秋の道筋(全4話)

伊藤

第1話

 暗い部屋の中、ふたりは口を閉ざしたままだった。どちらの視界にも相手の姿は見えず、肩だけを触れさせて、ベッドの上で座り込んでいる。エアコンだけが動いている。

 ずっと前にシガー・ロスのCDは終っていて、スピーカーからは何も聞こえて来ない。設定温度に達したエアコンが止まり、時計の秒針の音が大きくなった。


「静かだね」

 男は女の言葉に反応せず、秒針の音に集中していた。


 突然、隣家のベランダから濁った音が聞こえる。

 男は「蝉の羽音だ」と呟いた。肩から女の頷く動きが伝わる。

「落ちて、死んで行くんだ」

 裏返しになり、断続的に翅をばたつかせる蝉を、ふたりは目の前に描いていた。ベランダに固い翅があたり、その音が窓や壁に反響する。力の尽きる最後まで起き上がろうともがく。運良く起き上がれても、すぐにベランダの凹凸でひっくり返る。そしてまた、翅をばたつかせて音を立てる。徐々に翅を動かす時間は短くなり、動けない時間ばかりが増して行く。

 女は「無理しなくて良いのに」と言い、男は蝉の腹は白くなっていると思った。

「服、着ようか」

 男が言った。女の頷いたのがわかった。


 明りの点けられた部屋で、ふたりには会話が無かった。以前は電話での沈黙も苦にならなかったが、いまではこの沈黙が苦しかった。しかし、会話をして更に苦痛が増えるのをお互いが避けていた。

 いつもそうするように、男は壁にかかっている鏡を外し、女の前に差し出して髪を整えるのを見た。それから男はぬるいビールをひと口啜り、女がタバコに火を点けるのを眺めた。鏡はベッドの上で伏せられていた。

 時折蝉の羽音が響いたが、ふたりとも気にしなかった。

 男はベッドから身を乗り出し本棚の上のミニコンポへ手を伸ばすと、再生ボタンを押した。

「別のが聴きたいな」

 女の言葉に振り向いた男は、目が合うと、笑って頷いた。女も微笑んでそれに答えた。

 男がCDラックから適当な一枚を選ぶ。再生ボタンを押し、ピアノの和音が響く。

「誰?」

 男はCDジャケットに書かれたシャンタール・クレヴィアジックという名を告げた。

「憶えられない」

 女はタバコの煙を吐いた後に笑って言った。

「僕も」

 シガー・ロスのCDをラックに戻すと、女は「マメだね」と呟いた。男はCDをアルファベット順に並べていた。

「うちなんて、手の届くとこに適当に置くからどこに何があるかわかんないし、……CD売ろうと思っても、中身が無かったりしてさ」

「CD売ったことないな」

「たまに売って整理しないと、邪魔にならない?」

 男はまた笑い、ラックを指差して「整理してるから、邪魔にならないよ」と言った。

「ほんとだ」

 女もまた笑った。

 女はタバコを揉み消し、両腕を伸ばしてベッドへ横になる。時計を見て「もう二時だ」と言った。

「今日は、どうするの?」

「どうしよっかな」

 男は朝までいて欲しいと思った。このまま眠り、どちらも休日である明日の昼まで眠り続けるのも良いと思った。

「帰ろっかなぁ」

 曖昧な言い方だった。男は「いて欲しい」と言えないまま、女の判断を待った。

「明日は、夜に用事があるし…家に帰って、それまで眠れば…」

 男は黙っていた。

「今日は帰るよ」

 女の決断に、男は頷いて同意を示した。

「ほんとは、いて欲しいんだけどね」

 男が言った。

「そんなこと言わないでよ。せっかく帰るって決めたのに」

「そうだよね。ごめん」

「バカ」

 それでも、女は帰る支度を始めた。身体を起こし、床の上の鞄に手を伸ばす。

 男はもう一度ビールを啜り、しゃがみ込んで鞄を探る女を見ながら、財布と鍵を掴みジーパンのポケットへ入れた。男がコンポの電源を落とすと同時に、女は鞄を持って立ち上がった。

 玄関へ行く女の後ろで、男はエアコンを消し、明りも消した。カーテンの隙間から、向かいのアパートの青白い光が部屋に入り込んでいて、時計の秒針が小さく反射するのを見た。もうひとつの窓からは、蝉の羽音は聞こえて来なかった。

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