嫌いな季節

私は夏が嫌いだ。仕事のミスをしてしまった後は特に。そもそも夏なんて来なければ、きっとこんな思いをすることもないだろう。

会社から早上がりで出て真っ先に感じたのは、暑さだった。まだ六月で、時計は五時を回っているにもかかわらず、太陽は夏のそれと見紛うほどの熱をもたらしている。そんな日の帰り道で私は、不意に冷たい物を飲みたいという欲求に駆られ、コンビニへと、急ぎ足で向かった。

暑く、車などの音が耳につく外とは違って、クーラーの涼しさと宣伝まじりの音楽が出迎えてくれるコンビニへと入る。

「いらっしゃいませ」

商品の入れ替え、レジ打ちなど、コンビニでバイトをしている人たち四、五人の声も続いて聞こえてきた。皆さんまだ働いているんですね、私はもう仕事を終えましたよ。なんて小さな優越感に浸っていると、そういえばこの人たちは朝からバイトをしているわけではないのだと気づき、それは小さな恥ずかしさに変わった。

いや、そんなことはどうでもいい。今は冷たい飲み物だ。そう思い直し、ドリンクコーナーからお気に入りのスポーツドリンクを取ってレジへ向かう。

「お仕事のほう、大変ですか」

会計をしてもらっていると、店員がいきなりそんなことを聞いてきた。まじめに仕事してください。というべきなのかもしれないけど、その言葉、というよりその声にどこか懐かしさを感じた。

「慣れるのに精一杯です」

そう言って苦笑しながら顔を上げると、忘れもしない笑顔がそこにあった。ちょっと人をからかうような、人懐っこいその笑顔。

「そうなんですか、頑張ってくださいね、南さん。あ、百三十二円になります」

その無邪気さは五年前と変わらないけど、あの頃より大人びたな。というのが、その場での私の感想で、そんな彼女がこんなところでバイトをしていることに、私はひどく驚かされた。

「あ、あぁ、うん。北田さんだったんだ、久しぶりだね」

それより驚いたのが、私たちがお互いのことを忘れていないことだった。まあ、そんな簡単に忘れられるような関係でもなかったのだけど。

「バイト、何時上がり? 少し、話したいな」

気づけば私は、そんな風に誘っていた。お金を払いながら反応をうかがう。

「いいよ、もうすぐ終わるし待ってて。私も話したい」

こうして私は、五年前の因縁と再会した。


二人で思い出話をすると、やはり話題は五年前のことになる。

受験に焦る少女と呑気に遊ぶ少女。かたや因縁を背負い、かたや後悔をすることになる馬鹿な二人の思い出話だ。


夏休みの初め、私は朝から照りつける日の下をダラダラと塾へ歩いていた。成績が上がらず夏期講習を目いっぱい詰め込んだ。大学受験も少しずつ迫っているのだから、ここで巻き返さなくてはならない。

しかし今日は朝からやけに暑い。早くクーラーの冷風を浴びたい。そんなことを思っていると、ようやく目的地の少し小さいビルが見えてきた。入口に塾の名前とロゴがあったから間違いない。

「夏期講習を受講する南明季です」

ビルに入ってすぐの受付で自分の名前だけ告げてから、名簿が中学生の分から何枚かあることに気づき、大学受験対策コースだと付け加える。中学一年生から夏期講習をするものなのかと少し感心しながら自分の名前を探す。自分の名前を見つけると、それと同時に受け付けの人がチェックをつけた。

「三階の特別講義室にどうぞ。担当の方がいますから、詳しくはそちらでお願いします。頑張ってくださいね」

どう返せばいいのかわからなかったので、曖昧にうなずき、三階に上がって特別講義室に行くことにした。時間には少し早いがまあいいだろう。

そして私はなんとなく三階まで階段を使おうと思ったことを後悔した。暑いし、疲れがさらにたまってしまい、勉強をこれからするという事実がにわかに信じられなかった。エレベーターを使えば今ほど憂鬱にはならなかっただろう。

「おはようございます、大学受験対策コースの受講者ですね、こちらの部屋にどうぞ」

ぼんやりと頭の中でたらればを思い浮かべながら意気消沈していると、講師の事務的な声とともに、ようやく講義室についた。やっと席について休めると思うと、すっと足取りが軽くなる。

「おはようございます」

「おはよう! 今日からよろしくね」

誰かに届けようという気は一切なかったあいさつに、返事が返ってきた。声のトーンから察するに、一緒に講習に参加する生徒だろう。講義室の中に目を向けてみると、生徒が一人、私のほうを見て無邪気な笑みを向けている。元気そうな子だな、となんとなく思うし、こんな仲間が一人いると空気も明るくなりそうだとも思った。

「あ、私は北田遥。遥って呼んでね」

席は自由だったので、とりあえず隣の席に座る。流石に会ってすぐ下の名前を呼ぶのは気が引けるので、提案に対しては申し訳ないが北田さんと呼ぶことにしよう。

「私は南。よろしくね、北田さん」

「えぇ……まあいっか、ラインしようよ、ふるふるできるでしょ」

下の名前を呼んでもらえずしょんぼりとしているようだが、彼女はすぐにスマホを出してラインを開きながら聞く。これも何かの縁だろう、夏休みの間だけでも連絡を取り合うのはいいかもしれない。自宅学習の進捗を聞いたり、志望校について話し合ったり。それは、モチベーション向上にも役立つと思う。

「うん、やってる。ふるふるくらいわかるよ」

 スマホをポケットから取り出してラインを開き、二人してスマホを振り、友だち同士になった。誰かとこうして繋がるのは受験勉強を始めてからほとんどなかったので、少しうれしくなる。やっぱり友好関係を広げることは心を癒すのに効果がありそうだ。

「じゃあ、よろしくね、南さん。あ、おはよう」

 そう言うとすぐに北田さんは新しく入ってきた人にあいさつしながら近づいていく。やっぱり彼女は元気だな、と思いながら授業の開始をぼんやりと待つ。


「今日やったところは基礎ですが、ここを怠ると応用にも繋がらないからちゃんと復習して確実にするように。出した課題もちゃんとやっておきましょう。ではご苦労さまでした」

 午前中に一コマ一時間で三教科、お昼を挟んで午後に二教科授業を受けて、三時から演習の時間。全てが終わるころには時計は六時半を指していた。受講している生徒たちの顔には疲れが感じられたが、それでも頑張らなければいけないというような決意にも似たものを感じる。私も負けてはいられないなと帰宅準備をしながら隣の北田さんを見ると、ぐったりと机に突っ伏して露骨に疲れを見せていた。

「夏期講習って大変だね、学校の課外とは別の辛さみたいなのがあるっていうか……」

もともと一緒に帰る気だったのか、先に帰ってていいよと言って項垂れている。私の家の方向も知らないはずなのだけど、寄り道でもするつもりだったのだろうか。まあいいかと一人で塾のビルから出ていく。しばらく歩いていたが、一人帰り道を歩くのも退屈なので、一日を振り返ってみることにした。

初日の北田さんの印象は、フレンドリーで気さくな子、といったところだろうか。私に限らずその後来た受講者全員に挨拶していたし、空き時間には多くの人に声をかけていた。彼女を見ていると私まで少し楽しくなってくるのだから不思議だ。

勉強のほうはというと、あまり身が入っていないように見えた。ちらちらと彼女を見てみると、ノートもあまりとっている様子はなかったし。少し心配だが、多分初日で浮足立っているだけだろう。多分明日は大丈夫。そう思うことにした。

それよりも私のことだ。初日だったので基礎的な内容でどうにかなったが、少し危ういところもあって心配だ。家に帰ったら復習からしなければならない。気持ちがどんどん沈んでいき、思わずため息が漏れてしまう。

 志望校に受かるための成績が足りなかった私には、彼女のように明るくふるまう余裕などどこにもなかった。塾でも家でも空き時間でも、できるだけ勉強して取り返さなくてはいけない。こうも思いつめて憂鬱になるのは、暑さで頭がやられたからだろうか。とりあえずこういう時はコンビニでスポーツドリンクでも買っていこう。

「どうしたの、ずっと困った顔してさ」

背中からその声が聞こえたのはまさにコンビニへ行こうと決めたのと同時。驚きのあまりすぐさま顔を上げると、そこにいたのは北田さんだった。朝に会った時の無邪気な顔ではなく、心配そうな顔を浮かべていて、どれだけ私が深刻そうな顔をしていたのかが分かる。

「別に、大したことじゃないよ。大学に行きたいけど成績が足りなくて、頑張らなきゃいけないなって。北田さんは、行きたい大学とか、成績とか、どうなの」

大した悩みでないことを伝えるついでに、何の気なしに聞いてみる。私ほど成績に難があるわけではないにしても、夏期講習に出るくらいには難しい大学だったり、少し自分よりレベルの高い大学を受けるつもりなのだろうか。

「いや、特に考えてないかな。なんとなく夏期講習に行っておけば他校の人と会ったり、新しい経験になったりしていいかなって、そんな理由だよ。あ、南ちゃんもあんまり根を詰め過ぎたらだめだよ? 疲れるし、ずっとそんなんじゃつまらないでしょ。なんでも楽しくないといやだよね」

拍子抜けした。というより失望した。多分この子は大学受験さえ一つのイベント程度にしか見えていないのかもしれない。どおりで勉強にも身が入らないわけだ。初日で浮足立っているわけでも、まして勉強に余裕があるとかでもなく、ただ楽しくないから。そんな理由なのだろう。

でもまあ、自分に影響が出ない程度には仲良くしておこう。やっぱり、彼女のいう事にも一理あると思うのだ。頑張り過ぎて潰れたら意味がない。たまの息抜きにはちょうどいい。

「そっか、頑張ってね。進路とかも決めといたほうがいいと思うよ」

 私からも少しだけアドバイスをすると、そのまま急ぎ足で家に帰ることにした。早く帰ってまた勉強。今は楽しさより学力向上に努めなくてはならない。


それから数日たった結論は、どうやら北田さんは本当に馬鹿なのかもしれないということだった。朝早く塾の講義室に行くのが習慣になってきたが、彼女は初日からずっと同じ席に座っていた。しかし今日は今までとは違い、机に突っ伏している。

『どうしよう、助けて南ちゃん』

 たったそれだけのメッセージが夜中に送られてきたときは何事かと思ったが、後に送られてきた追加のメッセージに私は何も返す気になれなかった。

冷たい対応になってもそれは仕方ないだろう。私は夜な夜な復習と予習に明け暮れているのに、彼女は男友達に嫌われちゃったかもだなんて相談をするのだ。呆れを通り越して悲しくなってくる。余裕なのか、それとも自分がどういう状況なのかわかっていないのか。

私は無言で今までと同じ席につき、勉強に使う道具などを準備しながら彼女の表情から真意を探ろうとする。私はもう北田さんが何を考えているのか分からなくなってきた。寒気すら感じるが、おそらく今日は曇りであまり暑くないのに冷房がついているからだろう。きっとそうに違いない。

夏期講習の日程が半分を過ぎるとなると、周りの塾生も昨日の授業の復習をしたり参考書に取り組んだりと、各々で勉強に取り組んでいるのがほとんどだった。北田さんもそうなるだろうという思いは、初日の帰り道ですでに打ち砕かれている。ついでに昨夜追い打ちまでかけられた。

「すっごく盛り上がってたのに、一時くらいだったかな、相手が急にもうチャットのやり取りをやめようって。仲良くなってきたかなって思ったんだけど、私の何がいけなかったのかなぁ」

いや、それは妥当だろうと言いたくなった。たぶん相手は同級生だし、それはつまり受験生ということで、受験勉強をしていることだろう。はっきり言って彼女は邪魔になっていたのだと思う。私だってたった二言で呆れるのだから仕方がない。

「北田さん、相手は同級生なんでしょ。その人も受験勉強の時期に入ってるんだろうしさ、チャットが勉強の邪魔だったんだよ、ちょっとは自分の置かれてる立場とか、考えたほうがいいんじゃないの」

諦めにも似た声色で彼女を諭すが、既に意味も無いことは目に見えている。どうせ彼女はまた聞かずに文句を言うだけなのだ。

「じゃあ、南ちゃんは勉強をすることが大事だと思ってるんだね」

 しかし北田さんは急に体を起こして私の方を向き、どこか寂しそうな、冷めたような目でそんなことを言った。楽しさを否定されたからって、そんな不機嫌になられても困る。実際勉強をしないと大学には受からないのだから。楽しいことを望むのは否定しないが、せめて人に迷惑をかけることはしないでほしい。私にも、その男友達とやらにも。

「そう、勉強は大事。私もその子も、北田さんにだってね」

 まだあと数分は時間がありそうなので、とりあえず予習でもしよう。夏期講習最後の模試で判定を上げなくては。

「勉強、勉強、勉強ね……。そうだ、だったら最後の模試で勝負しようよ。どっちが点数を稼げるか」

その言葉に、思わずノートを取っていたシャープペンシルの芯が折れてしまった。

この期に及んで模試の点数で勝負をしろというのか。

おそらくこの提案にも深い意味はないのだろう。ただ、面白そうだからやる。そんな心持ちなんだろう。本当に、どこまでも訳が分からない。ここまで来ると何か企みでもあるのではないかと変な邪推も入れたくなってくる。ただ、その一方でこれはチャンスかもしれないとも思った。ここで私が勝って見せれば、夏期講習は終わってしまうがその後の学習を彼女は真面目に取り組んでくれるかもしれない。私には一切関係ないが、彼女のためだ。

「いいよ。でも、そこまで言うならあまり悪い点数とらないでよ」

冗談交じりに提案を受けていると、塾の講師が入ってきて、授業の準備を始めた。

「わかった。絶対に負けないからね」

 そういう北田さんの顔は、楽しそうに笑う無邪気さに、野性を思わせるような好戦的な何かが混じっているように思えた。


負けるわけがない。相手はチャット等に明け暮れる馬鹿なんだ。そんな自信と余裕の混じった感情を胸に宿しながら、私は塾についた。これで最後、冬期講習などでまた来るかもしれないが、夏期講習を受ける身としては最後の来校だ。

「大学受験対策コースの南です。模試の結果を見に来ました」

初日にコースを言わずに少し時間がかかったのを思い出し、予めコースと一緒に受け付けに伝える。今まで受けていた講義室に結果が張り出されていると教えられた。今度はエレベーターを使って初日より幾分か早く三階へ向かう。初日よりもさらに早く来たからか、講義室には誰もいない。誰の目も気にせずに結果を見られることに感謝しながら受験番号を探す。

「あ、結構上がってる。でも……やっぱり若干足りないな」

 志望校のレベルを下げるべきかどうか怪しいラインだったが、結果として成績は上がっている。これだったら少し下のレベルでも志望校になりうる大学に目星をつけつつ、今の志望校のまま勉強を頑張るべきだろう。夏期講習の成果は上々だったし、これは嬉しい結果だ。

しかし、すぐにそんな喜びも、最初に感じていた余裕も、全部頭の中から消えていくことになる。

「私の勝ちだよ、南さん」

結果に満足していると、後ろには北田さんがいた。飲み物を買っていたようで、片手にスポーツドリンクを持っている。そんなことより彼女の言葉だ。私の勝ち。その言葉が本当か確かめようと張り出されている紙を見渡す。隣同士の番号なので、何番かも知っている。彼女の番号はどこか。

「え、なんで上なの。だって北田さんは……」

その番号は、私よりかなり高い点数を示していた。信じられるわけがない。何回も見直した。番号の間違いも考えた。でも、何度否定しても、その数字が知らしめる。

私は負けたのだ。楽しいことが何より好きで、頑張っているところなんて見たことのなかった彼女に。

「まあ、そういう反応だよね、南さんは。私、多分勉強効率がいいほうなんだと思うよ。学校の授業と宿題、それだけでまあ、そこそこの点数は取れてたし」

 わけが分からなくなってきた。それだと、北田さんが塾に通う理由が見つからない。

「じゃあ、何を目的に塾に来たっていうの?」

 内心ひどく焦りながら、彼女の真意を問い質す。

「親に勧められたわけでもなくて、ここに来たのは本当に気まぐれで、本当に面白そうだっただけなんだ」

 自慢話とも取れる話をしながら、ゆっくりと隣まで歩いてくる。真面目に、面白さを求めずに全部話していた。だからこそ余計にいらだつ。ふざけた態度をとっておきながら、頭の出来が違ったなどという告白など、不出来な私にとっては恨みが募るばかりだった。

「それで、面白かったの? 塾にすがって必死に勉強する姿を眺めて、楽しむことも大事だと呑気に謳って、挙句努力を尽くした人間を打ち負かして、楽しかった?」

もはや吐き出す言葉を考えることもできないほど私には余裕がなかった。彼女を許す気などさらさら無い。ホワイトボードの前に二人、まだ誰かが来る気配はなく、私を落ち着けるものは無かった。

「楽しかったよ。南ちゃんを見てると、あぁ、本当に頑張ってるんだなって感心したし、模試の勝負だって、ずっと私を見下してた南ちゃんに、してやったって思うと、うれしかっ  」

 バチンと、講義室内に軽い音が響く。

「そんなに嫌だったら、さっさと私から離れればよかったじゃん。まあ、よかったね、仕返しできて」

 自分でも信じられないほど重く恨みがましい声を放つ。歯止めがきかない。怒りのままに頬を打ち、恨みのままに毒を吐く。

「そんなつもりじゃなかったんだって。私はただ勉強だけが大事じゃないって言いたくて」

さっきとは打って変わって申し訳なさそうに、すがるように訴えかけてくるその姿に、私はさらに苛立ちを募らせていく。自慢げな態度のままだったらまだ諦めがついただろう。しかし、そんな風に急に弱々しく言い訳を始められると、ここまできれいに打ち負かしておいてまだ仲良くできると思っているように感じる。それが許せなかった。

「私が勉強ばかりしていたのがいけなかったわけ? 遊んでいればもっと点数が伸びるっていうの?」

怒鳴るようにまくし立てていく。語気はどんどん荒くなり、理性が薄まっていく感覚に制止が効かなくなる。

「ごめんね、南ちゃん……ちょっと、言いすぎたね」

 その言葉を聞いて、その申し訳なさそうな顔を見て、すっと怒りや熱が引いていくのを感じた。あぁ、やってしまった。勢いに任せて、手を出して、憎んで、放り出してしまった。いったい何をしているのだろう。最悪だ。今更気づいてももう遅い、私のプライドは、謝ることも許すこともさせなかった。

「もういいよ。じゃあね、多分もう会うことはないけど」

 そのまま家に帰ると、すぐさま自室に戻り、着替えもせずに制服姿でベッドに飛び込む。皺ができるとか、どうでもいい。何も考えたくなかった。志望校も、努力も、今日のことだって。全部投げ出したくて、何なら今すぐ投げ出そうとも思った。所詮馬鹿、所詮無駄、全部無意味で、自分がしてること全部、何にもならないような気がする。

気づけば私は夏期講習用の教材を捨てていた。ラインのアドレスも消した。ノートも模試の結果の紙も全部捨ててしまった。夏期講習の記憶をとにかく消したかった。志望大学も変えよう。ランクを落として、塾に行かなくていいようにしよう。

こんな思い、二度としなくていいようにしよう。


「今思うと、やっぱり馬鹿なのは私のほうだったかな。勝手に見下して、一人で壊れちゃってさ」

 北田さんがコンビニのバイトをあがると、二人並んで歩いた。ゆっくり話せる所にアテがあるらしかったのでついていくと、そこは公園だった。二人ベンチに座り、のんびりと思い出話をしていると、そのうちすべて話し終え、当時の感想が漏れだす。

「まあ、そこも否定はしないよ。でも結局、お互い馬鹿だったってこと。目の前の出来事に追われて、無茶苦茶やってたね。私は意味もなくプライドを逆撫でして、南ちゃんはプライドを踏みにじられて逆上しちゃった」

 五年という年月に改めて驚かされる。こうやってあの頃は思いもしなかった北田さんとの再会を、喜んで受け入れている自分がいる。

「確かにそうだけど、それを北田さんが全部言うと恥ずかしいな。それこそ馬鹿にされてるみたいで」

それは見透かされたようであの頃は嫌でしかなかったが、今思えばそれだけ、自分も他人もよく見ているということなのだろう。人と話す能力、人を見る能力が高いというのは、素晴らしいことなのだと思う。やっぱり、北田さんには敵わないらしい。

「ばーか。南ちゃんは馬鹿だよ」

 ベンチから立ち上がり、彼女は私のほうを向いて舌を出しながら言うが、彼女の声からは、悪意を全く感じず、寧ろ親しみを感じた。あの日の事をやり直すように、私もちゃんと返さなきゃ。

「北田さんだって馬鹿でしょ、ばーかばーか」

 座ったままでとびっきりの親しみを込めて言う。二人して子供みたいに言い合って、そうして笑い合うだけで嬉しかった。因縁が、踏みにじられたプライドが、懐かしい記憶に形を変えていく感覚を覚える。

「ねぇ、南ちゃん、今ならあの夏にできなかったこと、できないかな」

ふと、北田さんは急に表情を変えて真面目なトーンで聞いてくる。できなかったこと? 勉強会か何かだろうか。

「いいけど、今の私たちでもできることだよね? 今から勉強会は不毛すぎると思うけど。そもそもなんで急に……」

訝しみながら聞くが、表情を見るにそういうことをするわけではなさそうだ。涼しさを感じ時計を見るとすでに六時半を過ぎている。

「私、海外派遣のボランティアに応募して受かったんだ。夏の終わりごろにはシリアに行って、負傷者の手当てや看護の手伝いをしながら結構長い間向こうで過ごすの。二年くらいかな。だから、せっかく仲直りできたんだし、向こうに行く前に思い出づくりしておきたい」

 急すぎる話や、予想を超えていく彼女の行動力に私はまた驚かされてしまった。そもそもシリアだなんて危険すぎるし、彼女自身が負傷してしまうかもしれないのだ。でも、それはどこか彼女らしいような気もした。何でもやって、人とふれあって、すぐに仲良くなって繋がっていく。

「きっと上手くいくよ。今度は北田さんの明るさと負けず嫌いが良い方向に働くはずだから。うん、そういうことなら喜んで。あの日のお詫びにね。それで、まず何をしよっか、予定とかも今合わせられるかな」

スマホを取り出してスケジュールを確認する。今週末の予定が空いているので、北田さんが良ければその日にでも何かしよう。そう考えながら立ち上がると、先を急ぎすぎだよと彼女は制止した。

「もっと大事なことがあるでしょ。私、南ちゃんの下の名前を聞いてないし、まずは改めて自己紹介しよう」

苦笑しながら言われると、途端に恥ずかしくなってしまった。ほんとに急ぎすぎてる。それに私も彼女の下の名前を覚えていなかったことに余計恥ずかしくなる。

「南明季、二十三歳。CMでやってるような企業の下っ端で、デスクワークしたり上司の機嫌をうかがったり。でも頑張ってる。目の前のことに精いっぱいだけど、一応充実はしてるのかな。さあ、次は北田さんの番だよ」

そういえば夏期講習ではあっさりと流してしまったなぁと、反省の意を込めてそれらしい自己紹介を面と向かって送る。彼女が嬉しそうに、そっか明季ちゃんか、と言っているのを見て微笑ましくなってくる。

「うん、私は北田遥。フリーターしながらいろんなことを体験してる。大学ではサークルを転々としたし、今は友達の仕事の助っ人とかやったりしてるんだ。秋には海外派遣があって少し緊張してるけど、頑張るよ。それまでの間よろしくね、明季ちゃん」

 そう言って伸ばす彼女の手を掴む。二度と離さないように、すれ違わないように。

「よろしく、遥」

 私たちの夏が今、始まったような気がした。今度こそ、夏を好きになれるかもしれない。

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百合的短編集 an=other @an_other

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