第6話

 手綱を緩める気はなかったが、けいはふと後ろを振り返った。

 ――自分がトーリ将軍なら。

 まず最初に何を考えるだろう。

 トーリ将軍の行軍については、監察の記録が数多く残されていたので、卿は何度となく資料として読み込んできた。魔手を従軍させる行軍様式は卿と同じだ。参考にならないはずはないと期待していたが、魔手については曖昧な部分も少なくなかった。

 魔手は、思考を飛躍させる。現象の道理をうち破る。ただ思考には障害があって、できないことの方が多いこともわかってきた。何ができて、何ができないか、その按分あんぶんがそのまま戦術に繋がるのであれば、トーリはあえて資料に残さなかったのかもしれない。

 カンファイを抱えたイリシアのはるか後方が、橙色に輝いた。

「――卿――」

 彼の瞳が、一度大きく見開かれた。基板の動線を見つめているのだろう。

「トーリ将軍は、恐ろしい方です」

 卿は、半ば遊び心で、トーリ将軍の出方を探ろうとした。が、将軍は何の意にも介さなかった。

「――おお」

 それ以上の言葉は、自分の立ち位置を見失わせるだけでなく、部下の魂魄こんぱくの在り方も揺るがしてしまう。懸命にのみこんだ。

「森を燃やしているのか」

 卿の視線に気づいたイリシアが、同じように目を細めて後ろを振り返った。

「そうです。わたしがやったことを、トーリ殿はもっと広範囲で同時に行っています。枯れきった木に、火をつけた」

「カンファイ。基板の改変は止められないのか」

「それは、無理なんです。に一度に触れられるのは、ひとりの魔手に過ぎません」

 イリシアは夜をうち破るような舌打ちをひとつすると、

「卿、どうします」

 と言葉を投げた。

 ――どうしようもない。

 卿は苦笑したが、考えることはやめていなかった。

「ひとつはっきりしたことがある。トーリ殿は、わたしを敵とみなした、ということだ」

「こころおきなく剣を振るえるというものです」

「その言い分は、最後まで口にしないでおこう」

「——卿、いまさらなにを」

「いまさらだろうと、わたしは最後まで言い続けるよ。その忍耐が、わたしの素性そのものだからね」

「あきれた」 

「はは。素直な感想でよろしい」

 トーリが、卿を敵視したことは疑う余地が少ないが、かといって卿以外がそれを認めたわけではない。ここでたてついて万に一つ、卿の矛先がトーリの命に届きそうであったら、これは事故だと言われると、卿の部隊は窮してしまう。

「わたしの戦略思想は、部隊内の人間をだれひとり欠かさないことだけだ。理不尽の混沌の中で、いわれなく消えていく生涯では、生まれてきた甲斐がない。個々人の尊厳だけは守らなければならない」

「何か手はあるのですが」

「これは賭けにちかい妄言もうげんかもしれないが」

 卿は一度ことばを切り、炎が浸潤しんじゅんする森をながめた。火炎にともなって動き始めた夜気が、煙と混じる様子がはるかに見える。

「トーリ殿は、わたしを密かに助けようとしてくれているのではないかな」 

「どうしてそう思われます」

「——シェドだ」

 森は半島の先まで伸びて、ちいさな自治区を覆っている。トーリは緑の導火線に手を掛けた。

「将軍の手法は、奇襲に備える必要性を最初から排除できる点で、最適かもしれない。が、政治的には最悪だ。誰が森を焼くことを指示し、誰がそれを許したのか。このままでは、法国とシェドの関係性は確実に悪化する」

「我々がその先鋒だと疑われます」

「シェドについて、副官、何か知っていることはあるか」

「法国との関係は、すでにあまり良好とはいえないでしょう。今回の斥候ではなにもつかめませんでしたが、かれらはシルウィアを恨み、転覆を試みているという報告もないわけではありません」

 いこう、と卿はふたりを誘って手綱を引いた。

「法国の統治下に入って、日が浅いというのもあるだろうね」    

「卿もご存知かと思いますが、どちらかというと、かれらの種族性にその発端があるようです」

「そうか。――寿命か」

 卿は、シェドに向かう途中で追手がかかることを想像していた。どこかで迂回し、追撃の裏側に回るためにモリァスたちを偵諜に向かわせた。無傷で法国の中に戻るためだ。が、そのせいで、自分が放逐ほうちくされることを忘れていた。

「かれらも災難だ。どうしてこれほど身近にありながら、我々とかれらのように、命の長さに違いがあるのか。不思議で仕方ないことだ」

「魔手と魔手でないものも――」

 カンファイがいう。

「分ける理屈が、わかりません」

 かれは何かを振り絞っているようだった。イリシアにしがみつきながら、喉を震わせ、

「卿、わたしは一向に法国に戻らなくてもよいのです。卿やトーリ殿の庇護にあずかれない同胞の心の動きが、わたしの胸を病ませます。できればもう――」

 といった。

「力がないね、私には」

 馬上で空を仰いだ卿の隣に、イリシアが馬首を寄せた。

「カンファイもわたしも、未来を悲観しているわけではありません」

「ほう」

 彼女は地面に指を向けた。

「嘆くのはいつも、いまここ、それだけです」

「よい副官をもって幸せだ」 

「——卿。トーリ殿が我々を助けようとしているとは、さすがに信じられません」

「それでいい。希望と予測は別だ」

「これは、わたしの勘ですが。トーリ殿の人望というよりも、トーリ殿がここにいることが、卿の助けになるかもしれません」

「というと」

「法王騎士団を、誰が動かしたのか、ということです」

 イリシアからゆっくりと視線を移し、卿は輪郭のあいまいな夜道に目を落とした。足場の悪い小径こみちを、四肢ししで縫うように走る馬のたてがみに、卿は右手で何度か触れた。

 法国では、中隊以上の行軍に必ず監察がつく決まりがある。法王騎士団も例に漏れない。監察がつく、ということは軍事行動として立案され、成果が公にされる。法王騎士団は、北方制圧に出向いていた、というのが卿たちが持っていた情報なので、宮城から飛び出したのがトーリである以上、どこかで作戦の方針に変更があったのだろう。

 ――魔手の存在を軽んじているのか、恐れているのか。

 卿の部隊に魔手がいることが、誰かの思考の足かせになった。魔手にぶつけるのは、魔手だというわけだ。しかもトーリなら、力量的にも圧倒できると踏んだとみるのは普通だ。法王騎士団を動かせる権力だけが、普通ではない。

 卿は、しかし、苦笑していた。ようやく自分の様式が世界に影響を与えたと思えば、こうして追われる立場になったことも悪くはないと感じていた。

「うらまれるようなことはしていないつもりだったが」

「驚きました。殊勝な心がけがこんな悪人相をつくるとは」

「ひどい言い掛かりを受けていると思うのだけれど」

「卿。時代が悪かったと、あきらめてください」

「――イリシア。何か策があるんだね」

 紫色の豊かな髪が、宙を舞った。

「わたしが宮城きゅうじょうに戻ります。法王騎士団がここにいることを、知らない人間がいるはずです」

「君は目立ちすぎる。それに、味方などいないかもしれない」

 卿の隊の副官といえば、イリシア・トラセルタだった。怜悧れいりさと美貌が高い階層で奇跡的に融合している。

 ――希有けうだ。

 自分を凡人だと思い続けている卿は、彼女のような汎用はんようでない美貌と哲学の持ち主が、自分の側から離れないことを努めて不思議に感じていた。だから彼女が卿に愛想を尽かし、離れていってもとがめるつもりはなかった。ただ、離れていくのなら、心身ともにでなければ困るのだった。

「法王位は、格別です。譲位じょういを許されない唯一の気格が、法王のご容態がすぐれられぬいま、不遜ふそんにも間近に見ているものがいることは確実です。卿の存在が、邪魔にならないはずがない」

「わたしの席次は、五番目に過ぎない」

 イリシアは深いため息をついた。

「わたしを値踏みするのは、卿、無意味です。この現状は、なるべくしてなった。権力の元では席次など関係ない。あなたもそれはよくご存じでしょう」 

 一度こうだと決めたら、イリシアは考えを簡単にげない。しかしそうだからといって、彼女をこのまま見過ごすわけにはいかない。彼女は幾度となく、なんの気の迷いもなく、卿の目の前に立ち、凶刃きょうじんを払ってきた。刃物が打ち合う火花が肩口まで飛んできたときも、卿は瞬きもせず、イリシアの背の後ろで彼女の戦いぶりを見てきた。見すくめて、彼女がたおれるのならば、自分も同じやいばで死ぬ。イリシアでなくても、卿は、部下が死ぬときに目の前にいれば、笑って死ぬだろう。そういう殉教じゅんきょうに似た卿の死生観を、卿はイリシアに押しつける気がない。

「勢いで宮城に戻れば、どこかで必ずトーリ殿に捕捉される。わたしなら間道は封鎖する。まして、森を燃やそうとしているんだ。少数が戦うなら、物陰がなければならないが、将軍はまず先にその選択肢を排除した」

「しかし、このままでは、我々はシェドに逃げのびるしかありません。それよりも、法王の威徳いとくの影で、トーリ殿を差し向けたことを愚行ぐこうだと知らしめるべきです」

 もう少し、太い伝手つてを作っておくべきだったと、卿は悔やんだ。ここまでの事態を想定できなかったとはわれながら情けない。が、すぐに考えを切り替え、あごに手を当てた。

「我々は、斥候だったわけだ。復命せねばならない。帰還の最中、森が突然燃え始めた。だから、安全な場所で待機していた、という言い分を通す」

「卿――」

「冷静になれ、イリシア。森が燃えている姿が、宮城に届かないはずはないが、夜半で少ない者の目にしか触れていない。だが、往来が戻るころになれば、もっと多くの目に留まる。そのとき、北方遠征におもむいていたトーリ殿がシェドに向かった訳を弁明するには、わたしの罪状では軽すぎる。証拠もないからね。我々は、それまでの時間を稼ぐ以外の方法がないんだ」

 イリシアはようやく口をつぐんだ。彼女の肩口から森をながめると、火勢かせいはいよいと激しくなっていた。

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