水底の世界

 夏もすぐそこまで迫っているある夜のことだった。潮の打ち付ける岸壁。その音だけがあたりに満ちている。曇ったその夜には、下を見下ろしても何も見えず、故に恐怖心を強く煽る。

 そこに立つ少女も、例外ではない。足はすくみ、夏が間近であっても潮風が冷たく、恐怖心とともに体を震わせる。寒さに反して汗で頬はぬれ、呼吸は浅く乱れていた。

(大丈夫、海と一緒になれるなら本望)

 そう心に言いきかせ深呼吸すると、ふっと汗は引き、震えが止まった。彼女は海が好きだった。夜の海が好きだった。底が見えず、呑み込まれそうな夜の海がたまらなく好きだったのだ。

 彼女は一歩、また一歩と歩みを進める。その歩みに恐怖はなく、あるのは少しの喜び。好きだった夜の海に溶けることへの喜び。

 そして彼女は落ちた。光の差し込まない、真っ暗な水底の世界へ。


 気付いたころには、夏はもう始まっていた。夏休みを迎えた湊美咲は、初めそんな風に思っていた。プールや海に行けない彼女には暑さしか夏を実感する要素がない。というわけでもなく、実際彼女が夏を実感したきっかけも、暑さとは別の出来事だった。

「外、賑やかだな……海開きしたんだ。夏、来たなぁ」

 窓の向こうから聞こえる喧騒に、美咲はぼんやりと呟く。彼女の家は、海に近かった。潮のにおい、海から吹く少し涼しげな風、海水浴場で遊ぶ家族やカップルの楽しげな声、五感を擽る海の全てが彼女は好きだった。

 それでも彼女にとって海は、限りなく遠い世界の憧れに過ぎない。皮膚が弱く、乾燥や強い日差しが大敵の彼女からすれば、海に入るというのは自殺行為に近かった。しかしながら、遠ければ遠いほど憧れは強くなる。そうして美咲は、行けない身体と海への憧れの間で、やきもきする。

「美咲、すぐそこの海岸で海開きしたんだって、行って来たら?」

 美咲を家に住まわせている叔母の湊水緒は、浜の方まで行って見るだけでもいいんじゃない、と開きっぱなしの美咲の部屋の外から投げかけてみる。水緒から見ても彼女の眼差しには憧れを強く感じたのだろう。

「いや、いいよ。行ったら余計入りたくなるし、ここから眺めるくらいで充分」

 美咲は笑った。それは悲しいような、何かを抑え込むような、負の笑みだった。水緒は、そっか、とだけ言って部屋を離れる。

 美咲はもともと内陸の地域に両親と住んでいた。海とは全く縁がなく、近いのはどちらかというと山や森だった。物心ついたころ、彼女は自分の名前が海に関していることに気付くと、海が好きになった。中学校までは両親に育てられた方がいいという家族の方針から内陸に住み続けた彼女は、高校に進学した今年ようやく沿岸部に住む叔母の家に住まわせてもらうことになったのである。とはいえ、プール授業で現実を見た彼女はすでに過度な期待はしていなかったのだが。

「夜だったらまぁ、見に行くくらいできそうかな」

 夏の日差しもまた、彼女を苦しませているのである。故に、日も海水も天敵な彼女にとって、夜に浜辺を歩くのは確かに妥当な考えであった。

 うんうんと納得すると美咲は、立っていても眺める外ないので、ベッドに飛び込み、そのまま目をつむった。ゆっくりと意識は夢にとけていく。


 気が付けば美咲は、海の奥深くだった。体の自由は利かず、上下も分からないほど暗い。しかし、息苦しさはなかった。それでも彼女がそこを海の奥深くだと思ったのは、聞こえてきた声が籠っていたからだろうか。

「あなたは、海が好き?」

 どこからか聞こえてくるその問いに、美咲はぼんやりとした思考で、うんと肯定を示す。

「私と同じだ。でも、遊びに来ていなかったよね?」

 未知の何者かが発したその質問は、問いただすというより、不思議だから聞いてみた、というような意図を含んでいた。それも仕方ないだろう。美咲のように皮膚が弱くなければ行っているだろうし、かといってその何者かが美咲のことを知っていたわけでもあるまい。ソレから見れば美咲は、天邪鬼にしか見えないのだった。

 美咲は行けなかった理由と夜に行くことを何者かに伝える。

「そっか、じゃあ少し離れの岩場で待ってるね」

 嬉しそうに話してどこかに消えていく姿をぼんやりとだが最後に美咲は捉えた。しかしソレ、もとい彼女には脚、具体的には腿より下あたりがなかった。


「あ、生きてた」

 大きく目を見開き、あたりを見回して確認すると、美咲は安堵したかのようにそう言葉をこぼした。辺りは暗く、どうやら昼寝をしているうちに夜になったようだ。

 言葉の次に発された音は腹の音だった。そういえば昼食は食べただろうかとぼんやりとした意識で考えながらリビングへ向かうと、ソファでテレビと向かい合いながらうとうとしている水緒の姿がある。美咲はそれを一瞥すると起こさないようにテーブルに置かれている夕食に少しだけ手を付ける。

「海、行ってみるね」

 残った夕食はそのままに、意識が夢と現を彷徨っている水緒にそっと言いかけてリビングを出ようとする美咲。

 気づかないように言ったのは、あまりルールを作らない水緒が、門限には厳しかったためである。日が落ちる前には家にいなさいと、美咲は水緒にいつもいつも口うるさく言われていた。

「美咲、夜なんだから外には出ないでっていつも言ってるでしょ。昼間私が言ったときに行けばよかったじゃない」

 しかしそんな美咲の思い空しく、深い眠りについたわけではなかった水緒の耳にはその言葉や足音がちゃんと聞こえていた。そして案の定、普段より強い口調で止める。

「海、夜じゃないと見に行けないから」

 小さなため息を一つ、美咲は反論を始める。今日だけは彼女も譲りたくなかった。全てはあの夢が原因である。所詮夢だと割り切ってしまえばいいのだろうが、彼女にはあの言葉が絶対的なものに感じられた。

「昼間にだって、日焼け止めをちゃんと塗って日傘さしたり長袖を着たりすれば平気じゃない。明日行きなさい。夕飯も残ってるんだから」

 水緒もこれだけは譲れない。今まで止めてきたのも、今必死に止めようとしているのも、ちゃんとした理由があってのことだ。その理由を伝えられないことが、平行線たる理由で、水緒が最終的に美咲に押し負ける理由だった。

「今しかないの。夜の海じゃないと、約束を破ることになる」

 その約束が夢の中の出来事だとは、口が裂けても言えなかった。そんなことを言ったら、水緒はくだらないことを言うなと反論するだろう。しかし、約束とだけ言われたら友人との約束だと想像するのはたやすい。

「約束ね。そう、じゃあ止めないけど、私とも一つ約束して。絶対に、海に入ったらだめだからね」

 美咲は、はいはいと二つ返事で了承し、家を出て行った。

 

 夜道を歩く美咲は疲弊していた。夕飯もろくに食べていないうえに、小さな口論を水緒としてから出てきたのがいけなかったのだが、すべて彼女の自業自得だった。かといって途中で立ち止まるほどのことでもない。美咲の住む家からは海がかなり近いのである。海水浴場となっている砂浜を少し通り過ぎると、岩場が見えてくる。夢の声との待ち合わせ場所は、ちょうどそこだった。時間もちゃんと把握していない美咲は、そういえば待ち合わせ時間を決めていなかったなと思い出しながら、周囲を見渡す。浜辺の近くに道路がある。その脇の街灯の光が届いているため、そこまで暗くもなく、人目から離れすぎているという心配もない。地面の岩場も濡れていないので、波も来ないのだろう。あたりに人影らしきものもないので、やっぱり所詮夢だったかと諦めながらも座って待ってみる。すると、波の中から出てくる人影があった。

 その人影が何か喋っているようだったが、波音にかき消されて美咲には何を言っているのか全く分からない。そもそもよく見えなかったので、家から持ち出した懐中電灯で照らすと、どうやら嬉しそうに笑みを浮かべる少女のようだ。そして、やはり夢は間違っていなかったらしく、その少女の脚は透けていた。

「ごめん、よく聞こえない。もっと近くでもう一回言って!」

 美咲は海から上がってきた幽霊と思われる少女に、ちゃんと届くように全力で叫ぶ。するとどうやら届いたらしく、その少女は走り出した。足が透けているにもかかわらず、美咲の眼には走っているように映ったのである。

「ほんとに来てくれたんだ。よかった。来ないかと思った」

 彼女は、夢の内容と一致するように、安堵の表情で美咲のすぐ近くまで来る。街灯に照らされているはずの彼女の影は、岩肌には投影さえていなかった。

「まぁ、約束は約束だし、夢にしたって守らないといけないかなとは思ったよ」

 夢に出てきた幽霊との対面に思考がついていかない様子の美咲は、目の前の幽霊をまじまじと見つめながら釈然としない様子だ。波音と途切れ途切れの車の走る音のみが辺りに満ちる。美咲は夢とのつながりや幽霊の実在に対しての困惑と興味の入り混じった感覚に、幽霊少女はまじまじと見られている気恥ずかしさに、それぞれ口を封じられていた。

「あ、そうだ。私は美咲。貴方のことは何て呼べばいい?」

 いつまでも幽霊だとか、夢の少女だとか考えるのも、そう呼ぶのもはばかられたのか、或いはただ無言の空間が手持無沙汰だったからかもしれないが、ともかく美咲はゆっくりと口を開く。

「あぁー、私、名前とか自分のこと何にも分からないんだよね。気づけば海で幽霊になってて、って感じ。でもまぁ、海は好きだし、そう、ウミでいい。カタカナのウミ」

 漢字の海じゃまんま過ぎて美咲が日記つけるときとかなんかややこしいしね。と、美咲にとっては何ら必要のない配慮までしていた。美咲はそもそも呼ぶときのことも考えて海から完全に離れた名前にしてほしかったのだが。

「それにしても、海って夜でも思ったよりきれいなんだね。街灯で結構見える」

 穏やかに揺れる海の波は、美咲の心も穏やかにさせていった。生命の母だからだろうか、海を見ていると不思議と安心するものである。いつの間にか隣に座っているウミもまた、穏やかな目で海を見つめている。

なんてことはなかった。

「そう? 私美人さんでしょ、美咲ったら見る目あるね」

 照れながらそう言うウミに対し、美咲はあきれ果てる。ウミと名乗らなければこうはならなかったろうに。

「私がいま言ったのは漢字のほうだから。もうさ、ウミって名前やめたらいいと思うんだけど」

 小さくため息を一つ、美咲は無駄だろうなと半ば諦めながら提案する。

「えぇ、やだよ。海好きだし。そう言う美咲はなんかいい名前思いついてるの?」

 ウミは美咲の思った通り食い下がる。そして美咲はそれに対して何も言い返せずにいた。何も考えなしに否定する愚かさをほんの少し思い知らされる。

 そんな中代わりに返事をしたのは美咲の腹の音だった。

「うっ、そういえば夕食全然食べてなかったんだ。今日は帰るね、週末にはまた来るよ」

 名前を考えていなかったのは話をそらして切り抜けた。そうしてその場を去ろうとするも、「え、私の名前は?」と言われ、しぶしぶ「ウミでいいよ」と返してから家路についた。


「週末か、楽しみだな」

 美咲が来た次の日、ウミは海中で一人考えていた。また来たときは何をしようか。どうすれば美咲にこのきれいな海の世界を見せてあげられるだろうか。外の世界はどうなっているのだろうか。ウミは新しい友達が増えるような気がしていつになく嬉しそうに海の中を彷徨う。

「美咲もきっと、この世界の虜になってくれるよね」

 深い海の中は、空の光も僅かに照らすのみ。


 週末、あの日と同様夜道を歩く美咲は、あの日のように疲弊はしていなかった。水緒には事前から話を通しており、夕食もちゃんと食べてから歩いているからである。しかし代わりに美咲は訝しんでいる。

原因は昨日の夢。初めてウミに会った日と同様に、また海の中の夢を見た。しかし、あの時のようにウミの声だけが聞こえてきたわけではない。ちゃんと面と向かって話した。

「明日美咲が来たときには海の中を泳がせてあげる!」

 美咲はその言葉にひどく困惑した。泳げないというのは技術的なものではなく体質的なものだというのに、ウミにその事は言っていなかっただろうかと記憶を探る。しかしたしかに言ったはずなので、ウミの記憶違いだと美咲は断定する。

「私、肌が弱くてダメなんだけど、忘れてない?」

 訝しむように聞くと、チッチッ。とウミは人差し指を左右に振りながら舌打ちをする。忘れているわけではないというアピールだろうか。その反応に前のめりになって問い詰める。

「じゃあ、ホントに泳げるの?」

 ウミは自慢げに慌てる美咲を制止する。

「まぁまぁ、詳しくは明日ね」


 結局真偽の程は聞けなかったし、思惑すらわからないまま海へと歩を進める美咲なのだった。その後もいくつか考察を並べながら美咲は以前と同じ場所に来てみたが、何の変哲もない海と岩肌だけが広がっている。

「ウミ、来たけど、どうやって海に入れてくれるの?」

 どうせ海に入れない事情を忘れてしまっているのだろうと半ば投げやりな気持ちで美咲は海の方向へ投げかけてみる。そうしてしばらく待っていると、あの時のように海の中からウミがゆっくりと陸に上がってくる。

「美咲はせっかちさんだなー。男にモテないぞ?」

 美咲を茶化すように言いながら上がってきたウミは、そのまま美咲に着替えや体質に対する心配は不要だという旨を話す。

「だとしたらどうやって海に入るの? ここでまた夢でも見ろっていうの?」

 煮え切らないウミの態度に苛立つ美咲は、そのまま来た道を引き返そうとする。夢なら家でも見れるし、寝心地だってそっちのほうがいいからだろう。

「まぁまぁ、そう怒らないでってば。これはここでしかできないし、もっと言えばたぶん私しかできないよ。ここらへんに霊術師やほかの例がいるなら話は別だけど」

 その一言で美咲はまさかと思い当たる節があった。ウミにだけできて、ほかには霊術師や霊くらいしかできないようなこと。

「それって、幽体離脱かなにか?」

 どういう理屈かなどはさっぱりわからないが、霊に関するものが体質や衣服を無視して海に入れるようにするにはそれくらいしか美咲には浮かばなかった。しかしそれと同時にわずかに抵抗したくなったのもまた事実である。一時的とはいえ死んだのと同じような体験をしなければならないのだ。美咲はその恐怖心に一歩後ずさりしてしまう。

「大丈夫大丈夫。マズイことがあったらすぐ戻せるよう尽力するし、ね? 海、入りたいでしょ」

 夢ではなく、現実で。美咲は夢の中も霊体での探索も大して変わらないのではと思ったが、それでも現実の海で実際に泳いでみたかった。本物の海を優雅に探索したかった。長年お預けをされて我慢の限界だった美咲は、その提案にゆっくりと頷く。

「大丈夫なら、入りたい。潜って海を見てみたい」

 ウミはその返事を聞くと満足そうに笑みをこぼし、潮が届かない岩陰に美咲を連れて行く。懐中電灯の光が頼りなく前を照らしながら着いた先に、横たわってリラックスするようにウミは美咲に言う。

「トモダチなんて初めてだよ。ありがとう、美咲」

 美咲の目に映るウミの笑顔は、やがて海の中の景色へと変わった。美咲の体を少しぬるい海水が包み込む。

「これが、海の中。きれい……」

 それ以外に言葉を漏らすことはなかった。それほどに美咲にとって初めての海中の景色は圧巻で、多少の覚悟を決めてまでくる価値があったのだ。満月の光がうっすらと溶け込んだ海の中には、その光が眠りを妨げるのか、魚たちがいつもより活発に泳いでいる。それもこれも美咲は一切知らないことで、ウミだけがいつもと違う満月の海を感じていた。

「どう? きれいで、いつまでも居たくなるでしょ。私はこの景色が大好き。美咲は?」

 美咲の横で漂うウミはいつになくゆったりと、美咲に語りかける。その美咲はというとうっとりと海中を見渡し、ウミの言葉を意識の奥底にまでどっぷりと染み込ませている。彼女にとってこの海はすでに、もといた地上よりもかけがえのない場所になりかけていた。

「好き。私ここにいたい。ウミと二人でここに居るのが良いよ」

 海の虜になった美咲の意識には、地上での記憶などどこにもなかった。ただただこの海の中に居たいという病的な依存心が、胸の内を支配していく。

「海に入るな、なんて言われたのも、全部聞かなければよかった。今まで人生損してたよ」

 前に海を訪れた時も、ついさっきも水緒に言われていた言葉が、美咲の口をするりと抜ける。

「うん、やっぱり美咲ならそう言うと思ってた。私と同じだもん。海が好きで、好きすぎる」

 そういいながら、ウミは一度大きく息をつき、美咲の手をつかんで動き出す。その顔には後悔と罪悪感と、ほんの少しの勇気が交じり合っていた。

「でも、美咲には帰らなきゃいけない場所があるから、今夜はここまで!」

 何が起こっているのか分かっていない美咲は、海に残りたい一心で抵抗するが、ウミはそんなこと知らなかった。霊体の扱いなどウミのほうがベテランである。

「ごめんね、美咲、ちゃんと生きて、今度は自分で泳げるようにね」

 美咲は海に溶けることなく、現実へと還る。


 美咲の夏休みの思い出に深く残ったその幽霊とは近くの崖から身投げしたという水緒の娘、海美だった。休み明けのある休日に美咲が夜の海の出来事を水緒に白状すると、水緒は渋々その話をしたのだ。

「自分でウミって名乗るあたり、海が好きすぎるのか本当は記憶があったのか、怪しいんだけどね。それより美咲、結局海に入ったってことじゃない。あの子に良心があったからよかったものの、それって一歩間違えば取り殺されてたようなものでしょ。私は暗い海での溺死や遭難を疑ってたから見当外れではあったけど、そもそもいうことを聞いていればそうはならなかったのよ?」

 ウミについての話を聞くのと引き換えに、こうして美咲は長々と水緒の説教を受けている休日の昼下がりだったのだ。

「そんなに言わなくたって幽霊みたいな超常現象がない限りもう夜に海なんて入らないってば」

 水緒は美咲のめんどくさそうな返答に呆れながら続ける。

「あの子だって居なくなる前の日までずっとそういってたのよ……」

 水緒が夜の海をひどく嫌い、ずっと忠告していたのは、そういう過去があってのことだったのだ。そんな水緒の思いを少しは汲み取ったらしい美咲は、もう夜に出歩くことはなくなった。しかしその分、日中は暇あれば出歩いているのだが。


「ウミ、やっぱり私はこっちにいるほうがいいよ。連れ戻してくれてありがとう」

 海に夕日が沈むきれいな景色を望む崖。そこにあったのは高く張られたフェンスと注意書き、それと小さな墓だった。

 ウミの話を聞いてすぐ、美咲はそのお墓に挨拶をしようとここを訪れた。海に入れてあげる行為自体が全て自分を海に沈めるための考えだったのかは美咲にとってどうでもいいことだ。ただ彼女にとって、最後に救ってくれたウミは、それだけで恩人であり、ひと時ばかりの友人であることに変わりはなかった。

「今度は毎週末にここにきて、ウミが体験できない地上の生活でも教えてあげる」

 夕日が落ちるのを見届けてから美咲は、一週間のことを話してその場を引き返す。その足取りはとても軽やかだった。


「最後で踏ん切りが聞いてよかった」

 海の中を優雅に泳いでいるウミは、ぼんやりとそんなことを呟いていた。誰かに届くともない言葉をわざわざ口に出すのは、彼女にとって話し相手は海だからだ。

「地上のことを教えてくれるっていうし、しばらくは一人でいいか」

 ウミは死までのその経緯から、海の中に留まり続ける地縛霊兼人を海で死なせ、霊のトモダチを作る悪霊となっている。美咲を悪霊が陥れようとし、純粋な地縛霊の心がそれを止めて助けた。といったところだ。しかし彼女も悪霊の心に全面的に反対しているわけではなかった。彼女もさびしかったのだ。それでも美咲の決意は、その孤独感を薄め、きっと悪霊を止める糧となるのだろう。

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