エピローグ
エピローグ
「吉野くん、おはようございます」
その玲瓏な声で、僕は目覚めた。
慌てて声のする方に顔を向ける。しかし、そこに彼女の姿はない。
寝ぼけ眼で部屋中を見回してみても、結果は同じだった。
けれども、今の柔らかい声はたしかに白峰夢乃さんの声だ。聞き間違いなど、ファンである僕がしようはずもない。
でも、どうして白峰さんが僕の部屋に? ああそうか、これは多分、夢――
答えは、すぐ僕の前に提示された。
「ミノル、ハヤクオキロ」
にゅっと横から顔を出したのは、全裸おっさんこと、アマデウスである。
「……おまえの声真似かよ……。ったく、一瞬本当に白峰さんが来ていたと思ったじゃないか」
アマデウスは度々、こういったいたずらをする。
朝昼晩、とにかく腹が空いたときにはかならず僕の気を引こうと、あの手この手で攻めてくる。……とくに、声真似を覚えてからは頻度が増えた。
「ミノル、ハヤクオキロ。マッテルゾ」
「腹が空いたんなら、言葉で伝えてくれよ。毎度毎度、頬を叩かれる僕の身にもなって――」
起こし方への不満をぶつけていたそのとき、ドアの向こうに誰かがいる気配を感じた。
「――母さん? そこにいるのって」
うちは三人家族だ。父さんは仕事なので、もしも誰かがいるなら母さん以外にありえないはず――
「……あの……白峰、です」
「…………えっ? ……ほ、本当に白峰さん?」
「は、はいっ。わ、わたし、本当は外で待っているつもりだったんですけど、お母さまに『外は暑いでしょうからどうぞ』って」
そうだ。思い出した。今日、僕は白峰さんと待ち合わせをしていたんだった。
大慌てで時刻を確認する。二時……待ち合わせの時間から優に一時間は過ぎていた。
「本当にごめん! ちょっ、ちょっと待ってて! すぐ着替えるからっ」
「ダカライッタロ。ハヤクオキロッテ」
「う、うるさいっ。おまえは黙ってろ」
猫も驚くスピードで着替え、僕は白峰さんを部屋に招き入れた。夏休みのはずなのに、どうしてか彼女は制服姿である。
「よ、吉野くん、その顔、どうしたんですか?」
「ん……ああ、これは気にしないで。アマデウスに叩かれただけ」
そう言って、僕は足下にすり寄る全裸のおっさんを睨みつける。
「ふふふ、吉野くんを起こしにくるなんて、やっぱり賢い猫ちゃんですね。ね、アマデウスちゃん?」
天使のように微笑む白峰さん。この笑顔のためなら、僕は何でもやってしまいそうだ。
「ミノル、トム・ダーティ、キイロノシマ」
一方、全裸おっさんは、白峰さんのプリーツスカートを下からのぞき込んでいる。この変態を懲らしめるためにも、僕は何だってするだろう。
ともあれ、白峰さんは元気そうで何よりだ。
僕は一人、彼女に気付かれないよう、ほっと息を吐いた。
あの事件――白峰さんが矢で刺された事件から、一週間ほどが経過していた。
結論から言えば、白峰さんは無事に命を取り留めた。
光が闇に溶けた頃、いつの間にか白峰さんはすやすやと、僕の腕の中で気持ち良さげに寝息を立てていた。
白峰さんの服は真っ赤に染まっていたけど、肝心の矢はどこにもなかった。
それと、あの場にいた白猫は本当にアマデウスだったようだ。
あの日、僕が思いの丈を叫んだ後、光の中から現れたのは、紛れもなく僕がよく知る全裸のおっさんだった。
それまでは白猫に見えていた理由はよくわからないままだ。「供物の賞味期限の影響で姿が変わる」という偏見まみれの考察が例の《オカルトマニアックス》に掲載されていたみたいだけど……。
しかし状況からすると、この憎たらしい全裸おっさんが、僕の願いを叶えてくれたのは間違いない。僕は感謝の気持ちを言葉にする代わりに、これからもうちで飼うことにした。
「アマデウスちゃん、何て言っていたんです?」
「キイロシマとか……って、白峰さん? どうしたの?」
見ると、なぜか白峰さんはスカートの裾をぎゅっと握りしめて顔を真っ赤に染めていた。
「……い、いえ、その……」
ん、キイロシマ? 黄色、縞……まさか、下着のこと?
「あっ、べっ、別にそのっ、これは……」
うっかりと彼女の今穿いているだろう下着について言及してしまったのだ。
自分の失態に気が付き、慌てて言い訳を探すが中々見つからない。
「そのっ、これはアマデウスが、ですねえ……」
足下にいるはずの全裸おっさんを睨みつけようとした――が、そこに奴の姿はない。
どこに行ったのかと顔を上げて周囲を確認すると、アマデウスは押入の中に上半身を突っ込んで、こちらに汚い尻を向けていた。
げっ! そこには下着の山がっ! なぜ、今押入を開けてんだよ、バカ野郎っ!
「あっ、アマデウスちゃん、何か探しているみたいですよ?」
僕の視線に気が付いた白峰さんが、アマデウスの尻を指さす。話題をそらしたかったのかもしれないけど、これは非常にまずい。
「あれは気にしないでっ! 平気だからっ」
「でも、あのまま押入に頭を入れたままだと、息が苦しくなっちゃいますから」
言いながら、白峰さんはすでに押入の前に移動し始めてしまう。
ヤバいヤバい! アレを白峰さんに見られたら、僕の人生が!
僕が盗んだものじゃないのに、それによって塀の中に収容されてしまうなんて、御免被る。
「白峰さん、ちょっと待って――」
しかし時すでに何とやら。押入から出てきたアマデウスが青縞の下着を頭に被った面を、こちらに向けていた。
「アオジマ、シラミネ。イイニホヒ」
「わあっ、可愛いっ! アマデウスちゃん、帽子を被ってますよ」
……最悪だよ。マジで何してくれてんだ、このおっさんは。
自分が周囲には猫にしか見えないってことを自覚してやってるとしか思えない悪ふざけ。
こんな場面を見て、白峰さんがどう思うのか。それはもちろん……考えたくもないけど、「吉野くんが下着ドロだったなんて……信じられないっ!」という展開になるはずだ。
どう言い繕ったら……じゃなくて、どう説明すれば信じてもらえるのだろう。僕がやったんじゃないってことを証明するには、いったいどうすればいいんだ。
今は白峰さんも誤解してくれているけど、いつ気が付いてもおかしくない。
「あれ、これって……どこかで……?」
ほらほら、白峰さんも気が付き始めちゃったよ。これが帽子ではなく、白峰さんの下着だってことに。
「あっ、わかりましたっ!」
――オワタ。バレてしまった……。
母さん、父さん、無実の罪で収監されてしまう息子を、どうか許してください……じゃなくて、信じてください。僕は決して、下着を盗んでなどいません。
僕が諦めかけたそのとき、白峰さんはぱあっと顔を綻ばせた。
何事かと思ってアマデウスを見ると、奴が口に何かをくわえていることに気が付いた。
「わかりましたよっ! アマデウスちゃんがくわえている写真っ!」
「……写真?」
アマデウスから引ったくるようにして写真を見る。
「あ、これ……あの神社で……あっ!」
それは、昨年の十二月に神社で行われた《巫女》のCDデビューライブの一部を切り取った写真だった。僕がボランティアとして参加した際、密かに撮影していたものである。
「この写真、あの日のライブですよね。早いなあ、もう半年以上も前になるんですもん」
「う、うん、そうだね」
下着の件かと思ったけど、どうやらそうではなかった。
一安心したものの、この写真は違う意味で気まずい。
彼女には、僕が《巫女》のボランティアとしてライブに参加していたことを告げていない。
絵馬のことはともかく、このライブに参加していた事実を知られるとなれば、彼女からストーカーの疑惑を向けられても仕方がない。実際、半ばそれと対して変わらないだろう。家にまでついていくことはしなかったけど、ライブはほぼかかさずに参加していたのだから。
しかし白峰さんは、僕がこの写真を持っていることについても何ら不思議がる素振りも見せず、口元に優しげな微笑みを湛えたままだ。
僕がそのわけを考え込んでいると、アマデウスがまたも押入に上半身を突っ込んで、何やら探している。
「おい、アマデウス、何やってんだよ。散らかすなって」
僕の言葉を素直に聞いたらしく、アマデウスはすぐに押入から出てきて口にくわえた木の板を、僕に差し出す。
これは僕が奉納した絵馬だ。しかし、どうしてこれが僕の押入にあるのだろう。
「裏に何か書いてあるな。『願いは叶えた』?」
僕が読み上げると、白峰さんがはっと息を飲む音が聞こえた。
「白峰さん? どうしたの?」
「……やっぱり神さまっているんだなあって」
どうしてか、白峰さんんは目元を潤ませていた。
「わたし、いけないことだとわかっていたんですけど、神社から吉野くんの絵馬をもってきちゃったんです」
「ど、どういうこと?」
「どうしても吉野くんに感謝を伝えたくって、でも名前も知らなくって……それで、つい」
しゅんと萎れる白峰さん。
「その後で《幸運の猫神さま》の噂を知って……供物として、わたしの一番大切な宝物――吉野くんの絵馬を、捧げたんです。おかげで、わたしの願いは叶いました……」
善悪はともかく、願いが成就したというのに、白峰さんの表情は浮かない。どうしてだろう。
僕のそんな思いが顔に出ていたのか、白峰さんは潤んだままの瞳をまっすぐこちらに向けた。
「……悔いはないです。わたし、今から出頭してきます」
「しゅっとう……って、ええっ? ちょ、ちょっと待ってよ白峰さんっ!」
驚きすぎて、言葉が上滑りして意味を形成しなかった。
「今日はそのことを話にきたんです。わたし、とても悪いことをしましたから……」
「いやいやっ、そんなことを言い出したら僕の方がっ!」
叫びながら、僕はアマデウスの頭から下着を引ったくった。
くしゃくしゃになった黄色い縞を広げて見せる。こうなったら勢いに任せてしまうしかない。後は野となれ山となれだ。
「……これって、もしかして……あっ、お父さんの下着!」
「信じてもらいたいのは、それを盗んできたのは決して、天地神明に誓って僕じゃないってことで――ん、今なんて? お父さん?」
「はいっ! これ、ずっと探していたお父さんのお気に入りの下着ですよっ! お父さん、女性用下着を身につけるのが好きなんです。なんでも、鍛えた体にちょうどフィットするんだとかで」
……お父さん、だって?
「アマデウスちゃんが見つけてきてくれたんですね! わあ、きっとお父さんも喜びますっ」
心の底から嬉しそうに、彼女は笑う。しかしすぐにその表情には陰が落ちた。
「……でも、わたし、出頭してこなければいけないんですよね」
そう言って白峰さんが頭を垂れたとき、どこからか声がした。
「その必要はない。このトム・ダーティが特別に許可する」
アマデウスの声だ。正確に言えば、僕の声真似をした、おっさんの声。
供物が新鮮だからか、おっさんは流暢に話す。
「俺はあの神社で祭られている神。その神が許可するのだ。問題あるまい」
大ありだろうが。そう思ったけど、白峰さんと会えなくなるのはイヤなので、口をつぐむ。
それに、白峰さんは大のオカルト好きで、トム・ダーティは僕を媒介して話していると信じているはずなので、僕が喋るのはまずい。一人で二役やっている変人みたいだ。
「ほ、本当に許してもらえるんでしょうか……?」
「本当だ。トム・ダーティに二言はない。が、その代わり、罪滅ぼしと言ってはなんだが、やってもらいたいことがある」
「わ、わたし、何でもやりますっ!」
アマデウスに向かって深く頭を下げる白峰さん。
おっさんの方は僕を見て、頷いている。なんだろう?
「その白き素肌をすべて俺の前に晒すがいい。そうすれば許してやろう」
「えっ……それって、服を脱ぐってことですか?」
「そうだ。服とは着飾るもの、つまり、本当の姿とは言えない仮の姿。俺には隠すものなどありはしない。だからこその全裸なのだ。真の姿を俺の前で晒せば、それをもって罰と――ぐほおっ!」
僕は思い切り、アマデウスの頭をひっぱたいた。
いつぞや聞いたうめき声が、全裸おっさんの口から漏れ出る。
「ミノル、イタイ。セッカクオレガ、ミノルノネガイヲカナエテ」
「いい加減にしろ、この変態がっ! 僕がそんなこと思うはずが……ない、だろうが」
言葉に詰まってしまったのは、思わないこともないからである。哀しいかな、僕も男だ。
「おまえ、本当に神さまか? やっていいことと悪いことの区別もつかないなんて」
「オレハネコ。ニンゲンノリクツ、ヨクワカラナイ」
青縞パンツを基本装備とか抜かしておいて、どの口が言っているのだろうう。
さっきは平手だったけど、今度はグーで――そう思ったとき、白峰さんが身をていしてアマデウスを庇った。
「吉野くん、乱暴はダメですっ! ……あっ、トム・ダーティさんの方でしたか? とにかく暴力はいけません!」
「俺はトム・ダーティ。何もやましいことなどない」
「おまえはちょっと黙ってろ! ややこしくするなっっ」
もう何が何やらわからない。
僕は吉野実で、アマデウスの力でたまにトム・ダーティを憑依させて……?
「ミノル、カノジョノハダカ、ミタクナイノカ?」
「そ、そりゃ見たいけど、そういうのって友達じゃなくて恋人がすることだろ……って、そういうことじゃなくて!」
「……こいびと? わたしたち、友達じゃないんですか……?」
白峰さんは小首を傾げてこちらを見ている。
うっかりアマデウスの会話に気を取られてしまった。
「いや、あの、こいびとっていうか、正しくは《クオィ・ビートゥ》といって、大地に根をおろして生きる方法を推奨する……」
悪い癖が出てしまう。口から出任せ、行き当たりばったりの意味不明な言い訳。
「……《クオィ・ビートゥ》? それ、本当ですか?」
にも関わらず、白峰さんは顔をぱあっと綻ばせている。
「吉野くん、これ見てくださいっ!」
鼻息荒くした彼女からスマホを向けられ、のぞき込む。と、そこには――。
「『クオィ・ビートゥ新情報』……」
件の《オカルトマニアックス》。そこには、今僕が言ったでたらめな言葉が書いてあった。
「はいっ! この情報はさっき更新されたばかりなんですよっ。以前から騒がれていたんですけど、トム・ダーティさんが言うなら、信憑性も高いかと思います!」
この手の話題にきらきらと黒い瞳を輝かせる様は、まるでお宮さんのようだ。
そんなことを考えていたら、僕のスマホがポケットでブルブルと震えた。たぶん、お宮さんだろう。タイミングからして、間違いない。
嘆息しつつスマホを開いてみると――やっぱりお宮さんからだった。
『クオィ・ビートゥ捜索隊へ 今すぐ神社へ集まるように』
「……まったく、お宮さんも熱心というか……ん?」
「どうしました?」
「……ほら、これ」
僕はお宮さんから送られてきた文面を表示させ、白峰さんにそれを向けた。
『あとよしのん、白峰さんもこういうの好きみたいだから誘ってきて』
気が利くというか、なんというか……お宮さんの押しの強さには参ったものだ。
「ほ、本当ですか? いいんでしょうか、わたしなんかが参加しても……」
「うん。まあ主催者が言っているわけだし、それに――」
いったんそこで言葉を区切り、僕はあえてタメを作ってこう言った。
「このトム・ダーティがきみの隣にいるから、大丈夫」
僕は白峰さんに抱かれて居心地良さそうにしている全裸おっさん――アマデウスに、そっと頷いてみせた。
トム・ダーティは君の隣に 何処之どなた @donata-dokono
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