第1.5話

「こんなところにいらっしゃったのですか」

 石造りの倉庫は、湿気の中にわずかにカビの匂いが漂っていた。天窓からの明かりを頼りに、棚に並べられた行軍用の食料をけいが物色していると、後ろから声がかかった。副官のイリシアだった。

 イリシアが近づいていたことに、卿は気づいていた。彼女の足音は独特で、少し靴を引き摺るように歩く。低重心でしなやかであることが、彼女を彼女たらしめていると、卿はあきらめをこめてそう信じている。彼女の独特の身体感覚は、戦場での安定感に繋がっている。卿が敵をほふる前に、彼女の剣に沈められる相手のなんと多いことか。地に張り付いたようなあの足は、卿の命も支えている。

 卿の手もとをのぞきこんだイリシアは、ため息を吐いた。

「また規定以上の糧食りょうしょくをそんなに詰め込んで」

「規定が間違っている」

 卿は、軽く笑声しょうせいを放った。

「どうしたんだい。この時間に休んでいないと、夜半やはんの行軍はきついだろう」

「その言葉は、卿にそのまま返さねばなりません」

「わたしはいいんだ」

「もしかしてなにか優しい言葉を期待されてます?」

「それを君に求めるほど、わたしも愚かではないよ」

「ばか」

 卿は肩をすくめてみせた。卿が隊員の装具そうぐをひととおり点検するのは、いつものことだった。その作業の最中は無心になれるからだ。余計な思索はときに足かせになる。

「こうやってただ、作業だけをするのは、思いのほか心安まるものなんだ。教会で祈りを捧げているときに近い」

敬虔けいけんですね」

「さて、無心むしんの信者に対してシルウィアの守護者が微笑んでくれるかというと、どうだろうね」

「神にとっては多くの信者のうちのひとりに過ぎません」

「ひどい言われようだ」

 当直の兵士のひとりが、部屋に入ってきた。ふたりに気づき、うちのひとりが法王位の継承者であることを察すると、にわかに敬礼した。卿は笑って答礼し、

「邪魔をしてすまないね」

 と、付け加えた。彼は、恐縮と安堵とわずかな不快に口をゆがめて、いえ、と言うにとどまった。

 そそくさと退室した兵士を目で追ったイリシアは、つぐんでいた口を開いた。

「兵士の間では卿の処遇に関して、思うところのある者も多いようです」

「話題に上るだけで光栄だ。何しろ私は、そうやって認知にんちを稼ぐしかない」

 卿は、さてと、とつぶやいて腰を上げた。

「渦中の人間がこうして閉所で逢い引きしているというのも具合が悪い。少し歩こう」

「——はい」

 イリシアと連れだって部屋の外に出た卿の耳に、開け放ちの窓から城下の喧騒が届いた。長い回廊に吹き込んできた乾いた風が、イリシアの髪を舞わせる。一度立ち止まり、窓辺に近づいた卿は、民衆に目を向けた。整備された街路のなかで、右往左往する人びとが見えた。

「かれらも、今回の騒動に対して、何か思っているのかな。兵士よりも、わたしは彼らが気になる」

「何も思わないでしょう。為政いせいとはそうあるべきです」

「君の理想はいつもきれいすぎるね」

「私は、卿の本心に寄り添うのみです」

 卿はちいさく、はは、と笑った。自嘲したつもりだったが、一方で小気味良いとさえ思っていた。卿は、僥倖ぎょうこうの類をなるべく信じないようにしている。偶然の出来事が良好な結果を残したときに、次もまた、偶々を願ってしまう自分を戒めるためだ。独り身なら構わないが、部下の身を預かる人間がそれでは、配下は死地を迷う。だが、イリシアが自分の部隊に配属されたことには、何かに——それこそ、神のようなものに——感謝したくなることがある。彼女が側にいることは、偉大な出来事だ。

 ところでふたりには、当面、正視しなければならない問題があった。

「葬儀は、シェドに波風が立たないことを確認したのちに行われるようですね」

「閣下は国賓こくひんだ。長く財政を支えてきた実力もお持ちだし、盛大になされるだろう」

 卿はそれから、

「わたしもずいぶんと世話になった」

 と、独り言のようにつぶやいた。

 十日ほど前に、ひとりの貴賓きひんが亡くなった。

 異質な死に様を、卿は脳裏に思い起こす。

「自分で自分をあやめるような方ではなかった」

「——卿」

「わかっているよ、イリシア。その解釈が、いまのわたしの立場を支えていることくらい」

「そういう聞き分けの良い顔をされているようには見えませんが」

「君は——。痛いところをつく競技会があれば、常に首席にいるだろうね」

 貴賓の名は、ゼリアといい、公爵こうしゃく宰相さいしょうだった。卿の出自に比べて、公は正当な家柄で、生まれついての貴族だった。

 気苦労は多かったに違いない。卿が、行き過ぎた拡張主義だと思う外交の不備で、支出する国費が増えれば、その尻ぬぐいをするのが、ゼリア公だった。その手腕は確かで、法王の信任もあつく、戦争を仕掛けることが多いシルウィアの国庫こっこを枯らさなかったのは、ゼリア公の力が大きい。

「卿は、ご自分が異端であるという自覚が足りません」

 肩を並べて歩きながら、イリシアがいう。彼女の左鎖骨の上を、紫色の髪束が流れる。美しい髪だ。

「わたしの軍功などじつにささやかだ。異端であることを常にしなければ、誰も私の席次せきじを信用しない」

 彼女は、卿の言葉に目を丸くした。

「驚きました。まさか法王位を継承されるおつもりだったとは」

「見くびってもらっては困る。そのために、わたしはここにいるんだ」

「魔手たちも喜びます」

「どうかな。現に彼らの立場は、わたしの言動で危うくなった」

 ゼリア公は、自室で亡くなった。

 激務を苦に、あるいは、貴族ゆえの何かがあったのかもしれない。そういうとりとめのないものが積もりに積もって、彼の首を絞めたとしよう。それでも自分の首を自分の両腕が殺しうるとは、誰も思わなかった。卿にしてもそうだった。

「わたしはいまでも、魔手ならやれるだろう、といった誰かの言葉が、耳から離れないんだ」

 卿はそのとき、声の主に詰め寄って、その襟首えりくびを掴んだ。イリシアにとがめられなければ、口汚い言葉で罵ったかもしれない。

 イリシアは、止めに入ったそのときも、過去の激情に対して後悔を見せたこのときも、卿にあわれみなどみせないことを、彼はよく知っていた。彼女は表情も変えず、まっすぐに前だけを見ていた。

 長い回廊は、ゆるやかな下り坂になった。城内は軽装の兵が多い。大きな戦がしばらくなく、彼らの大半は表情も緩やかだった。その中にも、まったく弛緩しかんのないたたずまいで、日々を過ごすものもいる。法王騎士団だ。正確には予備軍で、これから昇格を待つものだが彼らだけは、態度がちがった。

「トーリ殿の威厳は、すさまじいな。北方を征圧中だというのに、ここまで覇気がみなぎっているようだ」

「将軍がいなければ、我々の立場は危うかったでしょう」

「ほんとうにそうだな」

 魔手を隊内に引き入れる手法はまれだが、これまでも存在した。だが、主流ではなかった。今でも極めて珍しいが、それは法国の人間が心身に不備がある人間を人として認めにくいという信仰的な背景のせいでもある。魔手は、能力を身につける過程で、からだの自由がうばわれること、特に四肢ししのいずれかを失う事が多かった。

「トーリ殿が魔手を重宝していなかったら、わたしは立つ瀬がない」

 法国の正規軍の中で、法王騎士団と呼ばれる精鋭には、魔手の採用がある。画期的ともいえる人事を遂行すいこうしたのが、名将の呼び声も高い、トーリだった。それまで、この国の軍隊は、魔手の効用に目もくれなかった。

「因果を変えるなどと言われても、わたしのような凡人には戯れ言に聞こえます。それに奇跡のような力を必要としないのが、大国の軍事というものでしょう」

「魔手たちが因果というには理由がある。彼らには彼らの方向と時間が存在するんだ」

「卿もご存知だとおもいますが。わたしは、見たものだけを信じます。魔手たちが見たものはわかりかねますが、あの者たちを信じることはできる。それだけで十分でしょう」

「だが、才能に対して場所を用意するのも大事な仕事だ」

「その結果、魔手の立場が悪くなったとしてもですか」

「イリシア——」

「もちろん皮肉です」

 日が傾いてきていた。卿は今日の夜半、最近法国に対しての反旗はんきが見え隠れする自治国のひとつに赴くことになっている。夜行の偵諜ていちょう業務で、隊員のほとんどはいまの時間はベッドの中だろう。そうでないと困る、と思いながら卿はイリシアをみた。

「実際のところ、君はどうおもう」

 もちろんそれは、魔手を理由に、卿に貴人殺害の疑念をかけ、あまつさえ斥候せっこうとして先陣を切らそうとしたことに対してだ。

 イリシアは、卿を睨み返し、

愚策ぐさく

 と一言だけつぶやいた。卿は急におかしくなって大声で笑った。

「そうか、それはいいな」

 この数時間後に、卿たちの部隊は、法王騎士団に追われることになる。

  

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