いつも通り分身してたんだが、なんか入れ替わってね?

山川 湖

season1-1-① 起:スラップスティック・アンド・ノーウェアな自分へ

 --てたけど、やっぱりクソしたら寝るのが定石だなぁ。

 暇を持て余すことに全身全霊。夢を語らない一介の書生「岸船木きしふなぎ沙河さが」は寝室で横臥しながら鼻ちょうちんを上手に作る。鼻水にコーティングされた空の器は空気圧に耐えかねて弾けた。

 日がな退屈にしている彼が時折思うのは、「ベビースター食えりゃ幸せか。貧乏くさいガキめ」という祖母の言葉だけだ。重度の認知症だった彼女が「他人」の岸船木に向けたその暴言は、家族の大いなる反駁の喧騒にぼかされつつも、間欠的に開く古傷のような本質的な痛みを彼に残(々)した。閉鎖的で限られた幸福の論理(「幸せの定義は人それぞれ」という月並みな家父長の弁護を含め)を頭から否定し、人間の何もかもに経済の度量衡が仲介しているという事実認識を促す、そんな至極曖昧な痛み。

 傷口がぱくりと開いたときは最寄りの街に繰り出し虚栄心を保つ。身なりを最大限に整え、どこにも存在しないスラップスティック・アンド・ノーウェアな自分に着替えて、ナンパされる瞬間を心待ちにしている。

 柄のインナーに無地のジャケットを纏い、髪を渦巻き状に固める。一見珍奇な見てくれをすれ違いざまに陰口されたって今の彼にはのれんに腕押し。なぜならば、今この瞬間の彼こそ、スラップスティック・アンド・ノーウェアだからである。

「見ろよ、あの髪型。調子の良い時の俺のうんこそっくりじゃねえか」

 ただ今、快活な弁で横目に見た岸船木を嘲笑ったのは、この街で幅をきかす骨董品屋の店長「金原いばら」に他ならない。隣に器量の良い女性マネージャーを連れ、あからさまな世代の懸隔をもって年長者の金言めいたものを垂れる金原は、鮮やかなブロンドの髪とサイズの二回り大きいセットアップジャケットを着て、昂然と胸を張って街を闊歩する。うら若き女性マネージャー「日吉蜜華みつか」は極上の愛想笑いと共に岸船木に一瞥をくれ、彼と視線を交わす一瞬間に謝罪めいた会釈を一つ残して、金原の方へ注意を戻す。

 彼女は胸元のざっくり開いたワイシャツの上にタイトなスーツを窮屈そうに着ている。生きるために雇い人の嗜好へと近づく賢明さは、スラップスティック・アンド・ノーウェアとは対極にある。

 成金の悪罵をどこ吹く風とスルーした岸船木は、緩慢な歩調で、街の中心に聳える時計台のオブジェへと向かった。そこは往来の最も激しいスポットであり、人の目に当たるには最適な場所であった。

 通りがけのコンビニで缶チューハイを買い、裏路地で飲み干す。酩酊状態のままオブジェの下に赴けば、そこはもう一人舞台。スマートフォンを触るだけで、自宅の暇つぶしと何ら変わらない遊びしかできないが、公衆の面前に居られるのならば何だってよいのだ。

 時計台の下は恰好の待ち合わせ場所である。ランドマークの時針が一周する頃には、片手で足りない数のアベックが再開し、各々の目的地へと去る。ある種、遊びの始まりとも言えるこの場所で、岸船木の1日は大抵終わる。この停滞が崩れるのは、彼に話しかける誰かが現れる時となるだろう。

 そうは言っても物語。過去の実績はともかく、始まりは決まって事件の発起に違いないのだ。

「あの、すみませんべい?」

 正午過ぎ、俯き加減の岸船木の耳朶を打った柔らかな女声。眼下のパンプスからゆっくり見上げていくと、顔立ちのはっきりした愛嬌のある女性と視線がぶつかった。見た目は、カーキ色のカーゴパンツに、手拭いに都合よい長袖のトップスで決まっている。白のスキッパーシャツをはだけ気味に着て、上目遣いで語りかける彼女に、岸船木は幾星霜もの自分の努力が報われるようなすっきりとした心持ちを覚えた。

「今、一人ですか?」

 表情にことさらな変化を持たせる彼女に、岸船木は逆ナンパの確信を得た。眼前の女性のシャツが風に揺れ、下着のラインが透けて見える。

「映画館のチケット一枚余ってるんですけど、もしよければ、一緒に行きませんか?」

 そこからは流れるような快諾で、二人して映画館へと並んで歩いた。映画館で見た「スピード5」は、岸船木にとって忘れられない思い出になった。主演のキアヌリーブスからアヌスとノースリーブを想像し、上映中に勃起した。

 クライマックスで、岸船木の手の甲に温かい人肌の感触がした。シャイな少年はスクリーンに釘付けのフリをして目線を変えなかったが、その時こそ彼のペニスは釘のようにカチカチと固くなっていたのである

「面白かったよね?」

 二度の勃起で疲弊しきった童貞の岸船木にもたらされた彼女のささやかな提案は、彼をどうしようもないほどに誘惑する。

「ちょっと疲れたよね? どこか休める場所とか......」

 わざとらしく遠方のマンションを指差す彼女。そのおためごかしは、会話中に散見された彼女の不自然な動線から火を見るよりも明らかなのである。すなわち、次の彼女の言葉こそが、この出会いの目的となる。

「あそこ、私の家なんだけど、行くよね?」

 行きずりの女性の操り人形と化した岸船木は、いつの間にか上裸になり、他人のマンションの一室で躍り狂っている。

「渦巻きみたいなその髪型、いかしたピストルみたいで好きよ。いかした、ジェームズボンドみたいで、好きよ」

 シングルベッドの枕元でささやかれたその誘惑で、岸船木の判断力が致命的に鈍った。

「私、彼のことを助平スケベスパイと呼んでるの。でも、ミッションインポッシブルのイーサンのことはトムクルーズと呼ぶのよ。インポスタントマンと呼ぶことだってできるのに。二人の違いはなんだと思う?」

 岸船木の手が、彼女の乳房に触れた。鳴く女に、吐息まじりのサイレンサーピストルの如き発声の弾幕。

「記号に外見が宿るかどうか.....分かる?」

 ベッドの軋みは激しく冗漫に聞こえる。慣れない手際で事を進める岸船木は、獣性になりきれない未成熟な狂乱の間隙に、嬌声といずこの工事のノイズと、それと小さな開錠の音を聞いて、とりわけ、最後に聞こえた小さな「ガチャ」という音の方へと意識をやってみるのだった。

「おい、帰ったぞ」

 開錠の音に続く内鍵の施錠音に呼応して発せられた野太い男性の声を悠長に聞き流している間に、その転機を幻聴や思い違いの方に委ねてしまっている間に、岸船木の意識は現実的な危機に対していつの間にか大きく後手に回っていた。

「おい、さゆりん。てめえ何してんだ?そのインポ野郎は、どこのどいつだ?」

 岸船木の後背で勢いよく戸が開かれた。大きな図体の闖入者を岸船木はしばらく茫然自失と見つめていた。一方、さゆりんと呼ばれた女性はたちどころに腰を上げ、手元のブランケットで体を覆って、男に飛びついた。

「助けて!レイプ魔よ。こいつは、レイプ魔よ! こいつは、レ--」

 皆まで言うな、と男が女の唇に手を当てる。男は眉根を寄せ、無抵抗の岸船木の陰毛を握りしめながら鳩尾に拳骨をお見舞いする。

「おい、インポレイプ魔よ。てめえのしおしおチンポに自信がねえからって、いたいけなさゆりん騙して一発すっきりしようなんて、オレが赦さねぇんだが?」

 男は台所から包丁を取り出し、岸船木に近づいていく。その様子を、さゆりんと呼ばれた女性が唖然と睥睨していた。

「何してるの!?」

「ぶっころに決まってんだろ、どいてろよ。欲求不満なら冷蔵庫のぶなしめじでも食ってろ」

「そこまでしなくてもいいじゃない!?」

「うるせえなぁ。てめえもミンチにするぞ」

 手早く包丁を握ってしまった男に、さゆりんと呼ばれた女性はこれ以上抵抗することはできない。

「やめなさい」と何度も叫ぶ裸の女に羽交い締めにされながら、単純な膂力の上回りによって桎梏に対抗し、男は凶器を横一線に薙いだ。刃先をかすめた岸船木の右手首からは血飛沫が舞い、部屋の壁が真っ赤な斑点に覆われる。

 痛みで尻餅をついた岸船木に上空からの追撃が迫る。あっけない最期を諦観した岸船木の意識は、しかしながら、遂に途切れることはなかった。代わりに男の体軀が地に落ちて、「ドシン」と大きく音が鳴った。卒倒した彼の手から包丁が手放され、地面に放擲される。

 彼の図体が倒れたことで明らかになった光景、その最前に、ガラス製の置き時計を両手に持つさゆりんがいた。肩で息をし、渋面で岸船木を睨む彼女から、先ほどまでの蠱惑的な女性性は感じられなかった。

「助けてあげるわクソタヌキ。同情じゃなくて、私自身のプライドのため」

 置き時計の底面につく矩形の台、その一角に真っ赤な血がついていた。

「用が無いならさっさと出て行きなさいよ!この状況でまだ私とセックスしたいっての!?」

 怒声に急かされるまま、岸船木が這々の体でマンションを辞去する。出血量ゆえにうまく走れず、階段で転倒した。踊り場で意識が朦朧とする彼の右手の傷口からは、見覚えのないICチップが飛び出てきた。

「なんだよ、これ?」

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