第2話
平日の深夜。どこの家も明りを消していて、街灯だけがアスファルトを照らしている。女の履くサンダルの、階段を降りる甲高い音が響く。
「涼しいね」
風に混じり始めた秋を、ふたりは同時に感じていた。
道に停めておいた自転車の鍵を解き、女はかごに鞄を押し込む。
「自転車、僕が押して行こうか?」
「ありがと」
女の家までは歩いて四〇分ほどの距離だった。
「今度、絞めてあげるよ。このままじゃカーブ曲がったときに外れちゃうよ」
弛んだチェーンを見て男は言った。
「直せるの?」
女は男を見上げて訊いた。
「レンチでできると思うけど」
「レンチって?」
「ネジ締めたりする道具」
「そんなの持ってるの?」
「ひとり暮ししてると、時々…年に一回くらいそういうのが必要にならない?」
「ならないよ」
「……ならないか」
ふたりはゆっくりと歩いていた。すれ違う人もいない住宅街の細い道を歩いていた。
大通りを渡り、女の家まで遠回りになる脇道へと入る。初めて女を家まで送ったとき、大通りを過ぎる車の音がうるさく、会話ができなかったことを男は嫌がり、二回目のときに「この道を行こう」と提案した。
そう決めてから、女は「帰りはどっちの道で帰ってるの?」と訊いたことがあった。
「その日の気分次第…何か考えたいときは川沿いかな」
考えたいことが何なのか、女は訊かなかった。
川の湾曲に添って、等間隔に街灯が並ぶ。涼しさを満喫するように、女は背筋を伸ばし、軽やかな足取りで男の先を歩きタバコを吸っている。街灯の下を行くと、女の吐く煙が光の中に見えた。
振り返った女は男の押す自転車へ駆け寄り、鞄から財布を取り出すと自動販売機へと走って行った。
女がお金を入れると、自動販売機の光量が増す。タバコを咥えたままボタンを押し、コーラのペットボトルを買った。歩みを速めることなく女のいる所まで歩いて来た男に「炭酸って時々飲みたくならない?」と女は言った。
何を話すわけでもなく、交互にコーラを飲みながら歩く。目が合えば微笑み合い、街灯の明りから外れれば空を見上げ、シャツから伸びる腕や首、女は黒い髪に風を感じ、控えめに煌めきながら流れる眼下の川の小さな音を聞きながら歩き続けた。
背を向けた女が口を押さえて小さくげっぷするのを見て男は笑った。
「何?」
「いや、可愛いなと思って」
「げっぷが可愛いなんて、変だよ」
「いや、その隠そうとする仕種がさ」
「隠さないでも良いなら隠さないけどさぁ」
「一応僕に気を使ってくれてるんだ」
女は何も答えず、もうひと口飲んでからコーラを男に渡した。
川からの風が過ぎた後、女は腕を交差させて二の腕を擦った。
「寒いの?」
「コーラ飲んだら寒くなっちゃった。残り全部飲んで良いよ」
「まだたくさん残ってるよ」
「炭酸って、急に飲みたくなるんだけど、ちょっとで良いんだよね。ふた口くらいでさ」
「それならこんな大きいの買わなきゃ良いのに」
男はペットボトルをかごに入れた。
「その大きさしかなかったんだもん」
再び隣を歩き出した女は、男の腕にもたれかかった。
「ねぇ、私のこと好き?」
女は前を向いたまま男へ訊いた。
男が頷くと、女は身体を離して大股で先を歩き始めた。
男は声を掛けることができなかった。女が頷くだけの返事では満足しないとわかっていた。
男は決して女を嫌っているわけではなかった。なぜ女に向かって、素直に好きだと言えないのか、男自身、理由がわからずにいた。
そうやって、好きだと言うことができないまま、半年という時間が過ぎていた。
「一度も愛してるって言ってくれない」
抱き合った後、暗闇の天井を見つめながら女が言った。
そして「ずるい」と続け、黙り込んだ。男に背を向けるように寝返りを打ち、男に聞こえないように、もう一度「ずるい」と口を動かした。
男も、何をどう返して良いのかわからず、黙り込んでいた。タオルケットを女の身体に掛け、ベッドの上に座り込み、膝を抱えた。視界の端にコンポの緑色の光が見えた。
数秒後、タオルケットを払い退けた女は、男と同じように膝を抱えてベッドの上で小さく座り込んだ。片方の肩だけを、男の肩にあてた。
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