花の獄
おうさか
花の獄
ちい姫さまの傍にいると、あたしは惨めな気持ちになる。花のかんばせが向けられる度、自分が忌々しくて仕方がなくなるのだ。低い鼻も、癖のある髪も、人より少し肉つきの良い身体も、全部きらい。だというのに、ちい姫様はあたしの手を取って、花霞の笑みをひらかせる。「あなたは、わたくしのかわいい人」
熱に潤んだ瞳で見つめられると、頭がぼうっとしてしまう。けれども同時に、あたしはちい姫さまが疎ましくなる。このうつくしい方の目の届かないところへ、今すぐ駆け出せたらどんなに清々しいことだろう。そんなこと、できやしないけど。
激しい旱魃が続いた年に、皇女さまの胎からふたごの男の子が取り出された。よく似た見目のふたごは凶事のしるしだ。神さまが興がって、互いの魂を喰らい合うようまじないを施すからだ。ゆえに、ひとりを皇子に据え、そのかたわれを離宮に追いやった。身分を奪い、名を変え、性別すら騙って、神さまを謀る。その人こそ、あたしが仕えるちい姫さまだった。
あたしは参議の父のもとに生まれた。父は野心のある人だったから、きっと、あたしの器量が良ければと口惜しく思ったのだろう。後宮に入れる腹だったが、当てが外れたらしい。折良く、ちい姫さまが話し相手を欲しがってると聞きつけて、此れ幸いにとあたしを推挙したのだった。
ちい姫さまの側仕えにと離宮に参上した日のことを、あたしは今でも覚えている。射干玉の黒髪を持つ麗しいお方に、あたしの心は縫いとめられてしまった。その頃のちい姫さまとあたしはまだ童の頃だったけれど、幼いなりにかくも雅やかなる雰囲気に惹かれていたのだと思う。あたしはすぐにちい姫さまを慕うようになったし、ちい姫さまも同じだった。恐らくは、同じ歳の頃の子どもが他にいなかったからだ。さもなければ、ちい姫さまがあたしを好くことなどないに決まってる。
ちい姫さまはもの柔らかな方で、ともに過ごす時間はとても幸福だった。童でいられた間は、あたしは純粋にちい姫を愛おしく思っていたのだ。
たぶん変わったのは、ちい姫さまが15歳を迎えた年のこと。体つきが少しずつ逞しさを帯びて、声は掠れ始める。不思議と、ちい姫さまのうつくしさは損なわれなった。それどころか、あでやかさというものを具しはじめたくらいだ。それでも、ちい姫さまが男だということを意識してしまうには十分だったのだ。
あたしは、ちい姫さまが好き。ちい姫さまに愛を囁かれたい。その整った唇に触れてみたい。細くしなやかな腕で、抱きしめて欲しい。こんなにもあたしは醜くく、欲深く、そして汚らわしい人間なのだと初めて思い知らされた。
その日は天気が良かったものだから、離宮に拵えられた庭園を散策していた。季節の花が綻ぶ生垣の間を、ちい姫さまは大層嬉しそうに歩いている。間も無く成人を迎えるちい姫さまを、密かに盗み見た。上品な飾りがあしらわれた紗の召物は、ちい姫さまがお好きな瑠璃色のもの。もう、ちい姫さまの体つきは男のものとなったのに、纏う色香は何処から来るのだろう。
その時、あたしの視線に気づいたのか、ちい姫さまはふわりと笑いかけた。
「わたくしの、かわいい人」
ちい姫さまは、あたしをそう呼ぶ。あたしが眉をしかめても、御構い無しだ。
「怖い顔をしないで。散歩は、つまらない?」
「そんなこと……ありません」
「そう。良かった」
そう言って、ちい姫さまはあたしの手を握った。繋がれた体温に、心臓が跳ねる。ちい姫さまがあたしに身を寄せると、甘やかな香がした。
ちい姫さまを意識する自分が嫌で顔を背ける。しかし、自分から手を振り払う気にはなれなかった。
「そう、拗ねないで。こちらを向いて、顔を見せて」
存外に強い力で手を引かれ、思わず躓きそうになってしまうのを、ちい姫さまが抱き留めた。背中にあてがわれた手の感触が生々しい。少しでも面を上げれば、ちい姫さまの顔はすぐそこだ。このうつくしい方のまなこから逃れたくて、ちい姫さまの胸板に顔を収めるほかなかった。
「あなたは小さいね」
私が小さいのではない。そう言いかけて、唾を飲み込んだ。ちい姫さまは知らない。己が男だということも、私が女だということも。この男児禁制の煌びやかな籠に閉じ込められていては、己の性などに煩う必要などないのだった。
だから、苦しいのだ。
「ふふ、わたくしはね、あなたとこうしていると、心臓のあたりがくすぐったいんだ。どうしてだろう」
微かに笑い声を漏らすと、ちい姫さまはそっとあたしを離した。安堵と名残惜しさが一緒に押し寄せる。未だに酩酊とした心地に包まれているあたしの手を、ちい姫さまは両手で包み込み、そうして口付けた。そこだけが、妙にこそばゆい。
「わたくしの、かわいい人。あなたも、そうでしょう?」
ゆっくりと、ちい姫さまの眸が緩められる。あたしは確かに頷いてみせた。
「あなたは、わたくしのかわいい人。わたくしだけの」
ちい姫さま。あたしの、ちい姫さま。
このうつくしい方の言葉は、毒にも似ている。ちい姫さまが手繰る一言で、あたしは息ができなくなるのだ
あたしだって、薄々気づいている。強かな父が、易々と駒を離宮へ逃す筈がないのだ。美醜に疎い、世間知らずの皇子さま。あたしに求められているのは、そういうことだった。この方のとなりに立てば、嫌でも自分が浅ましい人間なのだと知ってしまう。それでも、あたしはちい姫さまを手離すことなんて、できやしない。
花の獄 おうさか @ousaka_1923
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