season1-1-② 起:自分だと思っていた自分は、まるで自分ではありませんでした。

 目尻にじわりと涙が溜まる。悲しみのためでなく、宵越しの大きなあくびのゆえに。

 数畳の和室に布団が敷かれ、自分が横たわる。今朝セットした渦巻き状の髪型は解かれ、衣装も自分の家にはない寝巻きになっている。右手首も、痛みこそ残れど包帯で止血され致命傷を避けているようだった。至れり尽くせり施された岸船木の胸中には、この場所を都合した一人の男性の姿が思い浮かんでいた。

「師匠、ありがとうございました」

 独り言には少々大きな声を放つ岸船木の瞳が、床の間の掛け軸にむけられる。「ふてぶてしい猫」と達筆で書かれた縦文字と裏の壁、その一寸たるや狭き隙間からは、驚天動地、細身の男性が暖簾をくぐるように顔を出した。

 古典的な忍者の装束を紺色に纏う時代錯誤な男だが、口元は使い捨ての白いマスクで決め、その点のみにおいてビジュアルのアンバランスな印象を見る者に与えた。

「たまたまお前が知らないマンションに出入りするのを目撃したから良かったものの、ホントなら死んでたぞ」

 掛け軸の前方に立ち、仁王立ちをする鹿爪顔の男は、岸船木の分身の術の師匠に他ならない。目つきは鋭く、まつ毛が少ないゆえに細く見える。

「学校サボって、乳触って......まったく、学校サボって、なあ、乳触って......いや、学校サボって、あれだな......乳触って」

「羨ましいんですか?」

 図星を突かれ、後背の掛け軸に頭を打つまでに怯む師匠。後頭部に奇襲を受けたと思い切羽詰まったのか、いきおい掛け軸を立て真っ二つに引き裂いて「ふてぶてしい猫め!!」と叫ぶ。掛け軸の消えた壁には、人一人が通過できる穴などなかった。どんでん返しの縁すら見当たらないくらいだ。

「羨ましいだと! クソガキめ、笑止千万! 小生、こう見えても若い時分はニンジャ・マカロニの異名を持つプレイボーイだったので候」

 焦燥をごまかすための師匠の哄笑に、「由来は?」というごくごく当然の質問が迫る。

「早抜きの名人と......言われたので早漏」

 萎んでいく語調に、現実の厳しさを知る。岸船木が勝手に開けた書斎の棚からは、風俗嬢の名刺が束になって出てくる。

 敗北感からか、師匠はうずくまり歔欷の様相を示す。

「小生も、美人局に遭うくらい鈍感なら良かっただに......」

「失礼な」

 岸船木はやおら体を起こし、布団を畳み始める。その最中に、自己弁護で沈黙をつぶす。

「誰にだってホイホイついていくわけじゃない。さゆりんが、妖艶だったんだ」

 畳んだ寝具を部屋の隅に固める彼の背中に、ある種の恍惚の様相を見る。「てんで反省なんかしてやがらねえ」という諦観の言葉を背中で受けた彼の顔は、真っ赤に上気している。

「次に会えたら、本気で口説きますから」

 満腔たる笑みで振り返る岸船木を見て、「好きにしな」と呆れた面持ちで師匠が返答する。

「とりあえず色々と話が込み合ってるんだ。ちょっと整理しよう」

 師匠が突然に神妙な顔を始めたため、「ただの美人局でしょ?」と岸船木は質問する。

「平和ボケするな。お前みたいな貧乏学生相手に美人局かけるバカがどこにいる?」

「そりゃ、そうですけど」

「とりあえず、あいつらが誰か、こちらで調査する」

 二つ目の話題を振るために、師匠は右の手中から金紙のような微小な何かを岸船木の足元に放った。

「階段の踊り場で倒れるお前の横に、これがあった。ICチップだろう」

 岸船木が足元のそれを拾い上げる。表面を渡る導線のような複雑なラインを見る限り、確かにICチップのようなデバイスの類であることは確かなようだ。

「これ、俺の腕から出てきたんです」

「古くからある一般的なICタグの類だろう。見覚えは?」

「ないです」

 師匠は思案顔で「まあ、それもおいといて」と第三の話題を振る。

「そもそもの話をする」

「はい」

「まず最初に確認するが、お前は分身の方でなく、本体の方だな?」

「はい」

「分身の方にその答えはできない。確かにお前は本体だ。だが......」

 一拍置いた発言。

「体は分身の方だ」

 確かめるために自分の体に触れてみるが、複製と本体の差などつくわけもない。師匠がそれを看破したのは、彼自身が分身をマスターしているからに他ならない。

「そのチップも、分身の体の方に入ってた、というわけだ」

「なるほど。なら、分身の方に聞いてみますか」

 岸船木が印を結び、分身の自分自身を呼び寄せようとするが、誰も現れはしない。

「分身側からの呼び寄せは成立しない。お前も学んだはずだ」

 師匠のお叱りに「俺、本体の方......」と言いかけて止める。体がどちらかが問題なのである。

「おそらく、分身の方がお前自身の体を借りている形になっているだろう」

「なら、学校に行って問い詰めてきます」

「無駄だ」

 師匠が続けて「もう行った」と返答する。

「早退しているし、自宅にもいない。端的に言えば蒸発したよ」

「そんな......」

「何事も地道に調べるしかない。なにか分かったらまた連絡する」

 それから三日間、師匠からは何も連絡はなかった。依然として分身も返ってこず、分身の術も入れ替わりも解けないまま時間だけが過ぎていった。

 四日目、師匠から写メールが一つ届いた。その写真に写っていたのは、自分を襲った美人局の男が刃物を振り上げているバストアップの姿。彼が誰を襲っているのかは分からないが、嫌な予感がした。

 それから一時間もしないうちに、分身協会から師匠の訃報がもたらされた。

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いつも通り分身してたんだが、なんか入れ替わってね? 山川 湖 @tomoyamkum

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