降車悲願

吟野慶隆

降車悲願

「次は、ガンマ奈病院前です」

 そんな内容の、自動音声アナウンスが聞こえてきた。手帳を開き、バスを降りてからの予定を確認していたジー野は、思わず、顔を上げた。外を確認したところ、なるほど、今回の出張における目的地である、ガンマ奈病院の近くの景色が広がっている。

 彼は今、最後部にある横長の座席の、センターに座っていた。膝の上に、ビジネスバッグを載せている。

 何気なく、フロントウインドウに目を向けたところで、バックミラーに気づいた。そこには、ドライバーである、バス会社の制服を着た中年男性が映り込んでいた。

 この男、愛想が悪いというか機嫌が悪いというか、よくも今まで解雇されなかったものだなあ、と、さきほど乗り込んだばかりのジー野にすら、そう思わせるような勤務態度だった。客が、運賃を支払うのにもたつけば、ちいっ、と、聞こえるように舌打ちする。そのせいでさらに焦った客が、小銭を床に落とせば、はあーっ、と、大きな溜め息を吐く。別に、客だからといって居丈高になる気はないが、しかし、このような接し方をされるのも、かなり不愉快だ。できれば、近づきたくないのだが、この車両は、乗り込むのは中扉から、降りるのは前扉から行うタイプの利用形態なので、下車するときは、どうしてもそばを通らざるを得ない。

 じゃ、次が目当ての停留所だし、バスを停めてもらおうか。ジー野は、そう心の中で呟いた。手帳を、スーツのジャケットに付いている、左の胸ポケットにしまう。通路の、向かって右側に立っている手摺りの、側面に取り付けられているボタンに、右手を伸ばした。

「ねえ、ママ。このバス停で、降りるんだよね?」

 そんな声が、左方から聞こえてきた。ちら、と、そちらに視線を遣る。

 ジー野の左隣に、若い女性が座っている。その、さらに向こう側、窓際に、未就学らしい男児が腰かけていた。顔立ちが似ているから、親子だろう。

「ええと……」母親は、膝の上に置いてあるハンドバッグからスマートホンを取り出すと、ディスプレイをタップし始めた。「そうだったと思うけれど……合っていたかしら……」

「早く、早くっ」男児は、そわそわしていた。「早くしないと、ボタン、先に押されちゃうよお」

 ジー野は、ぎくり、とした。それから、しばらく迷った後、決断する。

 右手を、すっ、と引っ込めた。男児に押させてあげよう、と考えたのだ。

「ちょっと待ってね、ええと……」

「急いでよ、急がないと、バス停、通り過ぎちゃうよお」

 ジー野は片眉を上げた。いくらなんでも、それは不味い。

 まあ、そこまでしてやる義理もないしな。彼は、そう心の中で呟いてから、ボタンに右手を伸ばした。

「あ、合っているわ合っているわ」母親は首を縦に振りながら言った。「このバス停で降りるわよ。押してちょうだい」

「はーい」

 男児は、そう返事をすると、眼前にある座席の、背凭れの裏側に取り付けられているボタンに、右手を伸ばした。ジー野はまたしても、手を引っ込める羽目になった。

「あ、駄目よ駄目よ」母親は首を横に振りながら言った。「勘違いしていたわ。ここじゃ降りないから」

「なーんだ」男児は右手を引っ込めた。

 押さないのかよ。ジー野はずっこけそうになった。

 自動音声アナウンスが聞こえてきた。「次は、イプシ奈中学校前です」

 仕方ない、ここで降りるか。ジー野は、はあ、と溜め息を吐くと、ボタンを押した。もう、男児に押させてやろう、などという気は失せていた。

 バッグの側面に付いている小さなポケットのチャックを、じいい、と開ける。中には、鋏やセロテープ、クリップなど、いつもではないが、ときたま必要となるような道具が、いろいろ収納されていた。

 ジー野はそこから、小さな鏡を取り出した。バスが停留所に着くまでの間、それを使って、髪型が整っているか、ネクタイが歪んでいないか、などを確認した。

 数十秒後、車両は目的地に至った。彼はすでに、鏡を鞄にしまっていた。それの取っ手を右手で持つと、席から立ち上がる。前扉に向かって、通路を歩いていった。

 段差を下り、中扉の前あたりに差し掛かったところで、ふと、鼻がむず痒くなった。堪えきれずに、くしゃみをする。

 その拍子に、ぐね、と足を捻った。体のバランスを崩してしまい、こけそうになる。思わず、左側、中扉のすぐ隣に位置する席の背凭れに付いている取っ手を、左手で掴んだ。

 柔らかかった。掴んだのは取っ手ではなく、そこに座っていた女性客の右肩だった。

「ちょっとっ!」彼女は大声を上げると、がたっ、と立ち上がった。「あなた、いい度胸ね! こんな露骨に、痴漢してくるだなんて!」

「ごっ、誤解です!」ジー野は跳び上がりそうになった。「痴漢じゃありません。こけそうになって、何かに掴まろうとしただけで……」

「嘘よ!」女性客は彼の鼻先に、びしっ、と人差し指を突きつけた。「嘘に決まっているわ! そんな、変態みたいな顔をしているくせに!」

 ジー野は目を丸くした。「へ、変態みたいだなんて……」

「だいいち、あなた、さっきから一度も、謝罪していないじゃない! 本当に痴漢じゃないなら、まず、先に謝罪するはずよ!」

「す、すみませ──」

 ジー野はそう言って、頭を下げようとした。しかし、それより先に、女性客の振りかぶった右掌が、左頬に命中した。

 ぱあんっ、という、大きな音が、辺りに響いた。その勢いで、彼の顔は、ぐいっ、と右に向いた。首の骨が、ぐきん、という音を立てた。

 ジー野は、ふらふら、と下がっていった。そのまま、後方、通路の右側にあった空席に、脹脛を、どん、とぶつけた。衝撃で、両脚の力が抜け、すとっ、とそこに腰かけた。

「ふんっ! 通報されないだけ、感謝しなさいな!」

 女性客はそう言うと、憤懣やるかたない、といった体で、前扉に向かい、バスを降車していった。

 しばらくしてから、運転手が、「発車します」と、相変わらずの不機嫌そうな声でアナウンスした。ジー野はもはや、ほとんど放心していて、降ります降ります、などと叫ぶ気には、とうていなれなかった。

「次は、ゼータ奈市役所前です」

 そんな内容の自動音声アナウンスを耳にしたところで、はっ、と我に返った。そうだ、呆けている場合ではない。早く、バスから降りないと。

 ジー野は、ボタンを押した。他の客たちはみな、さきほどの停留所で下車してしまったようで、すでに車内は、彼一人だけになっていた。手元にバッグがないことに気づいたが、それは、中扉の近くに落ちたままになっていた。

 数分後、バスは目的地に到着した。停まってから数瞬後、前扉が、がしゃこん、と開かれた。

「ふう……やっと、降りられる……」

 ジー野は、そんな独り言を呟いて、席から立ち上がった。バッグを回収した後、運賃箱のほうへと歩いていく。

 到着すると、鞄の取っ手を右手で持ちつつ、ジャケットの右の内ポケットから、財布を出した。小銭入れから、料金分の硬貨を取り出すと、乗車券とともに、右手に持つ。それから、手を、投入口へと近づけていった。

 緊張のあまり、汗ばんでいたせいだろうか。十円玉が一枚、拳から、ぽろ、と、落下しそうになった。

「おっと……」

 ジー野は慌てて、十円玉を取り戻そうとした。しかし、お手玉する羽目になった。運賃箱の向こう側、運転席のあたりにまで身を乗り出して、なんとか、ぱし、とキャッチする。ドライバーが、ひどく迷惑そうな顔をした。

「ふうー……」彼は思わず、安堵の溜め息を吐いた。

 安堵している場合ではなかった。いつの間にやら、ネクタイがワイシャツのピンから外れ、ぶらん、と、重力に従って垂れ下がっていた。そしてそれの、三角形をした先端は、投入口の内部に設けられている、支払われた乗車券や硬貨などを、運賃箱の奥へと送り込むためのローラーに、ががががが、と、巻き込まれていっている最中だった。

「わ、わ、わ……?!」

 ジー野は、ネクタイを抜こうとした。あらん限りの力を込めて、ぐいいいい、と引っ張る。

 しかし、ローラーのほうが、力が強かった。布地は、みるみるうちに巻き込まれていった。

 首が、投入口に向かって、どんどん引っ張られていく。このままだと、頸部までローラーの餌食となり、切断されてしまうのではないか。ジー野は、そんな恐怖に駆られた。

「ク、ソ……!」

 ジー野はそう呻くと、バッグの外側に付いているポケットを開けた。中から、鋏を取り出す。

 一瞬、喉仏のあたりに宛てがいそうになった。しかし、いくらなんでもそれは危ない、と判断して、ターゲットを項のあたりに切り替えた。

 半ば、肌に突き立てるようにして、じょきじょきじょきん、と、ネクタイを切り裂いていく。皮膚から、生温かい液体が、とろとろ、と出てきて、頸部から背中へと伝わり落ちていくのが、触覚でわかった。

 その間にも、首はどんどん、投入口へと引っ張られていっていた。ジー野は必死に、頭部を、力の限り後ろに移動させようとして、布地が巻き込まれていく速度を、少しでも遅くしよう、と試みた。

 ぶちいっ、という音がして、ネクタイがついに、項の後ろで千切れた。同時に、引っ張られる力を一挙に失った頸部が、ぶうんっ、と、勢いよく後方に振られた。

 後頭部が、があん、という音を立てて、運転台の後ろに立っている四角い仕切りの、左側の辺を構成している手摺りに、ぶつかった。脳味噌じゅうに、振動と鈍痛が響き渡った。

「……」

 ジー野は、呻くことすらできなかった。後ろ向きに、こけそうになる。

 とっさに、右手を伸ばす。がしっ、と、頭を打った手摺りと同じ手摺りを掴むことに成功した。なんとか、こけることは避けられた。

 しかし、いったん崩してしまった体のバランスを修正することはできなかった。そのまま、仕切りのすぐ後ろに位置する席に、どさ、と腰かける。

 しばらくしてから、運転手が「発車します」とだけアナウンスした。さきほど、ジー野が窮地に陥っていた時もそうだったが、どうやら、客がどんな目に遭おうが、ひたすらに関心がないらしかった。

「次は、イータ奈駅前、終点です」

 そんな内容の自動音声アナウンスが聞こえてきたころになって、ようやく、意識が明瞭なものになってきた。運賃箱の近くに、バッグが落ちているのが見えた。

 ジー野は、右手で後頭部を摩りながら、はああ、と溜め息を吐いた。「もともとは、ガンマ奈病院前で、降りるはずだったのに……」思わず、独り言を呟く。「まさか、最後まで乗り続けることになるなんてな……」

 まさか、このまま一生、下車できないんじゃないだろうな──彼は一瞬、そんな、非現実的な恐怖を覚えた。すぐさま、ぶんぶん、と頭を横に振り、脳内から追い払う。

 しばらくして、バスは停留所に到着した。ジー野は、おそるおそる、といった体で席から立ち上がると、運賃箱に向かった。

 乗車券は、さきほどの騒動で、無くしてしまっていた。あらかじめ握っておいた、最大料金分の硬貨を、投入口に放り込む。その後、バッグを回収すると、ステップを下りた。前扉の横を通り抜け、外に出る。

 イータ奈駅前の歩道に、すと、と立った。背後で、前扉が閉められる、がしゃこん、という音がした。ちら、と振り返ってみると、バスはすでに発車していて、営業所にでも戻るのか、ロータリーの出口へと向かっていた。

 しばらくの間、呆然として、その場に佇んでいた。数十秒後、ようやく、ガンマ奈病院へ行く、という、本来の用事を思い出した。すた、すたすた、と、目的地に向けて、歩き出す。

 そのうちに、腹の底から、笑いが込み上げてきた。ジー野は思わず、くくくくく、と笑った。なんだなんだ、けっきょく最終的には、降りられたじゃないか。つい、数分前、一生、下車できないのではないか、なんて思った自分が、恥ずかしくなる。被害妄想というか、恐怖感情というか。とにかく、大袈裟な考えだった。

 十数分、歩き続けると、交差点が見えてきた。手前側における右手の角に、地方銀行の支店が建っている。

 しばらくすると、そこに到着したので、右折した。三十メートルほど先に、ガンマ奈病院の敷地があるのが、視野に入った。

「ふう……やっと目的地だ」

 ジー野は思わず、そう独り言を呟いた。病院目指して、歩き続ける。

 突然、背後から、がしっ、と、ワイシャツの、項側の襟を掴まれた。間髪入れずに、ぐいっ、と後ろに引っ張られる。

 とっさのことで、何が起こったのか、把握することができず、されるがままになった。その拍子に、バッグを落としてしまったが、拾うこともできない。

 襟を掴んできた何者かの左腕が、ジー野の左腕と胸元を押さえつけた。背中にも、そいつの胴体の前面が接触している。よくわからないが、捕まえられたらしい。

 右側頭部に、ごつ、と、何かがぶつけられた。思わず、「うぐ」と呻く。ちら、と、そちらに視線を遣った。

 それは、オートマチックピストルの銃口だった。

 首を、ぐる、とやや後ろに回して、暴行者の正体を確認する。そいつは、黒い目出し帽を被った男だった。右肩からは、ボストンバッグを提げている。チャックがわずかに開いており、そこから、内部に、大量の札束が入れられているのが見えた。

 顔を、元の向きに戻す。いつの間にやら、警官が二人、数メートル前方に立っていた。両者とも、こちらに、リボルバーピストルの銃口を突きつけてきている。

「近づくな!」背後で、男が喚き散らした。耳を塞ぎたいが、この状態では、できるはずもない。「近づくと、こいつの頭をぶち抜くぞ!」

「逃げきれるだなんて、思っているのか!」警官のうち一人が、そう怒鳴り返した。「大人しく、人質を解放して、投降しろ!」

「煩い煩い!」

 男は、がなり散らすと、ピストルを天に向けた。トリガーを引き、ぱあん、と発砲する。それから再び、銃口を、ジー野の右側頭部に突きつけてきた。

「ついてくんな! ついてくんなよ!」

 男は、そう声を張り上げながら、ジー野を半ば引きずるようにして、後退し始めた。警官たちは、こちらに近づくわけにも、かといって言われたとおりに放っておくわけにもいかず、ある程度の距離を保ちながら、じりじり、と追ってきた。

 数分後、彼は、銃口をジー野から外した。その直後、背後から、ぱあん、という発砲音や、がしゃあん、というガラスの粉砕音、ききーっ、という急ブレーキ音などが聞こえてきた。

 再び、ピストルが、右側頭部に突きつけられた。「ドアを開けやがれ! じゃないと、こいつを殺すぞ!」

 がしゃこん、という、どこかで耳にしたことのあるような音が聞こえた。男はその後、ジー野を引きずりながら、入り口をくぐり、ステップを上がった。

 そこは、さきほどまで乗っていたバスの中だった。客らしき人物は一人もおらず、車内には例の、勤務態度の悪いドライバーしかいない。営業所に向かっているところを、男に止められたに違いなかった。

「おい、運転手! 発車しやがれ!」背後で、彼が喚き散らした。「シータ奈空港までの五時間、おれとドライブしようじゃねえか!」


   〈了〉

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