会ふ
猫杓子定規
逢ふ
厳然とぼくの脳髄を支配しているのは、「前に進まねばならぬ」という一種の呪いのような意志だ。実際にそうでなければ取り残されてしまう。誰も落伍者なんかにはなりたくない。もちろん道には茨が生い茂っている。足からとめどなく血が流れるのも構わずに。後ろを見ることなんて、できやしない。
部室に備え付けられているテレビでは宇宙の始まりやらなんやらといった難しいことを綺麗なアイドルと頭の良さそうな博士が延々と論じている。博士は到底誰にも理解し得ない数式やらなんやらを長々と語り、アイドルはそれをさも理解したかのように一言でまとめている。曰、宇宙は無から始まった。無とはそのまま、何もないことであると。
「先輩…ねぇ、先輩!」
「ん?」
ぼくは顔を上げる。ぼくのことを先輩と呼ぶからには、この澄んだ声の主はぼくの後輩であるということに他ならない。顔を上げる。夕日の橙色の光がなんとも眩しい。
「ん?じゃないですよ。とにかく、今日はコンテストの原稿締切日じゃないですか」
「ああ、そうだったね」
文芸部。ならば何かしらのコンテストに脳髄から吐き出されてきた何かしらの文字列を投稿して何かしらの結果を残したりなんかするということだろうか。ぼくはたまにどうしようもないほど頭の中で文字が縺れ、絡まり、巨大な嵐となってしまうことがあるのでそれをパソコンの上に吐き出しているだけに過ぎない。
「また、そんなことを考えてるんですね」
「まあ、ね。楽しいからやってるってとこもあるけども」
いつの間にかにテレビはビッグバンの話を始めていた。宇宙は急激に膨らんで、とにかくあり得ぬ熱に包まれたそうだ。影がどんどん長くなる。窓枠と太陽の高さがちょうど一致した。
「そういえば、姐さんは脱稿祝いだのなんだのって言って、お茶とお菓子を買いに行きましたよ。先輩がそうやって座って何かに思いを馳せていた時に」
「何を買ってくるのかなあ。やっぱり王道のポテチかなあ」
ぼくはようやく立ち上がった。緑色の布の下に隠れている人工綿がぼくの尻を勢いよく押した。凝り固まった体をほぐす。軽い立ち眩みを感じる。運動不足だろうか。週に二度、一度六キロのマラソンでは不十分だというのか。聖書の最初のほうにある「光あれ」とはビッグバンのことだったのだろうか。
「姐さんに限って、それはないですよ。きっとヘルシーなもの―そうですね、麩菓子とか!」
「わかるよ。買ってきそう」
僅かだけ笑みがこぼれる。麩菓子が果たしてヘルシーかどうかはこの際どうでもいい。満面の笑みで麩菓子と緑茶を抱えて戻ってくる姐さんの姿が何よりも楽しい効果を生み出していたようだ。宇宙は丁度、素粒子のシチューと成ったころである。窓枠に腰かける。太陽の光は制服のベルトを照らしていた。
「疲れるなぁ」
「なんですか?そんなオヤジみたいな声を出して。先輩はまだまだピチピチの十七歳じゃないですか」
「いや、体力が有り余る十七歳でも、こう、学校に七時間も八時間も監禁されたら死んじゃうよ」
そうかなあ、と彼女は一声。幸いにして彼女はまだ十五歳だ。いまだに乙女として現役である。いや、このような思考はまさしく罪というほかない。なぜなら自らのことを乙女であると思っている者こそが乙女なのである。ならばぼくも乙女なのだろうか。
「ああ、そうか。きみはそうなのか」
「何がそうなんですか?」
「いや、なんでもないよ。ただの独り言さ」
白い窓枠がぼくの尻を冷やす。立ち上がり、一つ小さく伸びをする。心臓の鼓動がいつも以上に早く感じられた。血が体内をめぐり、わずかに体温が上がった気がする。白いシャツにオレンジと黒の境界が訪れる。空の深いところはもう深海二百メートルのような藍色だ。いくつかの素粒子がそれに反対するものとぶつかって、光となって消えた。
「姐さん、帰ってきませんね」
「そうだね」
おもむろに本棚から一冊の本をとる。『緋色の研究』だ。ぱらぱらとめくり、また棚に戻す。次の本をとる。『ユリシーズ』。ぱらぱらとめくり、また棚に戻す。次。『ジャパン・タウン』。沈黙を際立たせるのは、紙が空気を叩く音。去るように時は足音を立てて陽を置き去りにする。どうやら陽子が電子を捕らえはじめたようだ。
「なけなしのウーロン茶、飲んでしまいましょうか」
彼女は琥珀色の液体をコップ二つに分けて注いだ。ウイスキーをウーロン茶であると偽装したわけでは、断じてない。
「どうせ後で姐さんが緑茶を買ってくるでしょうし」
「うん」
透明なガラスのコップをぶつける。透明な音が短く響く。太陽はちょうど彼女のコップの水面を照らしていた。そのまま一気のグラスの中身をあおる。燻したような香りと苦み、そして熱い感覚がのどを通り抜けたわけではなく、優しい苦みが味蕾を刺激し、また甲高いウーロン茶の香りが鼻腔を通り抜けた。
「きみは、天体観測に行ったことはある?」
「ないですけど、どうして急にそんな話を?」
「ほら、見てよ。今の時間」
境界線はぼくの喉仏にちょうど位置していた。空の藍色はいよいよ深さを増し、深海千メートルといったところか。宵の明星が黄色く輝いている。
「ああやって、金星が見えると、一気に気温が下がる。こうして外套を着なきゃいけなくなるんだ」
ぼくは紺色の学ランを羽織る。彼女は黒色のコートを着込んだ。
「そして、空気がきれいなとこだと、まずシリウスが見える。そこから、そう。限りなく黒に近い藍色の天蓋に大小無数の針で穴をあけたように星が一気に増えるんだ。瞬き数回でね」
「今日は変に饒舌ですね」
「普段もこんな感じでしょ」
「そうですかぁ?」
彼女は意地の悪い笑みを浮かべた。
「……とにかく、星が見える。その光は、もしかしたら藤原定家が歌を詠んだときに星の表面から出たのかもしれないし、テルモピュライの戦いの夜にレオニダスが空を見上げた時に星を出て、幾星霜もかけて幾兆キロを旅してきたんだ」
「ほー、ロマンチストですね」
「そう、そう。その光を、ぼくらはカメラに収めるんだ。素敵でしょ」
彼女は首を何回も縦に振って同意した。
「せっかく星の話をしたし、ぼくの今回のコンテストに出した文でも聞くかい?」
「ええ、聞いてやりますよ」
先ほどぼくが座っていた緑色の椅子に彼女はふんぞり返って腰を下ろした。ふんすと一回鼻で息をしたのを確認して、話を始める。
「太陽の真ん中から光が宇宙空間に出るまでにどれくらいかかると思うかい?」
「地学のテストですか?これは恋愛短編のコンテストですよ」
「まあまあ、答えておくれよ」
一瞬の逡巡の後、彼女は口を開く。
「二秒くらいですかね?」
「惜しい。もし光が直進したら、そうなるね」
「じゃあ、五秒?」
「ざっと五百万年だ」
「へえ!」
彼女は口をあんぐり開けた。少し笑みも浮かんでいる。黒と橙の境界はいよいよぼくの顎を捕らえようとしている。依然として宇宙は熱いままだ。
「また『芸術的短編』とかいって読む人を混乱させるんですか?」
「今回はすごくわかりやすい比喩だよ」
「本当ですか~?」
「本当、本当だからそんな顔をしないでくれ。笑ってしまうよ……とにかく、太陽の中心で生まれた光が恋心。で、地球が主人公の意識というわけだ」
彼女は話半分に椅子を回転させている。間延びした語尾の上に、ご丁寧に鼻歌まで添えて。そろそろヘリウムができるころだろうか。まだ早いだろうか。
「中心核から出た光は光球の中で数センチ進んでは曲がり、数ミリ進んではまた曲がることを繰り返してす。これと、主人公の恋心が紆余曲折して無意識のうちに表象することを何度も何度も反復して重ねるのさ。何せ五百万年もかかるんだよ。ちょっとやそっとじゃあ、動かないに決まっている。くどいと思われるぎりぎりまで反復させるんだ。太陽の描写と、主人公の心理描写とを交互にねそれと、生物の進化を辿ることも忘れずに」
「へぇ、おもしろそう!」
「それで、光がようやく宇宙空間に出てきたら早いんだ。なんせ八分で地球に届いちゃうからね。ところできみは、太陽の光にどのようなイメージを持っているのかい?」
「希望!それと、暖かさ!」
大声で、彼女はまるで教師に答えを告げる生徒のように答えた。
「そう、そうなんだ。主人公の心がその恋を自覚、即ち光が地球に届いたとき、主人公はとんでもない温かみと希望を感じる。それが主人公を、今まで座っていた硬い椅子と暗い部屋の中から動かすんだ。そのまま、主人公はどこかに行って、物語は終幕というわけだ。ざっと三千五百字といったとこかな」
「恋愛短編じゃないですね、それ」
「気にしないでくれ」
何かを思い出したように彼女はすくりと立ち上がり、椅子をぼくの方へと押した。おもむろにぼくの前に回り、肩を強い力で押す。思わずぼくは体勢を崩し、ほのかに暖かい椅子に腰かけてしまった。
「せっかく先輩が話してくれたんです。わたしも話さない訳には行けないでしょう?」
「ほう、わかった」
ぼくは足を組み、腿の上に頬杖をついた。
「えっと、ある遠い、遠い星の話です。先輩みたいに変な文じゃなくて、普通のやつですよ。その星には、いろんな生物がいるんです。しかし、悠久を生きて、人間とは似ても似つかない姿の」
「いいねぇ」
「その星の文明はとにかく進んでいて、家庭用の望遠鏡で宇宙を見渡せるくらい。ある日、たまたまある子が望遠鏡をのぞくと、地球があるの。青く、緑で、ところどころ白いその星にその子はとっても感動するんです。そして、どんどんと倍率を上げてゆく。すると、必然的に人が映るでしょう?その子は、はるかに遅れている人を見て、さらに心を打たれるんです。生命の儚さ、美しさ、力強さに」
彼女の頬は幾分か紅潮していた。声も少し上ずっている。
「そしてそして、その子が何百年か人類を見ていると、その進歩の速さに驚くんです。その子の星はまさしく停滞中で、進歩なんて伝説上のお話にすぎませんから。その時の感動は、停滞していたその子を見事に動かすほどでした。そして、その子は全てを投げうって自分の体を人間のそれに似せた機械に改造します。八十年ほどで機能停止するくらいの」
部室はどんどん暗くなっていく。しかし、ぼくにも彼女にも電気をつける様子は全く見られなかった。
「そう、八十年なんて一瞬です。その子は死んでしまいます。初めは周りからバカにされ、愚かであるとののしられていたんですけど、次第にその行動は評価されていきます。停滞を終わらせた、と。その子は最後、地球に向けて、黒よりもなお昏い宇宙に葬られます。幾星霜をかけて彼女が辿り着いた地球には、もう、どんな生物の影も形もありませんでした。荒涼な岩と砂に身が広がる、死の星でその子は永遠に眠るのです」
「いいね、どこだか儚くて、優しいような話だ。その子は人類に恋をしたわけだな。ぼくには、もう書ける気がしないよ」
彼女はくるりとその場で一回転する。スカートがふわりと広がる。
「ふふふ、すごいでしょう?ちいさなころ、私が一人で寝たりして寂しかった時に、心の中の声が私に語り掛けたり、お話をしてくれたんです」
ぼくは何かに打たれるように立ち上がった。彼女は後ろを向いている。
「優しいお話でした。でもどこか寂しいような。どこかの村の子守歌のように私を安心させてくれて、そのお友達も、お話も大好きになりました」
身体がわなわなと震える。筋肉に力が入り、思わず蹲ってしまう。
「わたし、あの頃聞いたようなお話が書けてるかな、先輩?―どうして泣いてるんですか?先輩?」
宇宙は晴れ上がり、ようやく水素とヘリウムが集まって最初の灯が燈った。
厳然とぼくの脳髄を支配しているのは、「前に進まねばならぬ」という一種の呪いのような意志だ。実際にそうでなければ取り残されてしまう。誰も落伍者なんかにはなりたくない。もちろん道には茨が生い茂っている。足からとめどなく血が流れるのも構わずに。後ろを見ることなんて、できやしない。赤い血の先には、はるか一三七憶年前に置いてきた、透明に輝くもっとも美しく、尊ぶべきものが、ぼくに手を振っているからだ。ぼくのゆくべき道が、哀愁の洪水にはらりと流されてしまうからだ。
ぼくの体を、暖かく柔らかい何かが包んだ。
会ふ 猫杓子定規 @nekosyakushijyougi
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