第3話
「ごめん」
先を行く女の背中へ男が言った。
「何に謝ってるの? 謝るんなら好きって言ってよ」
いつもとは違う強い口調で女が言った。
「私もう会わないから」
「違う…」
男は街灯と街灯のあいだで立ち止まっていた。足元から幾つかの影が伸びている。街灯の下にいた女は、男の方へと近づき、自転車のかごに手を置いて真正面から男を見た。
「こんなに好きなのにっ」
女はそう言い放ち、かごを突き放す反動で前へ向き直ると、先程よりも速度を上げて歩き始めた。
川沿いの道を離れ、女のアパートに続く道に入ってもふたりに会話はなかった。
前を行く女の歩き方はいつ見ても綺麗だった。
アパートに着くと、女は黙ったまま自転車を奪い、駐輪場へ停めた。鞄を取り出し、ペットボトルを男の前に無言で突き出す。男はそれを受け取るしかなかった。
階段の手前で女は「さよなら」と言い、男に背を向けた。
「さよならは、辛い」
男は女の腕を掴んで振り返らせた。
男は手にゆっくりと力を込めた。女は空いている手で男の手首を掴み返し、手を離すよう促した。
女が男の目を見たまま長い溜息をつく。
男は「またね」と言った。
女は視線を外すと、何も言わずに階段を上がって行った。
女の家の鍵が閉められる音が聞こえても、男は階段を見上げ続けていた。
どれ程の時間が過ぎたのか、男は階段にペットボトルを置いてその場を去った。
部屋の明りを点け、床に鞄を放った女は、立ったまま「もう、嫌」と項垂れた。
その場で服を脱ぎ始め「このままじゃ駄目」と何度も呟いた。
「もう、一緒にいても楽しくない」
裸になり、浴室へと向かいながら「先がない」と呟いた。
女はシャワーの音の中で「もう、止めよ」と言った。そして、ゆっくりと胸から喉に向かって昇って来る感情を押さえ込もうと必死になった。呼吸に合わせて涙が滲むのがわかる。息を吸うたびに涙が溢れそうになる。女は、大きく息を吸い込み、声をあげた。声をあげて、泣いた。
もう会わないと決めた。電話がかかって来ても出ないと決めた。家に尋ねて来ても扉を開けないと決めた。何もかも、男との関わりをすべて断ち切ろうと決めた。男から離れることがいまは辛くても、後悔したとしても、その先には良いことがあると思い込み、この決断が正しいと信じようとした。そして、信じようとすればするほど大声になって、女は泣き続けた。
男へかけた最後の言葉が「さよなら」で良かったと信じた。
「ばか…あほ…だいっ嫌い」
もっと酷い言葉が出て来ないかと思っても、それが悲しみなのか憎しみなのか、何に対して、誰に対して言葉を吐いているのかわからなくなり、そんなことを考えているあいだにも涙が溢れ出て来て、また叫び、泣き続けた。
「もう、止めよ…嫌…もう駄目」
何度も何度も、繰り返し女は、思いつくまま言葉を吐き、そして泣いた。
最後には、ただ叫び続けた。全身に力を込め、シャワーに打たれながら叫んだ。
男が辿る帰りの道筋は決まっていた。暗闇が多くを占める川沿いの道を避け、大通りを行く道を選んだ。車の往来は少なくとも、あまり距離を隔てずに並ぶ街灯の明りは男の気を紛らわせた。それでも、男は女との関係を考える他にできることなどなかった。
「何やってんだ」
男は俯きながら呟き、両手で髪を掻き毟った。
心の中で何度も繰り返した問答を、また繰り返していた。「またね」と言わず「さよなら」と言った女を憎み、それ以上に愛していて、混乱した。愛しているのに憎み、憎んでいるのに愛した。そして、目の前に女のいるときには「愛している」と言えないのに、ひとりになった途端「愛している」と思っている自分を嫌になった。
「どうして、目の前で言わない?」
男は、我侭を重ねて自分を納得させようとしていることをわかっていた。
男は何度も立ち止まり、女の家へ行こうと向きを変えたが、足を踏み出すことができなかった。後ろから物音がするたび、女が追いかけて来たのではないかと振り返った。
男が部屋に帰って来たとき、すでに三時を過ぎていた。部屋の明りも点けず、財布を本棚の上に放る。ベッドの上で伏せられている鏡を退けると、男は倒れ込んだ。
腕を伸ばして窓を開けると冷たい風が流れ込み、それまで部屋に漂っていた女のタバコの香が掻き消された。
ジーパンを脱いでタオルケットを掴むと、まだふたりの汗が残っていて、男はタオルケットをベッドの下へ蹴落とした。
天井を見つめながらじっとしていると、自分の呼吸音さえうるさく感じた。他に音はないのかと探ると、微かに鳴く虫の音があった。そして、蝉のことを思い出した男は、上体を起こして窓から隣家のベランダを覗き込んだが、どこにも蝉を見つけることができなかった。
男はまたベッドへ横になり、天井を見た。薄暗い中で、天井の木目のわずかな濃淡に焦点が合って行く。
男はベッドの上でじっとしていた。それまで何を考えていたのか、気がつくと男は眠気に襲われ始めていた。
男はゆっくりとシャツを脱いだ。いくら秋の心地がしていても、横になった身体とベッドのあいだに熱はこもり、汗が出始めていた。一度蹴落としたタオルケットを拾い上げ、腹の上に広げ被せると、男は目を瞑った。
睡魔を受け入れながら、男は風呂にも入っていないことを思い出したが、そのまま目を瞑り続けた。目覚ましをセットしていないことと同時に、明日は休日だと思い出し、思考を止めた。
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