夜にひとり

雨月 日日兎

夜にひとり

 休日の終わりがけ。少しのつもりのうたた寝から起き出した部屋の内側は、すっかりと太陽の光を失っていた。

 睡魔に片手を引かれ瞼を閉じた時には普段と変わらない場所だったというのに。

 ほんの少し目を離しただけでそこは、輪郭のとろけた世界へと転じてしまったのだ。目につくものは全てがモノクロームに統一され境目を曖昧にさせている。たぶんこの体も同じように、夕暮れへと溶けていたことだろう。形を整え始めた両耳は、ゴウゴウと安いエアコンが息を吐き出す音ばかりを拾っていた。下手な体勢で寝た所為だろう。骨が鳴る音がそこに加わった。

 取り敢えずカーテンでも閉めようか。よっこらせと掛け声を落として、立ち上がった足は間違って冷蔵庫の扉を開けていた。そこから缶ビールを一本。プルタブを開けつつ今度は間違えまい。遮光の布を右から左へ、左から右へと鈍い頭は指先を動かし続けた。

 最後にたどり着いたのは一番大きな窓ガラスの前である。ここでも行うのは慣れ親しんだ一連の流れだ。いつも通り、施錠の確認をして、カーテンを閉める。はずだった手元は、気まぐれに錠を外したかと思うと、小さなベランダへと足を踏み出させていた。

 寒い。とたんに冷えていく体がぶるりと震えを呼んだ。同時に、カラリと乾いた空気が喉の奥へ流れ込んでくる。街が眠りにつく前の、騒がしさが残る夜の気配だ。半分以上は静けさが占める。

 そこから見える景色は相も変わらず味気のない黒のベタ塗りだ。ネオン街なんてものがない田舎ではそこにぽつり、ぽつりと光を灯るだけだった。やがては消えるのだろう。そのひとつを眺めながらビールを流し込んだ耳朶に、突然その声は聞こえてきたのである。――馬鹿を言うな、夜はこれからだろう。心の内にひとり言として閃いた感想に、幻が肩を組んで絡んできたのだ。

 ――うるさいな、こっちはこれから眠るんだ。静かになるのも当然だろう。これもまたひとり言。なれど、まるでこの反論を待っていたかのように鳴り響いたのは、バイクの排気音である。その音に、幻の男はケタケタと高く笑声を響かせていた。なんだか現実味のない笑い方だ。……現実の声ではないのだから、当然なのだけれど。

 何やら集まりでもあるのだろうか。複数台連なった群れはあっという間に遠ざかってゆく。消えないのは、脳の片隅に居座る幻覚だけだった。なれど全く知らない声と言うわけでもない。それでいて本当に幻聴が聞こえているわけでもなかった。

 こちらのひとり言にかつての友人を記憶から引っ張り出してきているのだ。今日一日誰とも喋らなかった反動なのかもしれない。声のいらない対話は、時折するひとり遊びのひとつであった。

 付き合わされているかの男は、大学時代の友人である。その時分にはほとんどの時間を共に過ごしていたと思う。高校までは別の同郷の友人であった。気が合ったのだ。地元が同じということも大きかっただろう。彼とはけれど、近頃はとんと会うことがない。故に思い描く姿は今よりも少し若い姿をしているのであった。

 別に仲違いをした訳ではない。死別したのでもない。社会人となり別々の道を歩み始めて数年、互いの都合で会う時間が無くなっただけだ。前に会ったのはいつの頃だったか。数えれば半年近い時間が積み上げられていた。

 ケタケタ、高く空を仰ぐようにして笑うのは彼の癖のひとつである。甘い煙草を片手に大口をよく開けていた。飾りと同じらしい。紫煙を纏った彼に手を伸ばす女性は少なくなかった。

 反対に自分の周りに異性の影は見当たらなかった。端的に言えばモテなかったのである。原因はなんだろうか。容姿や人付き合いの良し悪し。エトセトラ、エトセトラ。数えたらきりのないそれらの探索は早々に切り上げた。そもそも自分は、誰かが隣にいて欲しいと願うこと事態滅多にない人間なのだ。だからそういった存在が居なくとも、さして支障はなかった。

 時々寂しさが膨れ上がる時がある。そんな時、好いた相手がいればまた違った過ごし方が出来るのかもしれないとは何度か思いはした。が、それだけの為に誰かを隣に置いておくのも面倒くさい。結論はすぐにそこへたどり着く。だから恋人はいらないのだと。

 そもそも、好き、という感情の理論が分からない。

 半ば本気の考えは、あの頃と変わらない。そしてそれに対する彼の反論もまた、変わらなかった。

 好きなんてそんな難しく考えることでもねぇと思うけどな。

 今夜もまた、ひとり言に男はそう返してくる。これは、かつて彼から実際言われたセリフでもあった。

 どうして彼女を作らないのか。たしかそんな題目で話していた時のことである。

『好き、なんてどうせ形もなにもありはしないんだからさ』

 ゆらゆら、紫煙が揺れていた。机の上には開けられたビール缶と適当なツマミの袋が数種類。ほどよく酔った二人の側でテレビもまたひとり喋り続けていたと思う。回らない頭にはそこらの音が混ざって入ってきていた。

『適当に、あぁ、こいつ好きだな。って思えばそれでいいんじゃねぇの。つーか、それ以上になにが必要なわけ?』

『それが分かればこんな事で討論しねぇな』

『恋人欲しいとは思わねぇんだ』

『思う時もある。けど、一年の内の九割以上の日数は別に居なくていいと思ってる』

『そんなの、毎日退屈だろ』

『退屈じゃあないな』

『お勉強で忙しいってか』

『んなわけねぇよ。いや、そうじゃなきゃいけないんだろうけどさ。別に、いいんだよ。ひとりの時間だって、それなりに楽しいんだから』

『寂しくねぇの』

『寂し……くても、まぁ、んー。何て言うかな。……別にいいんだよ。それも込みで、楽しんでるから』

『へぇ、よく分かんねぇけど、たぶん俺には無理だな』

『なにが?』

『寂しいのは嫌だって話。夜とか、特にムリ。静かな時間が嫌い。だから、こっち来たんだよな。どこ行っても、だいたい誰か居るから、』

『マジかよ。気ぃ合わねぇな。何で友だちしてんだ?』

『だから、言ったじゃねぇか。あ、こいついいなって思えたならそれで充分なんだって。俺はお前と一緒の時間わりと好きだし』

『じゃなきゃこんな長々駄弁ってねぇか』

『そう言うこと』


 枝葉に別れてとりとめも無くなった思考は回顧する。かつての記憶を紐解き、酒のツマミへとする為に。けれど体は芯まで冷え込んでいて、とても缶の中身を減らす気にならなかった。

 そろそろ風邪を引きそうだ。

 ようよう部屋へと足を向ける。ガラス戸一枚。それだけの隔たりが温もりを閉じ込めていた。その場所へ。踏み入れ、施錠する。それからひとり言に付き合わせていた声と辿っていた記憶も一緒に幕を引く。――彼は今日もあの街で夜の寂しさを紛らわせているのだろうか。最後に残ったカケラから、そんな事を思い浮かべながら。

 ならばこちらはこちらで寂しさと向かい合おうか。

 顎を上げて傾けた飲みかけが、胃の底を冷たくする。まるでそこに寂しさの正体があるかのように。身の内に纏わりつくそいつに手を伸ばした。

 時には抱え込んで。時には片隅へと追いやって。何でもないって、思えばその分膨れ上がると知りながら、今夜は冷たいそいつを持て余す。

 誰でもいい、誰かが側にいてくれたならば良かったのにと。

 ごく稀な思考回路は、結局悪癖を繰り返した。

 だから、適当作れって、相手。

 そう言って笑うのだろう彼との会話をまた始めたのだ。いつの日か彼が、もう寂しくはないと語る声を聞ける事を心の隅で願いながら。自分の寂しさをどうやって溶かしてやろうかと考えながら。

 さてと、それじゃあ今夜は何を食べようか。

 改めて開いた冷蔵庫の中身を、あぁでもない、こうでもないと二人で探ってみるのだった。

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