第30話 歳を取る責任


 去年の秋、僕は音楽の都ウィーンと百塔の街プラハで一つ歳を取りました。その時はたまたまプラハに駐在している小学校の友達がいたので、誕生日祝いも兼ねてカジュアルなレストランでビールを飲みました。

 その次の日、40℃近い熱を出してしまい、順風満帆な28歳の滑り出しとはいきませんでしたが、その甲斐もあって最近は歳を取った自覚が無く、自分の歳が分からなくなります。特に社会人になってからは誕生日が来ても「また歳だけ取ってしまったなぁ」と思いながら、いつの間にかアラサーです。


 先日、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を引き合いに出して30歳になることの所感を書かれた郷倉さんのエッセイ(※1)を読んで「歳を取る」という現象について考えました(郷倉さんは僕と同い年であり、同い年なのにここまで読書体験が異なるのか、といつも憧れに近い関心を抱いています)。


 郷倉さんは「羊をめぐる冒険」を

「自分のことしか考えていなかった『僕』が進んで責任を負おうとする物語」

 と、結論付けており、感動した僕はそこで思い至りました。


 ――歳を取るのは全く持って自分の責任だ、と。


 歳を取ってんじゃない。歳を取るのは自分のせいだ。これは時間のせいでもなく、その他一切の事由に帰すことのできない紛れもない真実です。


 僕がこの歳になった自覚がないのは、その歳に相応しい責任を負っていないから。責任というと何だか嫌な感じに聞こえるので、ここでは満足感とか、楽しみと言っても良いと思います。自分の生き様に満足や甲斐を感じていないから、気持ちと実年齢で(悪い方向に)乖離が生じるのですね。


 例えば、この歳になっても気の利いたジョークや誰かのための上手な嘘が付けない。きちんとした考えをまとめられず、筋の通った言行を貫けない。英語をすらすらと話せない、読めない。世間を知らない。料理が出来ない。ノーリー720が打てない。ジョコビッチに勝てない。一がい冊を突破する本を出版できない。系外惑星に愛人がいない……など、この歳に相応しくない要素を挙げればきりがありません。


 それは僕が「歳を取ること」と「成長」をどこか一緒くたにして考えていたからだと思います。学校に通う必要のある年齢では、歳を取ることと(身体的な)成長は同期していました。歳を取ることは紛れもなく成長の証であり、おめでたいことです。


 しかし、今ではどうでしょうか。身長も外見もそれほど変わらない。生活のリズム、友人関係も安定している。何の変哲もない日々を過ごして、そんな日々を重ねて1年経った時、昨年の自分と変わったと感じられることが少ない。だから「年をとってなぁ」とため息を漏らしながら、コンビニで買ったケーキをつつくのです。

 いつの間にか「歳をとること」は「成長」ではなくなって、そのことにも気付かずに、なんで忙しいのか分からない日々を過ごしていく。何かしたいのに、何もしないまま時間が過ぎていく毎日。そして、振り返って「歳を重ねてしまった」と嘆く。これは責任逃れです。自分が日々を楽しめなかった事実から目を逸らしているのです。


 繰り返しますが、僕たちが歳を取るのは、僕たちが生きているからです。決してヒトの特性のせいでも、地球が回るせいでも、ましてやいつまでも若い美輪明宏のせいでもありません。それらはあくまで僕たちが後付けしたものであって、極論を言えば全ては自分のせいなのです。

 

 自分がいるから世界がある。一は全であり、全は一である。

 ちょっと何言っているのかわかりませんが、意味ありげに聞こえていたら十分です。


 ともかく、僕は何もしなくとも息を吸って、何かを殺して(食べて)、排泄をくりかえしていく生物なのです。命は平等と言って、その平等な命を消費して、汚物として出す。そこまでしているのに自分すら満足させられない結果に終わっているのは、ただ自分のせいなのです。


 だから、僕は自分が一番大切であって、自己中に生きるべきだと考えています(※2)。気に入らない人は無視して良いし、嫌なことは嫌だと言っていいし、自分を守るために物事から離れるのは最適解だとも思います。


 こう言うと「それが出来れば苦労はしない」「同じ境遇になったことが無いからそんなことが言えるんだ」「私だってそうしたいさ」と仰る方もいらっしゃるかもしれません。

 そんな方は温泉に行って、タイ式マッサージでも受けて身体も心もぐりぐりやられてみると良いですよ。かつて行った佐賀の嬉野温泉では、施術者が女性だったので身体もほぐれたと同時にドキドキもして一石二鳥でした。「そんな時間もドキドキするような心の余裕もない!」と憤る人も「何もしたくない」と落ち込む人もそんな妄想に耽るが良い、ということです。みんな真摯に頑張りすぎているんですよ。


 ―――――

 死ぬことばかり考えてしまうのは

 きっと生きる事に真面目すぎるから

 ―――――amazarashi「僕が死のうと思ったのは」


 ネジを緩めましょう。トルクが強すぎると、軋んでしまいますよ。「あるべき所にネジがなく、緩めなくても良いネジばかりが緩んでいる」と友人に言われた僕は実感しています。軋んで壊れるくらいなら、きちんとする必要なんてない。


 歳を取る責任、なんて仰々しく書きましたが、結局はしたいことをして、きちんと「出来た」という実感を持って生きていきたいということなのです。

 そのために僕は近くの雪山で720度跳んで回るために青あざを作りますし、初めて買ったギターを抱えて左手の指先に鉄線を食い込ませてヒィヒィ言っていますし、こうして役に立たない思いをのぺーっと吐き出しているのですから。

 

 自分が生まれた日にそれを喜べる。

 今年の秋にはそう思えるように過ごしていきたいものです。


 今、確実に言えるのは、ここ1年の変態力と妄想力の成長は十分すぎるということ。どうしてそうなってしまったんだと、断固抗議する勢力もいますが見て見ぬふりをします。喜ばしいことなのかは死んでも分からないのでしょう。

 


 

 

 

 ※1 郷倉四季さん――オムレツの中はやわらかい方がおいしいのか?

 25 二十九歳、孤独な都市生活者からの脱却をめぐる。

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054890981690/episodes/1177354054894281435


 ※2 僕は自己中心論に陶酔中です

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054888425664/episodes/1177354054888581494

 

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