第3話

 自分の息づかいの荒さに、彼女自身が驚いている。熱い吐息と地面を蹴る足音が、妙に耳に残った。自分がもしかしたら後世に残る歴史の上にいるという興奮が、膨らみかけた彼女の胸のどこかにあって、彼女の身体をいつも以上に駆り立てたのかもしれない。時折、酸素を失って視界が白く濁ると、抑えていた胸の予感が現実に向かって膨らみそうになって、急に怖くなった。

父の宿願しゅくがんが、叶ってしまう。

 ――我々をシルウィアから解き放つ。

 といった父の言葉が、ルーシェという少女の耳からずっと離れない。

 ――父様、父様。どうか考え直して。

 こうなるはずはない、と彼女自身、どこかで信じていた。何かに裏切られた、という気持ちが切実に折り重なって、だけど何を恨んでいいのかルーシェにはわからなかった。祈るべき神を恃むには、彼女の置かれた環境はあまりにも目まぐるしく変化して、そして今も変わり続けている。

 獣の通る細い道を駆けると、何度も茂みにぶつかった。鼻頭はながしらを打つと、濃い、むせかえるような植物の臭いが口の奥にまで拡がる。軽く咳き込んでも、ルーシェの足取りは止まらない。

 夜半、法国の北門から、騎兵が数騎、静かに歩み出た。法国の北側には半島が大海にせり出しているが、そのほとんどがシェドというルーシェの集落だった。法国の版図はんとに加えられたのは五十年ほど前で、今でも緊張関係がある。ルーシェの役割は、シェドに対する法国の動向を探ることだが、法国が定期的に哨戒しょうかいの兵を出すのは知っていたし、今までそれが火種になることはなかった。ところが今回、騎兵の後をついで、比較的大きな部隊が後を追ったのだ。ルーシェの目に狂いがなければ、あれは法王騎士団だ。法国最強の精鋭集団が、深夜に行動を起こすことの意味を考えないわけにはいかない。夥しい数の魔手の群れは、はっきりと悪寒をルーシェに抱かせた。

 ――父様!

 胸の内側がばらばらに飛び散ってもいい、喉が掻き切れるほど声をあげてルーシェは叫びたかった。自分以外の見張りの声が、父の耳に入ってしまえば、瞬く間に戦端は開かれてしまう。ルーシェが再び父に見える前に、父の、集落の命は擦り切れてしまうかもしれない。

 走りだして一体どれくらい、時間が経ったのだろう。シェドまでの道のりは半分くらいだろうか。ルーシェは絶え間ない憶測の深淵にはまり込みそうだった。

 そのとき、何か重いものがすぐ側に落ちるような音がした。

 人を襲うような大型の獣はいないとはわかっているものの、安心できるほど夜の森を甘く見てはいけないことくらいは彼女も十分に承知していた。だから自然現象とは思えない木々のざわめきが起こっても、声を上げて飛び上がったりはしなかった。ただ、どうしてかわからないが、ルーシェはくるりと反転して音のした地点に体を向けていた。

 ルーシェはふところの刃物の柄を握った。

 人を襲う獣はいないが、人を襲う人間はいるのだ。

 後をつけられたのかもしれない、とルーシェは一瞬思ったが、すぐに考え直した。ルーシェが進んできたのは道とはほとんど呼べないもので、シェドに住む者だけが通る足場の悪い場所だ。足もとには深い緑の羊歯しだが生い茂り、湿地もある。甲冑をつける騎士たちが足を踏み込むには、利点がない。けれど同時にルーシェは、その判断に自信もなかった。

 何かが呻く音が聞こえた。

 今度は人の声だと確信できた。ルーシェの腕に力が入る。足音を殺し、息を潜めて音源に向かうと、夜に慣れた目がシルウィアの甲冑を捉えた。

 言葉が喉につかえてうまくでないように、ルーシェの思考も回らなくなった。こんなところにどうして、という声が何度も頭蓋ずがいの中でのたうちまわる。気づけば、短刀を持った右手が震えていた。

「獣――ただの――」

 祈りだった。ルーシェの口から漏れたのは、己の行為を祝祭の内側に閉じこめる、祈りの言葉だった。同時に誰かが背中を押して、己を獣に変えて欲しいという願意がんいだった。

 ルーシェの動きは、祈りと願いの狭間で止まった。だから倒れた兵士の頸元くびもとに刃を近づけようとしたとき、彼女の足首を兵士が掴むと、張り裂けるような悲鳴が飛び出た。

 咄嗟に突き出した短刀に、なにかの衝撃が走る。足首を掴む手から、力が抜けた。

 どこかでなにかの獣が遠吠えをしている。ルーシェの耳が聞き、肌が風の流れを感じた。爽やかな風だった。

 ルーシェはおそるおそる目を開け、そして声を失った。

 少年の瞳がまっすぐにルーシェの両目を見ていた。兜からこぼれ落ちる銀髪が目にかかっても、瞼が落ちることはなかった。

 不思議なことに、自分が命の危険にさらされているようには、ルーシェにはどうしても思えなかった。

 彼の瞳はほどなく胡乱うろんなものになり、やがて閉じた。

「――」

 ルーシェの振り下ろした短剣は、地に刺さっていた。

「死んだの……?」

 だが、か細くても息の音はあるようだ。ルーシェは、自分の手が殺めなくてすんだという安堵から、肩の力を抜いたが、すぐに問題を先送りにしただけだと思い直した。

 互いの息づかいだけの時間がしばらく過ぎたあと、ルーシェはしゃがみこんで男の顔を覗き込んだ。

 ――ふしぎ。

 きっとそんなに、とルーシェは思った。年齢が彼女と彼の間に壁を作っていない。

 ルーシェは見上げた。

「ここから落ちてきたのか」

 見知らぬ土地でさまよい、足を踏み外したのかもしれない。

「運のない人」

 と言いながら、彼女は彼の目を思い出していた。

 シェドはかつて法国になすすべもなく、併呑へいどんされた。彼女たちの集落は力がないという理由だけで、大国に呑み込まれ、法国の文化を押しつけられた。ルーシェは父の言葉を信じて育ったが、疑問がなかったわけではない。それは父の命の摩耗と無関係ではなかったし、家族の時間を考えればむしろ敵対などしてほしくなかった。

 ――そう考えれば。

 ルーシェは、膝を抱えて座り込んだ。目の前の兵士に深い恨みがあるわけではないのだ。

「戦うのはいやだな」

 誰にともなくつぶやいた声が彼女の本音だった。集落にたどり着けば、皆の感情に火をつけてしまう。それを望んでいないことにルーシェは気づいた。

 こんな日に限って、空は重く冷たかった。シェドは突き出た半島にある海の民の町だ。を漕ぐ父の太い腕の中で仰ぎ見た星の輝きを、青白んだ水平線の輪郭を、ルーシェは繰り返し繰り返し思い出すのだった。あの日々がついえないことだけが望みだった。

「戦うのを好む人など、いない」

 ルーシェは身を震わせて、周囲を見渡した。そして視線を下ろす。よどみない声に聞こえたが、その表情は暗かった。

「――敵意は、ない。信じてとしか言えないけれど」

 声はふたたびうめき声に変わった。

 思わずルーシェは顔を近づける。

「どうして黙ってなかったの。なにもしゃべらなければ、お互い気にすることもなかったのに」

「――まだ死にたくないだけだよ」

 何をなまぬるいことを、と彼の返事に心の中でなかば軽蔑しながら、ルーシェは自分でも思いがけない言葉を返した。

「ねえ、法国の兵士は――あなたは、あと何年生きるか、考えたことある」

 兵士は何度かせた。

「どうして――」

「あたしたちはいつも考えてるから。そこがきっとたがいに気に食わないところだと、ずっと思ってきた」

 ふたりの息遣いが、夜にこだまするようだった。兵士は落ち着いたのか、向き直って天を仰いだ。

「わたしたちが何歳で死ぬのか、知ってる」

「知ってる」

「何歳で死ぬのか知りながら、それが遠くない未来だとわかりながら生きる気持ちが、あなたにわかる?」

 兵士は、応じなかった。

「あなたたちはそれが気に食わない。ちがう?」

「いがみ合う理由なんて考えたことがない」

「――最低ね。それを法国の鎧を着てる人間の口から聞くのは最低の気分。あんたなんかに話しかけるんじゃなかった」

 兵士は悲しい顔をしたようだった。

「僕は誰かを殺すためにここにいるんじゃない」

 ルーシェは、胸の奥が熱くなった。

「そんな気持ちでここに来るのは卑怯」

 いっそこのまま、私が彼を殺してしまえば、とルーシェは思い、だけれどもそうではなくて、ルーシェは自分を殺してくれてもかまわないのだと、思いいたった。ふたつの極点は離れていても、同じものだと気づいた。

 そうすると、一体誰が、彼の怯懦きょうだを保証するのか。ルーシェは身震いした。少なくとも、自分ではなかった。

「誰かくる」

 兵士は頭を抑えて立ち上がり、声を潜めてルーシェの腕をとった。

「――ちょっと」

 抗議の声に被せるように、

「君は僕を殺しておくべきだった」

 といい、ルーシェの心をさらに追い詰めた。

 夜半過ぎの気温は、息を潜めているには心地よかった。敵の懐に飛び込んだ自分の愚かさにルーシェは苛立ったが、すでに手の施しようもなく、来訪者の姿を茂みの影から目で追うしかなければ、諦めに似た感情が胸のうちの大半を占めた。

 ずいぶんと耳がいい、とルーシェは兵士の横顔をちらりと見ながら思った。静かな森だが、足音が彼女の耳に届くまでかなりかかったからだ。

 ――この道を通るってことは。

 ルーシェは身内の顔をいくつか思い浮かべた。人影はふたつあって、ひとりは予測通りで、ひとりは想定外だった。

「君の知り合いか」

 兵士が小声でたずねた。ルーシェは首を縦に振った。

 ――よくないことになった。

 ひとりは父の従兄弟だった。別の人間が法国の動向に気づけば、ルーシェを案じて彼が来るのはわかる。問題は、トリスという彼の息子だった。父親はまだ穏健に近い。だが、トリスがもつ法国への敵意は剥き出しに近かった。ルーシェは彼と幼なじみだったが、彼の害意に晒されて、よくわからない恐怖に駆られたことさえある。法国の兵士といるこの状況は言い逃れできそうもない。

 ふたりは無言で通り過ぎていった。

「君はどう思ってるんだ」

「なにを」

 ルーシェの応対にはとげがあった。自分でも不思議なほどに。

「夜遅く、この森にシェドの民がいることの正当性について、君には何か言うことはないのか」

 兵士の右手には短剣が握られていた。

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