第2話

 同僚に問われて、モリァスは我に返った。何度も呼びかけていたようだが、モリァスは気づいていなかった。

「いいたいことがあるつらだ」といって一方的に決めつけてくるのは、ツァイという同僚だ。モリァスの二つ年上だとけいに教えられた。年よりもずっと若く見える。ツァイは、口の端を拡げて笑い、

「俺への悪口か」

 といった。モリァスは苦笑する。

「たちの悪い冗談ですね、ツァイ」

月が隠れたあとの暗闇に、モリァスの目はすっかりと慣れていた。その瞳にツァイの白い歯と暗い皮膚は、月の残照をすべて取り込んだように美しく浮かんだ。兜の端からもれた髪はまるでたてがみのつやめかしい黄色だった。雪の降らない南部の出身だろうと、モリァスは思った。それもとりわけ南の日差しの強い地域の。

 整った目鼻立ちに白い歯を見せると、ツァイは年上の女性にひどくもてた。娼館しょうかんの一帯で彼を知らないものはいない。

「よそ見してると振り落とされますよ」

「素人みたいなこというんじゃねえよ。馬にまかせておけば大丈夫なことくらい、お前も知ってるだろ」

「整地されているならいいんですけどね」

 事前に卿に指示されていた経路は、幹線からは外れている。シェドまでの道を覆い尽くす森の中を通るいくつかの細い道だ。隘路あいろの多くは、道と呼ぶこともおこがましい箇所だらけで、馬は時折、首を振って嫌がった。

 ツァイは手綱を引き絞って、モリァスと並ぶ。

「なあ、モリァス。ききたいことがあるんだ」

「なんでしょう」

「かしこまる話じゃねえんだけどさ」

モリァスはなんとなく、この先の言葉に想像がついたので、会釈に留める。ツァイは少し言いよどんであたりをうかがったあと、

「卿とは、どんな関係なんだ」

 とたずねた。

「特別扱いされているようにみえますか」

「最初から特別だったさ。俺たちの中に、卿の推薦を受けたやつなんかひとりもいない」

「副長も?」

「そうだ。まあ、あのふたりは――特別だけれども」

「恋人同士のようにみえます」

「実際のところは、俺も知らない。副官の話はいいよ。あの人はその、苦手なんだ」

 ツァイが目を逸らしたところをみると、ずいぶん手ひどく叱責されたことでもあるようだった。

 モリァスは頬を緩めた。

 獰猛そうな見た目に反して、ツァイが年上の女性から好意を抱かれやすいのは、隙があるからだろう。同性にさえ瞬く間に心を開く気にさせるというのは、一種の才能に違いないと、モリァスは思った。

「卿とは――」

 しばらく、馬の息づかいだけの夜が満ちた。言葉にしようとすると、モリァスには骨が折れる。ツァイが、モリァスの顔をのぞき込む。なにか触れてはいけないものに触ろうとしてしまったのではないかと、少しだけ後悔が瞳に滲んでいる。

 モリァスは、卿と出会った日のことを鮮明に覚えていた。街が雨に沈んでいた日で、そのことをツァイに告げると、「あの人は雨に好かれる」と答えた。モリァスも同じ意見だった。

「僕は、敗残兵でした。惨めだったのもありますが、法国が捕虜の扱いにあまり関心を払わないのも知っていたので、もしかしたらすぐに死ぬかもしれないと、考えていたんです」

「ああ、わかるよ」

ツァイは、顎を下げた。モリァスは少しだけ微笑んだ。

「捕虜検分に巡回にきたのが、卿でした」

あのとき。

卿からしたたってきた水の粒が上を向いた瞳に入った。常識的に考えれば反射で瞬きしたはずなのに、モリァスはひどく長い時間、卿の顔を眺めていたことを覚えている。最初、まなじりにたまった水が濁した卿の輪郭が、時が経つにつれてするどくきわだった。

「卿はなんて言ったとおもいます?」

「さあ。なんて言ったんだ」

「君たちには逃げる権利がある」

「ああ、あの人なら言いそうだ」

「だが、わたしの立場上、全員を逃がすわけにはいかない。だれか残るものはいないか、と言ったんです」

「まさかモリァス、お前」

「僕が残りました」

「どうして」

「理由はふたつあります。ひとつは、卿のことを信じる気になったからです。卿の部隊は驚くほど少数でした。あの人が、法王位の継承者であることを知ったのはずっとあとです。自分の目が確かだとうれしくなりました」

「もう一つは」

「僕には父がいます」

 ツァイが吹き出した。

「そりゃ、誰にだって父親はいるだろうさ」

「偉大な父がいるのです」

月の影が雲に滲んだ。モリァスが見上げるまもなく、厚い雲が視界を遮った。先を進むキルという十歳ほど年上の寡黙かもくな兵士が、二人をちらりと振り返った。

「――俺の知ってる人か」

モリァスは首を縦に傾げた。ツァイの喉が鳴った。

「トーリ殿です」

ツァイの表情が固まった。

「冗談だろ」

「冗談に聞こえましたか。でも、本当なんです」

 ツァイは声を失ったようだった。

 将軍トーリは、法国のアバンギャルドの一人だった。建国から随分と時間が経つこの国は、ここ数十年で外交の方針を、国土を拡張させる政策に切り替えた。南北を隣国と接していた法国の領土問題のほとんどは戦端せんたんによって開かれたが、その先陣を長く努めて来たのが、トーリ将軍だった。国の英雄といっていい。モリァスの優しげな眼差しが、かえってツァイの心を打ったのか、彼は、

「えげつないな」

といった。

「疑わないのですか」

うなるように息を絞ったあと、ツァイはぽつりと言った。

「その必要はねえよ。だから副官にあんなに強く当たれたのかと思ってさ」

 そうか、そうなんだな、と何度もうなずくツァイに、モリァスはふと感動した。

 こんなにもあっさりと、ことによっては重大な秘め事を漏らされて、静かに他人にかみしめてもらえるというのは、心地よいものなのだと思った。

「卿にとって特別なのは、お前の父親ってことか」

「僕の境遇を嘆いたのかも」

「でも、てことはつまり、今回はお前の親父さんと戦わなければならないってことなのか」

ひづめの音が、闇に響いた気がした。

「ツァイは――」

月の光が、ツァイの片目だけに降った。その光の反射に、モリァスは声を届けたくなった。

「優しい男ですね」

「よせよ。男に言われても嬉しくないね」

「それはそうか」

ツァイは身を寄せて、

「だけどなモリァス、女に優しいと言われるとその後が怖いんだ」

そういって笑った。

「何か高いものでも」

「買わされるんだよ」

 モリァスも口を押さえて笑った。

 先頭を歩くキルが近づいてきたのはそのときだった。二人は言動をとがめられると思い、身をこわばらせた。

キルは無言で二人を眺め、進行方向に向き直った。森が開けている。速度を落とした三人は、木陰に身を寄せて息づかいを潜めた。

待ち伏せるには、互いにいい場所だ。少なくとも、直感的な指図にせよ、教練学校の指導にせよ、およそおなじ思考を持つものであれば、ここで鉢合わせになってもおかしくない。

注意深くキルが馬を歩かせる。二人は後ろに続く。モリァスが剣に手をかけたが、ほどなくツァイが目線で制した。危険は少ないようだ。

三人が出たのは、半島を見渡せる高台だった。彼方に色の違う黒がある。海洋だろう。

「光が見える」

ツァイの当たり前のような言葉を、モリァスはどこか遠い景色の一部として聞いた。

「いこう」

ツァイがモリァスの背を叩いた。その瞬間、馬の首が震えた。一瞬目がかすんで、視界がくらんだ。モリァスの背中に衝撃がくる。

「モリァス!」

ツァイの声がこだまする。キルがその口を抑えるところをみた。大声は敵に居場所を教える。間違っていない。信頼できる人だとモリァスは咄嗟とっさに思う。

暴れた馬から距離を取る頃にはだいぶ落ち着いたが、続けざまに矢が空気を切り裂く音がした。身をよじって避けた先は、奈落だった。

ツァイの声が、耳に遠く響いた。

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