第5話

 肌ざわりの悪い風が吹き下ろしてきたので、ベルトレは空を見上げた。低い雲が暴れているところをみると一雨来るのかもしれない。

「副官殿」

 その呼び声に、ベルトレはまだ慣れなかった。この隊にあてがわれて、まだ二日しか経っていない。馴染む時もなく、それでも隊員は副官として扱ってくれる。彼らにとってみれば、隊長であるトーリ以外に、信任する将軍はいないだろう。にもかかわらず、飛び入りの佐官に、しかも監察が目的と瞭然としながら、彼らはベルトレを上官として接してくれている。

 ――恐ろしいことだ。

 ベルトレの目から見れば、法国の長でさえ、トーリのような集団の首長ではないだろう。宗教国家の宗主は、信任によって成り立つが、特になにかを国民に約束しているわけではない。教義や戒律は宗教的なつながりがない人々を支配下に治めるのには不十分だ。そこを行くと、トーリのような実利的で非凡な資質に寄りかかるのが一番手っ取り早い。ベルトレは、自分がこの隊の監察を任されている現実を正確に把握していた。

「どうした」

「魔手たちが、基板の改変に気づきました」

 ――基板か。

 ベルトレは生粋きっすいの法国人だったので、魔手に抵抗がある。自分には見えないものを、あると言い続けたからといって、一体かれらはどうやって信頼を得ようとしているのか、いまだにわからない。

「それは、どういうことなんだ」

「基板の操作は、我々の隊では下命かめいされていません。別の魔手の仕業です」

けいの部隊ということか。どのあたりにいるのかわかるのか」

「――副官殿」

「わたしが悪かった。そうだな、距離は測れないんだったな」

 こうやってできることとできないことを丁寧にさらい続けることが、かえって足手まといになるとは考えないのだろうかと、ベルトレは先を行く将軍の背中を眺めた。

「何か気になるかね」

 肩ごしに寄越した視線は強かった。ベルトレは、かぶりをふることしかできなかったが、トーリが何か答えを求めていると気づくと、覚悟をきめた。

「卿の部隊に動きがあったようです」

「――それで」

 ベルトレは言いよどんだ。それだけだった。ベルトレにはそれだけしか報告することはなかった。

「基板の改変が行われた、と」

 トーリはベルトレの言葉で、手綱たづなを強めた。行軍の速度が落ちた。

「佐将殿、しばらくすると森に入るが、この森はシェドまで続いているのか。このあたりの地形にはうとくて困る」

 途端に将軍の背中が大きくなった。ベルトレはトーリに並ばれただけなのに、そう感じた。将軍の年齢は何歳だったか、ベルトレは懸命に思い出そうとしていた。

 ――謙遜けんそんに過ぎる。

「ご冗談を」と言いかけて、ベルトレは口をつぐんだ。歴戦の勇士が、法国の英雄とさえ言われる名将が、事前の情報収集を怠るはずがない。

 ――試されている。

 そう考えるのが自然だろう。

「あと五分ほどで森につき、そのままシェドに続きます」

 こんな話、断ればよかったと、ベルトレは思った。法王騎士団に監察がつく、と聞いたのは一昨日だった。なにか異例があったのかと上司に尋ねたところ、それが普通らしかった。自分には関係ないと思ったのがいけなかった。浮気性の上司は、別の担当がいたにもかかわらず、ベルトレを指名した。

「どうした、佐将殿」

「トーリ殿、その呼び方は、おそれおおいことです」

「はて。何におそれているのかね」

「わたしは、法王騎士団の一員ではありません。特別な訓練も積んだわけではない、枝葉の人間です。とても将軍の佐官は勤まりません」

 トーリはベルトレの言葉に、盛大に息をついた。

「くだらんな。君がおそれているものは、わたしの幻影に過ぎない。そして君の態度は謙遜ではないし、気づかいでもない。わたしを馬鹿にしているのか」

 とんでもないじじいだ、とベルトレは思った。行軍は完全に停止した。

「そんなつもりは、ありません」

 部隊の空気が、冷たく沈んでいくのを感じる。とくにベルトレは、魔手から強い怨嗟えんさの視線を随従ずいじゅうしてからずっと受けてきた。魔手に対して、ベルトレに心理的抵抗以上の特別な感情はないが、法国の人間がかれらをどう扱ってきたかは知っている。トーリという受け皿が無ければ、彼らは人として認識されなかった可能性が高い。法国の人間である以上、それを看過かんかして来た自分に彼らを責める気にはならなかったが、単純に不気味ではあった。法王騎士団は、トーリを中心にして、自由に動きつづける小さな国といっても差し支えないのかもしれない。

「そう身構えるな。闇に呑まれる」

「――は」

「卿という男は、どのような男だ」

 トーリは手綱を握り直し、前を向いた。行軍はまた、ゆっくりと進みはじめた。ベルトレが答えあぐねていると、「なぜ、私は彼を追っている」と続けて聞いて、さらにベルトレの口を重たくさせた。理由がはっきりしていれば、もっと明快に、単純に、兵士の憧れであるトーリの側近にいられる栄誉を噛みしめられただろう。

「多くの人間がよく、わたしも、同じ人だと勘違いするのだがね」

「は――」

「わたしは道具に過ぎない。政治的な立ち位置もなければ、誰が誰と近侍きんじしようが知ったことではない。だが、わずかばかりの意志はある。わたしを道具として使うからには最大限効率の良い使い方をしてもらいたい」

 ベルトレは正直なところ面食らっていた。トーリという将軍に対してもっていた人物像が、あまりにもかけ離れていたことに驚いていた。理由もなく、ためらわず、誰かをおとしめるために刃が向けられるのか。思想のない武器はただの凶器ではないのか。たが、驚愕に流されることは兵士として戒めるべき第一のことだと、かつて教わったことを思い出し、

「卿が追われている理由ですが――」

 と精一杯切り出すことに成功した。トーリも目でベルトレをうながした。

「ゼリア公の殺害嫌疑がかかっています」

「嘘だな。嫌疑があるなら、なぜ拘束せん」

「拘束できない理由があるからです」

「拘束する理由がないからではないのか」

「それはわたしの範疇はんちゅうの外です」

 トーリはあからさまにため息をついた。

「佐将殿。わたしは貴官の所見を聞きたいのだ。後ろを見てみろ」

 言われるがままに振り返ったベルトレは、他の隊員が距離を取っている事に気づいた。

「誰も邪魔はせんよ」

 ベルトレは頭の中を整理しながら、必死で考えていた。蹄鉄ていてつの音が一頭分だけ聞こえる。トーリの馬とベルトレの馬の歩調が合ったのだろう。しかし、ベルトレはかえって自分が一人、暗闇に向かって言葉を吐いているような気になった。その暗闇の先に、けいがいる。

「卿には世話になったことがあります。ささいなことですが」

「ほう」

「卿の入隊は五年ほど前です」

「彼の歳はたしか」

「今年で三十ですね」

「ずいぶん遅い」

「卿の出自はご存知なのでしょう」

「知っている。あの婆さんにも困ったものだ」

「ガジ様に対してそんな口を聞けるのは、トーリ殿くらいでしょうね」

 法王にさえ重用ちょうようされる占い師と、目の前の将軍が対峙たいじする姿を思い描いて、ベルトレはすこし愉快な気持ちになった。

「王者の風格など、なかった」

 トーリが歩調を落とした。森の入り口が見えたのだ。夜陰やいんの内側にひそむ、暗い口が目の前に開いているようだった。

「世話になったというのは」

 複数の間道かんどうに放った斥候せっこうの兵たちを待つのだろう。卿たちは、与えられた任務をまだこなしているだろうか。それとも、感づいているのだろうか。

「わたしは入隊後の格技かくぎ訓練で、卿と組むことになりました。できれば、第一部隊に配属されたかったので、どうしても訓練ではいい成績を収めたかったのです。卿は私が望むとおりに負けてくれました」

「気に食わん男だ。何か見返りを求めてきたのか」

「卿は、そういう方ではなかったですね」

「卿がうとまれる理由が分かった気がするな」

 ベルトレは首をかしげた。

「なぜです」

「見返りを求めない人間を信じられないほどでなければ、国を背負うのはむずかしい」

 ベルトレは、自分が抱える異論は挟まなかった。

「わたしは監察の職域をまっとうするのみです」

「それを聞いて安心した。さて、戦場いくさばだ」

 トーリはすばやく配下の兵士を呼び寄せて、概況を手短に説明させた。法王騎士団の中でも手練てだれなのだろう、壮年の兵は簡潔かつ明瞭に、事態の展望を伝え、最後に私見を述べた。トーリが短くうなずく。その先に出た言葉に、ベルトレは耳を疑った。

「さて、では。森を焼き払おう。魔手ましゅは前へ」

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