第4話

 モリァスの身に何が起きたかを、卿が知るまではもう少し時間がかかる。

 卿は、イリシアと魔手ひとり従えて、シェドに向かう幹線かんせんからすみやかに離れ、半島を北に流れる渓流けいりゅうかたわらに降りた。水嵩みずかさが減って岩盤がむき出しになっている箇所は、注意深く進めば、馬でも通れる。だが、この速度ならばトーリにはすぐに追いつかれてしまうだろう。卿は、謙遜を抜きにして、自分がトーリであったらどう動くかしばらくだまって考えたあと、他の部隊にはいない魔手の存在が、もしかしたら将軍の足を止めてくれるかもしれないと思い、自軍の魔手を呼んだ。

「カンファイ。頼みがある」

 法国では、従軍の際の魔手の服装には規定がある。紺色のフード付きのローブで、頭も覆わなければならない。魔手であることを自覚させられる仕組みは、法国では地位の低いかれらにとって多分に差別的であるが、導入したのがトーリと知ってから、卿は評価を変えた。よく見れば細かく強い繊維で出来ていて、刃を簡単に通さず、燃えにくい。着心地も含めて魔手にはおおむね好評だった。腕力に劣り、狙われやすい魔手を自衛させる方法を、トーリは人知れず進めていたのだ。

「基板を操作してくれないか。どんなことでもかまわない」

 卿に突然そう言われたカンファイは、戸惑った顔で言葉の主の方を探った。彼の視力は弱い。

「基板を、ですか」

 イリシアが卿をとがめる。

「気づかれてしまいます」

「――どちらかというと、私は気づかれたいんだ」

 卿の反応に二人は顔を見合わせた。

「馬の速度と位置から察するに、トーリ殿の隊にもっとも近いのは私たちだ」

「トーリ殿をおとしめる、ということでしょうか」

 卿の思考に素早く寄り添ったのは、イリシアだった。

「そんな大それたこと、わたしにはできないよ、副長。少しだけ、将軍に考える猶予を与えられたら、それでいい。カンファイ――」

「――はい」

「基板の改変が行われたら、きみたちはその痕跡に気づく。そうだね」

「ええ。改変の際にあらわれる隙間によって、我々は行為に気づきます」

「トーリ殿のことだ。我々について十分な情報を持ってこちらに向かってくるだろう。部隊の構成が何人で成されているのか、知らないはずはない。少量の軍人が、大軍に手を出そうとすれば、奇策しかない」

 カンファイはまだ飲み込めない様子だった。イリシアが助け船を出す。

「要するに、トーリ殿に、何か仕掛けてきたと思わせたいのだ。卿は」

「それもできるだけ穏便に。わたしはまだ、トーリ殿と敵対するつもりはない。釈明の余地は残しておきたい。そこで魔手の力を借りたいんだ」

「仰りたいことはわかりました。なにか具体的に指示いただけると助かるのですが」

「カンファイのことだ、すでにいくつか候補を持っているんだろう」

「いや、わたくしは――」

若い魔手は、照れたようにうつむいた。それでも卿が黙っていると、

「地味ですが」

 と、口を開いた。卿はにこりと笑った。

カンファイの提案は、木を枯らしてみてはどうかというものだった。

毎夜、木々は内側の水を葉から吐き出すという。魔手はその在り方を変化させて、制御の方向をずらす。カンファイはその有様を、色を失った眼窩がんかの内側で眺めているのだ。

「面白い」

 卿は笑って受け入れた。卿の中の懸念は、相手の出方だったので、「トーリ殿が動いた様子はないか」と魔手に尋ねると、カンファイはかぶりを振った。

「毎度のことで申し訳ないが、基板はどんなふうに見えているんだい」

「――カンファイ。集中できなければ、断ってもかまわないぞ」

「いいじゃないかイリシア。好奇心がなくては人が生きている理由などなくなってしまう」

「理由などなくても、人は勝手に生きていくものです」

「言葉の綾だよ。――カンファイ。笑ってないではじめてくれないか」

 苦笑していた魔手は、ええ、ええと何度も頷いた。魔手は両手のひらをまっすぐに突き出した。器用に馬首をかえすと、手で探りながら馬を下り、

「この木でやります」

 と言った。

「もう見えているのか」

「ええ。というよりもわたしの目にはほとんど基板しか見えません」

 外から見れば、魔手は指先をすばやく動かしているにすぎなかった。だが、カンファイと世界は確かに繋がっていた。

「おお」

 回りの空気が湿り気を含んだのを、卿は肌で感じた。目の前の木から、生気が抜けていく。

「どんな風に見えているんだ、カンファイ」

「木のかたちというのは、私の目にはすべて同じものです。半透明の板が重なり合って、内側に粒状の基板が行き来しています」

「動いているものが、水なんだな」

「そうです。別の小さな基板が、木を木の形に押しとどめているのですが、その封を外したのです」

 カンファイと話を進める間に、葉の完全に枯れてしまった。

 ――魔手を忌み嫌う国風でよかった。

 かつて卿は、イリシアにそう漏らしたことがある。世界改変の力が為政いせいの中心に来れば、統制の軸がかたよるかもしれない。現実にそういう国がおこってもおかしくないのだと、卿は常に悲観をもっている。法王騎士団のような求心力を得た国体こくたいがあらわれたら、と考えざるを得ない。

「――気づかれました」

 カンファイが言うのが早いか、イリシアは馬を飛び降り、若い魔手を軽々と持ち上げて馬上の人にした。

 卿は無言でうなずく。

 ――これで、トーリ殿はどう動くか。

 経験も知識も、何もかもが自分には足りない。斥候せっこうなのだから、舞い戻るという手もあるだろう。法王位の継承者でなければ、よいのだ。

「――卿、お早く」

 が、それを望まないのが、イリシアや隊の人間ならそれはそれでいい気もするのだった。

「私はお人好しかもしれない」

 振り返ったイリシアが言った。

「今ごろ気づかれるとは、愚鈍を通り越して、人であるかどうかも疑ってしまいます」

 カンファイが思わず吹き出していた。

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