ある星の物語

藍澤李色

ある星の物語

 見上げると満天の星、星、星。月のない夜に星明りと遠い外灯だけがほのかに世界を浮かび上がらせる。

 静かすぎる夜はどこか非現実的で、異世界にいるようだった。

 どうしてここにいるんだろう、と。

 バカげた疑問を抱いた。

 どうしても何も、ここに来たかったから来たのだ。想い出の場所だったから。

 いつの間にか隣にきていた彼女が笑う。

「昔もさ、こうやって一緒に星を見たよね」

「そうだな」

 天体観測をした。父親が持っていた望遠鏡を借りて、彼女と二人で。

 彼女は本が好きなだけで星に興味はなかったのだけど、ギリシャ神話を読んだことがきっかけとなって、俺の天体観測につきあうようになった。

 子供二人、夜中の外出が許されていたのは、彼女と俺が隣家の幼なじみで、観測場所が家からそう離れていなかったからだ。

「あれがさそり座。ねぇ、私の話、覚えてる?」

「覚えてるよ。オリオンを毒針で刺し殺して、星座になってもまだ追いかけ回してる凶悪な奴だよな」

「そうそう。さそり座が出てくるとオリオン座が隠れちゃうの。ふふっ」

 彼女は夜空にすっと手を伸ばす。まるで星をその手に掴みとろうとしているかのようだが、もちろんつかめるはずもない。

「あんなにたくさん星があるんだから、ひとつくらい持って帰れたらいいのに」

「ありゃただの光だぞ。気が遠くなるほど遠いどっかの銀河系の太陽」

「知ってるよ。貴方が教えてくれたんじゃない」

 それでも彼女は星空に手をかざし続ける。

 その弱弱しい何千何万何億という光を、その白くて小さな手のひらで受け止める。

「どうしてあんな、ちょっと目立つ星を繋ぎ合わせただけで、神話を連想したんだろうな、昔の人ってさ……」

「どうしてだろうね? さそり座はまだわかるけど、やぎ座とかただの三角じゃない?」

「だな。でも、星の光って永遠じゃないからさ。数百年、数千年も経てば結構な数の星が消えているはずなんだ。白色矮星になって、寿命が終わる。地球に光が届くまで気が遠くなるほどの時間がかかるから、もしかしたら今見ている星座のいくつかはほんの数年後に見えなくなるかもしれない」

「それじゃあ、やぎ座も昔の人が見た頃は、ちゃんとやぎの形をしていたのかもね」

「そもそも現在見えているのと違う星だった可能性すらあるよな」

 しばらく、二人きりで空を見上げた。

 本当に、久しぶりのことだった。こうして彼女と夜空を見るのは。

 何故かすごく、この時間を大事にしなければいけない気がする。もう彼女とこうして星を見ることは、二度とできないような気がして。

「ねぇ、あの星座覚えてる?」

「あの星座って?」

「ほら、二人で作ったじゃない。私たちだけのオリジナル星座。イチゴショートケーキ座とか」

「ああ、エビフライ座とか?」

 昔の人のように、自分たちで星座を作ろうとしたのだ。

 イチゴショートケーキ座は三角形の一番上が、赤みがかった星だった。

 エビフライ座は何となく、三つほど弧を描いて繋がった星を見て自分の好物を当てはめただけで、特に深い意味はない。

 自分と彼女の間だけの遊びで、そこから神話が生まれるわけでもなく。

「他にももっとちゃんとしたのがあったでしょ?」

「何だっけなぁ。何かすごい真剣に作ったのもあったはずなんだよな」

 遠い記憶と一緒に、星空の中を探す。二人だけの星座遊びの想い出を。

 所詮、遊びの記憶だ。だけど、思い出さなければいけない使命感があった。彼女が喜ぶところを見たいとか、理由は本当に単純なこと。それでも今は一番大事なこと。

「そうだ! 指輪座だ。大きく円を描いてる」

 どうして忘れていたんだろう。

 本当にそれは大事なことだった。

 星が好きだった自分と、星物語が好きだった彼女のために作った星座。まだあの頃は子供で、高価なものなんて買えなかった。だから星座の指輪でプロポーズした。

 星座の指輪は、十数年後に本物の指輪となった。

「……ありがとう」

 彼女は微笑む。微笑んでいると分かるのに、暗すぎて顔がしっかりと見えない。

 そういえば彼女はどんな顔をしていただろうか。どんな声だっただろうか。

 どんな、どんな、どんな――。

「思い出してくれてありがとう。これで私も思い残すことはないわ」

 彼女の声を聞いているはずなのに、それが本当に彼女の声だったのか思い出せない。

「ねぇ、オリオン座はもうオリオンの形じゃなくなってしまったね。他の星座もいくつか消えてしまったわ。だけどね、私と貴方が作った星座はまだあるの。忘れないで。長い時間が経っても、光がいくつか消えてしまっても、忘れないで」

「なぁ、ひとつ聞きたいんだけど……」

「なぁに?」

「お前の名前、何だっけ?」

 彼女はまだ、微笑んでいるのだと思う。

 答えは返ってこなかった。ただ、彼女は再び星に手をかざす。届かないものをつかもうとするように。

「長い、長い時間が経ったものね。ひかりはいくつか消えてしまうけど、星の物語は語り継がれるわ、きっと、何百年もね」

 何百年。気が遠くなる年月を旅して、光は地球に届く。すでに死んでいるかもしれない、どこかの星の光が世界に降り注ぐ。

「おめでとう、とは言えないわ。貴方はこれから色んなものを失くしたことを知り、それでも生きて行かなくちゃいけない」

「そうか。そういうものなのか」

「ええ、そうよ。だから消えない星の物語を思い出してほしかった」

 星が瞬く。落ちる。光が消える。暗闇になる。

 彼女はもういない。どこにもいない。


 そして、ようやく目が覚めた。

 そこは白い部屋。みたこともない機材で囲まれている。

「お目覚めですか?」

 見知らぬ女性が微笑む。変わった服を着ているが、恐らく看護師なのだろうとわかる。

 聞いてもいないのに状況を説明してくれた。

 自分は百年ほど前に病気になり、本人と親族の意向で治療法の確立される時代までの冷凍睡眠による検体保存を施された。

 百年も治療法がなかったわけではなく、遺族の直系の子孫が誰も残らなかったことなどから、後回しにされ続けてきた結果、今更目覚めることになった。

 そんな記憶はなかったのだが、どうやら黎明期の冷凍睡眠技術では、こうした記憶障害が度々起こっていたのだという。看護師に謝られてしまったが、消えてしまった物は仕方がない。

 知る人など誰も生き残っていないということだ。唯一、妻の遺品が手元に残った。妻は絵本作家だったらしく、遺品も彼女が書いたという絵本である。今では近代名作の部類だという。

「あの、リハビリ終わったら行きたいところがあるんですけど。今の時代にもあるのかわからなくて」

「どんな場所ですか?」

「そうですね、どこか……星が良く見える田舎とかかな」

 思いだせることはそう多くない。

 だけど自分は生きていて、明るい都会の夜空の向こうにだって、まだ星は輝いている。

 きっと自分と彼女の星座もいくつか残っているだろう。

 たとえば、彼女の遺した恋の物語にでてくるような、大きな指輪の星座も。

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