最終話 壁の向こうの森

 俺はあんぐりと口を開けた。幻聴か?

「あらやだ、違った?」

「あ、いや。この前の告白の返事を…優子さん…今何て?」

 すぐに状況が飲み込めない…。

「え…私達付き合ってなかったの?」 

「え!付き合ってるの?」

 そうだったのか!

「そうよ…何よ、てっきりこの指輪がプロポーズなのかと、早とちりしちゃったじゃない。今の無し!絶対に無し!前言撤回」

 彼女は頬を染めて向こう向き、さっき掃除した埃の無い棚をバタバタとはたく。

「絶対かぁ…」

 嬉しさとがっかり感が混ざって複雑な心境だ。


「まぁ、でも一歩前進かな」

 掃除する右腕を掴んで、彼女を抱き寄せる。

「きゃ…」

 はたきがコンクリートにポトリと落ちる。ぎゅうっと腕に力をこめる。

「く、苦しいわ」

「鈍感でごめん。ただ…俺の事どう思ってるのか、知りたかったんだ」

 ああ、何だか良い香りがする。兎家のお洒落着洗いの香りと、シャンプーの香りが混ざっている。

「あ、お客さんが来たわ!」

「ごめん!」

 慌てて彼女を解放すると、お客は入ってこない。彼女はクスクスと笑う。


「どう思っているか教えてあげる」

 そう言って彼女は、バールとハンマーが背の順に並ぶ壁を見つめる。

「私が愛しているのは、満月の狼なの。ふさふさの真っ白な毛並みと太い尻尾。琥珀色の瞳に魅了されて、遠吠えを聞くと切なくなる。舌や唾液を見ると舐められたいし、犬歯を見れば甘く噛まれたいと思うわ」 

 彼女には、壁の向こうの森が見えているようだ。

「優子さん…人型の俺は?」

「うーん。そうね、人型のお兄さんもなかなか見所があるわ。もしも次のみどりマラソンで入賞したら、結婚してもいいわ」


 半年後のみどりマラソンに向けて、更なる走り込みの日々が始まろうとしていた。



 





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優子さんの憂鬱(ボルトとナット おまけ録) 翔鵜 @honyawan

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