第7話

「将軍、これは――なにを考えておられるのだ」

 法王騎士団の手際の良さに、ベルトレはしばらくの間呆然とした。我に返ってみると、すでに森の広い範囲が炎に包まれていた。盛んに燃え拡がる炎のなかで、影になったトーリの背中にベルトレはつかみかかった。トーリはぴくりとも動かず、視線さえ変えないままで、

「何か気に障ったかね」

 といった。ベルトレはわめくように声を荒げる。

「ここまでやれとは、言っていない」

「指示を出したのは、君ではない。それにわたしは目的を聞かされただけで、手段についてはなんの前触れもなかった。この方法であれば、部隊の損害が抑えやすい」

「では監察に名において、いまここにすべての戦術を留めることを進言する」

「君は、そこで見ていることしかできんよ。監察など、本来はどうでもいいのだ」

 舌が軋んで、もつれようとしている。からだが泡沫ほうまつになったような気がしたベルトレは、自制、自制、自制と頭の中で何度も反復した。法王騎士団の存在は、たった今、嫌悪の底に沈めることに決めた。目の前の臭気を放つような老人を、英雄だと敬うこともきっぱり辞めた。たったひとり、自分だけが法国の正義だと考えなければ、自分がここに立つ意味がない。

「将軍、この半島の先には、シェドという自治区があります。森を燃やすということは、シェドを執拗に刺激することになる」

「おかしいな。とても自治を行っているとは思われないが」

 老将と言い合いをしている場合ではなかった。

 ――どの口がいうのか。

 シルウィアは属国の自治に口を出さない。特有の宗教観に基づく祭事は各地で許されていたし、武装についてさえなにもいわない。法国が求めるのは一点だけ。住民による統治はシルウィアの法を根底として推し進めることだった。シルウィアの法律は悪法ではなかった。一部の主要な人間に権力が偏ることはないように工夫されていたし、雑多な民族が一つの国として機能するように、長い歳月をかけて熟成されてきたものだった。シェドの代表は要求をのんだ。だが、後になってこの選択が民族の存続を危ぶむようになってから、シルウィアに対する悪感情が急激に募っただけだ。

庇護下ひごかにあります」

「以前から奏上そうじょうしようと思っていたが、法国は文化の影響度をずいぶんと軽く見ている」 

 ベルトレは、どの口がそれをいうのか、ともう一度思った。思ったし、実際に口に出した。

「魔手を利用するのは、法国の文化を甘く見ているからではないのですか」

 法国の民は、魔手をうとんじ、魔手を利用する兵士には冷眼を向けた。完全主義という圧倒的な自己顕示は、法国の文化に相違なかった。それに逆らい続けたトーリこそ、文化の影響度を軽く見ている。

 その時初めて、トーリは怒りの形相でベルトレを見た。

「そのような大言壮語を吐くほど、貴官はなにか法国にむくいたのか」

 ベルトレはひるまない。

「報いの多寡たかなど監察に関係ないことです。それに監察をどうでもよいというのなら、いますぐ、ここで、わたしを切り捨てればよい」

「威勢がよいことだな」

 ふたりのやりとりを見ていた騎士の一部が、ベルトレに近づくのをトーリは手を上げて制した。

「――森を燃やすのを止めれば、彼らはおびえながら進み、何人かは死ぬかもしれぬ。その責任を佐将どのはどう考える」

 将軍、という非難の声が聞こえる。

「兵士の死と、そうでないものの死は同一ではありません。命をもって法国に忠誠を誓えるものなど一握りです。わたしの守りたい国体こくたいは、そういうかたちのないものです。トーリ殿の一存で、かれらを戦火にさらすわけにはいかない」

 炎に揺られたトーリの顔のうえで、わずかの間だが驚きが満ち、瞳が広がった。老将は静かに言った。

「――佐将殿の熱意は受け取った」

 トーリはさらに、森を燃やすのを止めよ、と続けた。まだ山火事といいわけがたつと、付け加えた。

「だが、君の熱意の代償は、その目で見てもらわねばならぬ」

 ベルトレは自分が怪訝けげんな顔をしているのが、わかった。

 来い、と老将は言った。ベルトレは背中を追った。法王騎士団の兵士たちは、明らかな敵意をベルトレに向けている。蹄鉄ていてつが、焼けた大地を踏みしめる振動を感じながら、ベルトレは自分がどこかでしくじったのだと、痛いほど感じた。

 ほどなく、ふたりは最前線にたどり着いた。

 あちらこちらで、まだ火がくすぶっているが、煙はすでに白く濁り、勢いはなかった。

 魔手は紫の外套を羽織る決まりになっている。トーリが近づくと、彼らは地に伏せて侍った。

 ベルトレは、同じような光景に出会ったことがある。

 宗教国家であるシルウィアでは、法王位は神に等しい。宗徒は一様に法王に向かって頭をたれ、こいねがう。神が信徒に手を差し伸べる姿を見ることはないが、トーリの威厳は魔手にとって、実利につながっているとすれば、かれらが心の底から信じているのは、老将の姿なのだろう。

 ――卿は、魔手を従えている。

 法王位の席次に手が届く可能性がある者が魔手を懐かせていることに、ベルトレは恐怖を覚えた。法国の文化を据えかえる選択を、卿は胸に抱いてはいないだろうか。そのときベルトレは、魔手のためになにも動かず、ベルトレの足にかせめた者として、おとしめられはしないだろうかと急に不安になったのだった。

「佐将殿」

 うつむき気味にトーリの背を追っていたベルトレは、老将の言葉で顔を上げた。

 もやが晴れて。残り火に揺られて、小さな細い木の幹が浮かび上がる。

 ベルトレには違和感があった。

 焼け野原になりつつあった森の、焦土の真ん中にたった一本だけそびえた木。トーリはその木に近づき、愛おしそうに幹を撫でた。

「佐将殿」

 もう一度、老将が言った。

「こっちに来て、木の肌を見てみるといい」

 ベルトレは自分が直面しているものが、何であるのかに気づいていた。いや、それは正確ではないかもしれない。どちらかというと、得体のしれないものに近づきつつあるという確信と、事象を正確に表現できないことへの戸惑いが、肌にしみこんでくる感触になった、と言いかえられるかもしれない。ともあれ、ベルトレには足を止める理由がなかった。

 木の肌は、なめらかな陰影に埋まっていた。人の目鼻立ちに似ていた。必要以上に。

「――」

 ベルトレはいくつかの言葉を飲み込んだ。驚きを超えて、別の言葉を探し、言葉の動機に行き当たると、自分は老将の言葉を取りつくろおうとしていることに気づいた。

 つまり。

 木の幹にうがたれた顔が。人そのもの。さらにいえば、ベルトレをついさっき睨んで前に立った魔手そのものであるということだった。 

 ベルトレの手が、人の形をした隆起に触れた。

「将軍――」

「なにかね」

「かれらは、生きているのですか。それとも」

「人ではなかろうね」

「どうしてこんな――」

「基板操作の副作用だ」  

 トーリはこともなげに、そういった。

「基板にはいくつか性質があるが、そのひとつに均質化がある。基板の改変にともなって別のかたちに移行するさなかで、まったく異なる基板と重なることだ。この移行は速やかに進み、しかも不可逆で急激な基板改変が行われると、術者を飲み込むことさえある。わたしは、もどしと呼んでいる」

 喉が鳴る音が、どこか遠いところで反射して、ベルトレの耳に届いた。沈んだように重い臓腑ぞうふの奥からのこだまかもしれない。「将軍はそれを承知で」、という言葉は必死で飲み込んだ。ベルトレ自身の罪の知覚がおぼつかなかったからだ。森を焼くことを止める使命感はたしかにあった。法国民と兵士の命を秤にかけた。だが、この仕打ちは理不尽ではないのか。

 ――魔手について知っていることがあまりに少ない。

 ベルトレは不勉強を嘆いたが、もっと上位に位置する指揮官たちでも魔手の知識はうといに違いなかった。魔手に価値を見いだしたのはトーリと、ベルトレの知るかぎり、卿だけだ。トーリの真似にすぎないと卿をなじったものの多くは、魔手を使う力量にないのかもしれないと思うと、ベルトレは気味が悪くなる。

 ――卿も同じように。魔手を使い捨てにするのだろうか。

 ベルトレは自問するまで、その答えにたどり着いていることに気づかなかった。

 卿は。あのとき、ベルトレの体術に対して、うまく負けてくれた卿からは、確かに異質な香気こうきがないわけではなかったが、残忍性は感じられなかった。少なくとも、老練を通り越して宗教的な威厳さえ漂わせているトーリのような人間に狙われるはずはなかった。ベルトレはおのれの直感の頼りなさを恥じたうえで、トーリならば卿の本質にたどり着ける気がするという不思議な解釈にいたった。

「将軍。わたしの声を聞き届けていただき感謝します」

「もう少し、狼狽うろたえるものだと思っていたが」

戦場いくさばで死ぬことは、武人としては誉れです。かれらも誇るべき法王騎士団の一員なのでしょう」

「背後から刃で貫かれても同じことがいえるかな、佐将殿」

「監察を志した時点で、覚悟は決めております。それに監察が死ぬということが、どういうことか、将軍はご存知のはずでは」

「急に、なにかが腹に落ちたような顔をする。佐将殿は不思議な人間だな」

「気にくわない、とは仰せにならないのですね」

「本来――」

 木に成り代わった魔手の顔の艶や肌触りのすべてを覚えていくように、トーリは右手を動かしていった。

「監察が死ににくいのは、戦術や統制などの戦場で起こった実際の姿を、主観的判断の外に置いて、ただ調査と記述に始終するために戦列を離れているためだ。人智を積みかさねるために庇護下に据えるべきだ、という拘束力はもちろんあるが、こうやって主幹と死生観を重ねる行為はすでに監察の態度とは異なっている」

 トーリは右手を浮かすと、小さく肩を揺らして息を吐いた。

「わたしは異質であることが好きな性質タチだろうね」

「卿も異質です」

 ベルトレは、心のどこかで安堵を覚えながら言葉を返した。

「言葉を交わさなければ、好悪は印象で決められる。できればこのまま、卿とは言葉を交わさずに済みたいものだ」

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