真夜中の越境者
朝木深水
プロローグ 聖母のストライキ
「まるでブタだわ」
マリアが言った。
「ねえ、見てよ、あれ。まるで哀れなブタ。群れてブヒブヒ言ってるだけ。一人じゃ何も出来ない」
彼女がブタと形容しているのは、この工場の派遣労働者たちのことで、下の作業ヤードで、アジテーターの若者の演説に聞き入っているらしい。労働者の権利がどうとか、上級国民との格差がどうとか、どこかで聞いたようなネタばかりだった。
「我々は決して諦めない。時給千五百円を実現するまで、最後まで戦い抜こう」
アジテーターがそう演説を締めると、労働者から歓声が上がった。しかし、どことなく盛り上げりに欠ける印象を受ける。ストライキが始まって、もう一週間経っている。皆飽きているのかもしれない。
「いいでしょ、彼。あそこまで仕込むのに半年かかったわ」
そう言うと、マリアが振り向いた。
無邪気に笑う顔は、まだあどけなさが残る二十代で、その辺のタレントなんかよりは余程美しい。分厚い唇を半開きにして、楽しげにこちらを見つめている。
だが、その中身は獰猛で狡猾なケダモノだ。
「あなたが連中の牧羊犬って訳ね。いや、牧豚犬かな」
真垣が言った。話し方がどことなくたどたどしい。ハングル訛りは慣れたもので、日本人相手なら、まず怪しまれることはなかった。
「ワンワン」
マリアが子犬のように鳴き真似をしてみせると、真垣も思わず微笑んだ。彼女が続けた。
「私、こう見えても猫派なのよね。犬は馴れ馴れしくて苦手なのよ」
「まあ、猫って言うより、豹って感じだよね」
獲物に忍び寄り、一気に喰らい付き、骨までしゃぶりつくす、危険なハンター。或いは、狼とかジャッカル。いや、狼は犬の仲間だったな。ジャッカルはどっちだっけ。動物に詳しい訳ではないので、よくわからなかった。
「あら、言ってくれるじゃない。何か豹とかチーターとか、大阪のおばちゃんみたいで嫌だわ」
「じゃあ、ライオン」
「ねえ、どうしても猛獣にしたいわけ。何で普通の猫じゃダメなの」
マリアは分厚い唇を不満げに突き出して、愉快そうに真垣を見つめている。
確かに見た目だけなら、その辺の三毛猫でも、ペルシャ猫でも構わないだろう。しかし、この女の本性を真垣は知っている。
いや、俺だけじゃないな、と真垣は思った。既に日本中が知っているのだ。
思わず、真垣は切り出した。
「そりゃあ、あなた普通じゃないでしょ」
同胞でなければ、多少の軽口は許してもらえるだろう。
「あなた、松中平蔵を射殺して、ゾマゾンサイトを焼き討ちにしたね。普通じゃないよ」
マリアは、そのまま後ろの回転椅子にどかっと座り込み、くるりと前を向いた。
高級な回転椅子に包まれ、巨大なデスクを前にすると、まるで子供のように見える。派手なプリント柄のシャツが、尚更その場に似つかわしくない。
普段は、年配の工場長が座っているデスクなのだが、本来の主は、ストライキの初日に追い出された。恐らくこの騒動が収束すれば、工場からも追い出されるのであろう。
「あのねえ、私が撃ったのは秘書官だけ。松中平蔵を撃ったのは仲間よ。仲間。警察は、弾丸を摘出して分析してるはずなのに、何故か私が撃ったことになってる。やり方が汚いわよね」
昔そんな内容の曲があったな、と真垣は思った。『俺は保安官を撃った。秘書官は撃ってない』。
マリアという名前は、勿論通り名である。
サイレント映画のヒロインから取っているらしい。
この容姿なら、適当な上級国民の男を捉まえて、普通の暮らしも出来ただろう。
では何故、こうなってしまったのか。
父は、四国の田舎でガソリンスタンドを経営していたらしい。
高校を卒業すると、派遣労働者として、地元の自動車部品の工場に入社した。そこで男に出会い、感化され、労働運動に身を投じた。
やがては、そのチャーミングな魅力と秘めたカリスマ性で、指導者としての能力を開花させた。
数々のデモやストライキに参加、下級国民のヒロインとして祭り上げられた。それらのデモやストライキは、ほぼ完全に合法的に行われていた。破壊や暴力はほとんどなかったらしい。
ところが突然、警察は彼女を逮捕した。
真垣もここに来る前に調書を読んだが、明らかな微罪逮捕だった。公安部のいつもの手口である。その後、罪状が膨れ上がり、懲役二年の判決が出た。
ネットでは、拘留中にレイプされとの噂がまことしやかに囁かれている。しかし、これは飽くまでも噂であろう。
そして、保釈中に収監を前にして逃亡、地下に潜った。その後は何でもありだった。影の総理とも言われ、下級国民を蔑んだ言動を繰り返していた松中平蔵を暗殺。派遣会社の幹部を誘拐、工場や倉庫を焼き討ちにした。
「で、あなたは何者なの。カン・スルホさん。生まれは北だって聞いたけど、本当」
「そうそう。でも三歳の時に南に来たから、あちらのことは、ほとんど覚えてないね」
「それで、今はヤクの売人ってわけね」
正確には、売人たちを捕まえる方だった。入庁以来、一貫して北朝鮮コネクションの摘発に従事していた。北や在日のヤクザと付き合ううちに、彼らの話し方を何となく真似出来るようになってきた。日本人に対して伝説を詐称するのに、異邦人の方が都合が良かった。とは言え、それが通用するのは半島関係者以外に対してのみではあるが。
「あなたの方こそ、何でXレイが欲しいの。労働運動やってるんじゃないの」
Xレイとは、今流行りのドラッグだ。アッパー系で効果が早い。アルコールと一緒に摂取すると、高揚感と陶酔感がさらに増すという。
「これも活動の一環よ。資金源を確保すると同時に、上級国民どもをみんなジャンキーにしてやるの。まさに一石二鳥だわ」
マリアが言った。
確かに、Xレイは末端価格が高めに設定されている。そのため、主な顧客は上級国民で、都市部の高級クラブでないとまずお目にかかれない。どうも、大企業や官公庁にも汚染が広がっているらしい。
そもそも、マリアを上げようと躍起になっているのは公安部の方なのだ。この子猫ちゃんの皮を被った凶暴な女豹が、麻薬売買にも手を染めているということが判明したのがつい最近のことで、そこに目を付けた公安部が、北朝鮮コネクションへの潜入捜査で実績を上げている真垣に白羽の矢を立てたという訳だ。公安部が他部署との共同作戦を申し出ることは、極めて異例のことだった。マリアに逃亡されて面子を潰されたために、相当焦っているようだった。
そして、約二カ月の潜入捜査の末、遂にマリアとの接触に成功した。やっと向こうから連絡がきて、のこのこと来てみれば、そこは何とストライキ中のハイテク部品工場だった。ストライキをしている作業着姿の派遣労働者たちも、彼女がそこに現れたことを、未だに知らないようだった。
ストライキであれば、いつものように適当に挑発して、機動隊と特殊部隊が突入すれば済む話だった。マリアは元々逃亡犯だし、逮捕するのに逮捕状すら必要ない。衝突で何人死のうが、そんなことは最早誰も気にしない。メディアも碌に報道しない。誰かが減俸したり、関東に左遷されたりすれば、後は忘れ去られる。この時点で真垣の存在意義はほぼ消滅していた。
では、俺はここで一体何をしているというのか。
真垣は改めて自問した。
この工場の外では、慌てて駆け付けた公安の連中と、真垣の仲間達が、指揮車内で仲良くお手てをつないで、工場内の動向に聞き耳を立てているはずだった。
しかし、ここへ来るのに、隠しマイクやカメラの類は身に付けていなかった。案の定、この工場に入る前に、どこから連れて来たのか知らないが、ボディガード二名にボディチェックを受けた。もしスマホ以外で金属探知機が鳴れば、その瞬間に頭を吹き飛ばされていただろう。その二名のボディガードも今、ドアの前で真垣とマリアの話を聞いていた。一人は大柄で、腹が突き出ている。もう一人は小柄で細身だが、動きに無駄がない。柔道家とボクサーといったところか。外の連中は何も聞いていない。事情を知らない公安の連中はやきもきしていることであろう。
「まあ、私はそういうこと気にしないね。ビジネスだからね」
「そういうこと。ビジネスに私情を挟むのは禁物よ。いつ後ろから刺されるかわからないし」
そう言うマリアの表情は真剣だった。
恐らく、自分を労働運動に引き入れた男のことを言っているのであろう。その男は結局、マリアから他の女に乗り換えて、運動を放り出したらしい。現在は刑務所にいる。密告したのもマリアだと言われているが、公安に聞いても教えてくれなかった。
「あたしもヤバくなったら、関東に逃げるわ」
「向こうで見つかったら、死刑になるんじゃないの。汚染されてるし」
「もう三十年経ってるのよ。それに、向こうには労働運動もないでしょ。非正規がないんだから」
「向こうで何やるの」
そう聞くと、マリアがおかしそうに笑った。
「ふふふふふ。私、小さい頃はケーキ屋さんになりたかったのよね」
まあ誰にでも、子供時代というのはあるのであろう。勿論、真垣にもあった。
「ヤクで稼いだ金でやればいいじゃない」
「今さら遅いわよ。大体、この国はもう終わりよ。中流は完全消滅して格差は広がる一方。下級国民はショートケーキ一つ買えないのよ。でも政府や大企業は見て見ぬ振り。だから誰かが、奴らの目を覚ましてあげないとね。さあ、楽しいお喋りはおしまい。取引よ、取引」
そう言うとマリアは手を叩きながら、工場長のデスクを回り込んで、真垣の前のソファにドカッと座り込んだ。ドアの前のボクサーの方が、どこからか黒い革のバッグを持ってきた。
真垣は持ってきたスーツケースをテーブルに載せると、ロックを解除した。
中身をマリアの方に向けた。
「ふふふふふ。やっぱ最高ね、これ」
マリアは胸ポケットから折りたたみナイフを取り出した。ビニール袋を切り裂いて、味見をしているようだった。その間に真垣は、バッグの中身をテーブルに積んで数えた。札束をパラパラとめくった。全て使用済みの本物の紙幣だった。
「いいわ。なかなかの上物ね」
そう言うとマリアは、バタンとスーツケースを閉じた。
「じゃあ、取引成立ね」
真垣は紙幣の束を再びバッグに放り込むと、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、これで。また何か欲しいものがあったら、連絡してね。シャブならいつでもオーケーよ」
真垣がそう言うと、マリアが言った。
「あら、もう帰るの。これからが楽しいのに」
「これから」
思わず聞き返した。
まだ何かやるつもりなのか。しかし、取引は終わった。ストライキの方は自分には関係ない。顔色が変わっただろうか。少々不安になった。
「他に何があるの」
「それは秘密よ」
「じゃあ、ワタシは帰るよ。これからデートなのよ」
「そう、残念ね。じゃあ、また裏まで送らせるわ。機動隊に見つからないようにね」
マリアがそう言うと、ボディガードの一人がドアを開けた。
「じゃあね。機会があったら」
真垣が部屋を出ると、柔道家の方が続いて工場長室を出た。彼がマリアと微かに頷き合ったところは、真垣には見えなかった。
だだっ広い敷地内には、大小幾つもの建屋が並んでいる。
真垣らがいる建屋では、この工場のメイン部品であるロボットアームを製造しているらしい。ボディガードの後に付いて歩いている通路の先が見えなかった。それくらい建屋が広い。
ヤードには延々とコンベアが走り、ロボットアームを組み立てるらしきロボットアームが並んでいる。現在は灯りもほとんど落とされ、工場内は静まり返っていた。
これだけ組立ラインが自動化されているのに、派遣の工員がそんなに必要なのだろうかと、真垣は不思議に思った。
通用口から外に出ると、そこは工場の裏手で、倉庫らしき小さな建屋が並んでいた。暗くてよく見えなかったが、何やら雑然としている。先のプレハブらしき小屋が並んだ向こうは、雑木林になっているようだった。恐らくその向こうに金網のフェンスがあり、その辺りが投光器で明るくなっていた。機動隊が包囲しているのであろう。
「行きと違うよ」
真垣が言った。
「こっちにも抜け穴があるんだ。同じ所は使わない方がいいだろ」
メタボな柔道家が言った。
「そう」
真垣は気のない返事をすると、バッグの中に手を突っ込み、札束の留め紙を破り始めた。
前方に、ブロック塀の小さな建物があった。壁からプラスティック製の煙突が伸びている。見取り図では、離れのトイレだったはずだ。
「ちょっと、トイレいいかな」
「はあ」
メタボの柔道家が振り向くと、一瞬だけ真垣を見つめた。
「ああ、ちょうどそこだ」
そう言うと、小屋を指差した。
「どうも」
真垣は入り口に回り込んでトイレに入った。
かなり古くて薄暗いトイレだったが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。便器には向かわずに、入り口の前に身を寄せた。
案の定、柔道家がオートマチック構えてトイレに入ってきた。ご丁寧にサイレンサーまで付いていた。
真垣が便器にいないことで、一瞬面食らったようだった。
その手首を掴んで捻り上げた。銃を奪おうとしたが、失敗した。銃が床に落ちた。
柔道家が繰り出したパンチをガードした。
相手の脛を蹴り上げたが、全く効いていないようだった。胸に入り込まれ、そのままタックルされると、洗面台に腰をしこたま打ち付けた。
柔道家が銃を拾おうとした。その顔をブーツで蹴り上げた。柔道家がトイレの隅に転がった。
今度は真垣が銃を拾おうとすると、柔道家が立ち上がって突進してきた。見かけによらず動きが敏捷だった。またもや真垣は、洗面台に背中を打ち付けた。
柔道家はそのまま、真垣の首に手を入れ、軽々と持ち上げた。背中で鏡がミシミシと音を立てた。ひびが入ったようだった。下半身は体重をかけられて動きが取れなかった。腕を伸ばしたが、相手の頭に届かなかった。
その時、スピーカが入り、ブチっというマイクのスイッチ音が聞こえた。
マリアが話し始めた。
「ストライキ中の労働者の皆さーん、マリアでーす。皆さんにお伝えしまーす。交渉は、決裂しましたあ。経営者と当局のブタどもは、私たちの正当な要求を全て蹴ったわ。工場の外では、警察のブタどもが突入準備を始めている。でも私たちは、ここで奴らの横暴に屈することはしません。絶対にしません。全国で戦う仲間たちのためにも、最後まで戦い抜きましょう。このまま何もせずに奴隷に戻るか、反逆のヒーローとして歴史に名を残すか、選ぶのはあなたたちよ。立て、万国の労働者たちよ。今こそ国家権力のブタどもを血祭りに上げ、上級国民どもに一矢報いてやりましょう」
首を絞められながらも、頭の一部では冷静に放送を聞いていた。
一体、何をやる気だ、マリア。真垣は心の中で呟いた。しかし、今はそのことについて考えている暇はなかった。この窮地を脱するのが先だった。
右手を壁に這わせると、もう一枚鏡があった。真垣は拳で鏡を叩き割ると、その破片を引っぺがした。掌が切れるのもお構いなしだった。
破片を相手の手首の隙間に入れ、突き差した。上手く静脈に刺さったらしく、血が噴き出してきた。一瞬、相手の力が緩んだ隙に、手を引き剥がした。何とか膝を引き上げ、相手の突き出た胸を足で押し戻した。相手が入り口まで後ずさって倒れ込んだ。真垣も洗面台の上から落ちてよろけたが、何とか床に降り立った。床の隅に転がっていたオートマチックに、文字通り飛びついた。
床に転がりながら振り向いて、トイレの入り口に銃を向けた。相手も立ち上がって、よろよろと飛びかかってきたが、こちらの方が早かった。
相手が目の前にいたので、狙いを定める必要もなかった。何も考えずにトリガーを引いた。二発。また二発。メタボの腹に大穴が開いて、後ろによろめいた。今度は頭を狙った。こめかみに命中した。そのままトイレの外に倒れ込んだ。
真垣はしばらく銃を構えたままで動かずにいたが、よろよろと立ち上がると、柔道家の死体を見下ろした。
死体を見たのは久し振りだったが、特に何の感慨も沸いてこなかった。
冷静になって考えると、相手が武器を持っていないので、後で問題になるかもしれなかった。しかし、この場合はどうしょうもなかった。
まだ首が痛く、違和感が消えなかった。掌の出血は、それほどでもなかった。取り敢えず、ハンカチを巻いておいた。喉を鳴らすと、現金の詰まったバッグを拾い上げた。陽動で投げつけてやろうかと思ったが、その暇もなかった。ロボットアーム工場へと向かって駆け出した。
先に電話しようかとも思ったが、外の連中も、あのふざけた放送は聞いているはずだった。一体何をやるつもりなのか探り出すのが先だった。
さきほど出てきた通用口から、再び工場内に入った。
通路の角から工場を覗き込むと、何やら声が聞こえた。さきほどのアジテーターの若者の声だった。
「お前ら、男だろ。だったら一発ドカンと行こうぜ。そうそう、どんどん持ってけ。こんな機会は二度とないぞ。派手にぶちかまそうぜ」
真垣は身を屈めて、声の方に近付いていった。
アジテーターの若者が、台か何かの上で演説をしているようだった。AK-47を高々と掲げていた。
「使い方は簡単だ。まずマガジンを挿入する。ここのレバーが安全装置だ。フルオートとセミオートを切り替えられる」
説明しながら、実演しているようだった。
「フルオートは反動が大きいからやめておけ。後は、このレバーを引いて、引き金を引くだけだ。外に出るまでレバーは引くな。安全装置もかけておけ、いいな」
作業着姿の労働者たちが、皆AK-47を手に、説明に聞き入っていた。
「よーし、行くぞ。付いてこい」
真垣は慌てて、ラインの下に潜り込んだ。
アサルトライフルを手にした労働者たちは十名にも満たないようだった。彼らは列を成して正面入り口の方へ向かった。それ以外の、何も持たない労働者たちは、一斉に裏口へと向けて逃げ出していた。あまりの状況に、皆怯えているようだった。
誰もいなくなると、真垣は床に這いつくばったままスマホを取り出した。
後輩の三石巡査を呼び出した。彼も今、外にいるはずだった。
早く出ろ、早く出ろ、早く出ろ、早く出ろと念じていたが、コールが鳴るだけで、一向に出る気配がなかった。やっと相手が電話に出たと思ったら、外の方から銃声が聞こえてきた。
「もしもし」
「遅いよ。回線切るな」
そう言うと、スマホをジャケットのポケットに放り込んだ。
ラインから這い出すと、正面入口へと向かった。
入口から外を覗くと、工場の正門の方で銃撃戦になっているようだった。けたたましい銃声と、叫び声が聞こえてきた。忠告を無視して、フルオートで撃っているバカがいるようだった。
巻き添えを食ってはたまらないので、工場の側面へと回り込んだ。
建屋の影に隠れて、スマホを取り出した。
「おい、ドローンはどこにいる」
スマホに向けて叫んだ。
「ドローン、ちょっと待って下さい。今、先輩の真上です」
真上だと。
真垣が上空を見上げると、微かに機体に反射する光が見えた。
Xレイの入ったスーツケースには、特殊な塗料が塗布されていた。赤外線カメラで見ると、その部分が光って見える。そのため、マイクもカメラも必要なかったのだ。ご丁寧にも、鑑識課員が、真垣のブランド物のスーツにも、その塗料をたっぷりと振りかけてくれていた。
向こうも自分を見ているのであろう。しかし、人に見られて喜ぶ趣味はなかった。
「俺はいいから、マリアを探せ。取引は成立した」
「真垣、マリアはどこにいるんだ」
今度は警部だった。同席していたとは知らなかった。
「恐らく裏手から脱出するつもりです。そっちを探して下さい」
おい、裏だ。警部がパイロットに指示を出している声が聞こえた。
「特殊部隊はどこにいますか。警部」
真垣が叫んだ。
「今、東側から侵入している」
「わかりました。一個小隊、アーム工場に回して下さい。合流します」
スマホに向かって叫ぶと、工場の側面へとさらに移動した。警部が何か言っていたが、スマホをとっととポケットにしまい込んだ。
建屋の角に隠れて待っていると、特殊部隊が壁伝いに前進してきた。
真垣が口笛を吹くと、向こうが気付いた。
「お前、何やってんだ。真垣」
小隊長は、海自の特別警備隊出身で、自衛隊時代からの顔見知りだった。
ソマリアの駐屯地でビーチフラッグの勝負をして全敗した。帰国後に一杯奢ると約束して、結局果たしていない。
「マリアがいる。多分裏から逃げるつもりだ。今ドローンで探してる」
その時、通信が入った。マリアはアーム工場の裏を西に向かっている。
「了解。真垣と合流した。今そっちに向かう」
小隊長は真垣と頷き合うと、号令をかけた。
金の入ったバッグを植え込みの中に隠して、真垣も彼らの後を追った。
走りながら、小隊長は真垣に聞いてきた。
「機動隊が囲んでるんだぞ。どうやって逃げるつもりだ」
「抜け道があるんだよ。俺もそっから入った」
「マジかよ」
やがて通路の彼方に裏門が見えた。外から煌々とライトが照射されていた。労働者たちの群れが、両手を高々と掲げて立ち尽くしていた。
「左だ」
真垣が先導して、一行は建屋の角を曲がった。
さらに角を曲がると、正面の通路を、労働者たちがぞろぞろと裏門に向かっているのが見えた。その中を、マリアと二名の男が、反対方向へと向かって悠々と歩いていた。男の一人はボクサーだった。確かにXレイの入ったスーツケースを持っていた。その時は、暗くてスーツケースしか見えなかった。
「いたぞ」
真垣が言った。
小隊長が指示を出すと、二名の隊員が前方へと回り込むべく走り去った。
真垣たちが通路に出ると、労働者たちが驚いた顔をした。
その気配を察したのか、或いは後ろに目でもあるのか、マリアが振り向いた。
彼女はスーツケースを放り出すと、アサルトライフルのレバーを引いて銃口をこちらに向けた。ストックがないAKのようだった。
「伏せろ」
小隊長が叫んだ。隊員たちが、真垣の後ろで散開したようだった。
真垣も、柔道家から奪った拳銃を構えた。数十メートル先にいるマリアと、目が合ったような気がした。
労働者たちがいるのにも構わず、マリアがAKを乱射し始めた。
撃たれたと思った瞬間、目の前にいた労働者が倒れ込んできた。衝撃で、真垣も一緒に後ろに倒れ込んだ。自分が撃たれたかどうか考える間もなく、真垣は労働者の下敷きになりながら、片手でトリガーを引いた。二発、また二発。
通路の向こうで、マリアが倒れたのが見えた。
静寂が訪れ、工場のだだっ広い通路が凍り付いたように動きを止めた。
しかし、それも一瞬のことで、運良く生き残った者たちが、こそこそと動き始めた。悲鳴と、負傷者のものらしき呻き声が聞こえてきた。
真垣は銃を下ろすと、固いアスファルトに頭を預けて呼吸を整えた。特殊部隊員たちが、警戒をしながら前進を始めたのが見えた。マリアと同行していた男たちがどうなったのかわからなかった。
「大丈夫か、真垣」
小隊長が真垣を見下ろして言った。
「ああ」
真垣はぼんやりと返事をして、男の下から這い出した。
男の背中には大穴が開いていた。髭面で老けて見えるが、まだ二十代かもしれなかった。その体からは、まだ温もりが感じられた。しかし、すぐに冷たくなるに違いない。
よりによって、味方と信じていた女に撃たれて死ぬとは同情の言葉もなかった。この男の子がいなければ、真垣が撃たれていただろう。
よろよろと立ち上がり、周囲を見回すと、労働者たちが血溜まりの中に倒れていた。負傷者もたくさんいるようだった。
既に救急車が到着しつつあった。しかし、どう見ても数が足りなかった。
特殊部隊の通信が入ると、小隊長が応答していた。
オールクリア、マリアは死亡。
「この距離で、しかもサイレンサー付きで命中させるとは。流石元レンジャーだな」
小隊長が言った。
その口調はどこか挑発的にも聞こえた。
海自にだってそのくらいは出来る、とでも言いたげだった。
マリアの脚は、ぐにゃりと不格好に折れ曲がり、その顔は笑っているようにも見えた。
正門の銃撃戦も終わっていた。
労働者たちの死体が、あちこちに転がっていた。アジテーターの若者の死体は、まだ確認出来ないという。装甲車や護送車が敷地内に並び、労働者たちが両手を頭の後ろに回して、機動隊に連行されていた。
救急隊が出払っているので、真垣は包帯だけ失敬して、自分で右手に巻いていた。アドレナリンが切れたのか、今頃になってジンジン痛んだ。鏡の破片が入り込んでいるかもしれない。後でレントゲンが必要だろう。
マリアを射殺したことに、公安部の警部が不平をブチ撒けた。
「AKを乱射してたんだぞ。他にどうしろってんだ」
特殊部隊の小隊長が反論した。
「我々は指示通りに、取引を成功させた。ストライキのことは管轄外だよ」
組対五課第三係の警部も加勢した。
公安部の警部は、苦虫を噛み潰したような顔をすると、そのまま振り向いて立ち去った。他の公安部員五名も、彼に従った。
「全く。公安の連中は何でこうバカばっかなんだ」
警部が毒づいた。
「マリアはともかくとして、あのトイレの奴は丸腰だったんですか」
組体五課の管理官が真垣に訊いてきた。
「あのサイレンサー付きが奴の銃です。撃たれそうになって、格闘になった。それで、あのザマですよ」
真垣は自分の首を指し示した。跡が付いているはずだった。柔道家から奪ったオートマチックは、既に鑑識に渡してある。
「目撃者は」
「いる訳ないでしょう」
管理官は腕を組んで真垣を見つめると、おもむろに口を開いた。
「そうすると、内部調査が入りますね。結果がどうなるかはわかりません。処分も有り得ますね」
「どうぞご自由に」
「いやいや、勿論、我々はあなたの味方です。まあ、ありのままを話して下さい。嘘や誤魔化しはしない方がいい」
「ありのままね」
それで理解されるとは、真垣も管理官も思っていなかった。
「Xレイは回収しました。金はどうしました」
三石巡査が、スーツケースを手に現れた。
「ああ、忘れてたよ」
真垣が言った。
「おい、どこにあるんだ」
警部が振り向いて言った。
「ああ、多分、工場の中に。今、回収してきます」
「回収出来なきゃ、自腹だぞ。いいな」
そう言うと、警部は真垣に指を突き付けた。工場の上空を見上げていた三石巡査が言った。
「回収出来ますかね」
「ああ、どういう意味だ」
警部は振り向くと、つられて三石と同じ方を見上げた。
真垣も振り返ると、工場の上空に紙幣が舞っていた。投光器に照らされていると、コンサートの紙吹雪のようにも見えた。
「あれか」
管理官が言った。
「そうみたいすね」
真垣があっけに取られて言った。
「おい、突っ立ってないで、とっとと回収しろ」
警部が周囲の機動隊員たちに号令をかけると、皆で紙幣を追いかけ始めた。
真垣の目の前にも一枚舞い落ちてきた。両手でキャッチした。
「一体どうなってるんだ」
くしゃくしゃになった紙幣を広げて、独り呟いた。
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