とあるベーカリーチェーンのひとコマ

サンダルウッド

「目」

 粗茶そちゃノ水駅から徒歩一分の場所にある"Leben Deutsch"レーベンドイツは、都内のあちこちで見かけるベーカリーチェーンだ。

 イートインスペイスが広く設けられており、私は朝食の摂取と時間つぶしの目的で、平日の朝は必ず訪れる。

 

 自動ドアをくぐり、席取りのために奥へ進む。

 微塵みじんの愉快さも満足感も享受し得る可能性のない眠気との耐久レースを目前に控えつつも、つかの間の安堵を獲得してスマートフォンにより自らを慰労する先客たちが、今日も店内には散見された。


 "ドイツでの生活"という優雅で夢あふれる店名にも関わらず、この店を訪れる客の表情は決まって渋いものであった。

 いつも、必ず右奥の席に座っている推定五十そこそこのサラリイマン、新卒か二年目ぐらいと思われる、垢抜けない雰囲気を身体全体に漂わせた冴えないメガネ男子、もとの素材が悪いために、厚化粧が意味をなさないどころか逆効果でさえある三十前後の太った女。いずれも自身のスマートフォンを黙々といじくっているが、彼らの目には生気せいきを感じない。


 彼らのみならず、ほかの老若男女さまざまな客も含め、イートインスペイスには同種の空気が流れていた。むろん、ここにいる客たちがみなくだんの耐久レースの参加者であるとは限らず、私にそれを確かめる術はない。

 しかし事実がどうであるかなど、私には甚だどうでもよいことだ。重要なのは、共通の認識である。彼らの生成する無気力に満ちた空間に自分も加わり、感情のベクトルを絶望に向けている人間が自分だけではないと確認することだけが、私には意味があった。

 恣意的に作り出したその共通認識に説得力のある理由を付加するならば、“月曜日の朝”という時間の性質が関与しているのだろう。それ以上に濃厚な絶望感を引き出す時間帯は思いあたらない。


 唯一空いていた前方中央の席に、私は鞄とコンビニエンスストアで買った唐揚げ弁当を置き、鞄から長財布を取り出して入口に戻った。


「ありがとうございました~」


 レジカウンターから聞こえるその無機質なフレイズに、私は思わず眉をひそめる。この中年の女性店員は、どれだけ観察力に乏しいのだろう。財布を手にしているのが見えなかったとしても、いい大人が鞄のひとつも持たずに外を出歩くと思っているのだろうか。

 いや、観察力云々ではなく、そもそも機械的な言動しかとるつもりがないのだろう。このベーカリーチェーンも例外ではなく、さつを得るために泥くさいプロセスを経る必要のある人々は、往々にして無気力を帯びている。


 入口横で、木製のトレイとプラスティックのトングをがばりと取り、いつもの惣菜パンをひとつ掴む。この店の商品は値段の高さに反して今一なクオリティで、私の口にはことごとく合わなかった。その中で、ドリンクとのセット価格が適用されるこの"ハムチーズフォッカチオ"は、この店で舌を悲しませずに摂取できる数少ないパンだった。


 レジカウンターにて、先ほど私を苛立たせた中年店員と銭のやり取りを行い、温まったパンを手に十歩ほど進んだ先にあるドリンクカウンターに移動した。

 そのすぐ左側にあるサービスステイションからコーヒーフレッシュをひとつ取り、ブレンドコーヒーの到着を待つ。フレッシュは偉大だ。不味いコーヒーでも、それなりに飲めるもののように錯覚してしまうのだから。


 いつもの美人店員は厨房にいた。


 マスクをしているのでご尊顔の全貌は拝せないものの、その瞳だけでも充分すぎるほどに鮮麗せんれいで、遠目にも思わず陶然とうぜんとする。

 目力のある女性だ。しかし、かの大女優たる茅ヶ崎コウほどの鋭さはなく、適度な温柔おんじゅうさを備えた瞳はいつも私を慰撫いぶしてくれる。この後のくだらない耐久レースに精を出そうかなどという良い子ぶった発想に、ほんの一瞬だけベクトルが揺れることがある。湿った空間に咲く一輪の花。嗚呼、なんとロマンティックな響きではないか!


 パンもコーヒーも不味いこのベーカリーチェーンに足しげく通うのは、畢竟ひっきょう彼女の佳容かようをひと目でも見るためだ。先の共通認識など、所詮は後付けの理由に過ぎない。

 彼女が接客してくれたらと心底感じるのは、しかし外見的要素のみが理由ではなかった。


「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」


 取っ手とソーサーにだらしなく垂れた数滴の液。そして、それに気付かず紋切り型の台詞を述べる推定二十代前半のドリンク担当に、私は内心で苦い笑いを浮かべる。彼女の目も、やはり客たちと同様にしなびていた。


 あの美人店員なら、そんな不手際を犯すはずがない。絶妙な目力を備えた彼女なら。

 この店で誰よりも素早く動いているにも関わらず、彼女は誰よりも丁寧できめこまやかな対応をする。レジカウンターもしくはドリンクカウンターで運よく彼女が接客してくれた日などは、それだけで愉悦を覚えてしまうのである。


 今日は、なんという有り様だ。

 提供される時点で薄汚い姿となったその飲料を前に、私の心気しんきはどん底まで落ち込んだ。

 パンを購入したことで、お手拭きを獲得できたのが救いだ。これで拭えば少しはましになろう。

 ソーサーを持ち上げた時、しかし私は絶望した。


 不可解だ。なぜ先の中年店員は、お手拭きをトレイ右半分の中央に置いたのだろう。これでは、ドリンクの着陸場所がないではないか! ドリンクカウンターから離陸したコーヒーカップが戸惑いの色を見せている。


 サービスカウンターに不時着するか逡巡するも、早々に身を汚された哀れなコーヒーカップに、余計な手間をかけさせるのは忍びなかった。

 美人店員は、厨房の奥に姿を消してしまった。今の私には、彼しか味方がいない。

 

 震える右手をそのままに、左手でお手拭きを掴んで端に寄せた。

 予定よりおよそ十秒遅れの着陸に、彼は安堵している様子だった。


 今日は、フレッシュなしで飲んでみようと思う。(完)

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