おいでやす神様
遊女には格式がある。一般的に有名な
そして禿は、花魁の下に付く。謂わば師弟関係のようなものだ。
――責任重大やね。
菊のその言葉の意味を、私は後から知った。禿の出来が悪いと、その師である花魁の評価が下がるらしい。菊は既に禿が一人いる。花魁の中でも禿が付けられる遊女は、特に格式が高い。つまり私がヘマをすれば、菊が築き上げた地位を脅かすことになりかねない。
責任は、たしかに重大だった。
神をもてなす遊郭、千秋。千の秋と書いて千秋。その名に因んで、遊女の源氏名には秋の花をそのまま使われる。私の場合は芒。
「ほら芒。ボヤッとしてないでさっさと支度して!」
たった今私の名を呼んだこの子が
駄々をこねてこの業界に来た私とは、根本的に違うのだ。
「待ってよ芙蓉ちゃん。まだ着付けに慣れなくて」
「ちゃん付けすんな! あたしの方が立場は上なんだぞっ! 芙蓉さんと呼べ!」
相手を魅了する艶やかな着物が、千秋での仕事着であった。現代社会に例外なく影響されて育った私は、その着物を着るのに苦戦していた。
ようやく仕事着に着替えたら、芙蓉と一緒に菊の元へ向かう。
「まったく芒はノロマなのよ。だから芒なんて地味な名前を付けれるの。分かってる?」
「ごめんね。私ってずっとこんな感じだったから。それに比べて芙蓉ちゃんは凄いね。何でもテキパキとこなしちゃって」
「だから芙蓉ちゃんって言うな!」
芙蓉は襖を開けた。そこには艶やかな着物を身に纏った菊が座っていた。さすが花魁。相変わらず美しい。これを見てしまえば、きっと人間の男どもなんてイチコロだ。
「ごめんね芒。今日は私のお仕事を見てもらうつもりだったのだけれど。外せない予定が出来てしまったの」
申し訳なさそうに菊は言った。しかし私は内心ホッとしていた。今日、菊さんが男とまぐわうところを観察しろと言う。よく考えなくてもとんでもないことだ。
「姉さんまで……。殆どの花魁が千秋にいないことになってしまいます。大丈夫でしょうか」
芙蓉が不安そうに言った。姉さんと言ったが、私と芙蓉は菊さんのことをそう呼ぶ。
「大丈夫よ。今日のお客さんは少ないはずだから」
*
しかしどういう訳か、本日は客の入りが非常に多かった。
「芙蓉! 案内をお願い!」
「はいっ! 行くよ、芒!」
私と芙蓉は主に客の案内や遊女が来るまでの相手を務める。
千秋は人間の遊郭と違う。千秋を利用するお客様は、文字通り神様だ。そしてそのお客様は、性的快楽を求める。しかし性的快楽と言っても、肉体的な快楽よりも精神的な快楽を求めるらしい。
千秋ではそれを”心の快楽“、”心の絶頂“と呼んだ。
私にはそれがよく分からなかった。だからそれを理解するために、菊のお仕事を見学する予定だったのだ。
「本日はようお越し頂きました」
芙蓉がお仕事モードの口調で言う。そして私たち二人はゆっくりと頭を下げた。今日はこれで何人目だろう。案内と暇つぶしの相手だけなら、今日だけで達人の域に達した気がする。
ドスンッ!
凄まじい振動。がらんがらん、と天井が軋んで、パラパラと埃が落ちてくる。
私は思わず顔を上げた。
神様の容姿は人間の姿をしているのもあれば、化け物のような姿をしているのもいた。この神様は後者だ。一応人型ではあるが、図体はでかいし、異常なほどに脂肪が付いていて、うねうねと触手のようなものが身体中から生えている。こんな気持ちが悪い奴と床入りする遊女は大変だ。
「早く連れて行けぇ!」
気が立っているようだ。私は内心逃げ出したい気持ちに苛まれた。
「はい。お待たせして申し訳ありません。すぐに案内致します」
しかし芙蓉は表情を崩さず、丁寧に接客した。さすが芙蓉である。私も臆してなんかいられない。
芙蓉と私がお客様を案内する。やがて遊女が待つお座敷の襖を開け、お客様を通した。
しかしおかしい。お座敷には遊女一人しかいない。千秋のもてなしは、何も遊女と床入りするだけではない。まずは美味い飯をふるまい、そして主役の遊女と付き人数人による舞を披露する。その付き人がいない。
「芒。舞はもう覚えたわね?」
「う、うん」
「じゃあ私たちが付くわよ」
お客様に聞こえない程小さな声で芙蓉は言うと、私の手を引っ張ってその遊女の隣に着いた。ちらりと遊女は芙蓉を見た。すると芙蓉は、こくりと僅かに頷いた。
「わっちは
金木犀と名乗る遊女は、芙蓉の意図を察したらしい。私たちはその紹介の後に、両手を床に付け、ゆっくりと、丁寧にお辞儀をした。
「さあ、こちらにお掛けになって」
予め用意されていた席にお客様は腰掛けた。するとその図体のあまり、ドスンと部屋が揺れる。お客様が席に着いたら、襖が開いた。そして酒と料理が宙を漂いながらお座敷に入ってくる。ゆらゆらと酒と料理は移動していって、やがてお客様の周りに配置されていった。
「どうぞ、お召し上がりくださいな」
しかしお客様は、料理をじっと見つめたまま一向にありつこうとしない。
「なんてキラキラしてやがる」
「えっ……」
お客様が言った。そのワードに、私は思わず反応してしまう。漏らした声に、芙蓉は肩肘で私を突ついた。
「あんたも。そこの女二人も。この料理だって」
お客様はそう言うと、わなわなと身体を震わせる。
「俺を舐めてるのかっ!」
その触手で、豪快に料理を吹き飛ばした。吹き飛んだ料理や食器は、しかし壁や床にぶつかるや否や、光の粒子となって飛散した。その為お座敷を凄惨に汚すことは免れた。
しかし、なんてことだろう。お客様はかなり御立腹な様子だ。
「くそう。くそう。俺は醜悪だ。醜くて、だからこそ、キラキラしたものが、こんなにも眩しい」
頭を抱えて、お客様は蹲った。すると金木犀がそっと近寄って、その大きな身体に手を置いた。
「大丈夫でありんす。お客様は醜うやらあらしまへん」
金木犀は恐れることなく、置いた手で優しく撫でる。すると金木犀の手とお客様の身体の隙間から、橙色の花粉のようなものが空気中に広がっていく。
「ふっ……くぅ……ああ……」
お客様は呻き声を上げ始めた。花粉はお座敷に充満した。甘い香り。それを吸い込む度に、頭がぼんやりとしてくる。
「しっかりしなさい、芒」
その声によって私は意識を取り戻した。見ると芙蓉が頬を赤らめながら、私の両肩に手を置いていた。
「金木犀様の
「遊技……?」
「ええ。優れた遊女にはね。お客様をもてなす
私はお客様と金木犀を見た。あれほどご乱心だったお客様は、金木犀に撫でられて大人しくしている。それどころか何かを堪えているかのように、呻き声を上げていた。
「あれはね。心の愛撫によって
私はその行為をじっと見つめる。すると何だろう。心が切なくなってくる。心臓が高鳴っている。何かを欲してしまう。
「落ち着いて芒。この香りには媚薬のような効果があるの。それが金木犀様の遊技だから」
媚薬……。そうか。お客様は愛撫によって感じている。それはつまり、そういう営みであって、それを見つめるということはつまり、そういうことなのだ。だから私は興奮してしまったのだ。
気をしっかり持て。私は今はもてなす側。正気を失ってはいけない。
「ふ、ふざけるなぁっ!」
唐突に、お客様は叫んだ。そしてドンッと思い切り床を叩く。するとまた部屋中が揺れて、その衝撃で私と芙蓉は床に伏せてしまう。
「きゃあっ!」
それは金木犀の叫びだった。私は顔を上げると、お客様に首根っこを捕まれて、じたばたしている金木犀の姿が目に入る。
「キラキラしている奴はそうやってなあっ! 日陰者を陥れるんだっ!」
ドクンと、またお客様の言葉に私は反応する。
「ふんっ!」
お客様は金木犀をそのまま投げ飛ばした。金木犀は襖を突き破って、廊下の床に叩き付けられた。そして気を失ってしまう。
「金木犀様!」
芙蓉が駆け寄ろうとした。しかしお客様が立ち塞がる。さすがの芙蓉も身の危険を案じて、立ち止まってしまった。
「この俺が。他の神々に散々いじられてきた俺が。醜くない訳、無いだろうがぁあ!」
まるで咆哮だった。
「キラキラしてる奴みんなそうだ。自分の言葉を簡単に信じると思っていやがる。許せねえ。許せねえっ!」
「ひぃっ!」
芙蓉は情けない声を上げて、腰を抜かしてしまう。
「お客様……」
私はボソッと呟くと、一歩ずつ踏み出した。何だろう。私は何をするつもりなのだろう。
「す、芒!? 何やってるのっ!? あんただけでも逃げなさい!」
芙蓉の声だ。普段は勝ち気で生意気な子だけれど、根は優しい。本当に優しい子なのだ。
やがて私は、お客様の眼前に立った。
「くそう。くそう。なんて俺は惨めなんだ。もうこんな思いをするのは、嫌だ」
お客様は私に気にせず、目を瞑って言った。その言葉に、私はまたも反応してしまう。
ああ、そうか。そういうことか。
「ええ。分かります。お客様」
私はお客様のその大きな身体に、そっと手を置いた。
私はこのお客様に、共感していたのだ。
「分かる、だと……」
お客様は瞑っていた目を見開いて、私を見つめた。
「ええ。私もそうでありましたから」
「嘘をつくな! お前はキラキラしている。そんな奴が俺の気持ちなんて、分かるものかっ!」
触手が私の身体に巻き付いた。その触手の力によって、私は持ち上げられる。
「ええ。私もせめて、ずっと前から今の様だったら、親から捨てられずに済んだのかも知れません」
「なん……だと……!」
触手の力が弱まった。
「あなたと同じように、他の人間からいじめも受けていました」
「俺と、同じ……」
触手の力がさらに弱まっていく。
「ええ。だから分かるのです。あなたがキラキラしたものに苛ついてしまうのも、よく分かります。私もずっと前はそうでした。見たくないですよね。自分には……」
触手に拘束されたまま、私は身を捩って手を伸ばす。お客様の醜い顔。その顔の頬をそっと撫でた。
「暗闇がお似合いだと、そう思っているんですよね」
触手の力は完全に抜けて、私を解放した。私は着地して、今度はその大きな身体に、そっと抱きついた。
「ああそうだ。俺には暗闇がお似合いだ。醜悪で、惨めで、何も出来ない。ただ神よりも劣る存在に、八つ当たりするしか出来ない、下らない存在だ」
「そうでしょうか」
私の言葉に、伏せていた顔を上げた。しょんぼりとした表情をしている。
「だってあなたは私のことを、キラキラしていると仰ったではありませんか」
私はそう言って、さらにぎゅっと抱きついた。救ってあげたい。心からそう思う。
「私がキラキラしていると、そう言ったのはお客様が初めてですよ」
嘘偽りの無い、本心を伝えるのだ。
「それは、お客様がお辛い経験をしてきたからこそ。そんなお客様だから、私をそう見てくれた」
そうしてあげるのが、きっと良い。それが分かる。
「私はその言葉で、どれほど救われたことか」
だってこのお客様は、私に似ているから。
「私を救ってくれたあなたにも、キラキラして頂きたいのです」
ふと、気配がした。優しい気配だ。ほんのりと暖かくて、心が穏やかになってくる。私はちらりと周囲を見た。
私とお客様を囲うように、ススキが沢山生えていた。
「嘘。これって、遊技……!?」
芙蓉が言った。これが私の遊技。まるでススキ野ように、部屋いっぱいに生えている。
――ススキの花言葉を知ってる?
――ススキの花言葉は『活力』と『通じる心』
――芒。あんたも名前に恥じない、立派な女になるんだよ。
菊の言葉が脳裏を過る。通じる心。きっと私はこのお客様と心が通じ合って、お客様に元気になって欲しいと切に願ったから。
だからきっと、私は遊技に目覚めたのだ。
「芒と言ったか」
お客様の声に、私は顔を向けた。お客様の顔は、先程よりも良い。気持ちが変わってきているのだろう。
「俺も。お前みたいになれるだろうか」
だから私は、もう一押ししてあげるのだ。
「ええ。お客様に暗闇は似合いませんよ」
「ああ……ああ……」
お客様は、ぽろぽろと涙を流す。そして、身体中が輝きだした。
「えっ、えっ!? どうしたの!?」
「心の絶頂が近いの」
芙蓉が私の隣に立って言う。
「ほら、逝かせてあげなさい」
逝かせるって、どうしたら……。
「芒……」
「お客様……」
お客様の顔を見て、私はふと思った。この方は、私を必要としている。今まで何の役にも立てなかった私を、心の底から必要としてくれているのだ。
そう思うと私は、途端に嬉しくなってくる。ならば私の精一杯で、もてなしをするまでだ。
「お客様。どうか。どうか頑張ってくださいっ!」
そして飛びきりの笑顔を、お客様に向けた。
あなたは私がキラキラしていると言ってくれた。だから私は安心して、自信を持って、あなたにこの笑顔を届けることができるのだ。
スマホが飲み込まれていったあの暗闇を、今なら照らすことが出来るかも知れない。
私が言った途端。まるで閃光の様に、一瞬だけ輝きが増した。輝きが落ち着くと、お客様は半透明になっていた。
どうやら、心の絶頂を迎えたようだ。
「ああ。ありがとう。また来る」
「ええ。どうかその時は。ご贔屓に」
私は深々とお辞儀をした。お客様は光の粒子となって、天に昇っていった。
「芒……」
芙蓉の声に、私は振り向こうとした。
「やったねっ! 芒っ!」
私が振り向くより前に、芙蓉が飛びついてきた。
「凄いよ芒! まだ禿なのに心の絶頂をさせてしまうなんて!」
そして、どこからともなく拍手が響き渡る。あれだけ騒いでいたのだ。いつの間にか他の禿やお客様が野次馬として駆けつけていた。
「よくやった、芒」
その野次馬をかき分けながら現れたのは、菊だった。
「姉さん! 帰っていたのですか!」
芙蓉が驚いて言った。
「ああ。芒がお客様の触手で拘束された時から、ね」
菊はそう言いながら、私に近寄った。そして優しく頭を撫でてくれる。
「まさかそのまま絶頂させてしまうとは、思わなかったけど」
そして菊は、私に顔を近づけた。美しく顔が、私の微笑みかけている。
「少しは、うちに近づいたんじゃない?」
その言葉に、私は溶けそうになる。ようやく味わえた幸せに、脳が処理しきれないのだ。
*
これが千秋のお仕事。神様がお客様であり、お客様は神様である場所。
これから私は、菊のように立派な花魁を目指して、ここで修行を始める。
かつて脳に焼き付けた京の町の景色。
その景色と同じくらいに、大きく、キラキラした存在と、なるために。
ススキの遊郭〜はんなり花魁おいでやす神様 violet @violet_kk
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