杉ちゃんと、歌を忘れたカナリアは

増田朋美

杉ちゃんと、歌を忘れたカナリアは

杉ちゃんと、歌を忘れたカナリアは

寒い日だった。今日も、日は出ないし、雨は降るし、もう何日したら、あったかくなってくれるんだろうか、と、思われるほど寒い日が続いていた。

「歌を忘れたカナリアは、

柳の鞭でぶちましょか?

いえいえそれは、可哀そう。」

今日も、森田眞規子は、歌の稽古を続けていた。生徒さんは、この春音楽学校に入ったばかりの若い女性である。

「ちょっと待って。」

眞規子は彼女が歌うのを制してやめさせた。

「そういう歌じゃ、カナリアが可哀そうっていう感じがしないわよ。そうじゃなくて、もっと感情を込めなさいよ。ほら、もう一回。」

生徒さんは、そんな顔をしている眞規子に、一生懸命やっているのに、という顔をしていた。

「何処がだめなんでしょうか。あたしは、あたしなりに、一生懸命やっているのですけど。」

「だからあ。音楽学校に入ったんだし、もうちょっとそこいらに居る歌い手とは違うんだっていう、意識を持って頂戴。それじゃあ、もう一回やってみて、はい、」

「歌を忘れたカナリアは、

柳の鞭でぶちましょか?

いえいえそれは、可哀そう。」

生徒さんは、そうやって歌うのだが、どうしても眞規子の希望に添うような歌を歌ってくれないという、感じがした。

「だから、違うんだってば。歌を歌うときは、もう、下の世界から切り離して歌う、くらい考えなきゃだめよ。音楽学校に入ったのよ。カラオケで歌っているわけじゃない。だから、もうちょっと、シッカリ歌を歌って!ほら、もう一度!」

「歌を忘れたカナリアは、

柳の鞭でぶちましょか?

いえいえそれは可哀そう。」

もう一回歌ってくれる生徒さんだったが、どうしても、眞規子の希望通りにならない。ウーンなんでかなあ。そうこうしているうちに、お昼の十二時になってしまった。

「今日はここまで。次回までに、歌を忘れたカナリアの意味をちゃんと考えてきて!」

とりあえず、今日のレッスンはここまでにした。生徒さんは、半分泣きながら、すみません、すみません!と言って、眞規子にレッスン料を払って、すごすご部屋を出ていく。

自分にあう生徒なんてなかなかいない。それは確かなんだけど、もうちょっと、歌に対して真剣になってくれないかなあ、と思うのである。何だか、歌なんて、もはやカラオケで誰でも歌える、ただの娯楽のようになってしまっているらしい。それは、何だろう、時代のせいというか、音楽がなんだか今になって軽視されすぎてしまっているような気がするのだ。

自分のときは、歌というのが、もうちょっと、神聖になっていたような気がする。あたしのときは、歌い手というものは、それなりに優遇されていたものだ。あたしは、なんのために、歌を歌ってきたんだろうな。こんな若い人達に娯楽を提供するためだけじゃないのだ。歌を聞きに来るお客さんだって、もっと、歌に対して真剣に聞きに来たいという表情が見て取れたけど、今のお客さんは、歌をただのBGMとしか取っていないような、そんな気がしてしまうのだ。

でも、あたしは、これまでも、森田眞規子として、一生懸命歌ってきたんだもの。それでいいじゃないの。それでやってきたんだもの。歌ってみれば、歌なんて本当に難しいんだから。ただのそこいらを流れている、なんとかという人が作った、アイドルとか、そういう人とは違うのよ。そう、クラシック音楽とはそういうモノ。だから、生徒さんには、ほかの音楽にはなるべく手を触れないでほしいなあと、思うのだが、若い人たちは、そういう訳にもいかないらしい。

「先生。お電話が入っておりますが。」

と、自宅の掃除や料理などをしてくれる、家政婦さんがそんな事を言った。誰から?と眞規子が利くと、あの、言いにくいんですけれども、警察からです、と、家政婦さんは言った。まあ、警察と言っても、たぶん注意喚起とかそういうモノですかねと言いながら、家政婦さんから、渡された、受話器を受け取る。

「もしもし、お電話代わりました。森田でございますが。」

と、眞規子は、そういってみる。すると、聞きなれない声でこんな声が聞こえてくる。

「失礼いたしますが、森田眞規子さんですか?」

「はい、そうですが?」

と、彼女が聞くと、

「ちょっと落ち着いていただきたいのですがね、あの、森田友和さんの遺体を引き取ってもらえないでしょうかね。」

と、相手はそう言っている。

「ちょっと待ってください。遺体を引き取れってどういう事でしょうか。」

「ええ、だって、森田友和さんの肉親で、存命なのは、眞規子さんだけですよね?だったらその方に連絡するしかないでしょう。直ぐに来ていただけないでしょうか?」

相手は、警察だから慣れているのだろうか、ずい分、物腰柔らかく、眞規子に伝えてくれているのだろう。そういう事に慣れていない眞規子は、思わず受話器を落としてしまいそうになった。

「森田さん、聞こえますか?直ぐに富士警察署に来ていただけませんか。私たちも、友和さんかどうか、確認していただきたいんですよ。お願いできますか?」

「あ、あ、はい。」

眞規子は、そう返事をするしかなかった。

「わかりました、すぐ行きますから。」

と言っても、彼女は、すぐに体を動かせない。それはそうだろう。だって、昨日まで生きていたはずの友和が、なんで今日、遺体にならなければならないのだろうか?

「とにかくですね。お願いできますでしょうか。すぐに遺体を引き取りに来てください。森田さん、お願いしますね!森田さん!」

思わず卒倒してしまいそうになった。なんで、なんであの子が?

友和は、眞規子にとって大切な甥だった。もともと、眞規子の姉が生んだ子供だったが、姉は、二十年前に災害で死んだため、眞規子が育てることになった。旦那も子供も、みんな姉からもらったものです、という彼女のことばは、クラシック系の音楽雑誌に、良く掲載されたものである。そして、姉の夫も、昨年に亡くなっている。そういう訳で、現在は、友和と眞規子が二人で暮らしていたのである。

「しかしなんで、、、。」

と、眞規子は床に座って泣き出してしまった。

「奥様、早く行ってやらないと、友和さんが、可哀そうですよ。」

と、家政婦さんに言われて眞規子は、ハッとする。

「せめて、会いに行ってやってくださいませ。」

と、家政婦さんはそういう事を言った。眞規子は詳しくは知らないけれど、この家政婦さんも、何かわけのあった人だったらしい。いざとなると、こういう風に、答えを出してくれるのである。

「早く、行ってやってください。友和さんも待っています。」

「そうだけど、、、。」

「仕方ないじゃありませんか。こういう結果になってしまったのは、仕方ないことかも知れませんよ。奥様、せめてちゃんと、送ってやることくらいしてやってください。」

家政婦さんは、そういっている。眞規子は、仕方なくというか、よろよろと立ち上がって、玄関にふらふらと歩いて、やっと靴を履いた。

「ほら、奥様、行ってきてくださいませ。奥様にできる最期のお詫びは、それしかないんですよ。」

と、家政婦さんに言われて、眞規子は外へ出た。車を運転する気にもなれなかった。ただ、どこへ行くにもわからなくて、とぼとぼと歩いていただけの事であった。


いつの間に、雨はやんでいた。傘も指していなかったので、眞規子の体はびしょぬれに濡れている。

「おーい。」

不意に後ろから声が聞こえてくる。誰の声だろうと眞規子は思う。

「おーい、お前さん、お前さん!」

と、その声はそう言っている。多分中年の男性の声だと思うけど、彼の発声は、行ってみればやくざの親分の出す声である。こんな汚い声で、よく生活しているんだろうな、と眞規子は思いながら、歩き続けた。

「おーい、お前さんだよ!これ、落とし物じゃありませんか!」

と、でかい声で、そういわれて、眞規子は思わず後ろを振り向いた。振り向くと、一人の男性がいた。その人は、車いすに乗っていて、麻の葉柄の、黒大島の着物を着ている。という事は、若しかしたら、邦楽とかそういうモノの関係者かもしれない。眞規子は邦楽の発声が嫌いだった。あの、ぐちぐちした声で、地声で歌うなんて、本当に汚いとしか言いようがないのだった。

「ほら、之、落とし物だ。これがなかったら、困るんじゃありませんか?」

とその人が持っていたのは、自分の財布だ。

「あら、私の財布!何処で盗ったのよ?」

眞規子は思わず言った。

「いや、盗ったわけじゃないよ。ただ、お前さんが、鞄の中から落っことしたのを見たんだよ。それで拾っただけだよ。」

と、彼は言う。

「そんなことないわよね、あなたがとったに決まっているでしょう。そんな汚い声の出し方で、まともに生きているとは思えないわよ!」

眞規子は一般常識だと言わんばかりにこれを言ったのであるが、

「だって、車いすの人間にすりはできませんよ。それなら、なにか別の音がするはずだよ。それに車いすの人間にはすって、パッと逃げるなんてできやしません。」

と、彼は言った。確かにその通りだよな、と眞規子も考え直す。

「ほら、受け取ってくれよ、これがなければ、困ってしまうでしょう。」

眞規子は、彼から差し出された、自分の財布を受け取った。中身はちゃんと入っていた。クレジットカードも、名刺も、保険証も、全部入っていた。この人はすりではないんだな、と眞規子は考え直した。

「一体お前さんはどこに行くつもりなんだ?まるで、蝋人形が歩いているみたいで、すごい顔をしていたぞ。」

と、彼はいう。

「失礼ね、私は、生まれたときから、この顔ですよ!」

眞規子は、そういったのだが、彼はカラカラと笑った。

「いや、そんな顔じゃないね。だってお前さんのコンサートに行ったとき、お前さんは、もっと生き生きとして、蝋人形ではなかった。僕、お前さんの事は知っているぜ。森田眞規子さん。」

知ってたの!私の事。でも、そうなっても仕方ないと眞規子は思った。私は、確かにたくさんのCDを発売しているし、そこには、私の顔を掲載していたこともあった。そのせいで、彼にも知られてしまったのか。

「まあねエ。私も、一時、盛んに顔を出してたことあったからね。それじゃ、仕方ないか。」

「ああ、あの写真とは、一寸小皺が増えているようであったがな。ちなみに僕の名前は、影山杉三ね。杉ちゃんと呼んでくれ。それより、お前さん今どこに行くんだよ。」

「まあ!小皺何て失礼な。」

眞規子は思わず言ったが、

「だってそうだもん、小皺も増えて、白髪も増えてらあ。まあ、年を取るってことはそういう事だろうな。それより、お前さんはどこに行くんだ?」

と、杉三は、そういうことを言った。質問すると、答えが出るまで聞き続けるというのが、杉ちゃんであった。もちろん、眞規子はそれを知らなかったが、答えを出した方がいいと思った。

「あのね。警察署へ行くところなんだけど。ちょっと訳があって。」

とりあえずそれだけ言ってみる。

「それでは、まるで方向違いだよ。警察署はこっちだ。お前さんは、まったくの正反対の道を歩いてるぞ。」

と、杉ちゃんは言った。え?まさかそんな、と眞規子が言うと、杉ちゃんはからからと笑って、

「本当は、警察署の場所なんて知らないんじゃないの?」

と、言った。確かに眞規子はよく知らなかった。大体、クルマの運転なんて、家政婦さんに代理でしてもらっていたからだ。

「もう、それなら、それとちゃんと言え。こっちへ来てくれよ。このまま歩いていたら、永久に、警察署へ着けないぜ。」

と、杉三に言われて、眞規子は、彼のあとに続いて歩き始めた。本当にあっているのだろうか、と、眞規子は思ったが、暫く歩いていくと、富士警察署と看板が出てきたので、一寸安心した。

「ほら、ここだよ。警察署は。ここで何の用があるんだ?」

と、杉ちゃんは、警察署を顎で示した。眞規子は、がたがたと震えている。多分ここに、友和の遺体があるんだな、という事は確かだが、どうしてもそこに行けないのである。

「おい、警察署に用があるんだろ。だったら、さっさと済ませてくればいいじゃないかよ。」

と、杉三は言っている。

「杉三さん、ああ、杉ちゃんと呼んだ方がいいかしら。ちょっと、一緒に来てもらえないでしょうか?」

と、眞規子は、そういった。こういう時、誰か他人であっても、一緒にいてくれた方が、心強いというものだ。もちろん、他人だから、そういうことは容易く頼めるわけではないのだけど。

「ああ、いいよ。行ってみましょうか。僕も人助けできたら嬉しいし。」

と、杉ちゃんは言った。それでは行こうか、と、眞規子を連れて、どんどん警察署の中に入ってしまう。眞規子は、警察署の玄関まで歩いたのはいいものの、玄関前にきて、足がすくんでしまった。

「おい、何やっているんだ!早く来ないと、用が終わらないじゃないか。」

杉ちゃんに言われて、眞規子は、勇気を出して、彼の後に続いた。中に入ると、受付の、婦警さんが、

「あら、杉ちゃんどうしたの?また何か落とし物でも拾ったの?」

と、尋ねてきたので、

「ああ、こいつがな、何だか用があるんだって。ちょっとお話を聞いてみてやってくれ。よろしく頼む。」

と、杉ちゃんは、にこやかに笑った。

「は、はい。あの、森田ですが、、、。」

眞規子はそれ以上の事は言えなくなってしまった。それよりも、泣き出してしまって、彼女はそれ以上言えなくなってしまう。

「どうしたんですか。」

婦警さんは、いかにも彼女を、何をしているんですかという顔で見ている。こういう時、有名人であれば、顔である程度優遇してくれるようなところもあるんだが、婦警さんは、そういう親切なところはなかった。

「ほら、泣いていないで、ちゃんと話してくださいよ。あなたが、ちゃんと話してくれないと、あたしたちは、何もできないでしょう!」

と、婦警さんはちょっときつい調子で言った。眞規子はまだ泣き崩れたままであった。

「あなたね、有名な歌手であるからって、何でも通るわけではありませんよ!困りますねエ、こういう芸能人は。有名な人だから、何でも通ると思っているのかしら?そういう人が逮捕されたりすると、大体、こういうことになるのよね。あーあ、なんだか、有名な人ってのは、そういうところが弱いんだ。」

と、婦警さんは呆れた顔でそういうことを言った。確かに、有名な俳優などが、最近麻薬使用などで、逮捕されることがあるが、大げさに泣いたり、わめいたりする写真が、テレビで報道されたりすることがある。婦警さんはそれを言っているのだろう。

「しっかし、婦警さんよ。誰でも人が亡くなるときってのは、悲しいもんだぜ。それで我慢してやってくれ。この人、人が亡くなって、大変なんだと思うんだ。だから、もうちょっと優しくしてやってくれよ。」

杉ちゃんが、急にそういうことを言った。なんで杉ちゃん、私の事がわかっちゃうの?と、眞規子がいおうとすると、

「だって、この蝋人形みたいな顔では、それしか考えられないんだもん。なんか直感でさあ、そういうのが見えちゃった。」

と、杉ちゃんはにこやかに言った。眞規子はそれがわかってくれてよかったと思う。

「なあ、逝ったのは誰だ?もう、つらいんだったら、ここで吐いちまえよ。それでは、いつまでたっても、お前さんは、そこを動けないよ。」

杉ちゃんがそういうことを言って、座り込んで泣いている彼女の肩をトントンとたたいた。それは確かにそうなのだが、でも、口に出していう事は出来ないような気がする。

「あたし、、、。あたし、、、。」

そればかり言って、なかなか本当の事が言えないのであった。もう、自分の命より大事にしていた甥が、昨日までは生きていたのに、今日は遺体を取りに来いなんて、どうして口に出して言うことができるだろうか。あたしは、どうして、そういう運命になってしまったんだろう。

「確か、お前さんは、この歌で有名になってたな。ほら、あの、歌を忘れたカナリアは、を、ラジオで歌ってましたねエ。お前さんの歌は、本当に、気持ちよくて、歌を忘れたカナリアも、歌を思い出してくれるんじゃないかと、思うほどだった。」

と、杉ちゃんが言っている。

「あれ、誰のこと言ってんだろうかなあ。歌を忘れたカナリアは、って。でも、少なくとも、お前さんの歌を忘れたカナリアというのは、柳の鞭でぶったりなんかしたら、木っ端微塵に砕け散ってしまいそうだけどなあ。僕、テレビ見てないから、良く知らないけどさ。お前さん、一時、ずいぶんマスコミに追いかけられていたそうだね。お前さんは、確か、甥の何とかというカナリアを飼うのに、随分手間がかかったそうじゃないか。まあ確かに、カナリアの調教は難しいらしいけど。でも、お前さんの歌を忘れたカナリアを、柳の鞭でぶったりしちゃ、いかんなあ。」

杉ちゃんは、べらべらとそういうことを言っているが、たぶん、テレビとか新聞が、そういうことを報道して、それを、口で言っているんだろう。確かにそうだったもんね。友和は、だんだんあたしのいう事は聞かなくなっていったわ。あたしは、あの子に何とかあたしの方を向いてほしくて、いろんな手を使ってみたけれど、結局、あたしはできなかったわ。相談所があれば、匿名を使ってあの子を何とかして、と相談にいったりもした。でも、あの子は、そんなあたしに、僕が邪魔だったんだと余計に泣いてわめいて、もっと信用してくれなくなって。あたしが、芸能界をやめて、あなたと一緒に静かに暮らす、もう寂しい思いはさせない、といった時も、あの子は、余計に家の中で泣いて泣いて。そうだったわね。ごめんなさい、、、。

「でも、どうして、お前さんは、カナリアが、逝ってしまおうと思ったとき、止めなかったの?お前を愛しているとどうして、言えなかったんだよ。そんなんだから、カナリアは、飛んで逝ってしまったじゃないのかよ。」

杉ちゃんにそういわれて、眞規子はハッとする。

「そうね。あたしは、そこがだめだった、、、。」

昨日、友和は、あたしにそういったんだ。もう、終わりにさせてくれ、おばさんの期待を背負って生きていくのは疲れてしまった。もう、いい子じゃいられないよ!って。

そうよね、それでカナリアは飛んで逝ってしまったんだわ。

「一曲、歌ってやったらどうですか。」

杉ちゃんが、ぼそっと言った。眞規子は、伴奏も何もなしに、うんと頷いて、しずかに歌いだした。

「歌を忘れたカナリアは、

柳の鞭でぶちましょか?

いえいえそれは、可哀そう。」

いえいえそれは、可哀そう。


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