グリンカの幻想ワルツ

増田朋美

グリンカの幻想ワルツ

グリンカの幻想ワルツ

その日、佐藤京子は、市民会館のホールに居た。いつもよりずっと着飾って、まるでどこかの大学の卒業式に出る母親みたいな恰好をして、ホールの客席に座っていた。今回のコンクールは、絶対にうちの子が一番を取るんだから!と気合を入れる。そう、今日は娘の佐藤靖子の晴れ舞台なのだ。

「エントリーナンバー9、静岡県富士市、佐藤靖子。曲は、フォーレ作曲、ワルツカプリス第一番、イ長調。」

と、アナウンスが流れて、派手なドレスに身を包んだ、娘の靖子が現れる。靖子は、堂々とステージの上を歩いて、大スターのように真ん中で一礼し、ピアノに向かって、鍵盤を拭いて、ピアノを弾き始めた。

よし、これでうちの靖子の一番を受賞するのは確実だ。だってほかに、大曲を弾く奴は誰もいないんだし。だってあたしが、靖子の邪魔をしないように、あの男を止めておいたんだもの。京子は、そんなことを考えている。そう、あの男は二度と現れない。絶対に現れない、、、。

始まりはこうだった。

靖子は、普通高校に通う高校三年生である。家族は、母である京子と、周りに無関心で、金の製造マシーンでしかない夫の三人家族だった。特に音楽に縁のあった家庭という訳でも無いのだが、京子が、学生時代、学校で吹奏楽をしていたことがあったので、靖子もピアノを習って、楽譜を読むことはできた。中学生の時、靖子は、音楽学校に進みたいといった。京子も、家から離れて一人になってみるのもたまにはいいのではないかと思ったので、特に反対はしなかった。夫の給金であれば、音大にいく余裕も十分にあった。靖子は音楽高校に進学しようと言ったが、偏差値が足りなくて、それは叶わず、普通高校に進学したのであった。

まあ確かに、音楽高校に進んでいれば、音楽学校への進学は比較的楽になれるというのは確かだが、普通高校であったから、逆にライバルがいないという利点もあった。偏差値も比較的低い学校だったから、軽く勉強しておけば、十分に良い成績がとれる、学校だった。まあ、高校は通過点に過ぎない。その程度で見ておけばいいだろう。特に思い出も何も残さなくても、大学へ行けば思いっきり楽しめる。京子も靖子も、そう思っていたから、そう言うところは平気で暮らしていた。

靖子の同級生で、なかなか目立たない雰囲気の、頭の固そうな、村井継夫という少年がいた。成績もさほど良くなくて、何だかのんべんだらりという雰囲気を持った少年だった。継夫君、早く進路を決めて、勉強しなさいよ。と、担任教師たちは、彼を急かしていた。

ある日、靖子が、学校から妙に帰宅の遅い日があった。なんだろう、と思って京子は、玄関先で鞄の中身を整理している靖子に声をかけてみた。

「今日はバカに帰ってくるのが遅かったじゃないの。部活には入っていないはずなのに、何かあったの?」

「ああ、ごめんなさい。今日は、ピアノの演奏を聴いてもらったのよ。」

と、靖子は、明るく答えるのである。

「演奏って誰に?担任の先生にでも聞いてもらったとでも?」

と、京子が聞くと、

「同級生の村井継夫君。彼も、ピアノがすごく上手なのよ。」

と、明るく答える靖子。京子は、ライバルを減らすために、そういう人とは関わる必要もないと靖子に言ったが、靖子はそんな事は、言わないでという顔をしていた。京子は、何となく、その顔が不安になった。

翌日。やはり靖子の帰ってくるのは遅かった。京子は夫にも、何をしているのかしらねといら立って言ったが、のんびりした性格の夫は、靖子も、なにかしたい年ごろさ、それでいいじゃないか、とにこやかに笑うだけであった。

「でも、何をしているのかしら。あの子、ピアノの練習もしなければならないのよ。」

京子が言うと、夫は、

「たぶん、どっかの音楽スタジオでも行っているんじゃないのか。うちで親に聞かれてばかりじゃ、面白くないことだってあるさ。」

と、言って、ビールをがぶ飲みするのであった。

夜遅く成って、靖子が帰ってきた。ただいまあと言いながら家に入ってくる靖子に、

「何処に行ってたの?」

と京子は聞く。

「どこにもよらないでまっすぐ帰ってきたわよ。学校から出たとき、もう、下校時間ギリギリだったから。」

と、靖子はそういうのである。

「ちょっと待ちなさい。学校でそんな遅くまで何をしていたの?まさか、赤点補習でも受けたとか?」

「嫌ねえ、お母さんたら。あたしはそんなことしないわよ。音楽の先生がピアノを貸してくれたので、練習させてもらったのよ。いけない?」

靖子は明るく言った。その証拠として、鞄の中から楽譜を取り出した。

「練習って、学校に一人で残ってやっていたの?学校の先生は、許可してくれたの?」

「ええ、してくれたわ。音楽の先生が、担任の先生にとりなしてくれたみたい。さあ、遅く成っちゃったから、宿題やらなくちゃ。ちょっと、そこどいて。」

京子がそう聞くと、靖子はそう言って、靴を下駄箱にしまって、部屋へ走って行ってしまった。近所の人に考慮したのか、ピアノの練習はその日はしなかった。

翌日になっても、靖子は明るく元気に行ってきます!と学校へ出かけていく。そして、家に帰って来るのは、夫が帰ってくるのと同時か、それより遅い日々が続いた。何をしているのかと聞いてみれば、靖子は、決まって音楽室のピアノを借りてピアノの練習をしていたと答える。その証拠として、ちゃんとピアノの楽譜も持ち歩いているのだが、靖子は本当に練習しているのだろうか、京子にはそれが不安でたまらなくなってきた。夫は、いいじゃないか、靖子にも青春させてやれよ、なんて呑気に言っているが、音大受験というものは、そんな風にのんびりしてはいられないと京子が言ったため、すごすご引っ込んでいった。

その数日後。公開授業というものが開催されることになった。普通、こういう時には、一般的な高校生であれば、親が学校に来るのを嫌がることが多いのだが、靖子は、何も言わなかったので、京子は参加してみることにした。

とりあえず、その公開授業が行われる時間に学校に行ってみる。京子のほかにも、何人か母親が授業を見に来ていた。授業は国語の授業だったが、多少服装が乱れている生徒はいたものの、居眠りをしたり、私語をしたりする生徒は一人もおらず、みんな真面目に先生の話を聞いていた。

「はい、それでは、次は、村井継夫君。教科書の21ページを読んでみてください。」

と、先生が言うと、一番後ろの席に座っていた、小さな男子生徒が、教科書を取って、そのページを読み始めた。随分細い声であるが、ちゃんと、声に出して読んでいる。しかし、背も小さいし、女の子と大して変わらない体格をしていた。若しかしたら虚弱な生徒なのかも知れないが、そういう人間は碌な目に合わないと、京子は思っている。だから、きっとこの生徒も、たいした仕事には就けないだろう。どうせ、碌な大学にも行けない。こんなの、ライバルでもなんでもないと、京子は思った。

その日は、靖子が村井君にピアノを聞いてもらっていたという事は、頭から抜け落ちていた。そのひ弱そうに教科書を読んでいる彼を見て、たぶん、優越感に浸ってしまったのだろう。

しかし、公開授業のあと、保護者会があった。担任教師が、大学受験をうまく乗り切る方法を論議してくれたのであるが、周りのお母さんたちは、京子をなぜか敵視しているような感じだった。保護者会が終了した後、京子は、同級生のおかあさんから、こんなことを言われてしまったのである。

「あの、佐藤さん。御宅のお子さんはもう、志望大学が決まったんですか?」

「ええ、うちの子は、音楽学部を目指すと言っておりますが。」

と、京子は、ニコリと答えた。すると、そのお母さんは、こういうことを言う。

「あら、よろしゅうございますねエ。センター試験も、何もしなくていいんですから。うちの子は、五教科七科目も受けなければならなくて、困っておりますのに。御宅は、受験しないんでしょ。」

彼女の言い方は、自分をバカにしているというか、センター試験を受けないでもよいという事をねたんでいるという言い方だった。

「いいえ、実技試験があるから、おんなじくらい、大変なんですよ。」

京子はそう言い返してみたけれど、

「でも、すきなものをやって、大学に行けるんだから、いいことですわね。うちの子は、嫌いな勉強を無理やりやらされることを強いられていますのに。全く、不公平ったら、ありゃしない!」

と、別のお母さんが、彼女にそういうのだった。

「そうヨねエ。それでわざわざ保護者会に来る何て、いい度胸していますわね!まあ、せいぜい、音楽学校に行ったら、それを楽しむんですわね。いずれにしても、就職氷河期なんですから、こっちの勝利だってことは、お伝えしておきますわね!」

また別のお母さんが、京子にそういうセリフを言った。京子は、なんとも言えない悔しい気持ちになった。そういうことを言ったのが、村井継夫君のお母さんなのかは不明だが、とにかく同級生のお母さんが、ひどいことをいう存在だと、今初めて知ったのである。

そして、また、保護者会が終わって、下校時刻を過ぎても、靖子は帰ってこなかった。帰ってきたのは、夫が帰ってきた一時間以上後であった。

「何をしていたの?」

玄関で靴を脱いでいた靖子に、京子はそう聞いてみる。

「何をしていたって、またピアノの練習よ。学校の音楽室で練習してきたのよ。」

と、靖子がそう答えると、

「一人で練習していたの?」

京子は、そう聞いてみた。靖子は、面倒くさそうな顔をする。食堂にいた夫が、いいじゃないか、そのくらい、と言っているが、京子は、聞くのをやめなかった。

「靖子、誰と練習していたのか、ちゃんと話しなさい。あんたが、一人ではちゃんとやれないってことは、お母さんよく知っているから。」

確かに、靖子は、一人でいることが好きな子ではない。小学校から、友達の家で宿題をやってくるという事はたびたびあった。でも、受験がかかっているような行事は、一人でやらせるべきではないかと、京子は思っている。

「いいじゃない。勉強だって、一人で黙々とやるよりは、誰かと一緒に勉強するほうが面白いじゃないの。それに、志望校は、二人とも違うから、同じことはしないわよ。」

靖子はぶっきらぼうにそういうことを言った。

「いいえ、受験は、一人で乗り越えるものよ。お母さんだってそうだったんだから。誰と一緒にいたの?どこにいたの?話しなさい!」

京子がちょっと語勢を強くして話すと、

「村井継夫君と一緒。」

と、靖子はぼそりと答えた。

「誰よ、その子は!」

京子がそういうと、

「誰って、同級生に決まっているじゃないの。此間の保護者会で見たでしょう。あの子よ。あの子も、音楽学校目指しているんだって。だから、課題曲を弾きっこして、お互いの悪いところとか批評しあったりしてたのよ。その何処がわるいというのよ!」

と、靖子はそういうのだった。ほらどいて、宿題やってないから、と言って、彼女は靴を脱いで、部屋の中に入ろうとする。

「ちょっと待ちなさい。あの小さな男の子に、音楽学校の受験なんかできるわけないでしょう。そうじゃなくて、また別の子と付き合っているんじゃないの?」

京子は、彼女の腕をつかんでそれを止めた。

「小さな男の子って、小学生じゃあるまいし、何を言っているの?ただの体が小さいだけで、他に何も悪いところはないわよ。それにさっきも言ったでしょ。志望校は違うのよ。音大なんて、いっぱいあるでしょ。だから受験する曲だって違うのよ。少なくとも敵同士になることはないわよ。もう、早く宿題をやらせて頂戴!」

と、靖子は、宿題をするために部屋に入ってしまった。京子は、仕方なく、居間に戻って、クラスの連絡網を取り出す。その中に、先ほどの村井継夫の自宅の番号があるかどうか、調べてみた。確かにあった。でも、それは固定電話ではなくて、携帯電話の番号だった。今の家では、固定電話を敷いていないという家庭は、珍しくないが、京子は、なぜか、固定電話も置けない、変な家だなあと思ってしまったのである。

ちょっと、電話機をいじってみようかと思ったが、夫が、おい、変ないたずらはやめろ、というので仕方なくやめておいた。

しかし、村井継夫という生徒がどこに住んでいるかを調べることはできた。スマートフォンのアプリで、調べたい相手の番号を入力すれば、住所がすぐ出てくるというアプリがあったのだ。もともと、嫌がらせをする人を調べるために、警察から配信されているアプリであるが、京子は、そんな事は気にしなかった。早速アプリを立ち上げて、その番号を、入力し、検索してみるのである。

すると、村井継夫という番号では無かったが、村井頼子という女性の携帯電話であることが、判明した。彼女は、富士市のかなり北の方に住んでいることが分かった。それも、マンション住まいである。マンションという事は、近所迷惑にもなるから、長時間ピアノを練習できないはずである。きっと対してピアノもうまいわけではないだろう。と、いう事はつまり、村井継夫は大して演奏技術もないという事だ。どうせ、母子家庭で、小さなマンションの中に、細々と暮らしているような、そういう家庭の子供だろう。音楽学校は、いくらお金がかかるか知っているんだろうか。それくらい、教えてやってもいいや、と、京子はそう思った。

翌日。京子は、そのスマートフォンのアプリに出た地図を頼りに、その男の子の住んでいるマンションに行ってみることにした。車で、マンションの近くにある、駐車場へ行き、そこからは車を降りて歩いていくことにする。

「おい、お前さん、これ、落とし物じゃないか!」

と、後からいきなり声がしたので、京子は後ろを振り向いた。すると、車いすに乗っている男性が、自分のハンカチを持っていた。何処で落としてしまったのだろうか。

「あ、すみません。」

と、京子は急いでそれを受け取った。

「すみませんなら、僕じゃなくて、水穂さんに言ってくれ。こいつが、自動販売機の前で拾ってくれたんだ。」

と、彼は言った。同時に、缶ジュースを持ったもう一人の男性が、

「杉ちゃんごめん、遅く成って。」

と、言いつつやってきた。杉ちゃんと言われた男性は、その人を顎で示した。つまりこの人が水穂さんか。随分きれいな人だ。もっと若い人だったら、芸能人にでもなれそうな気がする。

「あの、ハンカチ拾っていただいてありがとうございました。すみません。」

京子は、そういってその場を立ち去ろうとする。

「あー、待て待て。お前さんどう見ても訳ありだなあ。一体どこに行くつもりなんだ?」

と、杉ちゃんと言われた人は、そんな事を言い出した。京子も開き直って、

「あの、この近くで村井という人が住んでいるマンションってないでしょうか?名前は、村井頼子、継夫という息子さんがいる。」

と言ってみる。

「ああ、村井頼子さんね。」

杉ちゃんが、即答した。

「あのね、ここにはマンションはいっぱいあるが、一番奥のマンションだ。そこの角部屋に住んでいる。」

「失礼ですが、なんでそれを知っているのですか?」

と、京子は尋ねた。

「ああ、時折、野菜をもらったりしたことがあったので。」

「継夫君の演奏を聞かせてもらったりとかしましたよ。」

杉ちゃんと水穂さんは、相次いでそういうことを言った。

「継夫君が、中学校時代、僕らの施設に来たことがあったんです。その時に、ピアノを聞かせてもらいました。まだ、グリンカの幻想ワルツしか弾けなかったけど、すごく上手でしたよ。」

そういう水穂さんは、にこやかに笑っていて、とても楽しそうだった。

「ついでだから、僕たちも連れて行ってやるか。」

と、杉ちゃんがそういうことをいいだしたので、京子はぎょっとした。それだけはどうしても避けなければ!

「なにボケっとしているんだよ。そのお宅に用があるんだろ。じゃあ、連れて行ってあげようぜ。」

「こちらです。」

水穂さんに言われて、しかたなく、京子は二人の後についていった。何だかこのきれいな人に、逆らってはいけないような気がしてしまった。

「ほらヨ。」

杉ちゃんが、その小さなマンションを顎で示した。

「まあ、間違えんでよかったよな。」

二人はそんな事を言っている。なんだか、自分はいかにも笑いものになってしまったような気がして、京子は小さくなった。

「ほら、用があるんだろ。早く入れや。」

と言っても、特に用があるわけではない。そういうことを言って、二人に笑いものになってしまうのも、困るような気がする。

困った顔をして、京子は頭上を見つめた。困ってしまって、どうしたらいいのかわからなくなって、ごめんなさい、と、言いつつ、その場を逃げていく。杉ちゃんたちが、なにか言っているのも、気が付かなかった。

でも、こんな小さなマンションに住んでいる以上、村井という人は、多分きっと、音楽学校には行けない、という事は確信した。きっと、家柄がうまくないから、其れであきらめて、音楽学校に行くのはあきらめるだろう。もし、そうなったら、娘をたぶらかした事で、思いっきりざまあみろと言ってやりたい。京子はそう思った。

でも、道は覚えた。なので次の日、またそのマンションに行ってみる。今度は邪魔をされずに行くことができた。それでは、と、ガラッと戸を開けて、すみません、と言ってみた。

「あの、村井さんでいらっしゃいますよね。」

京子は、出てきた女の人に言った。

「村井頼子さん。あなたの息子さんの継夫君の事でお願いに参りましたの。継夫君に、うちの娘をたぶらかすのはやめてもらいたいと、お願いしたいんです!」

村井頼子さんは、ただ、申し訳ない申し訳ないとだけしか言わなかった。それ以外に、なにか反動が来るのかと思ったが、それ以上は考えられないようであった。

これで、完全にあの人は、退いてくれるはずだ。もう、変な男に、たぶらかされることもない。其れで良い。靖子は、いつも通りの時間に帰ってきてくれる。

その翌日から、京子の思い通りにはなった。靖子は、学校が終わるとすぐに帰ってきた。でも、彼女は、どこかつまらなそうで、なぜか覇気がなかった。

そうこうしているうちに、コンクールの当日になった。もう、誰も邪魔するものはいないんだから、靖子ちゃん、思いっきり本領発揮して、演奏してね。と京子は、にこやかに笑って、客席から娘の演奏を聴いていた。演奏は完ぺきだった。特に間違いもないし、強弱もしっかりついていた。それでは、絶対に優勝できるはずだと思っていた。

でも、続いてアナウンスが流れてきて、京子は、目が回ったのである。

「エントリーナンバー10、静岡県富士市、村井継夫、曲は、グリンカの幻想ワルツ、、、。」

あの時、邪魔したあの二人を、憎まずにはいられなかった。


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グリンカの幻想ワルツ 増田朋美 @masubuchi4996

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