包丁一本

えむ

包丁一本



 大学に進学するのと同時に、一人暮らしを始めた。

 家賃だけで選んだワンルームマンションの一階。両隣には誰が住んでいるかわからない。挨拶に行こうかと思ったけれど、バイト先であるピザ屋の先輩から「逆に大学生の一人暮らしなんてわかったら宗教やら新聞やら勧誘がうるさいからやめたほうがいいよ」と助言をもらい、いまだに壁一枚隔てた向こうに誰がいるのかわからない部屋で生活している。

 それでも大家族で育った俺にとっては初めての「自分だけの空間」だと感じられて、学校やバイト先から帰ってきても居心地がいい。

 実家まで、新幹線で二時間の距離だ。当座必要なものだけを持ってきたので荷物は少ない。

 家賃は安いが意外と建て付けはしっかりしているらしく、物音もしない。もしかしたら空室なのかもしれない。だから余計に「自分だけの空間」を満喫できているのだろう。これでもし壁が薄くて両隣からの音が丸聞こえだったら、うんざりしているはずだ。


 ある日。

 学校先から直でバイトに行って、十数件の配達を終え、くたくたになって我が家へ帰ってくると、

「え?」

 ドアを開けるなり素っ頓狂な声が出た。

 玄関に、包丁が落ちていた。

 正確には、正方形の玄関……靴置き場のど真ん中に、包丁が落ちていた。刃を右側に、持ち手を左側にして。

 おしゃれでない俺は三足の靴を履き回しているのだが、靴はいつも備え付けの小さな靴箱に入れているから玄関に出ている靴はない。グレーのタイルでできた正方形のスペースはいつもガランとしている。ワンルームマンションだから玄関自体あまり広くない。だから、包丁がとても大きく感じられた。

「何これ、きもちわるっ……」

 俺は思わず後ずさった。ちょうどそのとき、こつこつこつ、と、マンションの階段を降りてくる足音がした。ドキリとして「ひょっ」といったような声が出てしまった。階段の手すりから、住人らしき男性が顔を覗かせ、俺の姿を見て怪訝そうにしている。

 さすがに初顔合わせで「初めましてこんばんは、実は玄関に包丁が落ちてまして」と愛想笑いするわけにもいかない。

 俺が小さく会釈したら向こうは無視してさっさと出かけてしまった。俺より少し年上に見えるその男の後ろ姿をすがるように見つめてしまった。彼は財布を尻ポケットに入れていた。コンビニにでも行くんだろう。

 再び、静寂が訪れる。

 しかし、包丁はそこにある。

「どうすっかな……」

 どうしようもない独り言をつぶやいた俺は、玄関の手前で足を擦り合わせすぐに靴を脱げるようにし、ドアに一番近いところで靴を脱ぎ捨て、ジャンプして室内に入った。

 着地した時、気をつけたつもりだったが、ドスンと大きな音がした。思ったよりも衝撃があった。ここが一階でよかった。騒音で文句を言われかねない。

 踵の痛みに耐えながら、肩越しにチラと振り返ると、キラリと銀色に鈍く光った。困った。包丁はまだそこにある。

 というかあるに決まってる。誰も動かしていないんだから。

 でも、一体誰があんなところに包丁を落としていったんだ……?

 俺は考えた。部屋にうずくまりながら。

 学校行く時、鍵、閉めていったっけ? 

 てか、俺、さっき鍵開けた?

 うぅぅおぼえてねぇ……。

 しかし、いま、鍵は俺のチノパンの右ポケットにある。鍵は右ポケットに入れて開け閉めしたらすぐ同じ位置に仕舞う。そんな癖が災いして、朝出かけるときに鍵をしめ忘れたのかどうか、さっき鍵を開けたのかどうかもわからない。

 鍵を閉め忘れたなら、誰かが侵入して包丁を置いていったと考えられる。

 だって、あれはウチの包丁じゃない。

 俺はすぐそばの流し台に駆け寄って、戸棚を開けた。ウチの包丁はそこにあった。お袋が「研ぐ必要がないから」と言って買ってくれたセラミック製の包丁だ。

 玄関にあった謎の包丁みたいに、刃が銀色で持ち手が木製の、よくある昔ながらの包丁じゃない。

 まぁ、自分の部屋の包丁が、玄関に落ちてたとしても十分意味不明だが。

 考えているうちに、頭が痛くなってきた。

 謎の包丁は玄関にあったそのままにして寝ることにした。

 眠れないかと思ったけれど、意外とストンと眠りに落ちた。

 今日の心理学の講義でやっていた、「睡眠は物事を適度に忘却させ脳と心を助ける」というフレーズを思い出した。現実逃避だろうがなんだろうが、眠れるのは本当に助かる。もう気味の悪いことを考え続けたくなかったから。


 翌朝。

 俺はベッドに起き上がり伸びをした。

 何の変哲もない朝だった。

 玄関に鎮座しているであろう、謎の包丁を除けば。

 ……と、気の重いことを思い出してうんざりした。

 仕方ない。消えていてくれればいいがと望み薄の期待をしながら玄関の方を見ると、

「ひゃあ!」

 俺は女のような悲鳴をあげてしまった。

 包丁が、昨日玄関に落ちていたあの包丁が、廊下にあったから。

 ワンルームマンションだから、廊下というのは間違っているかもしれない。

 玄関をあがってすぐ、細い通路のような場所にキッチン、その向かい側にトイレと風呂があり、その先に居間兼寝室の六畳間がある。今俺がいるベッドもそこにある。

 俺は、そのキッチンとバス・トイレに挟まれた細い通路のような場所を「廊下」と呼んでいるのだが、そこに昨日の包丁が転がっていた。

「な、なんなんだよいったい……!」

 そして、自分の失態に気づいた。

 昨夜。

 謎の包丁に近づくのが嫌で、ジャンプして室内に入ったから玄関に鍵をかけ忘れた。

 だから、今、ドアには鍵がかかっていない。

 誰だか知らないが、俺をおどかそうとかびっくりさせようとか思っている輩は、俺が寝ているうちに、簡単に室内に入り包丁を移動させることができたのだ。

 俺はその不審な輩に苛立ち、鍵を閉め損ねた自分の浅はかさにも苛立った。謎の包丁は、窓から差す陽の光に反射して刃をキラキラさせたので余計に苛立ちがつのった。

 その苛立ちが恐怖心を鎮めてくれた。それでも移動した謎の包丁を拾う気にはなれなかった。ちょうど、昨夜と同じように、横向きに、廊下を横切るようにして置かれていた。その向きもまた、恐怖心を和らげるのに役立った。縦方向、つまり廊下の向きに沿って置かれていたら、まったく印象が違ったと思う。もし、刃先が居間兼寝室に向いていたら……俺は、そのまま包丁がフローリングをするすると滑り

、ベッドで眠る自分に突き刺さるイメージが湧いた。鳥肌がたった。向きが違うだけでこんなに恐怖感が違うものなのか。

 俺は、包丁をまたいでトイレに入りシャワーを浴び、また包丁をまたいで着替えて、居間の窓の鍵がきちんとしまっているかチェックをし、冷蔵庫から牛乳をパックのまま飲み、また包丁をまたいで学校に出かけた。

 今度は鍵をかけるのを、決して忘れずに。


 今日はバイトがない。

 授業が終わってホームセンターに寄って、そのまま帰宅した。

 ホームセンターでは厚手のゴム手袋と黒いビニール袋を買った。あの謎の包丁を片付けるためだ。ゴム手袋を重ね付けして、ビニール袋も何重にもして、上から被せるように包んで、他のゴミの中にしのばせて、燃えるゴミの日に捨ててしまおうと思っていた。燃えないゴミの日は、二週間に一度しかない。しかもつい最近収集日があったばかりだ。ゴミ屋さんには分別を無視して申し訳ないけど、とにかく早く、包丁を自分の家から引き離したかった。

 片付けよう、と心が決まると行動も迅速になる。

 俺は、鍵を開けてすぐに室内に入った。

「あれ……?」

 包丁がない。

 今朝、あったはずの場所に。キッチン前の廊下に。

 すべて夢だったのか……疲れてたのかな……それともおどかそうとした輩が反省して回収していったのか……いや、鍵をかけてあったんだからそれは無理だし……などと、脳内にさまざまな思いがごちゃつく中、目線を上げると、

「……っ!」

 声にならない悲鳴というのを初めてあげた気がする。

 居間のテーブルの前に、包丁は、あった。


「なんなんだよなんなんだよ、なんなんだよこれ!!!」

 俺は靴を履いたまま廊下に滑り込むようにし、のたうちまわった。

 しかしすぐにガバッと起き上がった。

 今朝まで、ここに包丁があったと思い出したから。

「ひー!」

 体をこする。

 

 玄関にも窓にも、鍵はかけてあった。

 じゃあ……間がられることはひとつ。

 包丁が、みずから動いた……

「って、そんなわけねえだろ! 心霊現象か!」

 声が裏返った。

 結局その日は、包丁を入れて捨てようと思っていた黒いビニール袋を、そのまま居間のフローリングにかぶせ、包丁が見えないようにした。ビニール袋をかぶせる瞬間、包丁の向きが少し変わっているように感じた。

 夜は、廊下にうずくまるようにして寝た。うとうとしては起き、起きてはまたぎゅっと目をつぶって。もしも包丁が動いているならその現場を見つけてやる、なんてことが思い浮かんだが、もし本当にそんな現場を目の当たりにしたら……無理だ。狂ってしまいそうだ。だから俺は逃げるように眠った。

 

 翌朝。

 最初、部屋のどこにも見当たらなかったから、昨夜と同じ位置、ビニール袋の下に包丁があるに違いないと思った。

 すると心とは面白いもので、昨日もきっと、窓の鍵を閉め損ねたんだ、あるいは玄関の鍵を閉めなきゃしめなきゃ、と焦りすぎて二回まわしてしまったに違いない、つまり玄関は開いていたんだ、だからまた誰かの侵入を許してしまったんだ……なんて論理が構築されていった。心を正常に保つためならどんな事実をも捻じ曲げる、と、心理学の授業でやったっけ。

 やっぱり包丁が動くなんてありえない……と勝ち誇ったように部屋を見渡したとたん。

 黒いビニール袋の先、テーブルの下で、俺は包丁を見つけた。

 意外にも、悲鳴は出なかった。

 多分、感情もほとんど動かなかった。

 ただ、ああ、そこに移動したのか、とだけ、言葉が頭に浮かんだ。

 包丁は明らかに向きを変え、部屋の東南……テレビのある位置を指していた。
 指している、というのも当てはまらないかもしれない。ただ、刃先がテレビの方を向いているというだけだったから。しかし俺には、包丁が意志を持って東南の角を指しているような気がしてならなかった。


 次の日もその次の日も、包丁は歩みを進めた……というのもおかしいな。ただ、夜のうちに一メートルほど、移動しているだけなんだ。しかしやはり、俺には包丁に人格があるように思えた。


 今朝は、右側の壁の角に、包丁がピタリと挟まるように落ちている。

「引き払うときにさ……金かかるからさ……キズはつけないでくれよな」

 と俺は包丁に向かって、何の感情も込めずに言った。


 夜、バイトを終えて帰ると、マンションの前がすごい人だかりになっていた。

 パトカーが二台と、消防車が停車しているのが見えた。俺がマンション前に着くのと同時に、救急車がサイレンを鳴らして走り始めた。


「このマンションの方ですか?」

 警察官に呼び止められた。警察手帳って本当に縦に開くんだなと思った。

 部屋番号を聞かれ、答えると、

「あなたの右隣のおうちで、ご遺体が発見されました。何か気づいたことなどは?」

「いいえ、何も」

 驚くほど淡々と答えていた。

「かなり異臭が出ていたので近隣から通報があったのですが気づかれませんでした?」

「いいえ、まったく」

「そうですか」

 警官は持っていた手帳に何やら書き込み、

「いわゆる孤独死とみられますが、こんなこと言うのははばかられるんですが原型をとどめていないほど時間がたっているので事件と事故両方の可能性で調べを進めます。何か思い出されたことなどありましたら、最寄りの交番までご一報願います」

「わかりました」

 会釈して自分の部屋に向かおうとする。

 初めて異臭が鼻についた。

 なぜこんな匂いに気づかなかったのか。

 もしや、と思って俺は振り向き、警官に尋ねた。

「その方は、俺の部屋の……、いえ、その方の居間の『左側の壁の隅』でなくなられていたのでは?」

 警官は目をぱちくりとし、

「……そうです」

 すぐに警察らしい鋭い目になった。怪しまれる。

「そういえば、俺の居間の右側から異臭がするなぁと思い出したもんですから」

「そうでしたか」

 警官は無表情に戻って、言った。


 俺は部屋に入った。

 包丁は相変わらず、東南の壁を指していた。

 なぜ包丁が遺体のありかを示したのかはわからないが……

 急に思い立って、窓を開けた。

 右隣のベランダは、警察がどやどやと出入りしているが、こちらは静かなものだ。右隣とは緊急用の壁で仕切られているが、その隙間に紙切れが挟まっていた。

 紙切れには、みみずののたくったような字で……

「つぎはおまえだ」

 

「なんだよ、そういうホラーっぽいのやめてくれよ……」

 つまらないいたずらだと思って紙を丸めて放った。

 室内に戻る。窓を閉める。

「とりあえず、包丁をなんとかしなきゃな」

 と、居間の床に横たわる包丁を見ると。

 切っ先が、俺の方を向いている……。


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