第一章 福岡政府

第一章

福岡政府


「えーっと、真垣雄二警部補ですね」

 ファイルを指で辿りながら、秘書は言った。まだ二十代の若者で、銀縁の大きな眼鏡をかけている。必要以上ににこやかで愛想よく見えるが、眼鏡の奥の目は笑っていない。恐らく東大出なのであろう。尤も、東京とは名ばかりで、現在キャンパスは宮崎にある。本家の東大も、未だに東京大学と名乗っているらしい。ソファに浅く腰掛け、ファイルを見ながらテーブルに身を乗り出している。ソファに深々と腰掛ける習慣はないのであろう。

「えーっと、出身は山形県。高校卒業後、陸上自衛隊に入隊。第一空挺団を経て、特殊作戦群に配属。ソマリア、ヨルダン川西岸、モザンビーク、ナミビアに派遣」

 そこで言葉を切った。

「いやあ、素晴らしい経歴ですな」

「ありがとうございます」

 ストライキでの惨劇から、既に二カ月近く経っていた。

 あの後、管理官が予言した通り内部調査が入り、真垣本人も審問で証言した。自分の行動は適切であったこと、そもそも自分は助っ人として呼ばれただけで、作戦の指揮自体は公安部によるものであること、適切な情報が得られていなかったこと、などなど、事実を淡々と述べ立てた。しかし、一番問題とされたのは、マリアと柔道家を射殺したことではなく金が消えたことだったらしい。

 金を持ち去ったのはアジテーターの若者だった。彼は工員たちを煽るだけ煽って銃撃戦を誘発させておいて、自分だけとっととずらかっていた。あの植え込みで、偶然金の入ったバッグを発見した。工場から脱出しようとしていたところを発見され、包囲されたために、機動隊員にバッグを投げつけたらしい。その際に中身の一部が飛び出し、風に乗って舞い上がった。

 後で数えてみると、紙幣が二枚だけ足りなかった。機動隊員の誰かがネコババしたのではないかと疑われたが、結局、真垣が密かに財布から補填することになった。

 結果は三カ月間の謹慎。作戦を指揮した公安部の管理官は、長野に左遷となったらしい。

 ストライキの鎮圧とマリアの死は、メディアでも大きく取り上げられた。しかしそれも一週間と持たなかった。ストライキの頻発、労働運動の過激化に伴い、武力衝突も増えていた。現在では、ストの鎮圧で死者が出ることは珍しくなかった。

 大震災以前は、犯人の発砲に応戦しただけで裁判にかけられていたという。それでは何のために警官が銃をぶら下げているのかわからない。

 とは言え、今回はちと犠牲者が多すぎた。それもこれも、マリアが無差別にAK-47を乱射したことが原因である。あそこで真垣が止めなければ、犠牲者はより増えていただろう。

 結果、一部の世論とメディアに配慮し、形ばかりの処分が下されることになった。やや釈然としない部分もあったが、一度どこかに潜入すると、どうせ休みなど取れないので、これを機会に羽を伸ばすことにした。

 街で古い映画を観て、今やアジア一の売春地帯と化している中州を、外国人女性や日本人少女たちの勧誘をかわしながら通り抜け、屋台村で夕食のとんこつラーメンを食べていると、後ろに二人の男が現れた。恐らくSPであろう。スーツの上から脇に吊るしたホルスターの形が丸見えだった。夕食の最中だと言うと困惑していた。緊急招集という訳でもなく、ただ連れてこいと言われただけのようで、どうしたらいいかわからなかったのであろう。携帯の使用も厳禁とされていたらしい。結局、一杯食べ終わるまで待ってもらった。

 こうして、ワゴン車に乗せて連れてこられたのが、このホテルの一室であったという訳である。窓からは博多の夜景が見える。遥か彼方の官庁街は、まだ煌々と部屋の明かりが灯っていた。

 副官房長官の個人秘書が、俺に一体何の用だろうか。真垣は訝った。しかし、そこまで辿り着くまでに、まだまだ時間がかかりそうだった。いずれにしても、異例の出来事だった。

「モザンビークでは、地元武装勢力との戦闘に巻き込まれていますね」

「はい」

「今でも、悪夢を見ますか」

「いや、まあ、時々はね」

 カウンセリングのデータも、ファイルに記載されているようだった。カウンセリングの内容は、口外されないと言われたような気がするが、記憶が定かではなかった。

「部下を二名、亡くしていますね」

「ええ。残念です。まだ若かったのに」

 真垣は、二人の遺族の家に赴いた時のことを思い出した。一人は既婚者で、一歳の娘がいた。もう一人は未婚で、実家に年老いた両親が健在だった。奥さんもご両親も、気丈にも、小隊長であった真垣に暖かい言葉をかけてくれた。しかし、それも大した慰めにはならなかった。他の連中はまだ自衛隊にいるはずだが、もう何年も連絡を取っていなかった。

「現在、我が政府は、アフリカでの国際貢献に力を入れています。アフリカでは中国のプレゼンスが急速に高まっています。彼らは現地に大金をばら撒き、なりふり構わぬやり方で

権益を確保しようと躍起になっています」

 『急速に高まっている』というレベルではないだろう、と真垣は思った。

 日本政府はアフリカで、中国に完全に後れを取っている。最早、挽回は不可能だろう。

「しかし、そうした強引なやり方が、現地で反発を招き、軋轢を生んでいます」

 それは真垣も、現地で見たことがあった。モザンビークの石炭鉱山では、酷使された現地労働者たちが、中国人の資本家を惨殺した。武装勢力に供給されたAk-47は中国製だった。ソマリアでは、中国製の青龍刀が大量に出回っている。部族間の抗争では、お互いがお互いをバラバラに切り刻むのが習わしだった。

 秘書は続けた。

「我が国が、そうしたやり方に追随することは決してありません。本当に相手の立場に立った、真の意味での国際貢献を目指しています。特に自衛隊によるPKO活動は、その一環として最重要と位置付けています」

 御説ごもっともだが、我が国がどうあがこうとも、最後にモノを言うのは札びらではないか、というのが、現地で実態を見た真垣の印象だった。

「ちょっと脱線したんで、話を元に戻しましょう。えっと、自衛隊を除隊後に、警視庁に入庁したという訳ですね」

「そうです」

「本庁の組織犯罪対策第五課薬物捜査第三係に配属。北朝鮮コネクションへの潜入捜査に従事。昨年は北の売人を挙げ、末端価格三十億円相当の覚醒剤を押収。銃撃戦に遭遇したことも数回。警視総監賞を受賞。いやあ、大したもんですね」

「ありがとうございます」

 個人秘書は続けた。

「しかし、今回は災難でしたね。報告書を読ませてもらいましたが、公安の巻き添えを食った形ですね。これで処分とは、同情しますよ」

 いや、処分は流石に仕方ないと自分でも思う。

 やむを得ない状況とは言え、丸腰だった男に銃弾を撃ち込んだのは、一警察官として良心の呵責を感じなくはない。戦場だったら問題ないのだろうが、真垣はもう自衛官ではなく、服務の宣誓を済ませた警察官だった。

 しかし、その複雑な心境を吐露する機会すら与えられなかった。

 その事実は華麗にスルーされ、何故か金を持ち去られたことの方に焦点が当てられた。

 皆、真垣に気を使い、この個人秘書同様に同情してくれたが、安心感とか心強さは一切なかった。自分のこととはいえ、警察組織の異常な身内びいきに寒気すら覚えた。

「ストライキの頻発には、我々も頭を痛めています。まあストライキ自体は、憲法で保障された労働者の権利です。しかし、ここまで頻発して先鋭化しているとなると政府としても考えなくてはなりませんね」

 その責任の一端、というよりその大部分は、マリアとその一味にある。

 しかし公安も、彼らの存在を口実にして、合法的なストライキに機動隊と特殊部隊を突入させ、意図的に挑発し、本来は必要もないはずの殺戮行為によっていたずらに犠牲者を増やしている。本庁内では、見せしめのためにわざとやっているという噂もある。

「まあ、労働者自身も、安易に賃上げを要求するのではなく、もっと自身の市場価値を高めるべくスキルアップに励んでもらわないといけませんね。だいたい努力が足りないんですよ、努力が」

 彼の言っていることもわからないではない。真垣も高卒で自衛隊に入隊し、地獄のレンジャー選抜を潜り抜け、戦場で生死の淵を生き抜いてきた。それは最早、努力を通り越した狂気に近いものだった。

 しかし、敵の銃弾が努力でターゲットを選ぶ訳ではない。訓練や本人の努力によって生存確率を多少上げることは可能だろうが、最後にモノを言うのは運としか言いようがない。

 しかも、裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育ち、高度な教育の機会を与えられた上級国民の若造に言われて、素直に『はいそうですね』と頷く気にはなれなかった。それにしても、いつ本題に入るのだ。

「あの、自分は何故、ここに呼ばれたんでしょうか。ストライキの件と、何か関係があるんですか」

 真垣がそう言うと、個人秘書の若者は一つ勿体ぶった咳払いをして、眼鏡の位置を直した。

「実はですね、真垣警部補に、内密にお話ししたいことがあります。今からお話しするのは、国家の安全保障上、大変に重大な事態です。話を受ける受けないにかかわらず、ここでの話は一切他言無用でお願いします」

「わかりました」

 『受ける受けない』とは、一体何をやらせるつもりだ。重大な事態とは、一体何が起きたのか。個人秘書は続けた。

「内山副総理は、御存知ですね」

「ええ。勿論」

 現在の福岡政府の総理大臣は八十歳に近い老人である。前総理がスキャンダルで失脚したために、急遽後任に引っ張り出されただけの人物だった。若い頃は次期総理大臣候補として気炎を吐いていた時期もあったが、大震災後には、既にその威光は失われていたらしい。

 前総理のスキャンダルとは、正確に言えば義理の弟、つまり妻の弟によるものだった。

 その義理の弟はIT企業を経営しており、義兄のコネか大手光学機器メーカーの仕事を請け負っていた。その案件というのが、次世代高出力レーザー砲の制御プログラムで、言うまでもなく国防上の最高機密に属するものだった。

 週刊春春がその義弟のスキャンダルをすっぱ抜いた。

 彼は中州にある、中国人が経営するクラブに出入りしていた。そこで複数の女性を斡旋されていた。その中国人経営者は、北京の情報当局とも繋がりのある人物で、女性たちもハニートラップ要員ではないかとの疑惑が報じられた。その時点では、日米の情報当局もその事実を把握していなかったらしい。

 当局の捜査では、機密情報の漏洩などは確認出来なかったとされた。

 しかしプログラマーに多数の派遣社員を使っており、その派遣社員の中に複数の中国人が含まれていたこと、その派遣会社自体が義弟の会社で、偽装請負の疑惑もあるなどなど、様々な疑惑が明るみに出るに及んで、野党のみならず、与党内部からも批判が噴出した。

 辞職の際に、財務相の内山現副総理が後任者となると目されていたが、どのような博多の力学が働いたのか、何故か現総理が総理大臣となり、前財務相が現副総理に収まった。実質的に政権を切り盛りしているのは、その五十代の副総理の方だと言われている。

「副総理には娘さんがいます。一人娘で、今年十八歳。本来ならこの三月に、高校を卒業するはずでした」

「はずでした」

「ええ。実は」

 そう言うと個人秘書は、事の経緯を話し始めた。

 昨年の十一月頃、その娘が消えた。

 娘は、福岡でも有数の進学校に通っていた。成績も優秀で、大学に進学して、将来は父親の地盤を継ぐことも期待されていた。

 その一方で、毎週クラブに通い、外泊することもしばしばだったらしい。そのため、何日か家を空けても父親は気にしなかった。母親は病気で、娘が幼い頃に他界していた。

 最初はただの家出だろうと思って放っておいたが、いつまで経っても家に戻ってくる気配がなかった。高校には、病気を理由に休学届が出されていた。SPが、メイドと一緒に部屋の中を捜索した。ノートパソコンの中に、テキストの置手紙を発見した。探さないで下さい、云々。

 起動していないパソコンの中にあっては、発見が遅れたのも無理はない。

 この時点で既に一カ月が経っていた。メイドが父親に相談してはいたが、多忙なこともあり、また父親と思春期の娘ということで、元々娘とは疎遠だったために、真剣に対応しようとしなかったらしい。手紙が残されていたため、誘拐や犯罪の可能性も低いと思われたが、この時点でやっと、父親は恐らく娘以上に自身の政治生命を心配して、外部に調査を依頼することにした。

 しかし、調査は難航した。スキャンダルを避けるために、友人知人に直接接触することは禁止されていた。調査員はそれでも何とか手掛かりを掴んだ。

 娘には彼氏がいた。勿論、高校生にもなれば、彼氏の一人や二人いたとしても不思議ではないだろう。金持ちの娘がクラブに出入りして、ガラの悪い半ぐれ連中とつるんで羽目を外すといったことも珍しい話ではない。しかし、この娘の場合は少々違った。

 その娘の彼氏は二十代で、自動車部品工場で働く派遣社員だった。

 普通であれば、出会うはずのない二人だった。経緯についても把握しているらしいが、個人秘書は教えてくれなかった。

 その彼氏も、やはり同じ時期に姿を消していた。

 この時点で、どうした経緯か公安が捜査に乗り出してきた。

 消えた二人のPCとスマートフォンの通信データが入手された。そこで驚愕の事実が判明した。

「彼氏がスマホで、このサイトにアクセスしていたことがわかりました」

 そう言うと個人秘書は、真垣にウェブページのハードコピーをよこした。

 それは、越境ブローカーのウェブサイトだった。

 拠点は長野にあるらしく、インターネットで堂々と越境者を募っていた。

 現在、長野から群馬、栃木周辺に、こうした越境ブローカーの拠点が多数あることが判明している。政府の公式見解では、年間千人以上が越境し、避難指定区域の彼方に消えているとされている。しかし、本庁でも、或いはネット上でも、もっと多いだろうと言われている。

 つまり、副総理の娘が派遣社員の男と二人で関東に駆け落ちしたという訳だ。やっと話が見えてきた。しかし、俺にどうしろと言うのだ。

「状況は理解しました。それで、向こう側にいるとして、所在はわかっているんですか」

「いや、関東のどこにいるのかはわかりません。無事に生きているのかすら、確認出来ないでいます」

 個人秘書は言った。

「スマホのGPSはどうなんです」

「スマートフォンは、越境前に売り払われていました。男性の方も同様です。向こうでは使えませんからね。持って行っても仕方ないし、足がつきますからね」

 向こうでは、スマホやインターネットはどうなっているのだろうか。まあ、それは後にしよう。個人秘書は続けた。

「それどころか、服や身の回りの品、実家の骨董品までが密かに売り払われていたことが判明しました。恐らく、ブローカーへの支払いのためでしょうね」

「なるほどね」

 話を聞くだけでうんざりしてきた。途方もない話なので、疑問点がたくさんあって、何から訊けばいいのかわからなかった。取り敢えず気になった点が一つあった。

「娘さんが消えたのが十一月頃と仰いましたね」

「ええ」

「それで、何故今なんです。もう夏になりますよ」

 ストライキでの惨劇が五月だった。その後、時間は容赦なく過ぎ去り、今はもう長い梅雨も終わろうとしていた。個人秘書が再び口を開いた。

「まず、先程もお話した通り、副総理ご自身が、捜索にあまり積極的ではなかったということがあります。勿論、副総理も我々も、一刻も早く事態を収拾したいという思いは同じでした。まあ確かに、一人娘が居なくなったのに随分とのんびりしていると思われるかもしれません。子供のことを心配しない親はいませんからね。ですが副総理は、いつか総理になるお方です。彼には使命があります。混乱したこの国を建て直せるのは、彼以外にいません。副総理という立場上、慎重な対応が求められる訳です。その辺の普通の父親とは違いますからね。勿論うちの藤堂も、将来は総理になる器だと思っていますが、まだ若いですからね。それは先の話になるでしょうね」

 藤堂というのは、彼が仕えている副官房長官である。まだ三十代だったはずだ。

「それにまあ、置手紙もありましたし、普通の家出なら、その内帰ってくるはずだと高を括っていました。それに時期の問題もありました」

「時期」

「ええ。お嬢様は高校三年生でした。高校を卒業さえしてしまえば、男女関係の問題もそれ程ダメージとはならないでしょう。しかし、在学中にそうしたスキャンダルはマズい。これは副総理ご自身だけではなく、お嬢様御本人のことも考えてのことです。お嬢様は一人娘で、副総理の後継者になる可能性もありますからね。そうした事情から、事を起こすのは、せめて卒業までは待った方が得策ではないかと考えた訳です」

「なるほど。確かに、それはわかります」

 しかし、卒業は出来たのか。真垣がその点を尋ねると、個人秘書が言った。

「その点は、学校側とも協議しました。まあ、出席日数と単位は、概ね問題なかったし、マレーシアへ留学するということにして、許可してもらいました。まあ、よくある話ですよ」

 協議という名の恫喝だな。まあ、副総理の娘ともなれば当然だろう。恐らく、多額の寄付金も支払われるのであろう。

 個人秘書は続けた。

「後、一番の問題は人選でしたね」

「人選」

「もしお嬢様が、今関東にいるとしたら、一体どうやって彼女を見つけて、どうやって連れ戻せばいいのか。向こうにチームを送り込むにしても、極めて危険なミッションになります。何よりお嬢様の存在が向こうの政府に知られてしまったら元も子もありません。拘束されて、身代金を要求してくることも考えられます。最悪の場合は、殺されるかもしれません。そのような事態になれば、前政権の二の舞になることは間違いないでしょう。そのため、我々は極めて慎重に、検討に検討を重ねる必要がありました」

 そこで言葉を切った。

「そこへ、あなたが現れた」

「私ですか」

「ええ、そうです。真垣警部補、あなたです。元陸自のレンジャーで、実戦経験も豊富。そして潜入捜査官として、数々の修羅場を潜り抜けてきた。技能、経験、実績、忠誠心、人柄、このミッションに必要な要素を全て兼ね備えているのは、我々にはあなたしかいません。真垣警部補、向こうの政府に悟られないように、お嬢様を見つけ出し、こちらに連れ戻して頂きたい」

 褒められて悪い気はしなかった。しかし、そもそもそんな芸当が可能なのか。

「私一人で、向こうに潜入出来たとして、どうやってそのお嬢様を探せばいいんです。しかも、向こうの政府に知られることなくとなると、皆目見当が付かない。PKOでアフリカに派遣された時でも、活動に当たっては、現地の政府や協力者がいました。私一人では、ハッキングすら出来ないし。何か手掛かりとかはないんですかね」

「その点は御心配なく。向こうに内調のスリーパーが潜入しています。彼に協力させます。もう二年近く向こうにいて、情報収集を行っています。彼と協力して、ミッションを遂行して下さい。手掛かりというと、今のところは先程のブローカーの存在だけですね。内部の情報は一切わかりません」

「内調が潜入しているんだったら、彼らにやらせるべきじゃないんですか。そもそも、彼らの管轄でしょう。或いは外事でも」

「内調はあくまで、情報収集が専門です。今回のようなミッションには向きません。それに、関東は避難対象区域あってで、あくまで我が国の領土ですから、警察が捜査活動することに法的問題は一切ありません。勿論、向こうは問題にするでしょうがね」

「向こうのインターネットとかは、どうなっているんですか。こっちからアクセスは出来ないんですか」

「大震災の時に、光ファイバーケーブル網は切断されてしまいました。残っていた回線網も、今では遮断されています。こちらからアクセスは出来ませんね。おまけに、向こうの政府や行政機関は、独自の回線網を使用しているようです。そちらに潜入するとしても、内部からでなくては無理でしょうね」

 潜入捜査でも、最初は影さえ掴めないといったことはよくある。当てずっぽうに探りを入れて、手掛かりを掴めるものだ。しかし今回の場合は、全く雲を掴むような話で、どうやって仕事を進めればいいのか、イメージすら湧かなかった。しかも、組織のバックアップも、その道のプロもいない。協力者はそのスリーパーとやらが一人だけときた。

「もし、向こうの政府に拘束されたら、どうなります」

「御存知の通り、あちらは天正教による独裁体制が敷かれています。近代的な司法制度は存在しません。法によらない逮捕、拘束が横行しています。全ては保安隊の意のままですね。まともな裁判制度すらありません。もしスパイとして逮捕されれば、拷問の末、裁判なしで死刑になる可能性もあります。国連人権理事会のレポートでは、北よりも酷い状況だとされています」

 ゾッとしない話だった。そんな場所に俺を送り込もうというのか。

「もし自分が拘束された場合、こっちの政府はどう対応しますか。助けてくれるんですかね」

 個人秘書は言った。

「いいえ。答えはノーです。我々は一切交渉には応じません。もし拷問によってあなたが口を割ったとしても、我々はあなたが政府の人間であることも一切否定します」

 まあ、それはそうだろう。真垣が向こうの立場でも同じようにする。

 冷静に判断すると、こんな話には乗るべきではなかった。疑問点はまだまだあった。

「もし向こうで、そのお嬢さんを発見出来たとして、どうやって、こちらに連れ戻せばいいんですか。拉致して、車のトランクにでも押し込んで越境しますか」

「いやいや、その必要はありません。副総理は、駆け落ちするくらいなら、二人の仲を認めると仰っています」

「ほほう」

 嘘だな。真垣は思った。

 どうせ連れ戻した後で、引き離すに決まっている。この個人秘書本人も、恐らく信じていないであろう。

「信じられないって目ですね」

 個人秘書が言った。

「いやいや、そんなことはありませんよ」

 真垣は笑顔で否定した。

「まあ、確かに副総理は強面で通っていますが、あれでも情に脆いところがあるんですよ。奥様とも、駆け落ち同然で結婚したと聞いていますからね。それは信じていいですよ」

「なるほどね。しかし、もしそれでも説得に応じなかったら、どうすればいいんですか。少なくとも彼らは、自分たちの意志で越境した訳でしょう。向こうで、二人で幸せに宜しくやっているかもしれない。そうなると、私にはどうにも出来ませんよ」

「いや、恐らくその心配はないでしょう」

 何故、そう言い切れる。個人秘書は続けた。

「今も言いましたけど、向こうはカルトによる恐怖政治が敷かれています。逮捕監禁は日常茶飯事で、余程洗脳されてでもいない限り、あちらに留まりたいなどと言う人間はいないでしょう」

「駆け落ちするにしたって、何も向こうに行くことはないでしょう。原因はやはり、彼氏の方が非正規だからじゃないんですかね」

「まあ、それもあるかもしれません。インターネット上では、向こうには非正規がない、格差がない、ブラック労働も存在しない、といった根も葉もない噂で溢れ返っています。それを信じて越境する若者たちも、残念ながら少数存在しています。しかし、経済は破綻寸前で、教団のメンバーだけが富を独占して、それ以外の住民は強制労働同然で酷使されているというのが現状です。農業に力を入れているようですが、食料も物資も不足がちで、略奪や暴行が横行しているようです。まあこの世の地獄ですよ。帰宅を拒否することはないでしょうね」

 確かにネットの情報は信用出来ない。しかし、政府の情報もそれ以上に鵜呑みに出来ないことは、真垣も嫌と言う程思い知らされている。

 個人秘書は続けた。

「このミッションに成功すれば、警察でのあなたの将来は安泰です。何より副総理とお近づきになれるんですからね、警視総監になることだって夢じゃありませんよ。勿論、報酬も出ます。給料とは別にね」

 キャリアでもないのに、警視総監になれる訳がない。それに出世や報酬には興味がなかった。

「もし、失敗したらどうなります」

「我々が一番懸念していることは、あなたが保安隊に捕まって、お嬢様の存在が向こうに知られてしまうことです。それだけは何としても避けて下さい。もし、お嬢様が見つからない、或いは拘束の危険がある場合は、速やかに脱出して下さい。向こうにお嬢様のことが知られない限りは、失敗したところであなたを責めたりはしません。あなたが失うものは何もありませんよ、真垣警部補」

 失うものが何もない、などということはあり得ない。我々のような下っ端の兵隊は、いつもこいつらのような連中に危地に送り出されて、ボロ雑巾のように使い捨てにされる。

 真垣の頭の中では、アラートが鳴り響いていた。

 やめろやめろやめろやめろやめろやめろ……。

 しかし、昔から頼まれると嫌と言えない性格だった。

 思わず真垣は笑い出した。個人秘書はきょとんとした表情で、真垣を見つめていた。断る理由なら幾らでも思い付いた。しかし、どれもこれも決定打に欠けていた。そもそも危険や恐怖を理由に断るようなら、自衛官になどなっていないし、ましてや警察官にもなっていないだろう。

「わかりました。やってみます」

 いや、やめろ。今からでも遅くない、断れ。脳の一部から叫び声が響いた。しかし、もう遅かった。

「おお、ありがとうございます。これで、上にいい報告が出来ます」

 真垣は個人秘書を手で制すと続けた。

「まあ、やってはみますが、正直言って、成功する自信は全くありません。時間と経費の無駄になるのがオチだと思いますよ」

「いやいや、とんでもない。あなたになら、信頼して任せられます。まあヤバそうだったら、すぐに戻ってきて下さい。安全が最優先ですからね。もしダメなら、また次の手を考えます」

 次の手とは、拉致誘拐か。真垣は言った。

「一つ、はっきりさせたいことがあります」

「何でしょう」

「自分がこの任務を受けるのは、政府や国のためではありません。出世のためでもありません。あくまで、お嬢さんと父親のためです。そのことは、覚えておいて頂きたいんです」

 個人秘書が一瞬面食らった顔をしたのを、真垣は見逃さなかった。しかしすぐに立ち直った。

「勿論です。我々も皆、同じ気持ちですよ」

 若いのに、なかなか大したタマだった。伊達に副官房長官の個人秘書をやっている訳ではないようだった。

「ああ、それからもう一つ」

「何でしょう」

「副総理と、お話がしたいのですが」

「副総理と。何故です」

 個人秘書は怪訝な顔をした。

「お嬢様のことをお聞きするためです。調査対象のことは、出来る限り把握しておきたいのでね」

「残念ながら、それは無理ですね」

「駄目ですか」

 真垣もあまり期待してはいなかった。

「実は、このミッションのことは、副総理は御存知ないんです」

「副総理が御存知ない」

 おいおい、どういうことだ。もし何かあったら誰が責任を取るんだ。いや、最初から責任など取る気がないのか。そもそも、先程二人の仲を認めると言っていたはずだが。その点を尋ねると、個人秘書が言った。

「確かに、副総理はそう仰っています。まあそれは、駆け落ちするくらいなら、という話の中で出た発言でして、基本的に副総理は放っておけ、藪蛇になりかねないので余計なことはするな、というスタンスです」

 父親に内緒で、こんな作戦を実行しようというのか。本当に大丈夫なのか。それとも何か裏があるのか。大見得切った俺がバカみたいじゃないか。

「この作戦は誰の発案です。責任者はどなたなんですか。副官房長官ですか」

「いや。もっと上です」

「官房長官」

「いや。そのさらに上」

 個人秘書は天井を指差した。

「では、一番上ということですか」

 無言で頷いた。

 厳密には、もっと上の人間がうじゃうじゃいるのであろう。マリアがトカレフで穴だらけにした竹内平蔵もその一人だった。しかし、表向きこの国のトップと言えば一人しかいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真夜中の越境者 朝木深水 @shinsui_asagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ