第3話 文章を書くということ

 「何か作りたい」と思う事がある。それは、小説やエッセイのような文章かもしれないし、ホームセンターで木材を買ってのDIYかもしれない。3DCGかもしれないし、ソフトウェア、あるいは料理かもしれない。ただ漠然と何かを作りたいと思うことがある。

 そんな時、文章というのは簡便で良い。最悪、紙と筆記具さえあれば事足りる。長さも内容も自由であり、ことさら特殊な技術を要しない。万人に開かれた創作の場であるように感ぜられる。

 しかしながら、始めるのが簡便であること、いざ何かを書こうとすると筆が進まないといことは両立する。選択肢が多いが故に何を書けば良いのか分からないし、書いたところで何の価値があるのかと思ってしまう。理性では「この文章は自らの欲求のために書くのである」と思っていても、心の片隅では共感して欲しい気持ちがある。結局、この文章も、そのもどかしさを文章にして表現せしめんとするところであり、文章を書く行為に対する己の中で腹落ちする局所解を探さんとする散文である。


 ここでは以下の3つの文章について、それを書くという行為について今の所感を記したい。1つは現実に則した文章、2つめは現実から離れた文章、3つめは言葉を巧みに使うこと自体に趣を見出した文章である。この分割は全く以て一般的な分類ではない。さらに言えばこの3つの特徴を包含する文章も存在するはずで、3重のベン図を想像してもらえば良いだろう。

 この区分は全ての文章を3つに分類しようなどという試みではなく、文章を書くことを考えた時に、この3つが思い浮かんだだけであることは、予め申し添えておきたい。

 その上でこの区分についてもう少し述べると、現実に則した文章とは例えばエッセイや評論、現実から離れた文章はフィクションと呼ばれるものである。この違いとして、現実に則した文章は現実世界を入力とし、それに対応する書き手の心の働きを文字に吐きだす一連の『作業』であるのに対し、現実から離れた文章は文章の起点となる入力を自らの中に求めるものであると考えている。自らの中で生成される入力の例は、読み手に楽しんで欲しい気持ちかもしれないし、書き手の理想の世界かもしれないし、世の中に伝えたい想いかもしれない。この文章では、文章の種が心の外にあるのか、中にあるのかで区分したのである。

 なお、私は基本的に1つめの現実に則した文章以外はあまり書くことがなく、この文章でも後半2つの文章に関しては、所感と悩みを出来るだけ詳細に記述しようと試みるものであって、そのような文章を書く人からすれば、読むに堪えないかもしれないことは予め述べておきたい。



 現実に則した文章とは、例えば北大路魯山人の鮎に関する文章などが頭に浮かんでいる。この文章自体も現実に則した文章である。自らの精神世界を文章にせんとするものであり、それは現実世界に根差したものである。広くはブログと称される文章も多くこの類であると思う。

 何故現実に則した文章を書くのか、数多の考えがあることは百も承知であるが、その上で自らについて思い返せば、形として残したい、頭の中を整理したい、共有したい、認められたい、という気持ちであることが多い。

 形として残したい、頭の中を整理したいというのは、兎角人間の頭というのは物事を忘れやすく曖昧で、あてにならないからである。物事を考える道筋などは時間と共に変化するのが常であり、昨日今日で物事の受け止め方は変化するものである。そんな時に、流れゆく思考のスナップショットを残すことが出来るのが文章である。これには副次的な効用もあり、文章にするとそれまで思ってもいなかった発見があったりする。頭の中の思考は、中心部だけはきれいに筋が通っているように見えるかもしれないが、その周りというのはピンボケが激しく、ぼんやりとしている。そんな思想を端から端までピントのあったスナップショットに落とし込もうとする時、思考の穴に気が付き、それが新しい問いとなってより深い思索へと誘われるのである。柔らかなたんぱく質のネットワークから現実世界に思想を顕現せしめん時、輪郭明らかになり、整理されたものになる。これが第一の、そして最も大きなこの種の文章を書く動機である。

 次に、共有したい、という気持ちである。これについて考える時、よく脳裏によぎるのは徒然草である。当時から歌人として知られていた兼好法師が記したとされる文章は美しく、私のような名もなき人間が自らの行為をなぞらえるなど噴飯ものであるが、「見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」との言には心から同意するところであり、文章にして残すことで、いつの日か、見ぬ世の友人が思いを共有してくれるのではないか、という淡い願望がある。これが第二の動機である。

 最後に、認められたい、という気持ちである。気恥ずかしくて明文化すら憚られるが、「この文章を書ける自分格好いいだろう?」という気持ちも奥底にあるように思う(冷静に考えて、格好つけて文章を書いているだけであり、別に格好よくなどない)。それは紛れもなく承認欲求であり、未だに正しい向き合い方を知らないものである。これに関しては長くなるので別の機会に記すことにする。兎角、そういった気持ちがあることは確かであり、最後の、小さな動機である。


 次に、現実から離れた文章についてである。例えば、西村京太郎サスペンスであり、川原礫のSAOである。私はあまりこの種の文章を書かないが、心の中では書いてみたいと思っている。

 なぜ書きたいと思うのか、それは素直に好きだからである。特に、読み手の心を動かす働きの凄みに感嘆する。自分の心ですらよく分からないと思い悩む日々がある一方で、いざ物語の手にかかれば揺れるグラスの飲み物の如く、良いように心を弄ばされてしまう。言葉で構築された世界の中に意識は首ったけになり、登場人物に感情を移入し、喜怒哀楽を共にする。勇気づけられ、考えさせられる。この人の心を動かす働きを持つ存在を自らの手で生み出すことが出来れば如何に楽しいだろうか、そう思うからこそ、現実から離れた文章を書きたいという思いがあるのである。

 ではなぜ書けないのか。それは、気恥ずかしさが大きい。現実に則した文章は、(この文章のように)抽象的な事象をそれっぽい形にしてやれば、それなりのしたり顔ができるのに対し、現実から離れた文章は、えてして書き手の脳内をより生々しく読者の目前に提示するように感じている。その文章を書こうとする動機、例えば承認欲求、あるいは理想の世界など内なる入力を文章の種として要する一方で、文章自体が現実世界とは違う閉じた世界を構築するために、この文章のように現実世界の自分の動機に簡単に言及することは出来ない。結果、文章からにじみ出る書き手の動機を読み手に感じ取られるだけで、自ずから弁明出来ず、心中を見透かされるような気恥ずかしさを感じてしまうのである。

 幼少の頃はただ楽しさを以て物語を紡ぐこともあったが、年を重ねるごとに中途半端に格好をつける実用の人間になってしまった手前、現実から離れた文章を書くことに気恥ずかしさを覚えるようになってしまったのである。結局、どのようにして自らを起点として文章を紡ぐ事が出来るのか、この年にして未だ要領を得ずとなってしまった。

 つべこべ言わずに書くべしとの意見もあろうが、それはもう仰る通りですとただ叩頭するばかりであるし、現実から離れた文章を書くに能う諸君におかれては、そのタネを少しでも分けていただきたい所存である。


 最後に、言葉を巧みに使うこと自体に趣を見出した文章である。これは俳句や和歌などを想定している。ここでは前述の2つと比べると特に文字数の少ないものを想定していることを断っておきたい。理由は、私がそのような作品を特に好むからである。

 例に挙げた和歌や俳句の個人的な認識は、固定された文字数の中に如何に情景を詰め込むかを以て発展した世界であり、小籠包の中から餡の旨味が溶け込んだ金色のスープがあふれ出るような、六方最密構造のような、大容量のUSBメモリのような、表面的な面積の少なさの裏に広大な世界を抱えている、その奥ゆかしさの世界を私は楽しいと感じている。

 この世界を生み出すには言語を巧みに運用する能力が必要であり、かつての歌人たちが遺した作品に散りばめられた鮮やかな技巧の数々は、唯々感嘆するのみである。

 例えば本歌取りは、5字から12字で31字分の世界を内包することが出来る技法である。これは廃墟を見た時に当時の人々の生活が想起されるような、パロディーを面白いと感じるような、そのような心の動きと根を同一とし、文面に時間軸という奥行きを与える。また伊勢物語の「かきつはた」で有名な折句も、文字面の意味以上のものを巧みに込めるもので、その文章から想起される世界はたった31字とは思えないほどの奥行きを生じせしめる。これは、お菓子のパッケージの文章を読みながら食べるような、数式の中のωが顔文字に見えるような、文面には直接現れない軸をその世界にもたらす楽しみがある。これらは、自ら書いて嗜みたいと欲せども、今はただ自らの非力に打ちひしがれるのみである。



ここまで、3つの種類の文章を書くということ、それに対する今の所感と悩みを吐露した。結局のところ、この文章は、良い文章を書ける人はすごい、自分でも書けるようになりたいという非常に素朴な気持ちを出来るだけ正確に整理して書いてみようという試みに帰着した。これは書き始めには半ば想定していなかった帰着であり、現実に則した文章の際に述べた動機とその副次的な効用を体現した形となった。

 但し、良い文章でなければいけないなどとは一切思っておらず、全ての文章はその存在を許されている尊いものであると考えていることは附しておきたい(そもそもこの文章は徹頭徹尾、駄文である)。

 これを以て、今の自らの文章を記すに対する所感としたい。


「何かを作りたい」欲求は、少し、この文章を書いたことで発散できた気がする。

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