門出を祝うために寂しさを撒こう。

———兄貴はいつも正しかった。

優しいし、思いやりがあって優秀で、いつだって俺の味方をしてくれた。

その兄がいま、俺に向かって初めての頼みごとをしている。

家の玄関先で二人。風は穏やかで暖かい。

春は別れの季節だというのは本当なんだな、と実感する。


「司、よく聞いてくれないか。頼みがあるんだ」


俺の手を固く握って、兄貴が深々と頭を下げる。

こんな姿は見たことない。あの兄貴が、あろうことか俺にここまでするなんて。


「なんだよ兄貴。改まってさ」


そりゃあ、「テレビのリモコンを取ってくれ」だとか、「おつかいに着いてきてくれ」だとかの小さい頼みごとなら何度かあった。

でも、それこそ今回のようにかしこまった態度で、俺に頼みごとをしてきた事は無かった。


「僕はこれから新しい仕事を始める。それは母さんから聞いているね?」

「・・・あぁ。聞いてる」


確かに聞いていた。多忙な仕事らしい。

もうこれからは正月ですら顔を見れないのねえ、と母が寂しがっていたのを覚えている。

兄貴が忙しいのはいつものことだが、会えないのは寂しい。

せめて何の仕事かぐらいは聞きたいところだが、迷惑になるといけないので口をつぐんでいた。


「そのことなんだけどね」


兄貴の手が震えた。自然と、俺の手も強張こわばってしまう。

一体何を頼まれるんだろうと身構えたが、


「僕が留守の間、葉月はづきを頼めないかな」


伝えられたのは、いつも俺がしていることだった。

少し拍子抜けする。が、兄貴に頼まれたということもあって身が引き締まる思いだ。

これからも、俺が葉月を守ってやらないと。


「なんだそんなことか。いいよ。葉月のことは俺がしっかり見ておくよ」


安心した、と兄貴は溢れんばかりの笑顔を見せた。屈託くったくのない笑顔。

一体何度この笑顔に救われたんだろう。

兄貴はいつだって俺にとっての太陽で、最高の目標だ。

なんだか、心があたたかい。


「おまじないをかけておいたから。いつか司が舞台に上がってしまった時は助けてくれるはずだよ」


聞きなれた単語だ。”その人が人生を賭して活躍できる場所”。

それを、兄貴はよく"舞台"という言葉に例えていた。

そして、今回の仕事がその"舞台"になると思う。とも聞いていた。

自分を賭けられる場所を見つけた兄貴がうらやましい。俺も早く、兄貴のようになりたい。


「人間は、その本人から見ればどんな人でも主役だって話したことがあるよね」

「あぁ。耳にタコができるくらい話されたな」


兄貴は事あるごとにこの話をしていた。もちろん、続きだって覚えている。


「だからこそ、自分が出来ることを最大限、合った舞台で魅せることが人生だ・・・。違う?」


得意げに続きを語って見せると、兄貴の顔がまたほころぶ。


「そう。・・・司はやっぱり優秀だなぁ」

「やめてくれよ。兄貴に言われちゃあなんだか虚しくなる」


といいつつも照れが抑えられない。兄貴に褒められるといつもこうだ。

自分のすべてを肯定してくれるようで、居心地がいい。

一息ついてから、兄貴は穏やかに語り始めた。


「何度も言うけれど、司には司の役目と、舞台がある。・・・正直、司はまだそれに上がってないと思う。

 でも、司が主役になる日はきっとくる。それが何かはわからないし、わかってても言わないけれどね。

 その場所で光り輝くんだ。きっと誰にも負けないくらい。

 ・・・いつか司が舞台に上がった時は思い出して。そして、それまで忘れないで」


透き通るような。力強く、頼もしくもあるような。

その声と言葉をよく反芻はんすうして記憶に刻み付ける。

そうして、誓うように声を出す。



「いい子だ。じゃ、葉月によろしく」


・・・俺より少し高い背丈とその匂いが名残惜しくてたまらない。

もうここを出れば兄貴に会うことは本当に少なくなるだろう。それこそ、数えられるほどに。

この時間を引き延ばしたくて、俺は言葉と理由を探し、投げつける。


「葉月に挨拶はしていかないのか?兄貴の送り迎えならあいつ喜んで起きてくると思うぞ。

 なんで教えてくれなかったの、って後で俺が怒られるかもしれないぐらいに」


葉月を理由に使う。葉月、ごめん。

でももっともらしい。兄貴が葉月に挨拶してくれれば、もう少しこの時間が続くことになる。

だけどそんな俺の気持ちとは裏腹に、兄貴は首を振った。


「やめておくよ。葉月には他の舞台がある。仮に何かあっても、この舞台に上がるのは司だけでいいと、僕は思うんだ」

「それって、どういう意味だ?」


兄貴の言うことはたまによくわからない。


「ううん。なんでもない。長話になっちゃったね、そろそろ行くよ」


やっぱり物悲しいので引き延ばす理由を探ろうとしたが、迷惑になると思い、やめた。


「あぁ。元気でな、兄貴」


寂しい顔になるのをぐっとこらえて、無理やり作った笑顔で見送る。


「司も。一人暮らし頑張るんだよ、応援してるからね」


そうして、兄貴は家から去っていった。

もちろん、あとで葉月には怒られた。これ以上ないってくらい。

でも、あの時兄貴と二人きりでいられたことが、俺にとってかけがえのない宝物になった。


“自分が出来ることを最大限、合った舞台で魅せることが人生”


今も脳と心に刻んで俺は生きている。・・・生きていた。

兄貴が死んだという連絡が入るまでは。





「ん・・・ぅ」


司が目を覚ますと、そこは見覚えのあるさびれた部屋だった。

視界には天井。どうやら、くたびれたソファーに寝かされているらしい。

微かなアルコールの匂いからマドイが根城ねじろにしているというバーであることがわかる。

体にはどうも妙な脱力感が残っていたので首だけを動かして横に目をやると、マドイがバーカウンターの椅子に腰掛けて文庫本のようなものを読んでいるのが見えた。

服装は以前と変わらず黒だったが、換気ファンの隙間から差し込む光と耽美たんびな雰囲気が相まって聖母のようなたたずまいだ。

ごくり、と司は生唾を飲み込む。別に女性のタイプなどではないし、変わらず胸を締め付ける怒りはあったが、どこか”美しい”と思ってしまう。

マドイは司が起きたことに気づくと、音を立てずに本を畳む。


「起きたか」


冷静な、心を感じさせない声。機械音声にも似たその声に、司は応答を返す。


「ああ・・・、葉月は?」


「無事だ。今は家に帰っている」


その返答を全身が待ちわびていたかのように、どっと脱力感が押し寄せた。

これはしばらく動けそうにないと、司は直感で理解する。


「何故自分が倒れたか、理解しているか?」


戦った記憶は、ある。忘れようもない。あの痛み、そしてあの沸き立つような怒りと力。

だが、倒れた経緯についてはよく理解していないし、覚えていなかった。


「いや、全く。むしろ最高に調子が良かった感じだったんだけど」


司がそう返すと、マドイは手に持っていた文庫本のようなものを投げ捨てるように差し出し、こう伝えた。


「"これ"に書かれている通り、お前の能力には穴がある。使用後は無防備になるということだな。以後気をつけろ。」


マドイの手を離れ、宙を描いて渡されたそれは、やはり文庫本だった。

真っ白な表紙にはただひとこと黒い文字で、『竜頭蛇尾りゅうとうだび』とある。


「何だこれ」


「自書(じしょ)というものだ。発言者が必ず持つ説明書のようなものと思えばいい。

 これにお前の能力、もとい世字熟語の内容が書いてある」


「へぇ、無くすと大変だな。・・・あんたのもあるのか?」

「出そうと思えばいつでも出せるが、私の世字熟語はもう説明済みだからな。

 それにこれは弱点も記述されているから、お前に見せるのはまだ早い」

「俺のは読んだっていうのにか?」

「私はお前の師だからな」


「いつ俺がお前の弟子になったんだよ」と、司は苛立ちながら反論する。

しかし、マドイに取り合う気はない。


「まあそう言うな。・・・私はコーヒーを入れるから、その間に読むといい」


ゆっくりとマドイが立ちあがり、司から離れ歩いていく。

向かった先はカウンターの裏側。言葉通りならば、コーヒーメーカーでもあるのだろうか。


手元にある文庫本の表紙をめくり、司はそれを読み進めていく。

読み始めたあたりは不可解な文字が並んでいるだけだったが、いくらかページを進めたところで読める文字が目に入る。


<世字熟語:竜頭蛇尾

 ”ペース配分を変える”

 様々な身体能力の配分を操ることで、一時的に強力な力を得ることができる。が、あくまで配分を変えているだけなので後々しっぺ返しを喰らう。

 しっぺ返しは即座に作用することも、体に溜めることも可能。一定レベルを越えるとリミッターがかかり気絶する。

 なお、しっぺ返しは必ず起きる。一定レベルを超えた後、気絶で足りない場合は死ぬことになる。>


最後の一文で司の背筋が凍る。


死。


それは都合のいい嘘のように思えたが、今の司にとってはあまりにもリアルだ。

そう考えれば説明はつく。あの力は強大極まりない力だった。

五感や各神経、運動能力。それこそ自然治癒力までもが人間離れしていた。

自分が倒れた理由と、あと少しで死んでいたということを飲み込む。

一度には無理だったので何度か呼吸をおいて。


司がふと手元に目をやると、確かに持っていたはずの自書がない。

マドイの言うことを信じるのなら、これはいつでも呼び出せる能力の一部に過ぎないということなのだろうか。

・・・感覚に集中し、念じる。

そうして瞬きを何度か繰り返すと、自書はまたそこにあった。

こんなこと、今更になっては司も驚かない。もう人間ではないのだから。


薄暗い部屋には司の呼吸と気だるげな空調の音だけが響いていた。

その空間を切り裂くように、マドイの冷たい声が近づいてくる。


「お前の立場の説明は適当に誤魔化しておいた。すまないとは思っているが、組織に属するとはそういうことだ。」


インスタントコーヒーを飲みながら、ぶっきらぼうに告げられる。

すまないという文言は口に出されていたが、そこに謝罪しているという雰囲気は一切感じられない。

ただ報告をした、というものに聞こえる。


「適当に・・・っていうのは?」

「前々から決まっていた仕事の都合ということにしておいた。

 学校にはもう行かなくてもいい。仮に行ったとしても籍がないがな。」


学校には特に未練はない。数人、仲の良い友人がいたぐらいでその友人も自分を完全に理解していたかというと疑問が残る。

やはり、兄以上に司を理解し、そして尊重してくれていた人間はいない。

家族を守るため。妹を守るためだと思うと納得できた。


だが、一つだけどうしても納得していないことがある。


「じゃあお前が俺の兄貴を殺した理由を教えてくれ」

「・・・今は無理だ」


その問いを、マドイはいつにも増して冷徹に突き放した。


「なぜ」

「今のお前が知れば、道を踏み外すかもしれない。」


司にはどうもよくわからない理由だった。

そもそも、もう普通の道は歩めない。


「なんだよ! じゃあ俺は理由も明かされないまま、兄貴を殺した女と行動しろって!? そんなの納得できるかよ!」


渾身の力を込めて、司はマドイを睨む。

しかし、そのプレッシャーをものともせず、マドイはまたも冷徹な口調で言葉を吐き捨てた。


「私はあの時確認したはずだ。もう戻れない、とな

 お前はもうこちら側だ。今のまま暮らすというなら、それもいい。だが、間違いなく家族に危害が及ぶぞ」


不服そうな顔を浮かべ、「それはお前について行ったって同じ事だろ」と言いたげな司に向かって。

その表情を待っていたと言わんばかりに、マドイがほくそ笑む。


「だが私についてくるのなら、お前の家族の監視は私の組織が行う。イレギュラーだが、”彼”も容認してくれたことだしな」


彼という濁した言葉がどうも引っ掛かった。

誰だよ、と司が言い返すよりも先に、マドイが声と距離を詰める。


「いいか。選択権はない。残酷な言い方になるが、妹と親を守りたいのなら私についてくるほかない。理解したか?」


もう司は何も言えなかった。話そうとしている内容を先読みされる気味の悪さで口が回らないというのもあったが、最大の理由は別にある。

司にはギャンブルで言うところの"手札"がない。ということだ。

自分の能力でもある世字熟語は、まだ司から見て不明瞭なところが多い。

そして、それを知っていて言葉を交わせるのは今のところマドイくらいのものだ。

今ここでマドイの忠告を無視し、家に帰ったところで家族に危害が及ぶのもわかりきっている。

妹を攫った男が復讐しに帰ってこないとも言い切れない。その時、果たしてもう一度撃退できるのだろうか。

それに、【竜頭蛇尾自分の能力】は使いにくいものだ。仮に討ち果たしたとしてその後、気絶しているところを狙われては意味がない。

解決できる方法があるのかもしれないが、司が家に戻るというのならマドイはそれを語らないだろう。


つまるところ、司は詰んでいた。

苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべ、司はその提案を渋りながらも受け止めて返した。


「理解した。だけど、俺にはそれを咀嚼するための時間が必要だ。出て行ってくれないか」


その追放宣言を、マドイは快く受け入れて部屋から出ていった。

「買い出しにでも行ってくる」と言い残して。


その後司は一人、小さな牢屋の中で自分にもう自由がない事を受け止め、誰にも見られないよう静かに泣いて、ゆっくりと眠りにつくことにした。

バケモノになってしまった自分。バケモノだった兄。もう二度と会えない家族。

夢なら覚めろと呟く度に、気持ちは冷めていき、現実なのだという認識が強まっていく。


さよなら母さん、葉月。そして、兄貴。俺はやってみせるよ。

必ず兄貴を殺したマドイに、あの女に償いをさせてやる。許したわけじゃない。

今は口を開こうとしないが、あの言い方ならどうせ私怨のもつれだろう。

殺した理由と場合によっては、刺し違えてでも殺してやる。俺を助けてくれたことは別だ。

それに、あの女が来なければあの事件だって起こっていない。何もかもが仕掛けられたものなのだとしたら溜飲も下がる。


だが___




「ただ、寂しかったな」





あの顔が忘れられない。兄を殺したことについて問いただした時の、悲しさを押し殺して見せた笑顔が。

目が覚めた時、自書を読んでいたマドイを殴り飛ばしてもよかった。

だが、司はマドイを殴れない。

あの顔が脳裏に張り付いてたまらないからだ。


「くそ・・・っ」


悪態をついて眠りに落ちる。悶々とした思考に絡まって殺意と怒りが奥の方へ追いやられていく。

司はこの感情に鍵をかけた。殺すにしろ、殺さないにしろ、気づかれないほうがいい。そう思った。

真っ向勝負では殺せない。油断させるためには、この感情は封印するべきだ。

幾重にも鍵をかけていく中、司の意識がとろけて消えた。鼻孔びこうに染み付いたアルコールの匂いは、しばらく消えそうもない。






次に目が覚めたのは、数時間ほどたった後だった。

正確には「覚めた」というよりは「覚めさせられた」だったが。


「起きたか?」


マドイは司が起床するまで体を揺らしていたらしい。かなり激しく。

司を起こしに来たマドイは少し落ち着きがないように見えた。

どこか隠し事をしているような雰囲気だったが、追求するのは控えた。

司としても、「これ」を見極めなければならない。

大丈夫だ。心に鍵はかかっている。司は自分自身の意思を確認し、落ち着いた様子でマドイを見据みすえる。


「・・・起きたよ。こうも熱心に揺り動かされちゃ、起きない方がおかしいってもんだろ」

「それもそうか」


気づかれないようにマドイの姿を観察する。

変わらず黒でまとめた服装、手入れしていない白い髪、シルバーのピアス。

どこか機械じみているほどに落ち着いているところも変わらず、そのままだ。


証拠も何もない以上、マドイがミコトを殺したのは嘘ではないのだろうかとも考えていた。

今までこの女性と関わってきて、生命を些末さまつに扱うような素振りはなく。

いや、むしろそれを尊んでいるようにも見えた。

だが、好き好んで「殺した」という嘘をつくほどバカにも思えない。

第一、そんな事には得がないだろうし、冗談にしては悪すぎる。

ならば・・・。


「今日にはここを発とうと考えている。体は、もう大丈夫か?」


絡まった思考を切り裂くようにマドイが声を出す。

問いかけの答えを探すため、司は体を動かしてみる。

まだ本調子とはいかないが、存外よく動きそうだ。


「体はもう楽になったけれど、どこに行くんだ?・・・もしかして、アジトとかがあるのか?」

「私たちの本部はあるにはあるが、その前に幹部の元へ行く。白羽しらはに所属する前の顔合わせのようなものだ」


思うよりまともな答えが返ってくる。

それならと、司は頭の中にあった疑問をぶつけてみることにした。


「待ってくれ。そもそも白羽ってなんだ。それと、なんか言ってたろう。説明してくれ。俺は発言者とやらになったばかりなんだ」


それもそうだな。とマドイは眉を動かし、ソファーで寝ていた司の横にある錆びかけたカウンターの椅子に座る。

そうして、司の方へ向き直って口を開いた。


「まず、白羽というものから。白羽とは発言者が集まる連合のことをいう。つまるところ組織だな」

「というと、所謂いわゆるマフィアみたいなものか」

「いや、関係のない人を殺害することは禁止されている。」

「関係のある人は」


その質問には一呼吸おいてこう答えた。


「殺してもいい。・・・ということにはなっているが、発言者が争わず安全に暮らせる世界を目指すことが私たち白羽のモットーだ。

 だから管理し、教え、導く。一般人への迫害、及び敵対勢力の鎮圧に伴う殺人は立場を悪化させる。それは全員の共通理念だ」

「つまりあんたは俺を保護しに来たってことか?」

「まあそうなるな。ノラになられていても困る。ノラとは世字熟語を発言した後、それを犯罪や自己利益に使う者のことだ。あの男などがまさにそうだ」


あの男と言われ、司の頭に一人の男が浮かぶ。

妹の葉月を攫った金髪の男。同年代のように思える彼は"ノラ"だったのか。


「そして次、紅葉。これも連合の一つだ。発言者のための世界を作るのが理念とされている。」

「ちょっと待ってくれ。白羽は発言者が安全に暮らす世界を求める。そして紅葉は発言者のための世界を作る・・・、どこが違うっていうんだ」


重箱の隅を楊枝でほじくるようなその質問に、マドイは「話は最後まで聞け」とこぼして答える。


「温和か強硬かというところだ。先ほども言ったと思うが、白羽では殺人を禁止している。逆に、紅葉では殺人が容認されている。一般人が相手だとしてもだ」


"殺人が容認されている"という言葉を聞き、司の顔が少しこわばる。

別段、"世界の人間すべてを守る"などといった目的や感情はない。

だからといってそこに悲しみや怒りを感じないかといえば嘘になる。


「一度に言っても混乱するだろう、しばらくは生活しながら学ぶことだな。少ししたら出る。お前も用意をするようにしておけ」


マドイがまだすべてを語ったわけではないということは、わかる。

司はまだ納得していない。が、聞きたい気持ちをなんとか抑え「わかった」と声を出した。


司の返答に満足した様子でマドイは椅子から立ち上がり、「用意をしに行く」と言い残して部屋を出る。

一人残された司も用意を整えようとしたが、自分の持ち物が家を出た時に持ち出したものだけであることを思い出し、手を止めた。


「もう、元には戻れない・・・か」


鞄からスマホを取り出し、葉月に電話をかける。少し待ったが応答はなかった。

留守電にして声を残す。


「もしもし、葉月。兄ちゃんだ。ちょっと仕事の都合で遠くに行くことになった。

 帰ってくるのはいつになるのかわからないけど、心配しないでくれ。

 折り返しの電話はいらない。・・・それじゃ元気でな」


最低限のことを伝え、葉月と母を着信拒否に設定する。

数少ない友人、バイト先、片っ端から着信拒否にし、アドレスを削除した。

その作業一つ一つが司を日常から剥離させていく。


ふと、その一つに目が留まる。

司は少し考え、これだけは残しておくことにした。これ以外は消してしまって、もうない。


[殊乃 ミコト]


もう二度とかかることもないアドレスに目を伏せ、司は簡素な身支度を整え始めた。

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<世字熟語> うまいどり。 @umaidori_maru

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