本棚の欠けたところに月光のなみなみ注ぐ初恋しづか

quiet

本棚の欠けたところに月光のなみなみ注ぐ初恋しづか



 夜しかない町では、学校へ向かう列車の窓から大きな月が見える。

 私はたったそれだけのことで、この町を嫌いじゃないと思っている。引っ越してきてたった半年くらいでえらそうな物の言い方かもしれないけど、お父さんは一ヶ月、お母さんは二ヶ月で参ってしまっているんだから、ちょっとくらい胸を張ったっていいと思う。

 地球から少し外れたところにあるこの町は、太陽から身を隠すように地球の背中にぴったり張り付いて動くから、夜空にいつまでも濃紺を筆で引いたような色を湛えている。そして一ヶ月のうちの半分くらいの間、地球上から見るよりも少し大きな月が、淡い光を添えている。

 この町の人たちは、みんなやけに静かだ。地球の中央線と比べるまでもなく、がらがらの列車内。私と同じ学生服の姿も見えるのに、みんな、眠りの底から湧いたお湯に足を浸しているような目つきで、がたんごとん、揺れるのに合わせて身体を傾けている。

 列車が止まると、誰の声もしないままに扉が開く。『学校』と電光表示に流れていくのを見て、私は降りる。

 何人か、他の学生服の人たちがいて、一緒に降りたりもした。

 降りなかった人も、中にはいた。



「この間さ、降りはぐっちゃったんだよ」

 小さな図書室の片隅で、先輩が言った。

 今日の授業は自習になった。月に近いこの町は、教師と相性が悪い。私が知っている限り、月の一巡りを見届けたことがあるのは美術のヒカミ先生だけ。若い女の先生で、長い藤色のスカートがよく似合う、穏やかと頼りないの中間くらいの人。それ以外の人は地球か月かのどっちかにすぐ移っていってしまうから、生徒が来ても先生が一人もいない、今日みたいな日がよくある。ヒカミ先生まで来ていなかったのは、たぶん寝坊だろう。この町が長い人は、時間の感覚が曖昧になる。

「降りはぐったって、列車ですか」

「そう。あの得体の知れないオーパーツ」

 先輩は、この町に長く住んでいる人にしては珍しく、よく喋る。

 自習の日の生徒たちは、それぞれがそれぞれの縄張りに散っていく。生徒の数に対して無闇に面積の広い学校だから、誰にだって自分だけのお気に入りの場所がある。私もその例に洩れないし、こうして図書室で静かに本を読んで時計の進んでいくのをそのままにしているんだけど、先輩は違う。この人は他の人の縄張りにずかずかと踏み込んでくる。逃げても無駄で、隣の図書準備室に隠れてみたってすぐに見つかってしまう。前に一度だけ、そういうことがあった。私だって三ヶ月通ってようやく出入り口を見つけたような、わかりにくい場所にあるのに。

 わざとやっているのか、それとも縄張りがどうとか、ということすら頭にないのかは、よくわからない。先輩は初夏の若木のように痩せた背の高い人で、いつも着ている灰色のカーディガンに包まれた背中が平らで、硬く見える。いつも少しだけ笑っているような顔は人懐っこく、無神経にも見えるけれど、先輩が図書室の棚を整理しているときに目にするその背には、どこか突き放したような寂しさがある。

「学校の先まで行ったの初めてだったからさ、焦ったよ。全然駅に着かないし」

「行ったことなかったんですか? 先輩、長いからてっきり」

「ないって。おれ、電車の中で寝ちゃうタイプなんだよ。学校くらいなら大して危なくないけどさ、その先になるともうダメ。うっかり月まで行っちゃうかもしれない」

「学校からどのくらいでしたっけ」

「三十分」

「え?」

 顔を上げながら栞紐を下ろしている自分に気付いて、がっかりする。いつもこうだ。先輩と話していると、よく集中を切らす。別にこの人と話すのが嫌なわけじゃないけれど、こういうのは自分が本を読むことにかけている気持ちが薄っぺらだと言われているようで、虚しくなる。棚の前に屈みこんだ先輩が、まるでこちらを見ないままに本の整理を続けているのも、自分だけがペースを乱されているようで、気に食わない。

「そんなに近くはないでしょう」

「着くまではな。でも、月の前の停車駅までは三十分で着くから、そこで降り損ねるともうダメだよ。泣いても笑っても、もう戻れない」

 泣いても笑っても、と言った声は平らかだった。いつもの、おはようとかそういう挨拶と同じ声。ときどき怖くなるのは、この人が何でもないような気持ちで怖いことを言っているんじゃなく、冷たい気持ちで何でもないことを口にしてるんじゃないかと想像すること。

「ちゃんと起きられてよかったですね」

 なぜだか、しばらく返事がなかった。

 おう、でも、うん、でもいくらでも応えられそうな、当たり障りのない言葉に、どうしてか先輩の背中は固まって、動かなくなっている。

 気にはなったけれど、わざわざ問い直すような言葉でもない。栞紐を上げて、少しだけ、窓の外の月の窪みに目を留め置いてから、また視線を下げる。紙面の上で次に読むべき文字を捕まえるまでの間、やっぱり先輩は喋らなくて、一頁、ぺらりと私の捲る音に隠すように、ようやく言った。

「……どうかな」



 夜しかない町にも名前くらいはある。

 だけど、実際に住んでいる人は、すぐに出ていってしまう人を除けば誰もその名前を呼ばない。ひどい冗談か、嫌味みたいな名前だから。

 この町は、宇宙からいきなり完成品としてやってきた。

 地球に間違いなく衝突するだろう小惑星、と思われていたのが、近づいてくるにつれてゆっくりと減速して、地球が乗っかっているのと似たような軌道にするりと収まった。地上の人々がほっとしたのも束の間。望遠鏡でちょっと覗いてみれば、そこには人が作ったとしか思えない現代的な街並みがあった。そして知らない間に、太平洋の真ん中にある底知れないほど深い海溝から始まって、飛来した奇妙な町を経由して月まで届く、列車の線路が渡されていた。

 学校も、列車も、私がいま家族と住んでいる家も、すべて最初から出来上がっていたものだった。

 宇宙人からの贈り物だと言う人たちがいた。宇宙人、という言葉を神様や古代文明に変える遊びも流行ったらしい。だけどそのプレゼントの送り主が誰か、なんてことはそのプレゼントをどう使うか、という問題の前には取るに足らないことで、エレベーターに乗り込んで高層ビルの最上階へ向かう子犬みたいに、人はこの町を目指した。

 移り住むのは簡単だった。太平洋の真ん中にある駅から、乗り込んでいくだけ。ただし、帰るのはすごく難しい。列車は地球から月までを導いて、逆向きには決して走らない。片道切符の旅に乗り込んでしまった勇気にまみれた最初の人たちにもう一度地球の土を踏ませるために、優しさと計算を呑み込んで、宇宙科学は急速に発展した。けれど、第二陣がこの町に着いたころ、食料も住環境も整っているはずのこの町には、ただの一人も、亡骸ひとつ残さずいなくなっていたのだと言う。

 列車に乗って月に行ってしまったのだろうと、みんなは思っている。

 月まで行って、帰ってきた人を誰も知らない。月から帰ってくるための気軽な技術がないのもそうだけど、それに加えて、不思議と列車の到着先は望遠鏡では見えない。私たちがいま望遠鏡越しに見る月の模様は、ずっと昔のものとそっくりそのまま、変わっていない。

 天国に似ていると言う人も、いることにはいる。

 そういう人が、この町に名前をつけた。



 きっと私はこの人が好きなのだろうけど、言葉にするにはまだ淡すぎる気がする。

 そんなことを思いながら読み進める頁は、当然、まるで頭に入ってこなくて、仕方なく栞紐をもう一度挟む。表紙を閉じたときには、どんな話だったのかも忘れてしまった。

「暇なんですか?」

 話しかけた。いや、と控えめな声が返ってくる。どう見ても暇なのに。

 先輩は、たぶん趣味が一つもない。縄張りを持たないというのがその現れに思えてならない。何か一つ、これだけはというものがないから、ふらふらと人と人の間を行き来している。

 そして趣味を作ろうとすることもしない。先輩は図書室に来ても本をろくに読まないで、隅から隅まで本棚を整えるようなことばかりしている。司書の先生なんてもうずっといないし、さぞ整えがいがあることだろう。この月に近い町に移住してきた人のうちで、すぐにいなくなってしまう人たちは、最初に図書室に来て、本を返すこともしないまま消えてしまうような人が多く、本棚は隙間が空いて、欠けて、段々とみすぼらしく変わっている。

 先輩は、それを組み替えて、隙間を埋める。本を読むのではなく、ただその位置だけを変えている。

「何か、読んだらいいじゃないですか」

 親切心で言ったのか、それとも下心だったのか、自分でもわからない。でも、どちらにしても私はどきどきしている。他人に近づこうとすることは、恐ろしいから。

 いや、と先輩はもう一度言った。その一言はたったいま頭に浮かべていた本のリストを破棄させたけれど、同時に私を安心させもした。

 そうして先輩は、また静かになった。

 珍しいことだと思う。普段の先輩は、この町の人とは思えないくらいによく喋る人だから。鬱陶しくて、触れたくなってしまうくらいに。

「どうかしたんですか」

 話さないだけじゃなく、同じ棚の前でまるで動かなくなってもいたから、そう聞いた。他の人がやる分にはよく見る光景だけど、先輩がやるのは、ちょっと不気味だ。

「……俺さ、帰ることになったんだ」

 初めは、何を言われたのかがわからなかった。

 その次は、何を言うべきかがわからなかった。

「そうなんですか」

 だから私は、とりあえず自分のことを話して、その場を繋ぐことにした。自分は父の転勤に伴ってここに来ていること。たぶんまだしばらくいるのだろうけど、父が精神的に弱っているので、ひょっとするとある日突然ここを去ることになるかもしれないということ。昔は大人しい子だと家庭で世話を焼かれていたのが、ここに来てから妙に頼りにされて、正直ちょっと気分が良いということ。そして、勇気を振り絞って、こう言って締めた。

「少し、寂しくなりますね」

 大きく先輩の背中が震えたのを見た。

 たったそれだけのことで、勇気の甲斐があったと思わされる。

「寂しい?」

「ええ、まあ。ちょっとくらいは」

「……お前でも、そういうの、感じるんだな」

 なんて失礼な物言いだろう、と大袈裟に受け取ることはしない。この町でおかしくなる人は、きっと地球が恋しくて、地球の人たちが恋しくて、自分を温めてくれていた太陽が恋しくて、その寂しさが強い人たちなんだと、自分でも思っていたから。

 ここでの暮らしを苦にしない人は、寂しさと手を繋がない人たちだ。本当のところ、私が口にした「寂しい」も、恋しさを表すための言葉ではなくて、純粋に、あなたが好きだと遠回しに伝えるための言葉だった。

 私の「好き」は、本で読むのと比べて、すごく淡い。私は何かを、先輩に求めてはいない。ただ、好きということが伝わればいい。伝えるのは、すごく難しいことだけど。

「いつごろ帰るんですか」

「十日後」

「ずいぶん急ですね」

「おれも親の都合だよ。逆らえない。……んで、さ」

 先輩が震えたような声でいうものだから、身構えてしまう。

「出ていく前に、ここの本棚の整理、やっちゃいたいんだよ」

 だから、その続きのあまりの素朴さに、拍子抜けした。

「なんですか、それ」

 私にしては珍しく、ちょっと笑いながら言う。だって、こじんまりしすぎている。そんな、休日に出かける前に部屋の掃除をしておこうみたいな、ささやかな話が、願望がくるとは思ってもみなかった。

「笑うなよ。まじめなんだ」

「ごめんなさい」

「でさ、ちょっと頼みたいんだけど。図書準備室に余ってる本がないか、見てくれないか?」

 私が首を傾げると、それが見えているわけでもないだろうに先輩は、

「足りてないんだよ、本の数。ここにあるやつだけで済ませてもいいんだけど、隙間があると気持ち悪い」

 おれは、と短く付け足したのが、自己主張なのか遠慮深さなのか、曖昧でおかしい。

「いいですよ」

 私は快く席を立つ。

 最後なのだ。おひとりでどうぞ、なんて冷たいことを言わずに、素直に年下らしく従ってあげることも、悪くはない。

 それに、本当のことを言ってしまえば。

 私は先輩と肩を並べて、何かをしてみたかったのだ。

 ずっと、あの平たい背中を見ながら、触りたいと、そう思っていたのだ。

 図書準備室は、図書室の奥に出入り口がある。海外文学の棚、その奥。空っぽの、骨ばかりになった本棚と本棚の間に、ひっそりと佇んでいる。鍵は、前に入ったときにはかかっていなかった。

 ドアノブをつかめば、きい、と古びた音を立てて、そっと回る。

 闇の中で、藤の花が咲いていた。

 ん、と流石に声に出た。

 床に倒れていた。ヒカミ先生が。無造作に転がされた人形みたいに、ほっそりとした手足を放り出して。

 私の側に、足がある。奥に顔。開いたドアの隙間から零れ落ちる月光がそれを照らせば、冷たい頬、閉じられた瞼、長い睫毛、色のない唇、唾液の乾いた跡。

「付き合ってたんだ」

 先輩が言った。

「少なくとも、おれはそう思ってた。知らない土地で、こんな、夜しかないところで寂しくて、それで」

 電気を点けようか、迷った。

 はっきりとは見ない方がいいだろうとわかるのに、私が見てあげなければ、この人はもう誰の目にも触れないのかもしれないと思うと、指先が、スイッチの上で躊躇う。

「帰ることになったって言ったんだよ。そしたらさ、その人、なんて言ったと思う? うん、って。それだけだよ」

 先輩はいま、まるで違う人の声をしていた。

 濡れた声。この町から、すぐに出ていってしまう人の声。

 寂しがっている声。

「悲しむでも、喜ぶでも、どっちでもよかったんだ。行かないで、って言ってくれたらうれしいし。それにおれ、この町が嫌いだったから。よかったね、って言ってくれれば、こんなところもう戻ってこない方がいいよって言ってくれれば、それでよかったのに」

 それだけで、よかったのに。

 私は何も返せないでいる。

 カッとなったのかな。覚えてないんだ。気づいたら死んでて。そこに。先輩はそんなことを言う。私も、ヒカミ先生も動かない。首に痣があるのを見つけた。時計の音が、いま初めて、よく聴こえる。

 私は振り向きすらしない。

「どうしようって思って。どうすればいいのかな、おれ」

 どうしたらいいんだろう。そう、言う先輩の声。

 この人はずっと昔におかしくなっていたんだと、今さらわかった。

 もっと早くに知っていたところで、私が何かできたとも、何かをしたとも思わないけど。

 何かを手酷く失った気が、強くしていた。

「馬鹿だよな。せっかく地球に帰れるのに、こんなことして。もうどこにも行けない」

 人に近づくのは、寂しかったから。

 喋るのが好きなのは、怯えていたから。

 突き放すような背中は、隠していたから。

「お前も困るよな。こんなの言われてもさ。でも、ごめん。おれもう、耐えらんなくて。耐えてたんだけど、お前に寂しいとか、言ってもらって、それで」

 もっと早くに、こんな場所から出ていけばよかったのに。

 この町に住めないなんて、いいことに決まっているんだから。

 どうしてこの人は、もっと不器用になれなかったんだろう。息苦しく感じているはずの場所で、先のない息継ぎなんかを覚えて、それでどうしてこれからも生きていけるつもりでいたんだろう。

「お前のこと、好きになればよかったなあ」

 もう少しだったのに、どうして最後に、こんな。

「月は、」

 ようやく、私は口を開く。

 声になっているかを確かめるために、喉に手を当てながら。指の震えるまま。

「まだ誰のものでも、ないそうです。それに、誰が行っても、誰も帰ってこられない。だから、その、」

 言っていいのかわからなかった。

 それでも言うのは、どうしてだったんだろう。

「いまなら、逃げられますよ」

 雪のような静けさの後に、放課後のチャイムが静かに鳴った。

 図書室にはもう私一人しかいなくなっている。もう一頁だって進められないだろう本に、諦めて栞紐を戻す。先輩は、私の手を借りないまま、ヒカミ先生と一緒に去っていった。

 ありがとう、と言い残していった。

 ありがとう、と言われなかっただろうヒカミ先生が少しだけ羨ましくて、私は結局ずっと、先輩の背中ばかりを見ていた。

 席を立つ。私は明日もここに来るんだろうか、と考える。でも、明日のことは、明日になってみてから考えるだけでいいのかもしれない、とも思う。背表紙を見ながら、返すべき棚の前に、私は向かっている。

 そのとき、頬に光が差して、顔を上げた。

 本棚の隙間から、窓が覗いている。そしてその窓の先にある大きな、欠けた月も、はっきりと。

 ずっと、気づいていなかった。先輩がいつも本棚を動かしているものだから。

 こんなに、この部屋の本棚が欠けているなんて。

 こんなに寂しい光に溢れた部屋だなんて、そんなこと。

 その光の窓のうちの一つに、手にした本で蓋をする。でも、たった一つくらいじゃ、何も変わらない。次から次へと、尽きることなく、月光はこの部屋に、学校に、町に注がれていた。

 この部屋から持ち出された本のことを思った。

 そして、その本を持ったまま去っていった人たちのことを。

 人なんて、いればいるほど寂しいだけだって、そこでようやく、ようやく、私には、わかった。

 列車はないから、私は歩いて家まで帰る。長い長い時間をかけて、この月に背を向けて、私は歩いて、家まで帰る。

 少しだけ、地球が恋しくなった。

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