第4話
モリァスの身に何が起きたかを、卿が知るまではもう少し時間がかかる。
卿は、イリシアと魔手ひとり従えて、シェドに向かう
「カンファイ。頼みがある」
法国では、従軍の際の魔手の服装には規定がある。紺色のフード付きのローブで、頭も覆わなければならない。魔手であることを自覚させられる仕組みは、法国では地位の低いかれらにとって多分に差別的であるが、導入したのがトーリと知ってから、卿は評価を変えた。よく見れば細かく強い繊維で出来ていて、刃を簡単に通さず、燃えにくい。着心地も含めて魔手にはおおむね好評だった。腕力に劣り、狙われやすい魔手を自衛させる方法を、トーリは人知れず進めていたのだ。
「基板を操作してくれないか。どんなことでもかまわない」
卿に突然そう言われたカンファイは、戸惑った顔で言葉の主の方を探った。彼の視力は弱い。
「基板を、ですか」
イリシアが卿を
「気づかれてしまいます」
「――どちらかというと、私は気づかれたいんだ」
卿の反応に二人は顔を見合わせた。
「馬の速度と位置から察するに、トーリ殿の隊にもっとも近いのは私たちだ」
「トーリ殿を
卿の思考に素早く寄り添ったのは、イリシアだった。
「そんな大それたこと、わたしにはできないよ、副長。少しだけ、将軍に考える猶予を与えられたら、それでいい。カンファイ――」
「――はい」
「基板の改変が行われたら、きみたちはその痕跡に気づく。そうだね」
「ええ。改変の際にあらわれる隙間によって、我々は行為に気づきます」
「トーリ殿のことだ。我々について十分な情報を持ってこちらに向かってくるだろう。部隊の構成が何人で成されているのか、知らないはずはない。少量の軍人が、大軍に手を出そうとすれば、奇策しかない」
カンファイはまだ飲み込めない様子だった。イリシアが助け船を出す。
「要するに、トーリ殿に、何か仕掛けてきたと思わせたいのだ。卿は」
「それもできるだけ穏便に。わたしはまだ、トーリ殿と敵対するつもりはない。釈明の余地は残しておきたい。そこで魔手の力を借りたいんだ」
「仰りたいことはわかりました。なにか具体的に指示いただけると助かるのですが」
「カンファイのことだ、すでにいくつか候補を持っているんだろう」
「いや、わたくしは――」
若い魔手は、照れたようにうつむいた。それでも卿が黙っていると、
「地味ですが」
と、口を開いた。卿はにこりと笑った。
カンファイの提案は、木を枯らしてみてはどうかというものだった。
毎夜、木々は内側の水を葉から吐き出すという。魔手はその在り方を変化させて、制御の方向をずらす。カンファイはその有様を、色を失った
「面白い」
卿は笑って受け入れた。卿の中の懸念は、相手の出方だったので、「トーリ殿が動いた様子はないか」と魔手に尋ねると、カンファイはかぶりを振った。
「毎度のことで申し訳ないが、基板はどんなふうに見えているんだい」
「――カンファイ。集中できなければ、断ってもかまわないぞ」
「いいじゃないかイリシア。好奇心がなくては人が生きている理由などなくなってしまう」
「理由などなくても、人は勝手に生きていくものです」
「言葉の綾だよ。――カンファイ。笑ってないではじめてくれないか」
苦笑していた魔手は、ええ、ええと何度も頷いた。魔手は両手のひらをまっすぐに突き出した。器用に馬首をかえすと、手で探りながら馬を下り、
「この木でやります」
と言った。
「もう見えているのか」
「ええ。というよりもわたしの目にはほとんど基板しか見えません」
外から見れば、魔手は指先をすばやく動かしているにすぎなかった。だが、カンファイと世界は確かに繋がっていた。
「おお」
回りの空気が湿り気を含んだのを、卿は肌で感じた。目の前の木から、生気が抜けていく。
「どんな風に見えているんだ、カンファイ」
「木のかたちというのは、私の目にはすべて同じものです。半透明の板が重なり合って、内側に粒状の基板が行き来しています」
「動いているものが、水なんだな」
「そうです。別の小さな基板が、木を木の形に押しとどめているのですが、その封を外したのです」
カンファイと話を進める間に、葉の完全に枯れてしまった。
――魔手を忌み嫌う国風でよかった。
かつて卿は、イリシアにそう漏らしたことがある。世界改変の力が
「――気づかれました」
カンファイが言うのが早いか、イリシアは馬を飛び降り、若い魔手を軽々と持ち上げて馬上の人にした。
卿は無言でうなずく。
――これで、トーリ殿はどう動くか。
経験も知識も、何もかもが自分には足りない。
「――卿、お早く」
が、それを望まないのが、イリシアや隊の人間ならそれはそれでいい気もするのだった。
「私はお人好しかもしれない」
振り返ったイリシアが言った。
「今ごろ気づかれるとは、愚鈍を通り越して、人であるかどうかも疑ってしまいます」
カンファイが思わず吹き出していた。
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