向いて、目が合った。目礼。他の部員の人たちとも無言で挨拶をする。
ベッドの上に横たわる和泉先輩の頭には包帯が巻かれ、昏睡状態だという。
交通事故だった。吹奏楽部の途中の休憩時間に、美也と和泉先輩が二人で、近隣のお店まで買い物に出ていた帰り道、横断歩道に車両が突っ込んできたのだ。二人に落ち度は無かったのだが、車は和泉先輩を撥ねた。実際には轢かれそうになる美也を、和泉先輩が庇ったのだそうだ。
先輩は昏睡状態。コンクールへの出場は絶望的。
責任を感じて美也は泣いていた。先輩の母親は「あなたのせいじゃないわよ」と表面では言っていたが、子を思う親の心の内は誰にも分からない。
それに、息子に付き合っていた女子高生がいたとは知らなかったようで、美也の存在に、母親は困惑した表情を浮かべてもいた。
結局、次の日のコンクールは三年生のトランペットのエースだった和泉先輩の代わりに一年生の部員が代打を務めることになったが、同じ水準の演奏が期待できるはずもない。部員たちが動揺した空気のままコンクールは始まり、その演奏は精彩を欠いた。
この夏、吹奏楽部は次の大会への進出権を得ることが出来ずあっさり敗退となった。
やがて、夏休みが終わり、二学期が始まる。和泉先輩はまだ目を覚まさない。
「先輩、……まだ、目を覚まさないんだって?」
「うん」
夏が終わり、秋が深まる。君に告白できなかった中学三年生の文化祭から、ちょうど二年が過ぎた。賀茂大橋の周りの木々も赤く色づく紅葉の季節だ。
「そっか。容態はどうなの?」
「わかんない。……もしかしたら目を覚ますかもしれないし、……でも、このまま命が途切れてもおかしくはないって」
あの日以来、瞳に輝きを失った君が、橋の手摺に両肘を突く。秋の風が背中から僕らを包む。
美也は二学期が始まると同時に、吹奏楽部を辞めた。そして、時間があれば、和泉先輩のお見舞いに通う日々だ。そんな彼女を、今の僕は後ろから眺めるくらいしか出来ない。
僕は結城美也のことが好きだ。いつか君が和泉先輩と別れた時に、君に好きだと伝えようと、思っていた。
でも、君と和泉先輩の関係の変化は、彼が事故に遭い、眠りに落ちたことで止まってしまった。時間は止まってしまった。
僕の時計の針は停滞し続けた思いの中でも、止まらずに進んでいるというのに。時間は流れているというのに。思いは――続いているというのに。
最近、部活を辞めて、和泉先輩と出かけることもなくなって、美也が僕と一緒に居られる時間は長くなった。だからって、そこに弾んだ会話があるわけじゃない。ただ、事実として、一緒に居られる時間が長くなったというだけだ。
和泉先輩が目を覚ましたら、君はまた先輩と一緒に歩きだすだろう。病床で支え続けた君と、先輩との繋がりはより強く、関係はより深いものに変わるのだろう。
和泉先輩の状況が悪化し、息を引き取れば、君は悲嘆に暮れるだろう。それでも、嘆く君を、僕は慰めて、もしかしたら僕は君の彼氏となって、君と一緒に歩き出せるのかもしれない。
それなら僕にとっては先輩の死を願うことが、合理的な選択だというのだろうか。
君の一番の友人であったはずの僕が、君の愛する人の死を願う。それは人として、最低なことだってことくらい、僕にも分かっているんだ。
知らない間に、立ち止まっていただけなのに、僕の思いは
先輩の意識が昏睡状態に囚われる中、僕の思いもまた牢獄に閉じ込められている。
息をするだけで、願いは罪の匂いを吐き散らかす。
僕は君のことが好きなだけなのに。幼馴染でも、腐れ縁でもない君のことが。
「――どうしたの?」
冷たい秋風が吹く、橋の上で、君が僕の横顔を覗き込む。
「ん? 何でもないよ。先輩、早く目を覚ますと良いね」
川の流れを眺めながら、僕は空虚な言葉を吐く。
「そうね。ありがとう。きっと、もうすぐ……きっと、もうすぐ、先輩は目を覚ますよ」
「美也は、先輩が目を覚ますまで、お見舞いを続けるんだよね?」
「――もちろん。私、先輩の、彼女だから」
「美也は……やっぱり、――偉いね」
「でしょ?」
そう言って君も、流れ行く秋の川の向こうに視線を遣る。
君は先輩のもの。病床にある先輩のもの。いつ目を覚ますのかわからない先輩のもの。今日目を覚ますかもしれないし、一生目を覚まさないかもしれない。
目を覚ましたら君は、先輩と一緒に歩き続けるのかな? そうなんだろうね。
その後に、先輩と別れて、僕と付き合うようになる未来って、ありえるのかな? どうなんだろうね。
川の流れは海に繋がる。その先はどうなっているのか、僕には分からない。
人の思いに名前をつけるのは難しい。それを言葉にするなんて、もっと難しい。
でも僕はもう、知っているんだ。僕の中にある、君への思いを。
鈍色の夏が終わり、秋が深まり、冬が始まる。
そして僕は――君を、思い、続ける。
君を、思い、続ける。 成井露丸 @tsuyumaru_n
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