第4話
泣き止んだ女が浴室を出て時計を見ると、シャワーを浴びていた時間が思いのほか短かったことを知り、その程度かと拍子抜けして笑った。それから、こうして笑っている自分がまた可笑しくなり、裸のまま床に座り込んで、また笑った。
「あっけねぇ…」
ゆっくりと立ち上がり、Tシャツだけを乱暴に着る。
水で冷やしたタオルを泣き腫らした目に当てながら部屋に戻り、敷きっぱなしだった布団に座った。
「こういうときは……やっぱ飲むか」
女はすぐに立ち上がり、台所へ向かった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し「とりあえず一杯」と言って一息に流し込む。空腹の身体に沁みるビールが女に「うまい」と言わしめた。
咥えタバコでつまみと数本のビールをテーブルの上に用意すると、また目の上にタオルを乗せた。
女の部屋には動くものがなかった。
「付き合う前に、こっちから別れてやる」と言ってタオルを布団に投げつけた。
古いラジカセの電源を入れ、東京スカパラダイスオーケストラのCDを回し始める。隣人のことなど気に留めず音量を上げた。
誰にも見せたことのない自由な動きで女が踊り始める。タバコを吸い、ビールを飲み、聴き込んだ「スキャラバン」の叫び声に合わせて女も叫んだ。
曲を選び「愛だろ、愛」とCDに合わせて言い放ち、「何が愛じゃぁ」とビールを飲み干した。
一度も吹いたことのないトランペットの真似事をしながら、女は気の済むまで踊り続けた。
男の部屋の、開かれた窓の向こうに見える隣家のベランダで、蝉が最後の力で翅をばたつかせ羽音を響かせたが、男には届かなかった。また、その数分後の小さな「ジッ」という蝉の最期の声も、この世の誰も聞き取ることがなかった。
踊り疲れた女は椅子に座ってタバコを吸っていた。取り替えた何枚ものCDが床に散乱していて、それを見ているのが嫌になり、窓を開けて外を眺めた。
先月まで建っていた隣のアパートは取り壊しが済み、草のない土ばかりの更地になっている。そのおかげで、いままでは見ることのできなかった都心のビルが群青の空を背景に小さく見えた。
新しいビールを持って来ようと椅子から立ち上がったとき、足がテーブルに当たって空き缶とつまみの入っていたプラスチック容器が床に散乱した。
女は笑いながら、そのまま椅子に腰を下ろした。そして、新しくタバコに火を点けた。
一瞬前の行動、その動機さえ思い出せずに時間が過ぎて行く。記憶はどこにも蓄積されず、意識はどこへも向かおうとしない。
睡魔と格闘しながら物の散乱している部屋を眺めていると、女の耳に法師蝉の鳴く声が聞こえて来た。
瞬きを繰り返し、眠るなと言い聞かせて首を振る。焦点を合わせようと正面の壁を見つめると、自分の影があった。日の光がうなじにあたり、ジリジリと疼く。
窓を振り返ると、都心のビルの、更に向こうの空が輝き始めていた。
「夜明け」
わけもわからず嬉しくなり、女は鳴き続けている法師蝉に合わせ「よあけだよぉ」と歌った。
歌いながら、ふらつく足取りで布団へ倒れ込むと、腹の下に湿ったタオルがあった。
「つめたいよぉ」と歌詞を変え、タオルを引き抜いて放る。何かに当たる音がしたが、目を瞑ってしまった女はタオルが何に当たったのかも確認せず、ただ「おやすみよぉ」と小さな声で歌った。
数分後、カーテンを閉め忘れた窓から太陽の光が差し込み、眠っている女は寝返りを打って光から遠ざかった。
―――秋の道筋 了
秋の道筋(全4話) 伊藤 @itokencan
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます