ススキの遊郭〜はんなり花魁おいでやす神様

violet

はんなり花魁

 十五夜の月が映える。


 京都のとある山。山道は、満ちた月の光に薄らと照らされていた。


 深閑とした周囲。虫の音と、草木の音。みしりみしりと、落ち葉をしっかりと踏みしめて、私は進んでいく。


 やがて山腹にある休憩所に辿り着いた。私は木製の柵に囲まれた崖の向こう側を見る。


「ああ。これだよ、これ」


 その景色に思わず感嘆した。橙色に煌々と輝く京の町。その全貌が見渡せた。


 碁盤の目の様に敷かれた街路。その隙間を縫うように、鋭い光が点々とうごめき、輝いている。


 私はちっぽけだと、実感する。そう、実感する為に此処に来た。


「ああ。あの町のように、大きく、美しい人間になりたかったなあ」


 私は柵により掛かりながら呟いた。


 そしてスマホを取り出す。ニュースを適当に眺めて、次にSNSを見た。そしてため息を一つ。下らないやり取りを側から見ているだけじゃ、ちっとも楽しくない。


 私はスマホを握っている手の力を緩める。するとスマホは私の手からスルリと離れ、柵を越え、岩肌に打ち付けられながら崖の底に落ちていった。


「さて」


 私はもう一度、京の町を見た。目に焼き付けるのだ。脳に刻むのだ。



「それじゃあ、死にますか」



 私は柵をよじ登って、向こう側についた。そして足下を眺める。先ほど落下していったスマホが、幻影となって同じ光景を映し出す。ガラン、ガランと打ち付けられ、削られ、闇に飲み込まれていったスマホ。これから私も、あのスマホを追う。


 崖の底は見えない。広がる暗闇。ああ、私に相応しい闇だ。輝くことの出来なかった私に。


 私が死んだって世界は回る。私を捨てた両親だって、一切心を動かさずに生きていくだろう。私を虐めていた奴らだって、きっと数年後には笑い話にしていそうだ。


――シャン、シャン。


 いざ飛び降りようと、足を踏ん張った瞬間。ふいに鈴の音が響く。何事かと私は周囲を見渡した。すぐに異変に気付く。崖下がいかに広がる美しい景色。その空間に、水面のような波紋が広がっていったのだ。


――ピチョン。


 やがて水が跳ねるような音も聞こえてきた。波紋を辿っていくと、女性が一人。空を跳ねるように飛んでいた。


 彼女はまるでそこに地面があるかの如く、空中のとある場所に片足で着地する。すると、そこがまるで水面だったかのように、波紋が広がっていく。そして着地した片足に力を入れて、もう一度ジャンプする。今度は逆の足で着地する。


――シャン、シャン。


 彼女が空中で跳ねる度に、身につけている鈴が鳴った。


「おやおや。こないな場所に人間がおる」


 その女性は紅い着物を纏っていた。眉は筆で書かれていて、目尻は細く長く、瞼と唇は紅く、肌は舞妓さん程ではないが白く、化粧が施されていた。


 かぐや姫がこの人だと言うのなら、私は納得してしまうだろう。


「あんたもお月見どすか?」


 ニコッと笑う彼女。私は唖然としていて、返事をすることが出来ない。


「今宵は月が綺麗やさかいね」


 そう言うと彼女は、まるでそこにソファでもあるような感じに、空中で腰掛けた。彼女が腰を下ろすと、またそこから波紋が広がっていく。


 やがて懐から、紅い大きな盃を取り出した。その盃の中身は空だったはずなのに、見る見る酒が湧き出てきた。彼女はその酒に、空に浮かぶ満月を反射させる。月見酒だ。


「ほれ」


 私はその酒を受け取る。不思議なことに、月が映らない角度でも、その盃にはしっかりと月が映し出されていた。


 私はまず、香りを確かめた。馥郁ふくいくたる、甘い香り。口にしてみたくなるような、魅惑の香りだ。


 私はそっと口に含んだ。


 美味しい。


 初めて飲むお酒だった。しかしすんなりと飲めてしまう。全くアルコールの風味がしない。


 やがて、ぷりぷりとした、卵の黄身のようなものが唇に触れた。月だ。この酒、本当に月が入っている。


 その月を丸々口に含んだ。それを前歯でそっと噛んでみると、プチッと弾けて、ジュワッと液体が広がった。


 その液体が味蕾に触れる。ほんのり甘い味。ほっとする味だ。


「さて、素敵な一期一会に」


 彼女は立ち上がって、懐から取り出した扇子をパッと開いた。


「ひゅるりら」


 彼女が呟いた途端。あちこちで火の玉が上がり始めた。ゆらゆらと上昇していくその火の玉は、はるか上空で破裂した。重苦しい重低音が大地を震わせる。閃光が駆け巡って、山肌を鮮やかに照らす。


 まるで菊のような金色の花火。あちこちで夜空に咲いて、闇夜を艶やかに照らす。


 十五夜の月と、煌々と光る京の町と、魔法のような花火をバックに舞う、天女のような彼女。


 ああ、私は。こんなものを見せられてしまったら。身体が、心が疼いてしまう。


 キラキラしたものは嫌いだった。だって私がキラキラしていないから。自分に無いものを見せつけられると、嫉妬してしまう。そしてそんな自分がさらに嫌になる。


「ほな。さいなら」


 彼女は舞をやめて、別れの言葉を口にする。そして私に背を向けた。


 私は思いきり地面を蹴って、崖を飛んだ。そしてすぐそこにいる彼女に、しがみつく。


「きゃあっ!」


 私の体重で、彼女が着ていた着物がずるずると脱げていく。やがて彼女の綺麗な両肩がはだけて、そして大きな胸の谷間が露わになった。


「私も、連れて行け」


 私は身体を震わせて、絞り出すかのように言う。


「はい?」

「私も、あなたみたいになりたいんだよ!」


 私は我武者羅に叫んだ。


 ずっと思っていた。物語の主人公のように、誰からも慕われて、恋をして、青春をして、そして何かを成し遂げる。そんな人になりたかった。


 でも物語の主人公は、みんな見た目が良くて、人と話すのが上手だった。目的の為に、ひたむきに努力することが出来る。私にないものばかりだ。


「あなたみたいに綺麗だったら、あなたみたいにキラキラしていたら、違ったかもしれない」


 絶望していた人生に、一筋の希望。私はその希望にすがるほかない。嫉妬心は羨望に変わった。私もああなりたい。その気持ちを満たすのは難しくて、何度も挫折した。


 それでも、もう一度。もう一度だけ、頑張ってみたい。


 ぽんと、頭に感触がした。私が顔を上げると、彼女は微笑んで、私の頭部に手を乗せていた。


「わっちの名はきくでありんす」


 よしよしと、私の頭を撫でる菊。頭を撫でてて貰ったのは、いつぶりだろう。あまりに久しぶりで、私はすっかり気持ちよくなってしまう。


「ええやろう。わっちと共に来なさいな」


 本当に、と聞こうとした瞬間。菊はポンと私の頭を叩く。すると、重力から支えていた物が外れたかのように、私は自由落下し始めた。


「うぇっ!? ええっ!?」


 混乱しながらも、菊に手を伸ばす。しかし彼女はその手を掴む様子がない。


「いやぁあああああああ!」


 襲いかかる浮遊感に、私は堪らず叫んだ。


 ああ、死ぬ。まあでも、最初から死ぬつもりだったのだ。私には悲しむ親も、恋人も、友達もいない。私の死によって誰も悲しまないのだから、安心だ。


 暗闇に吸い込まれる。先ほど私のスマホが飲み込まれた闇。菊なら恐らく、この暗闇すらも明るく照らすことが出来たのだろう。


 しかし私は、その暗闇に飲み込まれるほかないだろう。何も抵抗出来ず。ただ受け入れるだけ。


 嫌だなあ。せっかくの希望を前に、死んでしまうなんて。こんな悲しい人生のまま、死んでしまうなんて。


「嫌だ」


 私は呟く。本当は違う。死にたくなんてない。キラキラしないまま、死にたくなんて。


「嫌だ嫌だ嫌だぁっ!」


 そう考えると、嫌悪感が途端に湧き上がってきて、私は喚き散らす。


「私も、連れて行けぇええええ!」


 カッと目を開いた。するとすぐそばを、菊が通り過ぎていく。


「連れて行くって言うたやろう?」


 菊が私の手を握った。そして目の前の暗闇が、パッと明るく照らされた。そこは、ススキ野だった。あちこちに生えているススキを、突き抜けていく。


「へあっう゛ぇっぶっしゅっぺっ!」


 私はススキを顔面に喰らいながら、菊に引っ張られていく。あまりに無様だ。


 やがて門が現れた。地獄に繋がりそうな、大きく、紅くて、おどろおどろしい装飾が施されていた。


 その門が私たちが通る直前に開いた。そこを通ると、今度は見たことのない町並みが広がる。どこか京の町並みと似ている。しかし至る所に赤提灯がぶら下がっていた。建物のほとんどに朱い漆が施されている。京の町と違って、不気味だ。


 その町を高速で駆け抜けていく。私はすれ違った人々の一人を何とか捉えた。


「えっ!? 今の何!?」


 しかしその人は、人間でなかったような気がした。あまりに高速で駆け抜けていくものだから、私の勘違いかも知れない。


 町を進んでいくと、一際大きい建物が現れた。大きくて派手な提灯。艶やかな反物を、垂れ幕のように豪快に垂らしている。入り口付近には牢のような籠が設置してあって、そこには着物を着た上品な女性達が、あざといポーズでアピールしていた。


 菊はその入り口から入らずに、上昇していく。建物の天辺に着くと、その建物の窓から中に侵入した。


 建物内は、長い廊下となっていた。その廊下を直進すると、仰々しい大扉が現れる。


 菊はその扉を、蹴破るように突進して中に入った。


「ほーれ」


 その勢いのまま、私は放り投げ出された。


「へっ!? がっう゛ぁっう゛ぇっぶっしっ!」


 すぐに床に叩きつけられた。それでも勢いが収まらずに、ぐるぐると身体が床に沿って転がっていった。


「いてて」


 くそう。もうちょっと丁寧に扱ってくれても良いじゃないか。


 悪態をつきながら顔を上げると、そこには菊とは違う女性がいた。


「なんや菊。この小娘は」


 キセルの煙を周囲にゆらめかせながら、その女性は言う。菊と同じくらいに綺麗な人だった。しかし格好は菊よりも派手だ。


牡丹ぼたん。この子、此処に入りたいんですって」


 菊が言った。あの癖の強い京言葉じゃない。


「なんやて? この小娘が?」


 牡丹と呼ばれたその人は、じっと私を睥睨へいげいした。この人も凄く綺麗な人だ。


「あんた。此処がどないな場所か、分かってるんやろうね」


 分かる訳もなく、私は沈黙した。


「此処は千秋ちあき。千の秋と書いて千秋。神様がお客様であり、お客様は神様である遊郭ゆうかくや」

「ゆ、遊郭……!?」


 遊郭というのがどういう場所なのか。私にだってそれくらいは分かる。どうやら、とんでもない場所に連れて来られてしまったらしい。


「なんやこの娘。やっぱしわかってへんやんか」


 はあ、と牡丹はため息をついた。


「なあ、あんた。うちのようになりたいのよね?」


 菊が近寄って、私を見つめた。


「そうです。私は菊さんのように、キラキラした人になりたい」


 菊に言われて思い出した。そうだよ。生きているのか死んでいるのか、定かではないような人生。自分に自身が持てないまま老いていく人生。そんなの、もう嫌なんだ。懲り懲りだ。


「この仕事を頑張ったら、もしかしたらなれるかも知れないよ」


 菊はそう言いながら、私の肩に手を添える。


「うちのように」


 菊にそう言われた途端。身体の奥底から、ゾワっとした感覚が漲ってきた。それは悪寒とかそういう悪いものではない。もし自分の秘めたる可能性が身体の奥底で眠っていたとして、それがようやく目を覚ましたかのような。そんな感覚だ。つまりはそう、武者震いに近い。


「牡丹さん。私をここで働かせて下さい!」


 私は叫ぶように懇願した。それを聞いた牡丹はニッコリと笑う。


「なら、あんたの源氏名を決めなあかんな」


 牡丹はそう言いながら、私を観察し始めた。上から下まで、舐めるように見つめてくる。やがて牡丹の視線は、私の目の前にあるススキに目をやった。ここに来る途中にあったススキ野。そこを突き進んだ為、その一本を巻き込んで来てしまったらしい。


「ふむ。決まった。今日からあんたはすすきや」


 牡丹は空中に、指先で芒の文字を書いていく。するとまるで、長秒露光での撮影で、ペンライトで文字を描いていくような、そんな現象が起きた。空中に煌めく芒の文字は、ゆっくり私に向かって直進してくる。やがてその文字は私にぶつかって、飛散した。


「芒。まずは菊の禿かむろとなりなさい」

「ふふ。うちの禿かあ。芒、責任重大やね」


 お茶目に笑う菊。


 十五夜の夜。私は遊女になりました。

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