第3話

「白峰さんっ!」


 僕は慌てて傍らに近付き、状況を把握した。

 白峰さんの着ている白いシャツの左胸の辺りが、刺さった矢を中心に真っ赤に染まっている。


「しっ、白峰さん……だ、大丈夫っ?」


 目を閉じ、苦しそうに胸を上下させる白峰さんは、それでも僕の言葉が聞こえるらしく、かすかに顎を引いて応えてくれた。


「はあっ、はあっ……う、うん……」


 無神経な一言だと自覚はしていた。でも、僕は他に何を言ったらいいのかわからず、黙っていることもできずに、そう尋ねた。


「ど、どうして……こんな……」


 あふれ出る感情の矛先をどこに向けたらいいのか迷った僕は、顔を上げて、この状況を招いた張本人である枝楠をにらみつけようとした。

 が、すでに枝楠はアニキの豪腕に絡め取られ、再び意識を彼方へと飛ばしてしまっていた。


「こっちは安心しろ、実。クロスボウも取り上げてある」


「よしのん、もう救急車は呼んであるよっ! 矢は抜かないで待っていてって!」


 お宮さんに指摘されるまで、僕は救急車を呼ぶという当たり前のことに気が回っていなかったことに気が付く。

 犯人はアニキに取り押さえられ、救急車はお宮さんが手配してくれた。

 僕ができることは……なんだろう。気が動転して、焦る気持ちばかりが僕を支配する。

 と、混乱する僕の手に、何か柔らかいものが触れる感覚があった。


「……よ、吉野、くん……平気……? ……怪我は……してない……?」


 見ると、白峰さんが僕の手を握っていた。

 細くたおやかな白い手は、震えながらもしっかりと僕の手を掴んでいる。

 僕は、胸の中に熱いものがたぎり、白峰さんの手をぎゅっと握りかえした。


「ぼ、僕は平気だよっ! そ、それよりも、白峰さん、きみの方がっ!」


「……よ、よかった……」


 白峰さんは自分のことよりも、僕が矢で射抜かれていないかを心配しているようだ。

 僕が平気だと応えると、彼女は先ほどよりも幾分か和らいだ表情になった。


「ど、どうして、僕を庇うようなこと……」


「……だって、吉野くんは……わ、わたしの、願いを……叶えてくれて……ううっ!」


 激痛が走ったのか、白峰さんは苦悶の表情を浮かべる。


「いいよっ、今はしゃべらなくていいからっ」


 このような状態にある白峰さんに対して無神経な一言を放った自分を恥じた。

 どうして白峰さんが、僕に向けられた矢を受ける必要があったのか。

 そんなことは後で尋ねればいい。今はそれよりも、彼女の意識を保たせることが重要だ。


「ごめんなさい……」


「なんで白峰さんが謝って……いや、そんなことはいいから!」


「ううん、わたしが……枝楠さんに……証明……してみせるって言ったから……きっと、こんなことに……」


 理由はわからない。でも、どうやら白峰さんは、枝楠の凶行は自分のせいだと思いこんでいるようだ。


「よくわからないけど、とにかく、白峰さんのせいじゃないって!」


「え、枝楠さん、吉野くんのことを……疑っていたんです……す、ストーカー、じゃないかって……。だ、だからわたし、吉野くんが……そんな人じゃないって、それで……猫、ちゃんを見に行って……」


 ぜいぜいと息を荒くしながらも、白峰さんからは強い意志が感じられる。


「で、でも、それが却って……枝楠さんに……心配をかけてしまって……吉野くんを、みなさんを、こんなことに……よ、吉野、くん……?」


 白峰さんは目の焦点が合わないのか、僕を捜して視線をさまよわせ、不安げに声を震わせる。


「う、うん、聞いて……聞こえてるっ」


 僕は白峰さんの手を、彼女の問いかけに応えるつもりで、改めて強く握る。

 くっ、救急車、早く来いよっ!

 心の中で叫ぶ。しかし、サイレンはまだ聞こえてこない。

 もどかしい思いが、僕を歯がゆくさせる。

 いっそのこと、彼女を抱えて近くの病院まで走った方がいいのか?

 あるいは、無免許で走らせ方も知らないけど、黒いバンを使う手だってある。


「わ、わたし、誰かの……誰かに元気になってほしいって……日頃から、そう……思っていたんです……」


 唐突に、白峰さんは話を切り出した。


「そ、それで、アイドルに、なったんです……だから、吉野くん……を、泣かせてしまうなんて……」


 言われて初めて気が付いた。僕は、いつの間にか涙を流していた。


「……わたし、アイドル……失格、ですよね……えへへ……」


 申し訳なさそうに笑うと、白峰さんは何か決意したように、頷いた。


「ずっと、捜していたんです……吉野くんのこと……。……吉野くんが、神社に奉納した、あの絵馬を見たときから……」


「……し、白峰さん……? も、もしかして……」


 彼女は知っていたのだろうか。僕が奉納した、あの絵馬のことを。

 感謝の言葉を直接伝えられなかった代わりに綴った、僕の気持ちを。


「……嬉しくて……願いが叶ったみたいで、本当に……嬉しくって、それで吉野くんにお礼を言おうと思って、ずっと捜していたんです……」


 それは逆だ。僕こそ、白峰さんのおかげで、あの困難な受験勉強を乗り切ることができた。


「でも、名前も、住所も知らなくって……それで、わたし、願いを届けてくれるっていう猫ちゃん……『アマデウス』ちゃんに、お願いしました」


「それってひょっとして、《オカルトマニアックス》に書いてある、《幸運の猫神さま》のことじゃない?」


 お宮さんが尋ねると、白峰さんはゆっくりと頷いた。


「……猫、神さま?」


「《幸運の猫神さま》は願いを叶える。その願いが本物であることと、本人が大切にしている品を供物として献上すればっていう条件が満たされればって、書いてあったよ」


 お宮さんが懇切丁寧に説明してくれているけど、正直、僕にはそんなことよりも、早く救急車が到着してくれないかと、そればかり考えている。

 遅い、遅すぎる。もう着いてもいい頃じゃないか。

 スマホで救急車の催促をしようとしたそのとき、僕の手を握る白峰さんの手が、かすかに動いた。

 そして、優しげな微笑みを浮かべ――、


「吉野、くん、改めて言わせてください……あの日、わたしの夢に応えてくれて、ありがとう」


 そう言うと、白峰さんは静かに瞼を閉じた。


「――白峰さんっ!」


 胸は上下しているから、呼吸はしているようだ。しかし……見るからに弱々しい。このままでは……。

 こうなったらもう、後は祈るしかない。

 誰に祈ればいい? いっそ、アマデウスが本当に、願いを叶えてくれる猫神さまだったら――。

 こんなことを考えるなんて、気が動転してパニックになっている証拠だ。


「くそっ、僕に何かできることはないのかっ!」


 僕は周囲に目をやる。取り立てて目的などはない。ただ、自分の気を紛らわせるために、落ち着きもなくそうしただけ。

 そうして大した意味もなく、視線を辺りに走らせていると、いつの間にかさっきの白猫が、僕の足下に戻ってきていた。


「おまえじゃダメなんだよ……っ。あのおっさん……アマデウスじゃなくちゃ」


「ナウナウ! ナーウナーウ!」


 僕の何かが気に食わなかったのか、白猫は抗議をするように、僕の膝を爪で引っかいた。


「いだだだだっ! な、何すんだよっ!」


「……ちょっと待ってよしのん。この子、本当にアマデウスかも。ほら、この画像の白猫とそっくりていうか、本人じゃない? オッドアイって珍しいし」


「お宮さん、今はそんなふざけたことを言っている場合じゃ……」


 言いながら、僕の目はお宮さんのスマホに表示されている白猫の画像をとらえていた。

 この白猫がもしも、本当にアマデウスなら――。

 僕は何か供物代わりになるものがないかと、ポケットに手を入れた。

 手に触れる、柔らかい綿の生地。

 そうだ、思い出した。僕は出がけに、アマデウスの散らかした青縞パンツをポケットにしまい込んでいたんだ。


「お宮さん、願いを叶えるには供物が必要、そうだったよね?」


「う、うん、そうだけど……よしのん?」


「みんな、悪いけど、ちょっと目をつぶっていて!」


「おう、実! わかったぜ!」


「なんだかわかんないけど、少々の悪事なら目をつぶっておくよ!」


 気迫が伝わったのか、お宮さんもアニキも、その場にいる全員が僕の指示に従って、目を閉じてくれた。

 それを確認した後、ポケットの中から青縞のパンツを取り出し、白猫に被せる。

 白猫は、パンツを頭に被せられたことに嫌がる素振りも見せず、それどころか、しゃんと背筋を伸ばして姿勢を正していた。


「おまえが本当にアマデウスなら、僕の大切なものをやるから……どうか願いを叶えてくれっ! 白峰さんを助けてくれええええっ!」


 やり方が合っているのか、さっぱり不明だ。だけど、迷っている暇はない。

 思いの丈をぶちまけるように、僕は白猫に対して願い事を叫んだ。

 すると――白猫の体から、まばゆい光が放たれた。

 白猫を中心に、放射状にその光は勢力を拡大していく。

 夜の闇を照らすだけでなく、その場にいる僕や皆を包み込み、光はますます輝きを増す。

 ――頼むっ、どうか白峰さんを助けてくれっ!

 僕は光の中、ただ祈るようにその言葉を叫び続けていた――。

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