話す犬3
名前を呼ばれたような気がした。
しかしこのうちに私の名前を呼べるものはいない。私は一人暮らしだし、テレビもついていない。完全な空耳だと思っていた。
また連絡をするから、と犬和尚に言われて1週間ほどが経った。昼夜問わず好きな時間に仕事をして、商品を並べて売れるのを待つ。そんな生活をしているから時間の感覚はぽろぽろと落ちていく。まだかなあと切望しつつ、あまり期待しても、虚しくなるので、考えぬようにしている。部屋に日が入らなくなってきた、あと一つくらい作り終えたいのだけれど…と思っていた。すると電話が鳴った。
「雅。起きていたかい。犬和尚からの連絡はまだ来ないんだが、酒がない。」
起きていたか、なんて横暴である。まだ日が出ているのに。昼夜逆転した生活をしているつもりはない。酒がないとの話に呆れて聞いていると、こうである。
犬和尚の寺に行った帰り、縁くんが家に帰ると部屋中が酒臭くって、猫は伸びきっていた。少し封が空いた酒瓶がそこら中に転がっていて、猫が暴れまわったと見える。部屋を片付けて、猫の酔いを覚まして…2日。酒を買い集めて、酒呑み友達と酒宴を開いて3日。二日酔いから酔いを覚まして、人並みの生活を送って2日。連絡をよこしたという。
まだ知らせはないがそろそろだろうと目星をつけて、酒とつまみを手に入れついでに私を呼び寄せるらしい。
「君もさあ、もう少し早くに連絡する気は起きなかったのかい。これからったって、短く見積もって2時間だよ。それに酒とつまみだろう?悩ませるなあ…」
縁くんにちくりと文句を言うが、あまり堪えていないだろう。食にこだわりのある縁くんに持っていく手土産になるので普段は時間をかけて悩んでいるのである。
とにかく早く着くに限る。縁くんは何かなければ連絡が来ない人だ。まず家の中を見渡して、封を開けていない洋酒を二本と、頂き物の昆布巻と鮭とばを見つけたので鞄に放り込んだ。いざとなれば道中で買っていけば良い。乗換駅に漬物屋さんやらがあったはずだし、そもそも下戸の私をはなからあてにはしていないはずだ。今日は電車に乗ってからの2時間が長く感じで仕方がなかった。
電車を降りると小雨が降っていた。傘はいらぬ程だと判断してとにかく急いで縁くんの家に着いた。縁くんは開口一番「遅かったな。」と言う。わざわざにやりと笑って言う。とりあわず、これでも1番早く着く電車で来たさ、と返して、鞄から酒とつまみを出した。
縁くんは満足そうに鮭とばを摘み出して、皮を剥がして猫にやり、身を咥えた。
もぐもぐと口を動かしながら、「和尚のところ、産まれたそうな。連絡があった。七匹目は、ちびで手毬のようだと言うよ。」と言った。
喜び勇んで踊ろうとするのを堪えて、私は、
「あとは、琳派の犬のようにころころに育てておかなきゃならんよなあ。」と呟いた。
縁くんは、人の気など知ってか知らずか、「そんな苦労はかからぬよ。もともと1番小さな子だからね。本当に人語を解するか楽しみじゃないか。明日の朝1番に行ってやろう。」とどこからか日本酒を出しては舐めていた。
ほらみろ、やはりお酒がないわけではない。犬和尚のところの犬が産気づいたか何か、そんな連絡が入ったところをこちらに連絡をよこしたと見える。
よっぽどお酒を飲んでいたのに、縁くんの朝は早かった。薬缶のお湯が沸いたしゅるしゅるという音で目を覚ました私は、大方朝食が準備されているのを確かめた。
「やっと起きたか。あとはお茶の支度だけなのだが。」
と縁くんに嫌味を言われるが、彼がお茶を入れたほうが断然美味しくなるのでなにも言わない。身支度だけ軽く整えて、椅子にすわる。昆布巻と梅干が小皿に出されて、ご飯が茶碗によそわれている。お茶が並んで、いただきます、と小さく声をかけて、いただく。
やはり食器を洗ってくれ、と頼まれて洗い場へ運ぶと、酒瓶が五本も転がっていた。猫五匹と飲むにしたって多いんじゃないかと思うが、水で濯いで後始末をしておいた。
縁くんの家を出てからは、気持ちがはやった。信号でちょっと止められてもなんとなく落ち着かないでいた。さして時間は変わらないよ、とたしなめられたが、そういうものでもない。得たいものが手に入る時、これはいちばん楽しい瞬間である。
狛犬たちを撫で…首あたりの毛並みを堪能し、庫裏へ上がる。
「ようこそ。なかなか連絡ができずすまんね。」と犬和尚は眉を下げていった。
「まだかまだかとやっと産まれて、親犬と子犬も身繕いも済ませて。なんだかんだとやることが多いもんだから…」
犬和尚は私たちを奥の座敷に案内しながら呟く。次第に声を潜めていって、私もそれに習った。
「1番小さい仔がいいんだそうだね。より喋る仔が。」
「はい。ただ、和尚のところには話す仔がいなくなってしまう…」
少し言い淀むと、和尚は
「いや、まぁ、1番小さい仔が話す確率が高いのは確かなんだがな…厳密な法則もなにもないから。他の仔らも話すやも知れんでな。」
なにも気にすることはないよ。と飄々としている。
座敷を覗くと毛糸玉のようにころころとした仔犬たちがそこらに落ちていた。自由にさせておくとこんなもんだなぁと笑って、和尚は七匹を抱えて母犬の近くに寄せた。
「猫もそう変わらないよな。勝手に散らかる。」縁くんがやっと口を開いたかと思えば、そんなことを言う。
母犬に寄せられた仔犬たちはしばらく乳を飲んで、満足すると離れて行く。殊更小さいお目当の仔犬は最後まで乳を吸っていた。
場所を変えて乳を吸わせてもなかなかに大きくならぬのだよ。と6番目に産まれたという仔と並べる。和尚は6番目も小さいがそれ以上に小さいんだと言う。
6番目も乳を与えても大きくならぬから、こいつも話すだろうという読みらしい。
長居しても迷惑だろうし、そろそろお暇すると伝えると、和尚は、
「縁無しでもいつでも来いよ。縁は猫派だからなぁ、もともと静かだが、ここに来るともっと静かになる。わしも仕事があるから、話し相手にはなれんしな。」
と母犬を撫でながら言った。
「猫は好きですけど、狛犬たちだって僕のことを喜んでくれますし、酷い言い草だよ、和尚。」と縁くんは笑いながら答えていた。
ではまた。と簡単な挨拶を済ませて、庫裏を後にする。帰りの電車では、縁くんが、「和尚に任せておけば良いだろうよ。また頃合いになったら呼ぶ。またな。」と言って自身の最寄駅で勝手に降りていった。
私の最寄り駅まであと2時間。余韻も何もない。無粋だなぁ…と思いながら、彼らしいなぁと呟いて…うつらうつら…寝入ってしまった。
夢か現か、日常か 明日野四音 @tetra710
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