第8話

「森の燃える速度が、かなり遅くなっています」とカンファイがけいに告げた。卿は反射的に、イリシアを見た。彼女もうなずく。大規模な攻勢がいきなり影を潜めたら、策謀を疑うべきだ。

「森の中を走る部隊は、キルたちだったね」

「トーリ殿と遭遇した可能性がありますが――カンファイ、なにか言いたそうだな」

 夜気が冷たさを増している。そのせいか、カンファイは青ざめた顔をしているように見えた。

「――魔手ましゅが基板に飲み込まれています」

 卿は、自分の顔が引きつるのを感じた。

「それは、トーリ殿がもどしを起こしたということか」

「そうなります。森の変容が止まりました」

「止まった――」

「ええ。まったく突然に。森のかたちがある瞬間から変わらなくなりました」

 卿はもう一度、イリシアと目を合わせた。

「どう思う。副官」

「途中で冷静になられたのではないでしょうか。こんな大がかりなことをしても、意味がないと思われた——」

「トーリ殿が冷静でいないことなどあるかな。それにわざわざ、揺り戻しを起こさなくても、指揮さえ間違わなければ魔手を巻き込まないでよかったはずだ。カンファイ。揺り戻しは、基板改変の停止速度に依存するという認識に間違いはないかな」

 若い魔手は、首を縦に振った。

「その通りです。基板が今まさに変わろうとする瞬間に、われわれが手出しをすれば、に影響が出ます」

 卿も納得するようにうなずく。

「となると、誰かがトーリ殿に進言しんげんしたことになる。トーリ殿の行軍こうぐんが正式な手続きを踏まれた軍旅ぐんりょであるなら、監察かんさつが同行しているのかもしれない」

「トーリ殿の意向を妨げるとなると、監察だけの力では無理でしょう。将軍と同じ職責をまっとうできる人員が、もうひとりいると見るべきです」

「将軍に肩を並べるとなると、錚々そうそうたる面子だなあ。わたしを過大評価しすぎているきらいがあるが」

 卿は、しばらく押し黙った。

「どうしました」

「冷静に考えると、次の法王位継承者を誅殺ちゅうさつするというもくろみが露見ろけんすれば、政治的な失脚はとても免れない。そこまでして、いま、この機会にわたしを狙う理由がうすい」

 イリシアとカンファイは様子をうかがっていたが、ふいにイリシアが卿の想念にたどり着いた。

「卿は、トーリ殿がここにいることに、別の理由があるとお考えなのですね」

「さすが副官。その通りだ」

 少し急ごう、と卿は言って馬の腹を蹴った。

 進む先の空は暗く、ほんのわずかに青みがあった。積み重なったようにみえた雲のどこかに抜け道があるのだろうが、目をこらしてみても星までは見えない。雲の動きは早く、天候が変わる兆候がある。

 馬の足が岩場にとられないように注意して速度を上げると、卿は半島の突端とったんに向かう間道かんどうに、馬首ばしゅを向けた。

 シェド自治区と法国の宮城きゅうじょうとの間にはいくつかの訓練施設があって、卿の部隊も何度か教練きょうれんに訪れたことがある。訓練施設には食料の備蓄と武器がある。

 ――延焼を止めてくれて助かった。

 卿は、こころの底から安堵した。言い訳がたつからだ。原因不明の火の手に阻まれて、宮城へ戻れなかったという筋書きができあがる。十分な備蓄がある場所で、兵力を温存することに意味が見出されるだろう。だが同時に卿は、そういった安楽な未来が来るはずがないとも考えていた。

「――イリシア。トーリ殿の功績について、君はどれくらいのことを知っている」

「存じません」

「――何も?」

「わたしは過去の功績に興味がないものですから」

「きみらしい」

「卿はご存知なのですか」

「実は調べても調べても、将軍の功績がわからない。そうではないな、功績はわかるが、手段がわからない。まるで、意図的にトーリ殿を隠しているような気さえする。カンファイ。魔手の中で、トーリ殿について、なにかうわさされるものがあるかな」

 カンファイ・ラ・ファンは、イリシアにしがみついたまま、すこし体をこわばらせて、「いちどお会いしたことがあります」とちいさな声で答えた。卿にとっては初耳だった。

「――申し訳ありません」

「あやまる必要などないよ、カンファイ。わたしが魔手を探していたときも、トーリ殿につきたいと願い、申し出を断られたものだ。将軍は、ひとつの歴史であって、新参者のわたしとはまったくちがう」

 若い魔手は、ほっとしたように息をはいた。

「それだけに、魔手の技量の見定めにはたいへん厳しい目をお持ちでした。わたしなぞ、まるで眼中になく」

「法王騎士団に要求される規格は桁違いだ。それは仕方ないことだよ。それにわたしにしてみれば、カンファイの技術に疑いはない」

「恐縮です」

「それで、トーリ殿はどういう方だった」

「どう申し上げればよいのか、難しいのですが……。どこかそう――宗教的な――力を感じました」

 カンファイの感想は素直なものだろう。卿でさえ、トーリと相対したことはなかったが、法国がたたえる彼の姿は象徴的だ。功績をどれほど積みかさねても、前線に立ち続ける勇者の中の勇者。この国では、トーリと英雄という言葉には等価性がある。信仰によって支えられた国家にとって、国に連なる英雄が仰ぎみられる対象であってもおかしくはない。カンファイは素直な性格なので、言葉を探しあぐねた末に導いた結論が、将軍の原型にたどりついたのだと思えば、法王騎士団は、ちいさな信仰集団なのだと考えたほうがよさそうだ。

 法王を中心に据えた宗教集団であるシルウィアの内側に、それもとりわけ身近な場所に、別の中心がある。

 ――皮肉なものだな。

 卿が、法国の頂点に立つ自分を真剣に想像し始めたのは、この瞬間かもしれない。

「君にとって酷だとわかって質問をかけることをゆるしてほしいのだが――」

「なんでしょう」

「わたしと将軍、なにが違うだろうか」

「たった一度話しただけで、とても――」

「それでも、どうにかしぼりだしてもらえると助かる」

 イリシアは、卿を怪訝けげんな様子で眺めていた。

「別に不安なわけじゃない」

 卿はその様子にちからなく笑った。

「かぎりがある情報では、判断がむずかしくなっただけだ。頼むよ、カンファイ」

 むろん、彼らの足は止まっていない。イリシアの背で馬に揺られたまま、若い魔手はしばらくのあいだ黙り込んだ。卿は、法国のなかでずば抜けて気が長い。

 ――そのほうが、真実に近づくことができる。

 という信念だった。

 魔手が口を開く。

「これは、わたしたち魔手の癖だといってもよいでしょうが。じつはうまく見定めることはかなわなくても、まず相手の基板を確かめようとする、というものがあります。まったく何も考えることすらなく、われわれはそれをやろうとします」

「それはたとえば。そうだな、イリシア、といえば、彼女の顔が浮かぶような、そんなものか」

 カンファイは、おそらく、といってうなずいた。

「人の基板のかたちは、大別するとふたつに分かれます。非常に複雑か、圧倒的に単純か。この差異については、魔手のなかでも知見ちけんが割れます。わたしの感覚だけで話せば、複雑なかたは解釈が生まれやすいため、わかりやすい性情で、単純なかたは底が見えません」

「トーリ殿は――」

「単純な基板でした」

「そうか。するとわたしは、複雑なのかな」

 卿のことばに、カンファイはあからさまに動揺した。

「いえ――。卿は、基板そのものが、希薄、なのです」

 とたんにイリシアが笑いはじめた。

「なにがおかしいんだい」

 卿の戸惑いの声にもめげずに、イリシアはひとしきり笑ったあと、

「じつに卿のようだとおもったまでです。あなたの存在は、希薄です」

 と言った。

「——そうはっきりといわれると、こちらもおかしくなってしまうな」

 それは失礼しました、と言ったあとも彼女は笑い続けた。卿は肩をすくめたが、彼女は笑いをおさめてから、さらに続けて、

「しかし卿——。われわれは息を止めるとままなりません。口から入り、そこから出ていくは、目で見えず、希薄とおなじものでしょう。ですが、大事なものです。わたしやカンファイ、隊のみなはその希薄さにすがってここに立っています。それをどうか、お忘れなきように」

 と言い添えた。カンファイは、副官の意外な言葉に面食らったような顔をしたあと、すぐにしっかりとうなずいてみせた。

「なにか気恥ずかしいものだね。だがすこし勇気づけられた。ある意味、トーリ殿よりも単純さで勝っていると考えることにしよう。余計なことを聞いてすまなかったな」

 首をふった魔手とイリシアを、卿は優しげに見遣みやった。

「——カンファイ。別の隊に連絡をとりたい。つないでくれるか」 

「うけたまわりました」

 イリシアの馬が、卿と並んだ。

「どうしたのですか。急にお顔が輝いているようですが」

「英雄に対して、少し、挑戦してみる気になったんだ」

「単純な殿方は、女性に相手にされないと聞いています」

「わたしは、女性にも物好きがいる、と聞いて安心している。きみは、どちらかな」

 卿はそういって笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

INNOCENT JUDGE 安埜有紀 @yasuno_aki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ